山行記録・写真

楽しいことや苦しいことの思い出をブログにしてみました。

NHK大河ドラマ「真田丸」 5 「窮地」   28.2.7

2016-02-08 11:59:15 | NHK大河ドラマ「真田丸」

NHK大河ドラマ「真田丸」 5 「窮地」   28.2.7

 

1582年(天正10年)6月2日・・・・ 本能寺の変

信長 49才、武田を滅ぼした3ヶ月後。

 

昌幸、本能寺の変をいち速く知り、小県(ちいさがた)の国衆を、上杉に頼るこことに、強引にまとめ上げる。

 

家康。

本田平八郎、本能寺の変を告げる。

穴山梅雪をまじえ、逃げ道を探る。

伊賀峠越しを選択。

伊賀へ向かう。

 

安土の信繁、偵察のため京へ向かう。

 

真田郷。

高梨内記、娘きりがぶらぶらし困っていると昌幸に相談する。

昌幸から、奥に仕えろと、言われ、大喜び。

内記、帰宅したきりに明日から、奥で仕えろと伝える。

きり、父の前では嬉しい顔をしなかったが、部屋を出て、にんまりと・・・・・。

 

家康、先頭を走る。

梅雪、家康を引き留め、「腰痛」のためゆっくり行きたいので、二手に分かれようと。

「あやつと心中できるか」と呟く。

分かれた梅雪は、落ち武者狩りに会い、あっけなく命を落としてしまうと・・・・。

 

昌幸、佐助に、安土の娘の救出を命ずる。

 

明智の使者、甲冑のまま現れる。

明智への加勢を促す書状を差し出す。

昌幸、小県(ちいさがた)の代表だから、任せてくれというが、任せられないと。

各国衆への書状を見せる。

ここで、使者を拘束、他の国衆への書状を焼いてしまう。

高梨内記に、国衆を集めるよう、指示する。

 

昌幸、長男の前で、「ちくしょう」と大声でわめく。

「信長がなんで死んでしまったのか。頭を下げたばかりに」

「諸国の有力大名が立ちあがるに違いない」

長男、父の決心を問う。

父、「全く分からん」「教えてくれ」と長男の胸蔵をつかみ叫ぶ。

 

信繁、京へ向かう途中、明智の兵とすれ違う。

 

家康、落ち武者狩りに会うが、突破。

 

昌幸と信幸。

「織田、明智、上杉、北条」の名をあげ、「誰かに頼らなければ生きてはいけない」と悲しげに呟く。

父、「荒波を泳ぎきってみる」「おもしろくなった」と。

長男と内記顔を見合わす、また策を・・・・・・・・。

長男「織田に従うが本筋だ」と・・・・・。

 

京の信繁、本能寺の焼け跡を見つめ、途中明智勢に会ったことを想い出し、急いで引き返す。

 

家康など伊賀峠。

急な下り坂見て、驚く。

半蔵、先頭で飛び降りる。

皆仕方なく、これに続く。

 

昌幸決断。

「織田を見限る」

「上杉に従う。上杉の家臣となり、小県(ちいさがた)を守る」

「先手をとり、織田方を小県(ちいさがた)から追い払おう」

 

昌幸、弟を使者として上杉へ。

上杉景勝、「小県(ちいさがた)は、上杉が預かる。しかし織田を攻めるな」と釘を刺す。

弟、織田の追い払いのは、今をおいてないと、具申するが・・・・。

上杉の家風、「弱きを助け、強きをくじく」を家臣が伝え、釘を刺す。

 

真田郷。

昌幸、弟から上杉のことを聞き・・・・・。

「上杉は諦めた」

「織田の家臣として生き抜こう」

 

家康、今度は明智の兵に会うが突破。

 

織田の家臣、滝川一益から呼び出しあり。

父子、瀧川に会うが、本能寺の変は知っていないようだ。

< 瀧川氏は、厩橋城(うまやばしじょう)(現在の前橋市内)で、3ヶ月治めたとのこと。驚くばかりの短さだ >

瀧川、昌幸に語る。

「戦がなくなると。」

 信長の偉大さを話す。

昌幸、「織田はとほうもないことを考えていた」と内心感心する。

「明智はとんでもないことをしてくれた」と呟く。

湯治場を聞かれ、草津を勧める。

 

信繁、安土に戻り、城に閉じ込められた姉を救うため義兄と城内へ。

姉と姉が置いていけないという他の人質と抜け穴から無事脱出(変から2日がたった)

 

家康もほうほうの態で、帰城。

 

< 来週・・・迷走 >


連続テレビ小説「あさが来た」 - 97  第19週 「みかんの季節」

2016-02-08 10:05:30 | NHK連続テレビ小説「あさが来た」

連続テレビ小説「あさが来た」 - 97  第19週 みかんの季節

 

+++++の終わり

大阪加野屋の寝間、あさと夫新次郎の会話。

二人で旅をしたことがないので、和歌山に行こうと。

あさも同意。

「初めての旅」と夫新次郎大喜びで、つづく。

 

+++++今日の始まり

前週の大筋のシーン。

初めての和歌山への旅、喜び合う2人。

 

月曜日  28.2.8  19週  109

 

< 明治21年、加野銀行誕生。 >

< 実話・・・・夫新次郎が尼崎で社長になった会社は、現在のユニチカとのこと。>

 

夫新次郎着物姿、あさ洋装、二人仲良く旅立つ。

大阪から有田まで船で。

みかん畑を歩く二人。

「風のにおいが違う」と・・・・。

あさが仕事の話をしたので、夫新次郎「無粋な話はするな」と注意。また、「姉長男藍之助のことについて、余計な口を出すな」と。

子供たちが出てきて、あさの洋装を囃す。

そこに、はつの次男が出てきて、子供たちを追い払う。

さらに、はつの夫が出てきて、再会を喜ぶ。

はつの夫、あさの洋装を見て、「みのむし様な恰好」と呟く。

 

夫新次郎、あさ、はつ宅着。

夫新次郎、「天王寺屋さんお世話になります」と挨拶。

舅、久方振りに天王寺屋さんと言う言葉聞き、懐かしがる。

はつの夫、夫新次郎を「社長」さんやと紹介する。

夫新次郎、「えらいのは、嫁さんや」と。

はつ、次男に挨拶するようにと促す。

「世之介?」と。

 

皆で夕飯を囲む(あさとはつ除く)。

夫新次郎、さば寿司?が大変おいしいと感謝する。

姑、大阪を懐かしみ、「大阪の寿司」を食べたいと。

 

姉妹会話。

はつ、「長男藍之助が心配で来てくれたのか」と。

大阪で、「恥ずかしい姿を見せてごめん」と謝る。

とんでもない、「旦那さんと初めての旅をしたかったので、和歌山に来た」と心遣いをする。

 

庄屋さんが、夫新次郎とあさの布団を使用人に持たせ、訪問。

庄屋、切り抜きの新聞記事を出し、「あさが偉大なる女性」と紹介されていることを披露するとともに

会えたことに感激する。

庄屋、琴のことなどで、はつの一家を頼りにし、大変お世話になっていることを告げる。

「長男藍之助が学校で良く出来、かしこい。昔であればお殿様に仕えていたのではないかか」と。

みかんの話となる。

最近は、みかんを買いたたかれさっぱりと。

昔は紀州様の後押しがあったが。

あさ、口を出そうとしたが、夫新次郎にたしなめられる。

庄屋、息子二人を東京で学ばせ、姉長男藍之助とともに村の柱になって欲しいと述べる。

 

あさ、はつが寿司を混ぜている姿を見ているところで、つづく。

< ナレーション・・・はつの心の内がどうなっているか心配 >

 

明日は、どのような展開になるか楽しみだ。


バドミントン教室

2016-02-08 09:08:13 | スポーツ

バドミントン教室

 

28.2.6(土)1000-1200

 子供たちの通学した小学校の体育館で行われた。

 約30人が集まる、3グループに分けられ開始。

 私は、初級者で、幼稚園・小学生に混じり行う。

 先ず、ラケットの握り、「包丁をにぎるように」と教えられた。

 打ち方は、「上腕の手指方の腕のみでスナップをきかすようなやり方<表現の仕方がよくわからない>」

「ラケットを胸水平に持ってきて、これを下から上に持ち上げて回転させ、右下に振りぬく<表現の仕方がよくわからない>」

 足は、右踏切と。

 いつもの癖で、左半身で左の足が先に・・・・・・・。

 相対で、シャトルを打っていたら、無理をし、足をすべらし、後ろに大きく転倒、頭の後頭部を床に打ち付ける。皆さんに心配をかける。

 無理は禁物・・・・・・!!!!

 シャトルは、ラケットで拾い揚げるとのこと。

 遊びで結構長い時間練習する。

 なかなか上手くいかない。

 指導者は、若い青年?大学生?とその補助として赤ん坊を背負ったままシャトルを投げてくれた20代?のお母さん、この子は、私達のグループ、幼稚園生?

 このお母さんに、時期的には何時のスポーツか聞くと、「いつでも」、大きな大会は「秋」とのこと。

 このお母さんに、練習クラブがないかと聞けば、今日参加者のIさに紹介され、今夜行うとのこと、その場で参加をお願いする。

 たちまち、2時間が過ぎ終了。

 久方ぶりの運動、爽快。

28.2.6(土)1900-2100

 1900前に行かなければと。

 しかし、体育館には誰も。

 軽く、走る。

 1900過ぎ、四人男女各2人。

 Iさん夫婦のテスト受、試合も出来ると、パスの許しが出る。

 結構きつく息がきれる。

 ダブルスで試合、私が下手なので私の組は終始負ける。

 少し早めに終了。

 会費は、1回につきシャトル代300円とのこと、小さな缶に入れる。

 終わり、体育館の出る直前に、生まれ年を聞かれたので答えると、5人中4人が70才代、あと一人の男性は若いが、60才代か?

 

 今後、毎週の金曜と土曜の1900-2100の間行われるとのこと。

 参加することを告げ、今後ともよろしくと・・・・・・・・。


ホンダジェットを操縦してみたい

2016-02-08 05:35:43 | 航空機

ホンダジェットを操縦してみたい

 

来週、自動車の運転免許の高齢者講習を受けることになっているが、ジェット機の運転免許であればよいと空想してしまう。

 

その空想には、ホンダジェットを購入、自らが操縦、日本や世界の空を飛んでみたい。

 

サービス拠点を増やすとのこと、大いに期待しています。

皆様の奮闘を陰ながら祈っています。

 

* プレジデントオンラインの記事

   「ホンダジェット」型式認定取得で描く次なるシナリオ

プレジデントオンライン

山田清志15 時間前

FAA240万ページの書類を提出

「ホンダが単独で、しかも新規参入で航空機の型式認定をとったというのは、日本の企業にとっても非常に大きなマイルストーンを達成したのではないかと思います」

昨年12月、ホンダの航空機事業子会社であるホンダ・エアクラフト・カンパニー(HACI)がつくった「ホンダジェット」が、米国連邦航空局(FAA)から型式認証を取得。そのことについて、HACIの藤野道格社長は嬉しそうにこう語った。この1年ほどあまりいいニュースのなかったホンダにとって、久しぶりの明るい話題といっていいだろう。

しかし、この型式認証をとるのは大変な作業だった。FAAへの提出書類は240万ページにも及び、おまけにFAAの人がいくつも仕事を抱えているなかでホンダジェットの認定を優先的にしてもらえるように働きかける必要もあった。もちろんFAAの関係者らのスケジュールも調整しなければならなかった。その結果、当初の予定よりも認定取得まで大幅に時間がかかってしまったそうだ。

「今まで4機設計してきた経験がありますが、FAAの認定取得はそれを遙かに超えるもの。全く自分が経験したことのない領域に踏み入れた感じでした」と藤野社長は振り返り、取得の1カ月前からほとんど眠れない日々が続いたという。

ホンダジェットの特徴は、エンジンが主力の上に設置され、胴体に直接エンジンを据え付けるこれまでの機体になかったスタイル。自然層琉翼型、一体成型複合材胴体といった独自技術を採用し、クラス最高水準の最高速度、最大運用高度、上昇性能、燃費性能および室内サイズを実現した小型ビジネスジェット機だ。乗り心地もこれまでの小型ジェットと比べものにならないとのことで、航空業界関係者の評価も高い。

サービス網の強化で大手2社を追撃

現在、北米、欧州、ブラジルの計11拠点で販売しており、受注数は100機を大きく超えるレベルとなっている。12月下旬には1号機の引き渡しも済ませた。生産台数は月産34機で、2年目からは56機に増やしていき、その後については今後の受注状況を見ながら調整していく計画だ。工場の能力としては年間100機ぐらいまでは大丈夫だそうだ。

購入者はアントレプレナーや中小企業の社長など比較若い人が多く、これまでの小型ビジネスジェット機を買ってきた層とは若干違っているという。そのため、藤野社長はホンダジェットによって、マーケットを広げていく起爆剤になることを期待している。

しかし、航空機の世界は商品が優れているからといってたくさん売れるとは限らない。というのも、航空機はメンテナンススケジュールが明確に決められていて、それにきちんと応えられるようなアフターサービス体制を備えることが重要だからだ。しかも、精度が高くなければいけない。

現在、米国でのホンダジェットのサービス拠点は5カ所。1時間半以内に整備にいける体制を敷いているが、整備技能レベルにばらつきがあるそうだ。そのため、整備士の人材教育をはじめ、アフターサービスに力を入れている。「どこへ行っても同じようなレベルでできるようにしていきたい」と藤野社長。

その藤野社長は1984年に東大工学部航空学科卒業後、「当時の航空機産業には魅力が感じられず、クルマの技術者になろう」とホンダに入社。ところが、86年にホンダが航空機の研究開発に着手したのを機に、「飛行機をやれ」と言われた。

「私自身としては、本田宗一郎の夢とかという次元の仕事ではなく、毎日目の前の仕事をこなしていくという感じでした。ただ、飛行機ができあがって、本田さちさんに挨拶に行ってその模型を渡したら、それを宗一郎さんの遺影の前に飾られて、さちさんが『主人が生きていたらどんなに喜んだでしょう』と話をした時には、ホンダで飛行機をやることは特別な意味があるんだなと感じたのを覚えています」

こう話す藤野社長は、セスナとエンブレアが小型ビジネスジェット機市場で幅をきかすなか、「その2社よりもさらに良いサポートネットワークで十分なブランドを築き上げて次のステップに入っていく」と意気込んでいた。