万葉集は、文武天皇の為に編纂された教育書であり、皇統の史書だったと書いた「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。
持統天皇が 編纂させた「初期万葉集」の巻一に掲載された歌を読みながら進めてきました。今日は、㉟からです。
持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか
㉟ 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎
持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。
巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位 尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。
28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山
万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。
持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め、律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)と儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。
だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。
持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年即位(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、 年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。
持統三年、撰善言司を置く
草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた(完成していない)
持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか
㊱ 持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。
草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。
年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。
㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。
万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。
人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。
㊳持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」が呼ばれている。
「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並んでいる。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後}
28番歌 天皇御製歌、
☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)
32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ
34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ
35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌 ◎阿閇皇女は元明天皇
☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌
◎持統三,四,五年のいずれかの従駕
☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌
☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首
43番歌 当麻真人が妻の作る歌
44番歌 石上大臣従駕にして作る歌
☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首
50番歌 藤原の宮の役民の作る歌
51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌
52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌
54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首
57・58番歌 二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)
59番歌 誉謝女王が作る歌
60番歌 長皇子の御歌
61番歌 舎人娘子、従駕にして作る歌
62番歌 三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月
63番歌 山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年
64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △
66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・
70番歌 太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌 ・大寶元年か?
71・72番歌 大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年
73番歌 長皇子の御歌
74・75番歌 大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?
即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた
㊴ 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。
持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。
吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。
孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。
( 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。)
では、また、明日。