没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

どうせ人生は活動写真

2008年10月30日 23時21分05秒 | 日記
 作家、井上 尚登さんの名作に「T.R.Y」という小説がある。時は戦前、革命の機運高まる上海を舞台に、革命蜂起のための武器を確保するため、一点の隙すらない旧帝国陸軍の参謀次長、東正信中将を相手どり、希代の詐欺師、伊沢修が頭脳戦を仕掛けるという血沸き肉踊る壮大な物語だ。日本、中国、韓国と、世界をまたに駆けたこの国際小説は、2002年には映画化される。主役の伊沢は織田祐二、ライバル東中将は渡辺謙が演じた。

渡辺謙といえば、『ラスト・サムライ』の「勝元盛次」や『硫黄島からの手紙』の「栗林忠道中将」役とシビアな演技で定評があるが、「T.R.Y」で演じた東中将も圧倒なまでの重圧感を持っていた。だが、最後のどんでん返しで伊沢に騙されるときの表情が、これまた素晴らしい。目の前で人が死んでも眉ひとつ動かさないであろうはずの冷徹無比な中将が、みっともないまでにアングリと口を開け、ペテンにかかったことを悔しがる。この凄まじい表情の落差から、詐欺の成功がより一層際立つのだ。この演技ひとつで映画は原作を超えたと言っていい。
 実は、渡辺謙は、出世作「独眼流正宗」を皮切りに二枚目役ばかりを演じてきたのだが、白血病を契機に、40代からそれまでのイメージにはなかったダメ男役も積極的に演じるようになる。テレビ時代劇『御家人斬九郎』の松平斬九郎がその代表だ。岸田今日子演じるグルメな母君のとどめを知らぬ美食と散財。膨大な借金は、御家人の安月給ではとても補填できない。残九郎はしぶしぶ「片手技」と称する副業に手を出さざるを得ないのだが、この悲哀は、副業を生かすライフスタイルとか森長卓郎氏の薄給サラリーマン向けの処世術にも相通ずるところがあって、笑える。そして、こうした演技の蓄積があったればこそ、この東中将のコミカルな一瞬も演じきれたと思うのだ。

さて、本題。いささか前置きが長くなったが、「T.R.Y」と並ぶ井上 尚登さんの代表作に「C.H.E. 」という作品もある。
まず、のっけからいきなり登場するのがフィデル・カストロだ。そう、タイトルの「C.H.E. 」とは、あのチェ・ゲバラのことなのだ。時は、ソ連崩壊後の90年代の経済危機の最中。国民の意志を鼓舞するため、ゲバラの遺骨発見作戦をフィデルが仕掛けるという妙なまでにリアルな社会状況から出発する。だが、この小説はあくまでもフィクションだ。舞台となるのは、南米の架空の小国リベルタ。シルビオ・ロドリゲスを想起させるリベルタの人気歌手「シルビオ」も登場し、
「さあ、いこう君が愛する緑のカイマンへ」
という歌詞がチェがフィデルに寄せたメッセージであることがわかり、どうやらチェがこの小説の中心テーマでありそうなことを匂わせていくあたりの筆は、見事としか言いようがない。
チェそのものは死んでいる。だが、謎の頭蓋骨をめぐって、偶然か必然か、誰しもが何らかのゲバラと関係しているらしい登場人物が次々と登場する。旅行会社に勤める日本人。元革命家らしい謎の老女。そして、リベルタ警察軍の執拗な攻撃。インディ・ジョーンズの「レイダース」よろしく、ひたすら争奪戦が繰り広げられる謎の「しゃれこうべ」は果たしてチェのものなのか。祖国か死か。圧倒的なまでのノンストップ・エンターテインメント。
冒頭で厳格な歴史的事実を設定した後は、自由奔放に登場人物が動き回る舞台設定は、どこか山田風太郎の忍者小説を思わせる活劇ぶりだ。そして、最後は、再びフィデルのゲバラへの想いを込めた独白で静かに幕を閉じるのだが、興奮はさめやらない。読後感の爽快感はたまらない。さて、この「C.H.E. 」は映画化できるのだろうか。

さらに、話題をかえる。実は、ずっと読みたいと思っていて、アマゾンに注文していた筒井康隆氏の『美藝公』の古本がやっと来た。『美藝公』とは、筒井康隆氏が書いたSF小説だ。いや、果たしてこれがSF小説といえるものか。
舞台は戦後の仮想日本。しかし、敗戦後に日本が歩んだ道は、なぜか、高度成長・大量消費社会ではなかった。だから、いまだに先進国にもなれず、中進国にとどまっている。だが、餓死者が出るほどの開発途上国ではない。

では、日本はなんで食っているのかというと、映画立国なのだ。だから、その国家目標は、経済成長でも金稼ぎでもなく、ただひたすら良い映画、なんとなれば、よりよき芸術を生み出すことを至上命題としている。だから、一番難しいのは芸術大学だし、総理以上の権限を持ち、国民から圧倒的支持を得ているのは、最高の銀幕の映画スター、『美藝公』なのだ。
おまけに、この社会は平等ではない。
「社会的階級はなくなりゃしないね。社会的階級は役割、職業は役割と考えてそれを楽しむことがどうしてできないのかな。どうせ人生は活動写真なのに、ほとんど全員が自分の役割に不満を持っていては、いい映画は作れない」

みながそれぞれの役割をまっとうする階級社会。筒井が描く世界には、夢を諦める美徳、幸福をむさぼらない品性、分際と節度を守る禁欲がある。実は、この本の存在は、浅羽通明さんの「昭和30年代主義~もう成長しない日本」という本の中で知った。

つまり、経済成長を目標としない日本のもうひとつの可能性としては、筒井が描いたように芸術と文化を至上目的とした国家があるとすれば、これは、ジョン・ラスキンの文化経済学にもあい通じるものがある。そして、経済成長を至上目標とせず、社会福祉と教育と医療に最も力を入れ、そして、何よりも音楽とダンスと映画に興じている国ともどこか似ている。そして、筒井の『美藝公』の中で、炭鉱で事故があれば、美藝公自らが現場で炭鉱夫を救うのと同じく、ハリケーンがあれば、首相自らが真っ先に現場に駆けつけるのもどこか似ている。そう、この国は、最も演説がうまく大衆をわかせることができる最大の「役者」が半世紀にわたって独裁をしている。

さて、私はフィデル本人は聖人でも君子でもなければ、その本性は、かなり権力欲の強い、アクの強い人間だと思っている。革命前には、ニューヨークすら出かけている。だが、革命後は、あくまでも「理想としての君主」を演じきることを強いられた。それも中途半端な演じ方ではない。ほぼ半世紀にあたり、首相という芸を演じ抜いている。
そして、ヨーロッパにはギリシア以来、芸を演じぬくことから、人間に人間になれるという発想がある。パーソナリティという言葉自体が、仮面を意味するペルソナから来ているのだ。


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