谷戸坂を登って「港の見える丘公園」を過ぎると、左手にこんなスパニッシュな邸宅が現れる。 私が子供のころ住んでいた家と言いたいところであるが、これは、大正15(1926)年にラフィン氏の住宅として建てられたもの。 根岸森林公園にある旧競馬場の一等馬見所、べーリック・ホール、横浜山手聖公会などを手がけたJ.H.モーガンの設計だ。 ラフィン氏がこれを手放したあとは所有者が代わったそうだが、平成8(1996)年、横浜市が敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存。 その後、改修工事をおこない平成11(1999)年から一般公開している。 玄関を入ったところにある広間。 こんなところで立食パーティーをやったら、さぞや素晴らしいことだろうと思う。 2階の回廊にはいくつかのバンドを入れて、ジャズ、室内楽、フラメンコなどを演奏してもらうといいかな。 使いやすそうなキッチン。 ここで何を作るか…。 想像しただけでも楽しくなってくる♪ 流しからはローズガーデンが丸見えだ。 これなら洗い物も苦にならない。 ダイニングルーム。 照明器具、暖炉、家具…すべてが素敵だ♪ 館内に掲示されている「山手111番館」に関するインフォメーション。 それによると、この建物は大正15(1926)年にアメリカ人ラフィンの住宅として現在地に建てられたとある。 現在はこのように正しく書かれているが、10数年前、間違った情報が掲載されているのではないかと施設管理者に疑問を投げかけたことがある。 当時は「イギリス人両替商T.M.ラフィンの~」と表示されていたのだ。 これがおかしいと思ったのは、建物の正面図を眺めていたときだった。 図面の右下に、こんなサインが書いてあったの。 RESIDENCE FOR Mr.J.E.RAFFIN J.E.ラフィンのための住宅だよね。 果たして最初に住んでいたのは誰なのか、何をしていた人なのか? J.E.Laffinとは? T.M.Laffinとの関係は? ラフィン氏をめぐる疑問がわき上がってきた。 そこで私は開港資料館に行って、『ジャパン・ディレクトリー』という明治から昭和にかけて横浜に住んだ外国人の住所録を総めくりしてみた。 T.M.Laffin、(Tohmas Melvin Laffin)が初めて登場するのは明治18(1885)年。住所は居留地42番、今のホテル・コンチネンタル横浜のあたりだ。職業は両替商とある。 以後、10数年間、同じ記載が続くのだが、明治44(1911)年の住所録で初めて、事務所のほかに120- Bluffというのが出てくる。現在の山手町120番で、韓国領事館の斜め向かい側にあたる。 多くの外国人と同様、最初は関内の居留地に建てられた商館に住んでいたのだが、やがて手狭になり山手の居留地に住居を構えたのであろう。(現在120番地は空き地となっているが、何年か前の住宅地図では「ラフィン」と表記されていた)。 その後、船具・食糧商を経て、T.M.Laffin & Co.という会社に成長している。事務所も山下町42番から隣の50番に移転した。 一方、J.E.Laffinの名が初めて『ディレクトリー』に登場するのは明治41(1908)年で、そのときの住所はT.M.Laffinと同じ42番となっている。それから数年後には、事務所の所在地のほかに120-Bluffという住所も現れる。 ここはT.M.Laffin夫妻の居所だ。 また、J.E.Laffinの職業をみると、大正11(1922)年から「Pacific Stevodoring & Landing Co.(荷役会社)」というのが出てくる。 この荷役会社は最初、山下町42番にあったのだが、1927年(昭和2年)には50番へ移転している。T.M.Laffinの事務所が42番から50番へ移るのと同時期に、同じ場所へ動いているのだ。 この年以降、J.E.Laffinの自宅は山手町111番となっている。山手111番館が建築されたのが1926年(大正15年=昭和元年)だから、まさに、このJ.E.Laffinが111番館の住人だったのだ。 さらに1926年のディレクトリーには、次ぎのような記載があった。 Pacific Stevodoring & Landing Co. Laffin & Son-J.E.Laffin,Manager J.E.Laffinは〈T.M.Laffinの息子〉だったのである。 ディレクトリーには、他にもラフィン姓の人々が現れる。Mary、Tom Jr.、Ethel、Eleanor、Myrtle、W.A.、Mildredだ。彼らの住所も、ことごとく42番または120-Bluffとなっている。住所録だけでは、彼らの関係は不明であるが、おそらく全員がT.M.Laffinの子どもたちだったに違いない。 その後、インターネット上でLaffin一族の記録を見つけた。 アメリカのWeb Sight「Ancestry.com(家系)」だ。自分の先祖探しをするためのホームページで、その掲示板に、概略、次のような情報が載っていたのである。 T.M.Laffinは1862年(文久2年)9月12日、カナダ南東部のノヴァ=スコティアで生まれた。1925年(大正14年)、アメリカの市民権を獲得。 1931年(昭和6年)、横浜で亡くなり、山手の外国人墓地に埋葬された。 また、T.M.Laffinの妻 Miyoは日本人で、旧姓石井といった。二人の間には8人の子どもがいた。 ①Mary(1888-1978) ②John Edward(1890-1971) ③Ethel(1893-1965) ④Tohmas Melvin Jr. (1893-1985) ⑤Eleanor(1897-1944) ⑥Myrtle(1899-2001) ⑦William Alfred(1902-1944) ⑧Mildred(1906-1996) 2番目の子どもJohn Edward、この人こそが、山手111番館の住人J.E.Laffinであった。 彼は大正12(1923)年頃、シベリア生まれのMaria Lvanovaと結婚した。その後、太平洋戦争が始まる昭和16年(1941)頃、妻マリアを日本に置いたままアメリカへ向けて出国したようだが、その辺の事情はハッキリしない。 妻の方は昭和28年に離日したことが記録されている。 「Ancestry.com(家系)」によれば、J.E.Laffin夫妻はカリフォルニア州グラナダヒルズで亡くなって、Forest Lawn Memorial Park内の墓地に埋葬されているそうだ。 ということで、111番館の住人・ラフィンについては、国籍が間違っていただけではなく、人物そのものにも誤りがあったのである。 この西洋館について記載しているホームページは相当数あり、そのほとんどで、「イギリス人両替商」、「アメリカ人両替商」、あるいは単に「両替商」のT.M.ラフィンの住宅と紹介している。 たとえば、「関根要太郎研究室@はこだて」とか、「All About」とか、横浜市健康福祉局のホームページなんかも、間違ったままなのである。 とくに横浜市のホームページなんかは一刻も早く修正されることが望まれる。 最近、私は『横浜外国人墓地に眠る人々』(斉藤多喜夫著)、『敵国人抑留 戦時下の外国民間人』(小宮まゆみ著)、『わたしの横浜』(横浜学連絡会議編集)を読んで、さらにいろいろなことを教えてもらった。 『横浜外国人墓地に眠る人々』の中で、斉藤氏は『ヨット茶のみ話』という本を引用して、こんなことを書いている。 T.M.ラフィンは大型帆船の船員として日本に航行中、暴風雨にあって難破し、横浜にたどり着いたあと「米国で習得した造艇および製帆技術により在留外国人ヨットの指導的中心」になったという。 来日は1885年で、同年8月コリア―商会に入社した。コリア―の死後、エクスチェンジ・マーケットを継承する。1908年には横浜ヨット・クラブの会長に就任している。その所有するメアリー号は「ラフィンの誇りであり、かつ横浜の誇りでもあった」と。 さらに『ヨット茶のみ話』を引用して、こう続けている。 ラフィンは1906年、横浜冷蔵製氷会社を設立した。同社は1919年、加藤重利らの経営に移り、ジャパン冷蔵製氷株式会社となった。ラフィンはまた1925年に炭酸の製造会社を設立し、その製品は「ラフィン炭酸」の名で知られた。1931年に死去し、ミヨ夫人とともに6区で永眠している。 「小ラフィン」こと長男のジョンもヨットの製法に長じていた。ジョンがモーガンに設計を依頼し、1926年、山手111番地に建てた邸宅は、1996年、横浜市に寄贈された。 『敵国人抑留 戦時下の外国民間人』(小宮まゆみ著)を読むと、こんなことが書かれていた。 昭和14年(1939)、第2次世界大戦が勃発。昭和15年(1940)10月、米英は自国民の極東引揚げを勧告、昭和16年(1941)7月までにイギリス人132名、アメリカ人118名が横浜港から旅客船で引き揚げて行った。 7月25日、アメリカは在米日本資産を凍結。イギリス、オランダもそれに倣った。これに対抗して、日本も資産凍結冷を公布し、米英蘭などとの貿易を停止した。この資産凍結と貿易停止は横浜の貿易・金融・製造などに携わる外国人を直撃した。 当時60社あるといわれた横浜所在外国商社も、まもなく日本事務所を閉鎖し、全面撤退するしかなかった。 昭和16年(1941)10月、日米間の戦争は避けがたい状況になってきた。この時点で日米間の協議により、両国民の引揚げのため、三隻の引揚げ船がアメリカに向けて出港することになった。龍田丸がサンフランシスコへ、氷川丸がシアトルへ、大洋丸がハワイへ向け、いずれも10月中に最後の引揚げ外国人を乗せて横浜港を出航していった。 前に、「ジョン・ラフィンは昭和16年(1941)頃、妻マリアを日本に置いたままアメリカへ向けて出国した」と書いたが、彼はこの引揚げ船に乗ってアメリカへ向かったのであった。 こうして隆盛を誇った横浜の外国人社会は崩壊し、神奈川県に残留する英米蘭などいわゆる「敵性外国人」は、日米開戦直前の11月末には300名程度に減少していた。 長年日本に住み、生活基盤を日本に持つ外国人のなかには、帰国を望まない人も多かった。 残留した外国人は外国系企業の社員や貿易商、そしてミッションスクールの教師や宣教師であった。 昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争に突入。この日、日本に在住のアメリカ人、イギリス人のすべてが、自らの意志と関わりなく、従来の「敵性外国人」から、完全な「敵国人」となってしまったのである。 12月8日の開戦とともに、東京・横浜・大阪・神戸・長崎などで、いっせいに米・英・カナダなど敵国となった国の大使館と領事館が警察と憲兵隊によって封鎖され、電話線も切断された。公館員やその家族は、大使館や領事館、または領事自宅などに軟禁された。 同時に警察と憲兵隊によってスパイ容疑ありとされた外国人の、一斉検挙が行われた。そして8日から9日にかけて、敵国の国籍を持つ一般外国人の抑留が始まった。 抑留された342名の外国人は、基本的にはその居住する都道府県内に抑留された。27都道府県で34か所の抑留所が設置された。 都道府県別にみると、抑留者が最も多かったのは横浜港を持つ神奈川県で、2か所の抑留所を設置し、93名を抑留した。 神奈川は第1抑留所として横浜競馬場(簑沢)、第2抑留所として横浜ヨットクラブ(新山下3-7)が使われた。 競馬場のスタンドは1930年にアメリカ人建築家J・H・モーガンの設計で完成した、東洋一といわれる立派なものだった。抑留所にされた建物は平屋建ての洋館で、競馬シーズンの騎手控室として建設されたものだった。 ここに抑留されたアメリカ人の中にW・A・ラフィン(フォード社員)がいた。 先の「Ancestry.com(家系)」に出てくる三男のウィリアム・ラフィンだ。 昭和17年(1942)6月、日米の外交官や民間人の交換のために、日米双方から航海の安全を保障する「日米交換船」が出航することになった。 交換船には、日本郵船の豪華客船浅間丸とイタリアからの傭船コンテベルデ号が用いられ、浅間丸に乗船する136名(アメリカ他の公館員と家族)がホテルニューグランドに集合し乗船を待った。 さらに、国内各地に抑留・検挙・自宅軟禁などのかたちで残留していた外国民間人152名が6月初旬に横浜に集合し、バンドホテルで浅間丸への乗船の日を待っていた。 昭和17年(1942)6月25日、浅間丸は横浜港を出航。7月22日、日米両国の交換船はポルトガル領ロレンソ・マルケスに到着し、翌日、約1500名の外交官と民間人を交換した。 フォードの部長だったウィリアム・ラフィンは神奈川第1抑留所(横浜競馬場)に抑留されていたが、この交換船で帰国した(のちにアメリカ兵として戦死している)。 兄のトーマス・ラフィン・ジュニアは開戦時に憲兵隊に検挙されひどい虐待を受けたが、この交換船で強制送還された。 こうしてラフィン家の男子は全員、横浜を離れて行ったわけである。一方、5人の娘たちはどうなったのだろうか。 昭和18年(1943)12月、横浜在住の外国人に対し、新たな抑留拡大が行われた。すでに居住中の外国人については、許可出願をすれば居住が許されていたものが、改正によって、現に居住中の外国人も全員地域外に退去させることになったのである。 このうち敵国人は監視のために集団居住をさせる方針がとられ、移転先は厚木市七沢温泉が指定された。 すでに敵国民間人のうち、壮年男子と高齢者や女性を含む教師・宣教師・修道女・保母は抑留の対象となっており、自宅に残っているのは無職の老人か、家庭婦人か、子どもである。 ラフィン家の長女メアリー・ラフィンは、戦争中は母親ミヨ(日本人)、妹ミルドレッドとともに、箱根の別荘に暮らしていた。そして、娘の一人エレノアだけが山手120番のラフィン家の地所に居住を続けて、1943年12月、七沢に抑留されたのである。 昭和19年(1944)8月以降のある日、エレノアは七沢の抑留所から歯医者に行くと許可をもらって出たまま帰らなかった。通常ではない車線を選び、駅から飛び込み自殺をしたのである(中西道子「エリスマン邸に住んでいた人々」)。 『敵国人抑留 戦時下の外国民間人』を読んで分かったのは、ここまでなのだが、次に小宮氏が引用している本、中西道子「エリスマン邸に住んでいた人々」というのが気になってきて調べてみたら、これは『わたしの横浜』(横浜学連絡会議編集)のなかで中西氏が書いている一項だった。 それによると…… 現在、山手公園の中に移築されているエリスマン邸はもともと山手町127番にあり、建築主エリスマンはスイス商館シーベル・ヘグナー社の支店長で、妻が日本人だったため、洋館左手には夫人のために日本家屋も付いていた。大正14年から15年にかけて建築されているから、111番館とほぼ同じころの建物だ。 エリスマン夫妻はここに十年余り住んでいたという。 この日本家屋で生涯を送るのはトーマス・メルヴィン・ラフィン夫人(ミヨ)で、洋館最後の女主人は長女のメアリーとなる。(中略) 戦後、ミヨ夫人は泰然と「エリスマン邸」の日本家屋で余生を送った。洋館はメアリー・ラフィンと夫君モーティマー・クック氏の居宅となり、白い正門に「Cooke」の表札が見られた。 最後の住人メアリー夫人は犬好きで知られ、わざわざ邸内に捨てていかれた大勢の犬たちと暮らした。末妹ミルドレッド(オク)と二人の長身で優雅な姉妹の散歩姿はよく見かけられた。 メアリー夫人の死後「エリスマン邸」は取り壊される。ミルドレッド(オク)は晩年、コンチネンタル・ホテルに住んだが山下町50番のこの地こそ、T・Mラフィン商会のあった処である。 山手111番館とエリスマン邸。 今まで別々の無関係な洋館だと思っていたのだが、両館にこんなつながりがあったとは初めて知った。 先日、111番館に行った際、少し足を延ばして山手町120番地を見学してきた。 門柱の表札には「RAFFIN」の名前が。 大きな門だ。 隙間からは広大な敷地が見える。 門から玄関に至る通路。 まるで道路のようだ。 なにやら工事が行われている。 宅地開発だ。 2906.67㎡!! 戸建が14棟も建つんだぜ!! 1棟あたりの敷地面積は170㎡~200㎡!!! こんな広い敷地にラフィン邸は建っていたんだね。 凄いなぁ…… さて、山手町120番地を訪ねた翌日のことだが、ホテル・ニューグランドでちょっとした会合があった。 ここでは、知人が所属する団体の定例会が毎週行われており、私はその席に呼ばれた。 嬉しいことに、会議の前に食事が用意されていて、そこで出てきたのがホテルの名物と言われている“これ”だった。 ナポリタンではないよ。 チャプスイだ! ニューグランドで食事をしたことなんて、数えるほどしかないので、チャプスイなんて初めてのこと。 中華街の料理店で食べるチャプスイは盛り切りだが、この日いただいたのは食べ放題♪ テーブルの上にあらかじめ置かれたライスの上に、フロアスタッフが“五目あん”をかけて回るというスタイルだった。お代わりが必要ならスタッフが“五目あん”を追加でかけてくれるのね。 これは、会議のランチだったからなのかもしれないが…… 上品で美味しかったのは言うまでもない。 穏やかな味わいで、何かが突出しているという感じは全くない。 ごちそうさまでした。 今日は長い記事になってしまったが、さらに追い打ちをかけるようにコチラもリンクしておくので、時間のある方は読んでね。 いその爺さんが書いているチャプスイの話 安藤さんのチャプスイ ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
それはともかく、ネット上の横浜の近代史的な記述には、安易なコピペが蔓延り過ぎなような気がします。
Wikiの高島埠頭の記述なんか、ウチのブログを勝手にコピペしてつなぎ合わせた代物で、さらに私が「~のようです」と推測とわかるように書いた部分が「~だ」に変えられていたりして、「こうやって間違った話が広まるんだな」と実感させられています。
『ジャパン・ディレク111番まで調べたなんて凄いです。
次回山手を散策する時には、きっと今までと違う想いを持ち111番、エリスマン邸を眺める事になると思います。ありがとうございます。
横浜観光の集客のため歴史を絡める市サイドには、もう少し真剣な姿勢を見せて欲しいと思います。
ニューグランドのチャプスイ、召し上がったのですね。
じつに羨ましいです。。。。どうもアウェイ感に苛まれ足が遠退いています。(笑
日本家屋に、ラフィン氏の日本人妻、みよさんが
くらしてらしたのですねえ。
あまり記録として残っていない日本人妻達の
ことは、わからないだけに興味が尽きません。
『敵国人抑留 戦時下の外国民間人』は昨日
届きましたので、さっそく週明けあたりから
読み始めようと思っています。
そして、おお、懐かしい!ニューグランドの「ちゃぷすい」。おいしかったですよ、ほんとに。
前の大戦についての勉強になります。
週刊横濱80'sは毎週、楽しみにしています。
すごい写真資料であると同時に記事も素晴らしいです。
私もそういうところを参考にしたと思っています。
ありがとうございました。
たしかにHPで、真剣な姿勢を見せてしいですね。
歴史物はすべて資料館の専門家などに丸投げ?
素人だってもう少し、ひねって取り扱えるのに・・・なんて思っちゃいます。
読み始めたでしょうか。
バンドホテルの部分なんかを、もう少し詳しく知りたいですね。
チャプスイ、美味しかったです♪
これは謎です。
気長に調べていくはずです、いその爺さんが。
「オールアバウト横浜」で誤った情報を流しっぱなしでお恥ずかしい限りです……。
「えの木てい」のくだりも修正しなくてはならないのですが、
とりいそぎ、「両替商を営んでいたイギリス人」を修正します。
ご指摘いただき、ありがとうございます。
拝見しました。
ありがとうございます。
でも、本当のところラフィンさんがどこの国の人だったのか、
正確なことは言えないのかもしれませんね。
T・Mラフィンはカナダ生まれで、のちにアメリカの市民権を得ています。
その子供のJ・Eはたぶん日本生まれ。
その国籍は…人種は…と考えると私の頭では分からなくなります…