人麻呂は謎だらけの歌人なのか?
否! 彼は大王の忠実なしもべだった
そうなのです。人麻呂の歌は率直で誠実です。
「もののふの やそ宇治川の…」の歌は、人麻呂が、個人的な思いを詠んだと編集されています。近江大津宮を見て春草に被われた荒れた旧都を見て古に心を寄せ、瀬田川では身を投げた近江朝に仕えた娘を偲び、更に宇治川まで下って命を落としたあまたの武人を思ったのです。
余りに感傷的な歌ですが、人麻呂がここまで近江朝を偲ぶ歌を披露したのは誰に対してでしょうか。「柿本朝臣」という姓の「朝臣」は、壬申の乱に功績のあった氏に送られた姓でしたから、天武側に立って壬申の乱を乗り切った氏のはずですね。それなのに、倒した相手の天智朝を偲ぶのです。いつ読んでもなんだか違和感が残ります。
これまでの流れから言えることは、人麻呂は持統帝の忠臣であり、すべてを持統帝に捧げていたのですから、歌を披露した相手は持統天皇です。近江の旧都を偲んだ歌を詠み、持統天皇を慰めたのでした。
さて、わたしは昨日(5月8日)の筑紫古代史の会で、「人麻呂が持統天皇の詔勅で万葉集を編纂した」と云う内容のプレゼンをしました。参加したほとんどの人が「年表と系図も無いので難しかった」と云うことでした。ですが、ゆっくり読んでいただければ、分かりにくくはないと思いますので、紹介します。
もみじばのすぎにし人の形見とぞ
①万葉集こそが歴史を解く鍵である。
わたしがこれから紹介するのは「万葉集の謎」であり、「秘密」なのであるが、もともと原万葉集には謎も秘密もなかったと思っている。
万葉集は持統天皇の詔勅により「皇統の正当性を示すために編纂された」帝紀であり、「若い文武天皇の精神的よりどころとなるよう、皇統の歴史を歌物語にした」史書だった。つまり、万葉集は読みやすく分かりやすい歴史書だったのである。更に、王家の出来事や先人の業績を語る叙事詩であり、婚礼・葬儀・即位の場で使われた儀式歌集であり、祖先霊を鎮める「鎮魂歌集」だったということもできる。また、現代の私たちにとっては、日本書紀では読めない歴史を知ることができる稀有の文学書でもある。
今日、万葉集は謎だらけになってしまっている。それは、後世に手が加えられたからで、時の為政者には不都合な内容だったようだ。皇統の正当性や歴史的な部分を再編集して真実が見えなくする必要があったのである。手を加えさせたのは平城天皇で、806年の即位の後、大伴家持の官位を復し「万葉集」を召し上げた。平城天皇(桓武天皇の長子)は「万葉集が如何なる歌集かうすうすしっていた」し、召し上げたのち十分に内容を理解したはずである。それが故に「奈良に京を戻すこと」を主張し、薬子の乱まで引き起こした。が、弟の嵯峨天皇に敗れ、平城天皇が出家したので、万葉集が勅撰集として世に出る機会は再度失われた。しかし、公に出せるように再編集して「万葉集」という形に整理されていたのである。
もちろん、大きく再編集されたのは「初期万葉集」である。可能な限りの配置換えと「題詞の書き換え」が行われ、家持が付け加えた「後期万葉集」に歌が移動したりしたと考えている。
それでも、万葉集で歴史を解くことはできるのである。歌は「言霊」であるから、むやみに歌を書き換えることはできなかった。できなかったからこそ、配置を入れ替えても題詞を操作しても歴史の真実が見え隠れするのである。
➁だから、万葉集を読めば読むほど正史との間にズレが生じ、謎が膨らんでくる。
持統天皇が「万葉集の編纂」の詔勅を出し、誰が実際に編纂したのか。人麻呂編集としても、勅撰歌集にはなっていないから、何があったのか。編纂を命じたのが持統天皇なら、なぜ夫の天武天皇に関する歌が少ないのか。持統帝は息子を失った後、何を目指したのか。心から愛したのは誰だったのか。なぜ天智天皇を偲び、有間皇子の霊魂を鎮め続けるのか。持統帝にとって高市皇子とは何者なのか。天武帝の皇子が極位に着けなかったのは何故か。孝徳天皇の御代の歌がないのは何故か。万葉集が謎の歌集となったのは何故か。後世、手を入れられた理由は何だったのか。などなど、次々に膨らんでくる。
今日は巻一を通して、万葉集の謎にせまりたいと思う。例えば、
万葉集の冒頭歌は、何故に雄略天皇の「乙女に呼び掛ける歌」なのか、中大兄が耳成山と争った女性はほんとうに額田王なのか、人麻呂は持統天皇の恋人だったのか……下世話な謎もあるけれど、舒明天皇の国見はなぜ香久山なのか、香具山は小さな150mほどの山なのだから天皇が国見するにしては低すぎる。なのに、持統天皇も香具山を詠んでいるが、それは何故なのか、など。
全てに上代という扉が閉まっていて謎すらも見えにくいのだが、持統天皇は誰の娘なのか、草壁皇子は何故薨じたのか、人麻呂の刑死のわけは何か、額田王は誰を本当に愛していたのか等々噂話の元本のようではあるが、しかし、これらはひたすら万葉集を読み込むことで解けてしまうのである。
③和歌山県の玉津島神社の写真を冒頭に持って来たのは、ここが万葉集を解く重要な鍵の一つだからである。持統天皇・元明天皇はもちろん、聖武天皇・元正天皇も行幸した場所であり、今は島ではないが、古代には連なる嶋のひとつだった。もちろん、柿本朝臣人麻呂も此処を訪れ、『こと上げ』の決心をしたところでもある。万葉集を解く鍵穴だと私は思っている。
④(のちの世の天皇が此の地を愛し、仮宮を作り、行幸を重ねた玉津嶋。光孝天皇(宇多天皇の父)が、我が子に皇位継承権を与えないようにすべての子女を臣籍降下した天皇だが、彼がわざわざここに衣通姫を祀ったのはなぜか。人麻呂と並ぶ歌の三神となった衣通姫、これは何を意味するのか。玉津嶋の意味も万葉集が教えてくれる。)万葉集を解く鍵であることを、今日の話の前に提起しておくことにする。
⑤ まず、心に停めてほしいのは、「万葉集は歴史書である」ということである。それは、若くして極位に着く文武天皇の為に編集された教科書(歴史書) でもある。だから、政変・事件が記録されている。
現代の私たちには、「政変に巻き込まれた人の生の声が残されている叙事詩。歴史上の人物の心情がリアルタイムで残された比類なき歌集」と云うことになる。」
スライドが60余りありますが、数日かけて紹介したいと思います。
良かったら読んでくださいね。