
北仲通にできた水際線プロムナードのことを前回の記事で書いたが、今日はその水際線周辺の昔の姿を掲載しておきたいと思う。 冒頭の地図は昭和30年代のもので、当時は第三管区海上保安本部や横浜地方海難審判所などがこの地域にあった。 大岡川河口の護岸そばの建物は、海上保安庁の官舎だ。 海に関する様々な発祥の地だったので、再開発されるまではいろいろな碑が建っていた。 今日はそれらをご覧いただこうかね。 ![]() 灯台局発祥の地。 木製でずいぶんと簡易な碑だった。設置は昭和56年(1981)。 ![]() 前回の記事にも書いたように、明治7年(1874)、「洋式試験灯台」の完成時には明治天皇、皇后両陛下の行幸啓があった。 それを記念して昭和30年(1955)11月、勝宮元氏により大きな行啓碑が設置・寄贈された。 ちなみに、この勝宮元さんは横浜エレベーターの創業者で、戦後、アメリカより日本全国のGHQ施設のエレベーターの復旧工事と性能検査を受託することにより事業を発展させた人である。 ![]() 行幸碑が設置されたとき、灯台をこの場所に復元して点灯式を行ったそうだ。 ここを再開発するときに、記念碑を抜いてしまったようだが、いったいどこに持って行ったのだろうか。 このエリアの再開発が終わったら行幸碑は戻ってくるのかな。 『都市の記憶』(横浜市歴史的資産調査会編)によると、ここは「灯台および灯台機器類の製作のみならず、鉄の橋の部材加工も行われたところであり、日本近代エンジニアリング発祥の地にふさわしい」場所なのだ。 ![]() 先ほどの昭和30年代の地図を拡大してみた。 ちゃんと記念碑マークが記載されているでしょ。 ![]() 明治2年(1869 )、この場所と神奈川裁判所(今の県庁)との間で、我が国初の電信試験が行われた。 それを記念して敷地内に「電信初試験の地記念碑」が建てられていたのだが、20年ほど前には既に失われていた。 ほかに旧灯台管理所の門柱も残っていたはずなのだが… ![]() 灯台補給船「若草」の錨。 灯台設備の消耗品の補充や、点検修理、灯台守への生活物資の補給などを行っていた船を灯台補給船という。 「若草」は昭和31年(1956)から62年(1987)までの31年間、全国各地の灯台に生活物資を届けていた。そのため「海のサンタクロース」と呼ばれていたという。 その功績を後世に伝えるため、昭和52年(1977)、第3管区海上保安本部玄関前に錨が設置されたのだが、北仲通再開発のため現在は野島崎灯台に移設されている。 以上のモノたちは、旧運輸省の敷地内にあったのだが、次にご覧いただくのは昔の海岸線である。 ![]() 1970年代に撮影した護岸。そのそばに建っているのが官舎。 右奥に見えているのは弁天橋だ。橋名の由来はもちろん洲干弁天にちなむ。 ![]() 赤で示した護岸である。 ![]() 旧灯台局時代の石積みだ。 ![]() 1992年ごろの風景。 ![]() こんな砂浜があったのだ。 ![]() この角地だ。(昭和30年代の地図) ![]() 先月撮影した同じ場所の風景。 ![]() 1992年頃の撮影。 護岸の先の小さな突堤にこんな小屋があった。 ![]() この部分だ。 明治2年築造の小突堤らしかったのだが… 今回の再開発で撤去されてしまい、復元されていない。 ![]() 『開港見聞誌』に描かれたこの場所。 文久2年(1862)の状況である。 ![]() 「御開港横浜之全図」。万延元年(1860)。 ![]() 「御開港横浜之図」。文久3年(1863)。 ![]() 『開港見聞誌』に描かれた洲干弁天とオランダコンシュル。 なんとなく昔のままの風景が現代に残っているような気がする… ![]() さて、その弁天様の名残…… ではない。 ![]() 帝蚕倉庫事務所横の茂みの中にあった「帝蚕稲荷」である。 ![]() 再開発が始まるずっと前に消えてしまった。 いったい何処へ… 天皇の行幸碑といい、お稲荷さんといい、こういうものを簡単に撤去してしまっていいのかなぁ… ![]() 昭和6年に行われた帝蚕稲荷鎮座祭。(『帝産倉庫35年史』より) 最後に、生糸に関する鉄道の遺構を掲載しておこうかな。 ![]() これを撮影した1992年当時、貨物線の線路は廃線になっていたが、外した枕木がその辺に転がっていた。 生糸検査所が現役の頃は、この貨物線が活躍したのだろうね。 この鉄橋が大岡川橋梁であり、現在の港第3橋梁として汽車道に転用されているのだ。 ![]() 運輸省官舎の敷地内に残っていた枕木の跡。 当時の枕木を残しておいて、シルク博物館で展示するとか、あるいは何かに転用するとかすれば良かったのになぁ…と、今になって思っている。 ![]() |
現代と写真との此の変化の差に
追いつけそうもないです。
街の変化は早いです。
毎日どこかが変わっていきますね。
とくにこの一帯は・・・
洲干弁天、よそへうつさなければ、古横浜の面影を
残す景勝の地となっていたでしょうね。
みなとみらいとの対比も鮮やかで、横浜の歴史を
鮮やかに浮かび上がらせることが出来ます。
残念です。
あの場所が現在、こんな風に出来上がってきたのを見ると、
鎮守の森 が欲しくなります。
再現したらいいのになぁ。
帝蚕稲荷は大黒ふ頭に移っていたんですね。
情報、ありがとうございます。
今度この辺りを散策しようと思います。
拙ブログへのご訪問ありがとうございます。
現在の北仲通りは大きく様変わりしています。
むかしの名残が発見できればいいですね。