没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

崩壊論(1)

2012年01月10日 00時48分18秒 | 日記


国家とは人類史上異形の存在である

 タインター教授は、「複雑な社会の崩壊」という著作の第2章で、次のように抜本的な問いを私たちに投げかけます。

「複雑な現代社会で暮らす私たちは、自分たちが歴史的に見れば、例外的な社会に生きていることをわかっていない。人類は数百万年にわたり、小さな自立したコミュニティで暮らし、自給自足していた。ロバート・カルネイロによれば人類史の99.8%はこうした自給地域コミュニティであった。ヒエラルキー的に組織化された国家という異常なものが出現したのは、たかだか過去6000年以内にすぎない」

 タインター教授は、私たちがノーマルなものとして考える国家を歴史的に見れば「異形にすぎない」と言ってのけます。

 人類史のほぼ100%を占めるシンプル社会には、絶大な権力をふるう皇帝も官僚もいませんでした。酋長がいたとしても、その権力は安定したものではありませんでした。もちろん、政治的野望を抱く個人は出現します。ネーティブ・メラネシア人たちは、彼らを「ビック・マン」と呼びます。ですが、こうした社会はビックマンの権力が永続しないシステムがビルトインされていました。例えば、ビッグマンがコミュニティ内で名声を得て、信奉者や追随者を得るには、ビックマンは気前良くふるまうことが必要でした。ところが、多くの人にふるまえばふるまうほど、一人当たりの分け前は減ってしまい勢力拡大ができないのです。


国家は個人の野望によって誕生した

 では、こうした社会の中からなぜ複雑な国家が出現したのか。ずっと小さな集団が、過去一千年で巨大な国家に取ってかわったのかとタインター教授は問いかけます。

 タインター教授は、無数にある国家の起源論も、大きく見れば、紛争理論と統合理論にまとめられる、と述べています。

 紛争理論とは、各個人や集団の欲望から国家が出現したと考える考え方です。

 エンゲルスが代表的ですが、野望を抱く個人の欲望によって社会の中に経済格差が生じると社会内に矛盾が発生します。この問題をクリアーし、人民を搾取して特権階級の既得権益を温存するための弾圧システムとして開発されたのが国家だというのです。


人間の本性を追求した究極の『野望』と至高の『野望』

 
 少し硬くなったので、話が飛びます。野望という点を追求した意味では、雁屋哲氏原作の『野望の王国』という異常なバイオレンスマンガを抜きにして語ることはできません。副主人公とも言うべき柿崎憲氏は、東大卒。東大法学部を首席で卒業後、国家公務員上級試験をパスし、警察庁に入ったキャリア官僚ですが「この世を支配するのは暴力だっ!暴力が全てだっ!」と語り、安田講堂の前では、「あの安田講堂は東大のシムボルだ!明治以来百年も続く立身出世主義のシムボルだ!」という名セリフを残しています。

 雁屋哲氏と言えば、グルメマンガ『美味しんぼ』の原作者として知られソフトなイメージがありますが、ユーモア精神を身に付けたのは、『風の戦士ダン』で、マンガを担当した島本和彦氏が原作を無視して、熱き男のロマンをギャクにしてしまい、その面白さを雁屋氏が発見したからでした。とはいえ、そのシリアス過激な本領は健在なようで、オーストラリア在住でありながら、同氏のウェブサイトも、フクシマ原発にこだわっていて、「今日もまた」というブログでは、鋭い見解を読むことができます。

 さて、話を戻します。

 とはいえ、タインター教授は、野望理論には論理的に無理があると批判しています。

 紛争理論では、社会内の少数者が野望を抱くことが国家出現の理由となっているのですが、野望は普遍的な人間の傾向だとし、なぜ特定の個人が野望を抱くようになるのかが明確に述べられていません。

「もし、野望が普遍的な人間の特性であるならば、なぜ採集狩猟民たちは、余剰や階級闘争、国家を産み出さなかったのだろうか。採集狩猟民でさえ余剰生産を行なう可能性はある。だが、たいがいそれは実現されていない。知られる限り、原始的国家が形成された事例は、メソポタミア、エジプト、中国、インダス、メキシコ、ペルーと6事例だけしかない。もし、野望が国家に結びつくのであれば、なぜ、原始的国家は、人類史において、たかだか6回しか出現しなかったのだろうか。人類は、いかにして、国家なき状態でその歴史の約99%を生き残ってきたのであろうか。なぜ、更新世には国家は出現しなかったのであろうか」

 野望理論と国家を考える鍵はまさに少数民族、原住民にあったのです。

国家は人々の福祉のために誕生した

 各個人や集団の野心からではなく、社会的ニーズから国家が発生したと考えるのが、統合理論です。厳しい環境内で人々の集団が生き伸びるためには、団結の力を持って社会的に役立つ公共事業を行なうことが必要です。ある集団が厳しいストレスの下におかれたり、人口が増えれば、ヒエラルキー的な組織を作ることで問題を解決する必要が生じるかもしれません。例えば、ウィットフォーゲルは、灌漑事業の必要性から、ライトとジョンソンは、情報処理の必要性から、ラスジェは、外部との交易の管理や輸入物品の処理の必要性から国家が誕生したと考えました。こうして誕生した社会には、社会的地位の高い統治者がいます。ですが、それは、集団化というメリットを達成するために、最低限負担しなければならないコストなのです。

 統合理論では、紛争理論の矛盾を避けられます。

 ですが、タインター教授は「この見解もあきらかに簡素化され過ぎている。底抜けな楽天家たちの見解とは違い、弾圧政治、権威主義、搾取的な政権は、歴史的に明白な事実だ」と釘をさしています。

国家崩壊とモラル崩壊とには因果関係はない

 そして、タインター教授は、経済的に成功した特権階級が階級闘争問題を回避するために発展するのであれ、全人民の福祉社会の実現のために統治機構が発生したのであれ、「国家が問題解決型の組織である」ということには違いはない。その国家目的は違うとはいえ、問題解決という手段のために存在するという意味では、国家は同じ種類の機関といえる。そして、私たちがいま日々なじんでいる国家という社会も、歴史的にみれば、ノーマルなものではなく、絶えず「正統化」という補強作業を必要としている」と指摘しています。

 「正統化」とは、宗教的権威であれ、ある種のマインド・コントロールであれ、「この国家を維持するために支えなければならない」と国民が納得できる論理です。

 では、紛争理論の言う国家と総合理論の言う国家を隔てるものはなんなのでしょうか。私は、「パブリック」「公」の精神であると考えます。したがって、紛争理論と統合理論の考え方は、このように言い変えられるかもしれません。

「人民のために電力会社があるのではない。電力料金を徴収するために人民はいるのだ」

「電力会社のために国民がいるのではない。国民に電力を供給するために電力会社はあるのだ」

 革命前のキューバはまさに前者のような状況にありました。そして、電力会社は米国の電力会社の子会社でしたから、儲けた利益はキューバ人に還元されることはありませんでした。ですから、「国民に電力を供給するために電力会社はあるのだ」という論理を貫徹させるために、カストロが電力会社を国営化したとき、多くのキューバ人はその論理を支持したのでした。

 では、電力会社と国家とがグルになり、明らかに正統性がない状況になっていたがために、カストロをリーダーとする人民が武装蜂起し、モラルハザードに陥っていたバチスタ政権という国家は崩壊してしまったのでしょうか。
 
 タインター教授の本には、キューバは一切登場しませんが、もし、でてきたとしても

「それは違う」

 といってのけることでしょう。とかく、革新派左翼であればあるほど、人民搾取や正統性の喪失というあたりの表現に魅かれがちですが、教授は革命なぞ、めったに起こることがない、とマルクス主義的な発想を頭から否定しているからです。

 また、皇帝や高級官僚や大地主たちのモラルが腐敗することは歴史の常であって、「モラルと政治生命との間には、明瞭な因果関係はない。ローマの美徳の衰退がローマの拡大を妨害したことは明らかではなく、美徳の存在がその後に蛮族を寄せつけなかったわけでもない」と述べ、モラル崩壊に国家崩壊を起因させる説を否定しています。

 とかく、保守派右翼であればあるほど、ローマの美徳の喪失というあたりの表現に魅かれがちです。ですが、教授によれば、国家は、たかが構成員や指導者のモラル喪失程度では、崩壊しなさそうなものなのです(続)。


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