柿本人麻呂は「事挙げ」を決意し、万葉集を奏上
<今回の時代状況> 文武天皇の御代の弥栄を願い「皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に伝えるために」万葉集は編纂編集された。文武天皇の崩御により万葉集は行き場を失った が、持統天皇の勅を貫くため即位したばかりの元明天皇(文武帝の母)に献上された。が、天武帝の皇子が生き残っている中での元明天皇の即位は、諸臣をまとめるには困難な時期だった。
<巻十三の3254番歌>人麻呂も元明天皇の状況は十分に理解していた。然し、人麻呂は紀伊国の形見の地(玉津嶋)に出かけ持統天皇の霊魂に触れた。人麻呂の「万葉集を奏上すべきや否や」の答えは「朕が意のままにせよ」だったのだ。「われはことあげす」の歌は、人麻呂の万葉集を奏上する時の決意の歌なのである。
和銅元年、人麻呂は元明天皇に献上した。(天皇は万葉集を理解し、故に、人麻呂を断罪した…)
今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の最終回となります、㊿からはじめます。
万葉集は持統・文武天皇の御代に柿本人麻呂が編纂
㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。だから、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。
歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである
51 初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、
雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。
巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、
仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)
やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。
では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。
持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。
文武天皇崩御後の初期万葉集の行方
52 初期万葉集を奏上した人麻呂の運命
文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。
和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。
この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。
柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。
初期万葉集の終焉
53 万葉集の巻一の終わり方は不自然である。
元明天皇の御代には、「即位」と「平城宮遷都」関係の歌が掲載されている。
巻一の最終歌は「寧樂の宮」代となっていて、題詞は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」であるが、一首のみの掲載である。長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は隅々まで第三者の編集が行われているのだ。
歌の数も大きく偏る。他の巻の歌の総数を見ると、
巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、これを見ると、巻一は少なすぎる。*長歌の数で巻ごとの歌の数には違いがあるとは思うが。
此処に何らかの編集の手が入ったと考えられる。それは、単なる恣意的な歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄があったと思われる。
54 初期万葉集の編纂者、一次は人麻呂だが
二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編纂しなおされた。
平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集し人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。「人麻呂があえてそれを編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。
55 人麻呂が万葉集を編集したその時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇」と書かれているからである。
サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。
56 多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。
参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。
家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後にもかかわらず息子と共に流罪になる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。
806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉」は平安時代を生き延びた。
巻一の話のまとめ
万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死しているので、その罪を一身に受けたといえる。
終わりに
57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスであるが、初期万葉集の終焉を飾る象徴的な歌は、78番歌である。この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。
「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」
一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)
78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ
一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ
長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出である。
この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。
時代はこのように変わっていったのである。
「人麻呂が編集した 万葉集は歴史書だった」は、並べ替えて読みやすくするつもりです。
また、明日。