弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

魂の「冷戦連続体」

2007年07月01日 | Weblog
 6月26日、米下院にて「慰安婦問題に関する対日謝罪要求決議案」が圧倒的票差で可決されたことは、側面からこれを支援するネット署名(エントリーはこちら)に参加した一人としても、喜ばしい結果だ。
 しょせんは外国での出来事じゃないかとか、アメリカ自身の行なった(今も行なっている)「戦時犯罪」の責任はどうなんだとかいった反応は、それはそれでもっともなことだと思うが、だからと言ってこの法案可決の妥当性や、未来へ向けての意義が薄れるわけではない。何より、この法案の必要性を生んだのは他ならぬ日本の歴史認識の実情なのであり、戦後60年以上を経てまだこんな有様であるという現実を、内外の心ある人達に認知してもらっただけでも意味がある(壊れる前に・・・および人工樂園の記事も併読されたし)。

 そんな中、国内では“クラスター・ブラザーズ”の片われ・キューマ防衛大臣の「原爆投下是認」発言(30日)が物議を呼んだ。日本を守ると称する「防衛省」のトップが、大量の国民の死を「しょうがない」と言ったのは、それだけですごい話だと思うが、僕は別の観点からも気になることがあった。
 報道からは、キューマっちは原爆そのものを肯定したわけではなく、あの局面においてアメリカが投下に踏み切った事情を「しょうがない」としているだけ、という言い逃れは可能であるように見える。ただその事情というやつが、「対ソ」戦略の事情という、古くさく・いい加減な核抑止論の流れをいまだに引きずっていることの問題こそは、叩かれなくていいのだろうか。

 もし原爆投下がなければ、ソ連は北海道まで侵攻していたかもしれない、とキューマは言う。しかし彼はわかっているのかどうか、実際にはソ連の対日宣戦は8月8日、広島の原爆投下の後であり、千島列島への侵攻にいたっては、終戦後のことである。
 確かにポツダムにおける交渉の最中、トルーマンは原爆実験成功の知らせを受けて、ソ連に強気な態度で臨むことができた。だからといってソ連が(密約にしたがい)千島列島だけであきらめたのは原爆に対する恐怖からだというのは、短絡に過ぎるだろう。その後何発原爆が落とされようと、どうしても北海道(北部)を占領する必要があるとなれば、ソ連はそうしたかもしれない。アメリカも「ちぇっ、北部だけなら仕方ないか」と容認したかもしれない。日本軍との戦闘がまだ散発的に続いていて、これから占領統治を始めるという段階で、それまで一緒に「連合国」を形成していたソ連に宣戦布告し核攻撃する、などという異常なシナリオがあったとは思えない。
 スターリンはと言えば、日本が原爆によって早々に降伏してしまうのではないかと焦っていたらしい。「早々」でもなかった分だけ、分捕ることができたわけだが、それでも案の定、日本降伏にともなって状況が難しくなった。連合国による統制が始まった時点で、少なくとも“分捕る”軍事的正当性が失われてしまったわけで、もろもろの事情を勘案して、北海道はあきらめたのだろう。
 ソ連は自身がこの大戦で大きな痛手を負っていた(大戦中、最大の死者を出した国)。少ないリスクで大きな獲物、が至上命題だったことは容易に察しがつく。戦後の復興もにらんで、今の米英とはある程度歩調を合わせていたい、という考えもあったはずだ。
 だから幻の「ソ連北海道占領」を阻止したのは、日本の降伏による状況の変化それ自体である。決して「原爆の威嚇」に帰するような事情のみではない。だがキューマ発言のベースにあるような核抑止論は、都合の悪い「その他の事情」は、たとえそれが事情の大部分を占めるとしても、または同胞の大量死を前提としてさえも、平気で捨象できるのだ。

 その日本降伏のためには原爆が必要だったではないか、という議論はまた別個に存在するわけだが、それは「対ソ」の思惑などとは脈絡が違う。安倍首相はキューマ発言を「アメリカの考え方を紹介したと承知している」などとすっとぼけたそうだが、アメリカの原爆投下擁護の論点と「対ソ戦略」の論点は別である。むしろ「対ソ・覇権」の論点を強調すると、「戦争を早く終わらせたかった」という「善意」の論点にヒビが入ってしまうから、擁護派としては避けたいはずだろう。いったいどういう「承知」の仕方をしてるやら。

 では逆にキューマっちは原爆擁護派なのではなく、アメリカの覇権主義を批判しているんだ、というわけだろうか?
 もちろん違う。彼の中ではアメリカの覇権以上にソ連の覇権が問題なのである。でなかったら、ソ連の対日参戦はアメリカの覇権を警戒するがゆえ、という「対米」戦略の「事情」を少しは考慮してくれてもよさそうなもんだ。
 だがそれは無理というものだろう。キューマっちがソ連を忌み憎む理念の強靭さは、それを避けるためなら広島・長崎の数十万人が、アメリカの原爆の劫火に焼かれることも「しょうがない」と思えるほどなのだから。

 この思考は、おそらく理屈以前のものに違いない。
 ウィリアム・ブルムは、かつての「東西」対立であろうと最近の「南北」対立であろうと、アメリカは自国の資本主義モデルに対抗する競争相手を叩き潰すことに政策の原点を置いていることを、「冷戦連続体」という言葉で表現している(『アメリカの国家犯罪全書』益岡賢・訳/作品社)。そこには少なくとも自国による覇権を、世界秩序の安定(無論、自国富裕層の利益を優先した)と結びつけるためのロジックがある。
 キューマっちの「対ソ」原爆=しょうがない式の思考は、そういうものとはまた少し違う。戦前・戦中からの「アカ憎し」「アカは怖い」の気分を、冷戦の時代を通じて保存してきたのが、ソ連の崩壊にともなって行き場がなくなった。そこから、一つに中国や北朝鮮の脅威に振り分ける方向、もう一つに理屈など最早どうでもいい、感覚的な「国体護持」で突っ走りたいという方向が、「保守層」と呼ばれる人達の間で同時に勢いづいてしまった感がある。キューマっちの発言は、後者の感覚が核抑止論ゾンビと結びついたところからくるもので、彼が世界のリアリティから取り残された、いわば魂の冷戦連続体に属する人間であることを露呈している。
 閣僚のそんな本性があらわになることはしかし、日本という国家があってこそ日本人は守られるという幻想を打ち砕くのに貢献している。そういう意味で、米下院での法案可決と並ぶ、グッド・ニュースだった。イエイ。


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