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クチヒゲノムラガニの生態

退職し晴耕雨読的研究生活に入った元水族館屋の雑感ブログ

秋告花とサンゴの白化

2024-09-08 | 雑感


今日、いつもと道を少し変えて散歩したら、この花に出会ってしまった。いくら暑くてもこの花が咲いたら季節は秋である。


秋告花はヒガンバナだけではない。初秋には様々な種が咲き誇るのであるが、この花ほど印象的で、小心な私を「どきり」とさせ、秋の決心をさせる花は他にない。


散歩道の代表的な秋告花。上から順にヒガンバナ、クズ、ヌスビトハギ、センニンソウ、ボタンヅル、クサギ。


8月は暑かった。海の中もお湯のようで、泳いでも爽快感が皆無であった。沖縄のように、串本も深刻なサンゴの白化が懸念されたが、幸いその被害は軽微で済んだようである。ヒガンバナのお告げのように、季節は確実に秋に向かうので、白化も落ち着いていく。


9月5日に撮影した串本の海中景観。サンゴは白化したが、夏バテ程度で済んだようである。ただし、イソギンチャクは恒例ではあるが純白となり、クマノミはまぶしそう。

転居と思い出の歌

2024-09-03 | 雑感
前回は子供の頃の不思議な体験を書いたが、この時に「そういえば、彼の地からの転居時にあの歌が流行っていたな~」とそのメロディーが頭の中に浮かんだ。そこで、転居に結びついた思い出の歌を紹介したい。

人は一生の内で3回は転居するそうであるが、父親が転勤族であったのも相俟ってこれまでに人の6倍は転居した。北は北海道から南は八重山諸島まで、1カ所の居住期間は最短6ヶ月から最長15年まで、なかなかの旅ガラスであったが、おそらく6年前に建てた今の家がやっと終の住処となろう。

さて、この度重なる転居人生の中で、転居に結びついた思い出の歌が2曲ある。1つは、小五の夏休み、埼玉の入間から千葉の市川に転居する際に流行っていた”タイガースの花の首飾り”である。当時、親友であったM君と毎日のように入間川に通じる鬱蒼とした木立の長いトンネルを、「花咲く娘たちは~」と二人で口ずさみながら自転車で通っていた。あの寂しげなメロディーと親友との別れの悲しさがマッチして、記憶に残ったのであろう。

他の1つは、中三の夏休み、東京の練馬から文京に移る際に、貨物車の助手席で聞いた”吉田拓郎の旅の宿”である。拓郎は特にファンでは無かったし、この曲は確か前年に流行ったはずであるが、なぜかこの時の転居とセットになって頭の片隅に残っている。なお、当時の拓郎の人気は異常であった。こんなに爆発的に若者に受けた歌手を日本では他に知らない。

転居とは関係ないが、30年ほど前の夏に船を命がけで和歌山から八重山に回航したことがあった。その終盤、宮古島の炎天下の港で給油車を待っている間、漁港放送が”HISの夜空の誓い”を流していた。歌謡曲でもなく演歌でもない不思議なこの歌は、当該漁港には場違いではあったが、なぜか真夏の蜃気楼のように心を揺さぶり、脳皮に刻まれた。だいぶ後に曲名とユニットの驚くべきメンバーが判明し、さっそくCDを購入してしまった。そのメンバーとは忌野清志郎、細野晴臣、坂本冬美である。清志郎の凄さに拍手を送ると共に冥福を祈りたい。


「今、最も気になっている動物」
最近、港でよく見かけるカモメ類。老成しているせいかボロボロで、種の判別も難しい。いつも漁港の片隅にたたずみ、おそらく漁師から餌をもらえるのをひたすら待っている。この暑い夏は越せまいと思っていたが、8月はなんとか乗り切った。

子供時代に体験した不思議な話

2024-08-04 | 雑感
50以上経った今でも不思議に思う、子供時代に体験した出来事が2つある。

 1つは小学2年生頃、場所は北海道千歳市、時は秋の運動会。小さい頃から団体行動や学校がきらいで、運動会の最中、つまらなそうに抜けるような快晴の青い空をぼんやりと眺めていた。すると、日中なのにキラキラと明るく輝く星を発見した。場所を変えずに光っているので飛行機ではない。それを見つけ、感心してしばらく見つめていたのであるが、周りで気が付いた人はいなかった。
 最近になり、もしかしたら「アレ」は新星もしくは超新星の爆発ではなかったかと思い当たった。そこで、1965年頃に観測された超新生爆発の観測記録をググってみたのであるが、肉眼でも分かるようなノーバの記録は見出せなかった。「アレ」はいったいなんだったんであろうか。

 もう1つはそれから2年後、場所は大きく変わって埼玉県入間市、夏休みのある日。家から徒歩30分ほどの入間川に川遊びに行ったら、土手の護岸上に巨大(30cm位)なトカゲが日光浴していた。ここにはこんなものがいるんだと不思議に思わずに、近くにいた家族を呼びに行き、「ソレ」がいた場所に戻ったのであるが、「ソレ」はもう姿を消していた。家族にはそんなものがいるはずないと、嘘つき呼ばわりされてしまった。汚名を晴らそうと、再三その場所を訪れたが、2度と「ソレ」を見つけることはできなかった。後日、その正体を図鑑で調べたら、オーストラリア特産のマツカサトカゲ(類?)であることが分かった。今でこそ入手は比較的容易に行え、外来種として現れる可能性が十分に考えられるが、50年前は一般人が飼育するのは不可能であったに違いない。不思議な体験である。
 ところで、当時は近くに広大な米軍基地(ジョンソン基地)とそのハイツがあった。年に一度、あるカーニバルで地域住民が基地内に入り、アメリカ文化を体感することができた。1ドル360円であった時代。あるいは、「ソレ」は、米兵の家族がペットとして飼っていたものを転勤の際に河原に捨てていった、ものなのかもしれない。


一昨年、瀕死の月下美人をレスキューしたら、この夏、6つも同時に咲いてくれました。そのお祝いにBQしながら花を愛でました。

ハンゲショウも見納めか

2024-07-22 | 雑感



 前前報で、「変わらぬ自然」は奇跡であると述べたが、「変わる自然」は日常茶飯事である。

 毎日の散歩で利用するくじの川道(熊野古道大辺路)の私にとっての1つの目玉が、橋杭峠の麓にあるちょっとした規模の湿原である。ガマ、ハンゲショウ、ミソハギ等、ここでは季節の花々が楽しめた。この湿原は侵入する樹木を、管理者が伐採することで保たれていたのであるが、自動車専用道路建設のための搬入道が通ることが決まってから、伐採がなくなり、林化が進んでいた。そして、最近、隣接する山が突然大規模に削られ、いよいよ湿原の埋め立てが始まった。ここのハンゲショウも見納めか。

 なお、自動車専用道路(すさみ串本道路)は大阪万博に合わせて2025年度に開通予定であったが、種種問題が生じ、開通時期の見通しは立っていない。



今年の7月初めのハンゲショウ群落

伐採されなくなり成長が進む湿原中の樹木(2022年)


成長し林化した樹木(今年)


突然切り開かれた隣接する山


搬入道敷設工事開始(現在)

洞川温泉に泊まる

2024-06-26 | 雑感


 兄が紀伊半島を旅行したいというので、龍神、洞川(どろがわ)、十津川の3銘泉巡りを計画し宿を取っていたのであるが、都合によりキャンセルとなった。そのため、旅行に出る意味は無くなってしまったが、洞川はまだ行ったことがなかったので、ここだけ妻と行ってきた。

 洞川温泉は紀伊半島中央、奈良県に位置する。半島南端にある我が家からはいくつかルートがあるが、北山・大台ルートは閉鎖されており、また、山越えは難路ばかりであるので、無難に和歌山市から京奈和道を利用した。途中かつらぎ町で下り、道の駅をリレーしてつまみ食いを楽しみながら赴いた。

 洞川は標高800m程の、洞川沿いの高地にポツンと集まった山里にある。そのルーツは、1300年も前に近くの大峰山を開山した役行者にあり、爾来、山伏の修行の聖地として、また、役行者を崇拝する大峰講の信者の宿場町として発展を遂げた。そのため、旅館街は昭和以前の古い面影や大峰講との関わりを色濃く残しており、この異色さが当該温泉街の特徴となっている。ちなみに、洞川周辺の地質は主に石灰岩より成り、そのため大小様々な鍾乳洞のあるカルスト地形が形成されている。洞川の名は「鍾乳洞から出流る川」に由来する。

 当該温泉街の特色は上述したが、さらに特異なものがある。それは、各家々が提灯等でノスタルジックに電飾を施すことである。その幻想的な美しさこそ、この街の最大の売りであり、ここに泊まらなければその良さは分からない。全ての物が消え去るのが定めのこの世にあって、この異世界は末永く残って欲しいと思った。


洞川集落


洞川温泉街の昼の顔


洞川温泉街の夜の顔




山伏の持薬として古来より伝わる伝統胃腸薬「陀羅尼助丸」専門の店が何軒もある。漢方薬の類いである。さすがは、歴史ある大峰講の里。さっそく買い求めたので、適宜試してみたい。


自動販売機で売られているステッカー。パクリだがほほえましい。


近くにある鍾乳洞「蟷螂の岩屋」。山伏の修行地となっている。


山伏の根本道場。早朝に散歩していたら、ホラ貝とドラが鳴り響いてきた。今も山岳信仰が残っていることを実感した。


さすがは吉野杉の産地。枝打ちが行き届いている。

ハンカイソウの季節

2024-06-09 | 雑感


 私が毎朝歩く散歩道(串本町くじの川道:熊野古道大辺路)近くではハンカイソウの花が満開である。

 ハンカイソウは川沿いの山地に群生する大形のキク類で、東アジアの固有種。高さは1mを超え、花は10cm程になり、たいへんよく目立つ。和名はその姿を、漢の劉邦を支えた猛将「樊噲(はんかい)」に例えたもの。昔の和名の発想力にはいつも感嘆させられる。命名は牧野さんか?

 さて、今年もハンカイソウの花の季節がやってきた。この花は私の散歩における重要な風物詩の一つ。梅雨に入った頃に咲くが、今年は梅雨がまだ来ない。

 この花は散歩道のよく日が当たる川沿いでも見られるが、いつもの散歩道から林道を分け入った薄暗い小川沿いにとっておきの群落があり、毎年、そのひっそりとした、私だけの花園を訪れるのを楽しみにしている。

 今年もその健在な姿を眺められて、一安心。この時代、「変わらぬ自然」というものが奇跡であるから。




花に来た虫:上段はカゲロウ類、下段はモンキアゲハ


紀伊路紀行② 南部町内 20240525

2024-06-01 | 雑感

紀伊路南部町内の地図(赤線が古道:和歌山県提供の紀伊路マップから引用)



九十九王子と紀伊路の参詣経過(「いっしょに歩こう熊野古道:紀伊路・中辺路、わかやま絵本の会」より引用)




 紀伊路歩きの2回目は南部町名の3カ所の王子(三鍋王子、千里王子、岩代王子)を詣でた。総歩数は15000歩であった。今回は南部町内の有名な2つの梅林(千里、岩代)近くを歩いた。ちょうど収穫時期でこの時期ならではの風景を楽しめたが、やはりどうせ歩くなら花の季節。

 今回は手に持って歩けなかったが、古の参詣道を懐かしむことができる、もってこいのアイテムを手に入れた。それは「紀伊国名所図会後編全6冊」である。
 紀伊国名所図会は江戸時代後期に和歌山市内で本屋を営んでいた帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画・制作された紀伊国の地誌で、そこには紀伊国の名所(城、社寺、旧跡、名勝)の由緒や来歴を優れた版絵と共に紹介されている。 このシリーズは、初編と二編(高市志友編:文化9(1812)年)、三編(加納諸平編:天保9(1838)年)、後編(加納諸平・神野易興編:嘉永4(1851)年、熊野編(昭和17(1942)年)がそれぞれ刊行されている。入手したのはこれらの内の後編(牟婁郡之部)で、刊行されたのは上述したように今から170年前、その2年後には黒船が来航している。後編の内容は以下のとおり。ご覧のように、当時と現在では郡名、郡内構成市町村が共に大きく異なっている。
  一之巻(若山補遺:和歌山市内)
  二之巻(海部郡・在田郡:海南市~有田市)
  三之巻(在田郡:有田市)
  四之巻(在田郡・海部郡:湯浅町~広川町)
  五之巻(日高郡:日高町~御坊市)
  六之巻(日高郡:御坊市~南部町)

 昭和以降、日本列島は甚だしく改変されてしまった。そのため、当時の風景はほとんど残っていないであろうが、当時と現在を比較出来る場所を見つけるのが、これからの楽しみである。


①南部駅とトレイナート(駅舎アート)
トレイナートとは紀の国トレイナートの活動によって、きのくに線の各駅舎に飾られた様々な作家によるアートのこと。当駅の駅舎はウミガメがたくさん。

②南部の駅前通りの今と昔
下段は「紀伊国名所図会」に掲載された170年前の南部驛の様子。

③三鍋王子
立派な王子社である。

④趣のある横道

⑤南部峠
右は梅林、左はトキワツユクサの群落(見事)

⑥千里ウミガメ館
千里王子のすぐ手前にあるウミガメの展示室、休憩もできる。産卵期には観察会もあるらしい。

⑥千里王子

紀伊路の王子はどれも立派である。

⑦千里の浜の今と昔
下図は「紀伊国名所図会」にある千里の浜。ここの景色は奇跡的に不変である。

⑧梅林の昔と今
上段は「紀伊国名所図会」の南部梅林、昔から梅の産地であったことが分かる。中段は梅林と主力の南高梅。下段はこれから並ぶであろう梅干し場。近年は大不作とのこと。

⑨岩代王子
ここと千里王子は浜を歩いて参詣するようになっている。

⑩岩代駅とトレイナート(駅舎アート)
この駅のアートは実にシュールである。このアートに関しては賛否両論あるらしい。

芳養駅とトレイナート
これからは紀伊路内きのくに線の全てのトレイナートも紹介したい。下段は紹介し忘れた芳養駅のアート。岩代駅と違って分かりやすい。

「紀伊国名所図会後編六之巻」
「紀伊国名所図会」は残念ながら解説が多く、挿絵は少ない。素人がいきなり古文を読むのは難しいので、とりあえず挿絵のみを参考にしている。

紀伊路紀行① 田辺市内 20240518

2024-05-22 | 雑感

紀伊路田辺市内の地図(赤線が古道:和歌山県提供の紀伊路マップから引用)


 熊野古道には6経路あるが、これらの中で平安時代に貴人の熊野三山詣でのために整備された、真の熊野古道と言えるのが紀伊路と中辺路である。
 紀伊路は京から水路で淀川(旧)を下り、淀川河口の渡辺津(摂津国)から和泉国を経て紀伊国口熊野(田辺)に至る街道を、中辺路は田辺から奧熊野を経由して熊野三山に至る街道をそれぞれ指す。ただし、この区分は便宜的なものであり、紀伊路と中辺路は本来は一続きの参詣道である。そのため、これらの経路にのみ、道中の所々に特別な王子(参詣貴人が祈願のために巡拝する社)が設けられていた。なお、本参詣道にある王子を総称して九十九王子と呼ばれたが、実際の数は101あり、この内、紀伊路側には68(大阪府内は23)あった。
 さて、中辺路散策(2021年2月~2023年5月)に続き、1年のブランクを経て、いよいよこの5月から紀伊路の王子巡りを開始した。基点は田辺で、ここから古の参詣者の帰り道を辿る。紀伊路はそのほとんどが市街地の中を通っているため、古道の面影をすっかり失っており、地面もアスファルトばかりである。そのため、中辺路と比べると魅力は乏しいが、所々でその痕跡を見つけるのが醍醐味となろう。また、その変貌振りを観察しつつ、往時の姿を想像するのも一興であろう。ただし、紀伊路は中辺路にない利点が1つある。それは、基本的に鉄道が平行して走っていることだ。そのため、駅近くに車を駐め、戻りは鉄道を利用する方式を採ることができる。本紀行では終点(摂津)まで向かうかは決めていないが、当座の目標は和歌山の県境である。

 初回は田辺市内にある2カ所の王子(出立王子、芳養王子)を詣でた。総歩数は21000歩、徒歩距離は約12kmであった。行程は和歌山県紀伊路マップに沿ったが、途中で道を逸れて天神崎を堪能した。何度も車で通ったことがある道であったが、徒歩は情報の収集量が格段に異なり、新たに発見することが多い。やはり歩いてみないと体感はできない。

 
①田辺市中心(北新町)にある古道の道標(道分け石)と旧街道
上段は始点となる三叉路で、上が和歌山方面(紀三井寺とある)、下が大辺路方面、右中央が中辺路方面。活気溢れる通りであったが、年々シャッターが増え寂れていく姿が痛ましい。


②田辺平野と集落を作った会津川


③会津川沿いで見つけたレトロなホーロー製の看板。小豆島のこの醤油はまだあるらしい。一度使ってみたい。


④道幅が贅沢に拡張され整備された旧街道。新しいのに、やはり寂れて活気がない。


⑤出立王子跡(王子番号68)
参詣者は地先の海岸で体を清め、ここから口熊野入りを覚悟したようである。りっぱな王子である。ここで詠まれた以下の感慨深い歌が残る。背子は夫のこと。
「我が背子が使来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ」
(万葉集巻九:詠み人知らず)


⑥天神崎入り口の看板
昨今はウユニ塩湖と呼ばれるらしい。


⑦天神崎
ナショナルトラスト運動発祥の地として有名である。幾度となく訪れていたが、火成岩からなるこの大きな平磯は独特な趣きがある。潮が引くと岩礁に囲まれた池と化し、風がないと鏡のような水面となる。



⑧日和山
天神崎の生態系を守る山神様である。この山を切り崩してリゾート開発されそうになった時に、地元の生態学徒は立ち上がった。さすがは南方熊楠の郷土。一度登ってみたかった。遠くに連なるのは奥熊野の山々。


⑨元嶋神社の海上鳥居
撮影スポットとして有名。



⑩芳養一里塚跡
ここが田辺市街にある道標(道分け石)から一里の距離となる。


⑪芳養王子跡(王子番号67)
明治四年の神社合祀により現在の大神社として合祀されたそうである。芳養王子は大神社の境内の片隅に鎮座している。





熊野古道・小辺路は触りだけ

2024-05-19 | 雑感
 熊野古道は熊野三山を詣でる古の街道で、主に6経路、紀伊路(大阪~田辺)、中辺路(田辺~中辺路~熊野三山)、大辺路(田辺~串本~熊野三山)、小辺路(高野山~熊野三山)、伊勢路(伊勢神宮~熊野三山)、大峯奥駈道 (吉野~熊野三山)がある。せっかく地元にある歴史遺産であり、興味があったのでこれまで大辺路と中辺路(本ブログで紹介)は完全制覇した。次はどの古道を巡るか決めかねていたが、いよいよ今月より紀伊路の王子詣でに着手した。ただし、今回は先日訪れた小辺路のほんの触りについて紹介する。

 小辺路(こへち)は、高野山と熊野本宮大社を結ぶ約70kmの山岳経路で、奈良県を挟んで和歌山県を南北に縦走する。大峯奥駈道を除けば最も厳しく、道中の車での到達性が悪く、十分な登山の体力と装備が必要とされる。そのため、端から選択肢にはなかったのであるが、以前よりその冒頭に位置する果無集落の美しい景色には引かれていたので、ついでに立ち寄った次第である。果無集落は小辺路の始点である本宮大社から約13kmの距離に位置するが、そこから2km先には十津川温泉郷がある。そのため、最寄りの温泉に車を駐め、古道を2km歩いて果無集落を訪れ、その後は車道を歩いて車に戻った。所要時間は約2.5時間であった。


温泉から古道に入る手前にある吊り橋。個人的には果無集落よりもこの橋が気に入った。ただし、妻には「帰りは無理」と言われたので、大回りして帰った。


古道に入ると急な登りが続く。果無集落までは短い距離であったので難なく到達できた。初ギンリョウソウに感激。


果無集落。もしかしたらここらで最も高所の田んぼ?。プロが撮った写真を見ていたので「天国のよう」に思っていたが、あっけなく通過してしまった。


帰りは車道を歩いた。視界と眺めがよく、実に爽快であった。途中、美しい「めん滝」に遭遇。車道を歩かないと出会えなかった。

パラオのサンゴ(④サザナミサンゴ科以外のナミフウセン亜目) *** パラオに行った話

2024-05-09 | 雑感
 今回はコロール島岩山湾で観察されたサザナミサンゴ科以外のナミフウセン亜目の種を紹介する(表1)。これまでと同様に、同定には自信が無い。



Ctenactis echinata (Pallas, 1766) トゲクサビライシ


Danafungia horrida (Dana, 1846) ノコギリクサビライシ


Heliofungia actiniformis (Quoy & Gaimard, 1833) パラオクサビライシ

パラオの名を冠するだけあって、岩山湾においても普通種である。最後の画像の左端は固着した母個体で、周囲に娘個体を増やしている。

Herpolitha limax (Esper, 1797) キュウリイシ


Pleuractis granulosa (Klunzinger, 1879) ナミクサビライシ


Sandalolitha robusta (Quelch, 1886) ヘルメットイシ


Leptastrea purpurea (Dana, 1846) ルリサンゴ


Leptastrea transversa Klunzinger, 1879 アラルリサンゴ


Echinophyllia patula (Hodgson & Ross, 1982)


Lobophyllia hataii Yabe, Sugiyama & Eguchi, 1936 パラオハナガタサンゴ


和名はパラオの名を冠し、学名はパラオ熱帯生物研究所所長の畑井新喜司氏に献名されたものである。本種の認識は難しく、L. valenciennesii との区別が不明瞭である。

Lobophyllia hemprichii (Ehrenberg, 1834) オオハナガタサンゴ


最後の画像はテルオピスに浸食された群体。

Lobophyllia radians (Milne Edwards & Haime, 1849) ダイノウサンゴ


Plerogyra sinuosa (Dana, 1846) ミズタマサンゴ


Pocillopora damicornis (Linnaeus, 1758) ハナヤサイサンゴ



Pocillopora acuta と混同している可能性がある。最後の画像はこの種かもしれない。

Seriatopora caliendrum Ehrenberg, 1834 フトトゲサンゴ


Seriatopora hystrix Dana, 1846 トゲサンゴ


Psammocora albopicta Benzoni, 2006 ベルベットサンゴ


Psammocora contigua (Esper, 1794) ヤッコアミメサンゴ


Psammocora stellata (Verrill, 1866)