中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

季刊誌『横濱』休刊(1)

2022年05月23日 | レトロ探偵団

 毎回たのしみにしていた季刊誌『横濱』が休刊するという。横浜市のホームページを見ると、こんな風に書かれている。

季刊誌「横濱」休刊のお知らせ
 2003(平成15)年6月の創刊以来、皆様にご支援いただいてきた『季刊誌「横濱」』ですが、2022(令和4)年4月の第76号をもって休刊させていただくことになりました。横浜のさまざまな魅⼒を発信し、横浜の⽂化・歴史・⾃然などをアーカイブとして記録・保存していくことを⽬的として年4回発行してきましたが、雑誌市場の縮小や発行経費の上昇、創刊から19年間に渡る発行により一定の役割を終えたと判断し、今回の決定に至りました。
 これまで多大なるご支援、ご協力をいただきました皆様に、心より厚くお礼申し上げます。


 アンダーラインは私が付けたのだが、なんか変じゃない? ふつうは「一定の役割を終えた」ので終わりにする、だと思うのだが。休刊ということは再開があるのだろうか。だとすると一定の役割以外に何かあれば続けるのか。
 なんだか紛らわしい書き方になっているが、横浜市としては多分これで終わりにするつもりなんだろうね。

 地方から出てきて横浜で青春時代を過ごし、その後は故郷に帰っていった同級生が何人かいるけど、彼らはこの雑誌を楽しみにしている。
 若い頃は遊びに夢中で、横浜のことなんか知らないという仲間が多かった(自分もその中の一人だが)。そんな人たちが今、『横濱』を読んで横浜の良さに改めて気づいたりしているのだ。
 巻末についているアンケートはがきに、「廃刊するな」と書いて投函したという。もちろん私も出した。どれだけのアンケートが集まっているのか不明だが、その結果を公表してほしいと思う。

 ということで、今日は横浜市が刊行していた広報雑誌について調べなおしてみたい。

 横浜最初の市長選挙は昭和22年(1947)4月5日に実施され、社会党の石河京市が当選した。これが初代の公選市長である。
 石河市長は横浜市の物理的な復興だけではなく、文化の復興に取り組もうとしていた。そのため民生局文化課の中に横浜市文化政策委員会を立ち上げ、昭和23年6月に『月刊よこはま』という雑誌を創刊した。私が初めて見たのは昭和25年3月号からである。それは本物ではなく内田四方蔵さんが編集した『甦る横浜 月刊「よこはま」再見』という復刻版に載っていた。


 月刊『よこはま』は昭和23年6月に創刊号が発行された。それを内田四方蔵さんが一部復刻してまとめたのが本書である。
 その巻頭で内田さんは、石河市長がこの月刊『よこはま』を発刊したときの「ことば」を引用している。

 愛するわたくしたちの横浜を廣く紹介するために、月刊『よこはま』をおくりだす。私はこの雑誌を通じて、市役所と市民との親和をいよいよ深めていきたい。市役所が、横浜市会がどのような仕事をしているのか、どんな企画を進めているのかも知っていただきたい。
 けれども、この雑誌は単なる市政宣伝を目的としていない。あらゆる角度から横浜を検討するとともに、また面白い読み物であり、市民の文化を高めるために紙面を開放してゆきたい。


 この本では昭和25年3月から9月にかけて発行された各区特集号を復刻掲載している。


 昭和25年3月号は磯子区の特集だ。


 区内最高納税者のプロフィールなんかが掲載されている。長谷一郎氏。鉄工所の社長だそうだ。今じゃぁ考えられない記事だな。


 4月号は西区特集。表紙に描かれた鳥居は伊勢山皇大神宮で、その向こうに見えるのは横浜港だ。


 ここでも、柳下誠次氏という最高納税者を紹介している。柳工業株式会社の社長だ。誰が書いているのかは不明だが、「よいしょ感」が漂う記事である。


 南区を特集した5月号。表紙の絵は横浜国立大学工学部の校舎かな。


 現地ルポとして横浜刑務所を取り上げている。
 ここは戸部の牢屋敷から始まり、開港後の根岸監獄を経て、関東大震後に笹下に移転して横浜刑務所となった。


 本文中で描かれている刑務所の朝めし。季刊誌『横濱』ならカラー写真なのだろうが、昭和25年だからモノクロのイラストで仕方ないよね。


 三春園孤児収容所。昭和25年ならではの施設の紹介記事だ。
 ……終戦既に5年、いまだ戦災孤児の名は消えない。自分の家で、そして両親のもとで育つことのできない可哀想なこれら孤児たちは、どんな生活をしているのだろうか……
 ということで、市職員が施設を訪問している。


 6月号は中区特集だ。表紙の絵は横浜港の貨物船。現代ならば豪華客船なんだろうが、この時代はこういう船がたくさん入出港していたからね。


 スケッチを添えて中区の名所を紹介しているページ。絵をかいていたのは難波香久三氏。
 下段には区役所の組織が書いてある。当時は課の数も少なかったことが分かる。また地区事務所なんていうのもあったのだ。出先の出張所みたいなものかな。


 繁華街の様子を伝える記事の下には弘報委員のお名前が。
 さて、ここでいう弘報委員とは何なのか、委員というからには委員会があるのか、どういう組織なのか知りたくなるが、この『月刊よこはま』だけでは分からない。

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 こんな時に頼りになるのが『横浜弘報』だ。今でいうところの「広報よこはま全市版」かな。画像は昭和24年3月に発行された創刊号である。

←クリック
 その2ページ目に石河市長が巻頭のことばを寄せている。

 行政の民主化を徹底させるために――
 弘報委員会をつくりましょう

 その本文の中で「行政について知りたいと思うことをよく知り、希望や意見をどしどし出すことができるような組織を、市民自らの手によって、つくることが一番身近な、そして一番よい方法だと考へます。その組織が、ここでいう弘報委員會であります」と言っている。

 さて、話は昭和23年(1948)に創刊された『月刊よこはま』であるが、昭和25年9月号(金沢区特集)を最後に終刊になったらしい。結局、保土ヶ谷区、港北区、鶴見区は登場することなく終わってしまったという。
 焼け野原だった戦後の横浜における「一定の役割を終えた」からなのかどうかは分からない。

 石河さんは昭和22年(1947)4月9日から昭和26年(1951)4月4日まで市長を務めた。その後も立候補をし続け、昭和26年4月23日実施の第2回市長選挙では平沼亮三さんに、昭和30年4月23日実施の第3回市長選挙でも同じく平沼亮三さんに敗れてしまったが、それでもあきらめない。4年後の昭和34年4月23日実施実施の第4回市長選挙にも立候補したが半井清さんに敗れて引退。

 『月刊よこはま』が廃刊になったのは、市長の交代と関係があるのか、あるいは「一定の役割を終えた」からなのかは分からない。

 ということで、季刊誌『横濱』の休刊という情報から、これまで横浜市が発行してきた広報雑誌がどういう変遷をしてきたのか、これから少しづつ書き綴っていきたい。
(つづく)


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2 コメント

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Unknown (てつあん)
2022-05-24 09:05:12
雑誌の場合は雑誌コードの関係で、廃刊ではなくて休刊にしちゃうみたいです。
ほとんどの場合が、復活しないでそのままみたいですが~

やはり、費用対効果なのでしょう。
いまどきの若い人は、本になっているものをわざわざ手に取らないみたいです。
返信する
そうですか (管理人)
2022-05-24 09:39:32
>てつあんさん
「雑誌の場合は雑誌コードの関係で、廃刊ではなくて休刊」なんですね。
初めて知りました。
ありがとうございます。
廃刊で決まりですね。
返信する

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