弱い文明

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初等数学の脅威

2007年04月11日 | Weblog

 日本の死刑廃止論者の重鎮、団藤重光博士が、その『死刑廃止論』の「第三版のはしがき」の中で、法務大臣による死刑認可について論じている。1993年、時の法務大臣・後藤田正晴による、3年ぶりの死刑執行命令書への署名を受けてのものである。
 この時、後藤田法相が談話として語ったのは、「死刑判決が出ているのに、その執行をしないままでは法秩序が保てない」というお決まりの話である。現在でも死刑存置の考えを持っている人々、または積極的に廃止とまでは認められない人々の多くがうなづくであろう言い分だ。
 それに対して、団藤博士はこう切り結ぶ。
「[・・・・]これはもちろん、それじたいとして、正論なのである。しかし、これはいわば初等数学に対応する程度の初等法学である。いな、初等法学的に考えるとしても、死刑の執行については刑事訴訟法四七五条、四七九条をどう理解し運用するかという問題は避けて通れないのだから、これだけの理屈で割り切ることはできないのである。しかも、現代日本が置かれている内外の状況のもとにおいて、間近に控えた二十一世紀を展望しながら、事柄をダイナミックに考えるとなると、われわれはいわば高等法学的な次元で方策を立てなければならないのである。事柄は、いやしくも人の生命に関するのである。」
 後藤田正晴は金権にまみれた自民党にあって、良識の牙城を守り抜いた人物と評価されるべき側面がある。団藤博士も当時、後藤田氏の剛直さと思考の柔軟さに対し、尊敬と期待の念を持っていたという。それだけに、この死刑執行をめぐる「官僚的」で「スタティック」な対応のマズさが際立ってしまったとも言える。

 だがこのエピソードになぞらえて、僕としてどうにも気になるのは、権力者の今さらながらに硬直した判断より、こうした判断をあっさり後押しする国民の側の問題である。
 上の話で言えば、「四七五条、四七九条をどう理解し運用するか」というのは、法律の素人にはちょっと判断が難しいところがある。だがそれ以前に、法廷が死刑判決を出したのだから法務大臣はとっととハンコを押して当然、と言われたら、「ちょっと待てよ──だったらそもそも、なんで法相にそんな権限が与えられているんだ?」というところに意識が向くものではないだろうか。そこからたどっていけば、法相が死刑を認可するのは別に全然「当然」なわけではないという、(理念とかではなく)「現実」に行き着くことになる。行き着いた後にどう考えるかはその人次第だが、まずはたどれるだけたどってみればいいのである。

 だがそうした努力(というほどのもんでもないが)をしなくとも、わかりやすいスローガンやレッテル、そして初等数学のごとき理屈に身を任せた方が、何だか知らないが安心できる、という風潮がある。上の後藤田氏の談話にしても、そうした「国民の声」を当て込んでいたことは間違いない。「国民の声」は、いつでも「なんだか難しいことはわからないが、とにかく私達を安心させてくれ」と言っているように、政治家には聞こえるみたいである。
 それは政治家だけが悪いとは言えない問題ではないだろうか。政治家が国民をそっちの方向に馴致・教育するという側面はあるにしても。

 1.2+2.3=3.5、と出すのにそれほど苦労は要らない。それをわざわざ、3.5よりわかりやすいから「3」にしよう、と考える人達がいる。いや、1.2+2.3ならそれ自体初等数学内の話だな。
 去年の国会前のヒューマンチェーンで、安倍首相に扮したザ・ニュースペーパーの福本が、(文科省による小学算数の改訂で、円周率を「3」として見積もらせる指導を取り込んだことをもじって)教育再生のために、今後はさらにわかりやすく、円周率を1の位でも四捨五入して「0」にします、というギャグを飛ばしていた。
 今思うと、これは結構深いギャグだったな、と思う。「0」に換算してしまうということは数式そのものを無効化してしまうことかもしれないのに、平気で「ゼロも数字ですから」と言って押し通そうするような態度というものが顕在化しているのだ。
 政治家がそういう態度を取るのはまだわかる。ゼロにした結果引き起こされる惨事を我が身に引き受けることがないからだ。だが、実際にそれによって痛い目に会う国民の方が、喜んで「ゼロ換算はわかりやすくて結構だ」と受け入れる。メディアもそれをもてはやす。かつて痛い目に会った記憶がすっかり薄らいでいく。もーいーくつ寝―るーと、満州事変、とか。

 初等数学の報いを受けた記憶が生々しい頃の日本人がどんな思いでいたか、それを学ぶためには『日本の青空』を観るのもいいかも知れない。


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