ミャンマーのサッカー選手が日本での試合後、帰国を拒み難民申請をするというニュースが流れてきたのは6月17日だった。その選手は5月の日本戦で、ミャンマー国軍への抵抗の意思を示す「3本指」を掲げていたという。そんな行為をしたことから、帰国すれば国軍から危害を加えられる恐れを感じたのだろう。帰国しようと思えばできるのに、あえて母国へ帰らないという道を選んだのだった。 その後、難民認定申請をして、先日Jリーグ3部の「Y.S.C.C.横浜」に練習生として加入することが決まったそうだ。 このニュースを聞いていて、40年ほど前に知ったある軍人のことを思い出した。太平洋戦争が終わったあともビルマ(現ミャンマー)に残り情報収集や諜報活動を続けていた津島正吉という将校のことだ。 当時、日本酒が大好きだった私は、趣味の雑誌「酒」(編集長:佐々木久子)を毎月購読していた。この月刊誌の中で「酒徒列伝」を連載していた小堺昭三が、数奇な運命をたどった人物を紹介していて、その17回目に取り上げられたのが津島正吉だった。 彼は小野田寛郎さんのように残置諜者としてジャングルの中で生き延びていたのだが、小野田さんと決定的に違うのは、発見されたあともビルマの密林の中に消えていってしまったことだ。 津島正吉とは、どんな人物だったのか、小堺昭三の書いた連載記事から簡単にまとめてみようと思う。 酒徒列伝・その17・津島正吉 還らざる密偵 海軍軍令部に所属する津島中尉は昭和13年の夏、海軍の山下三郎大将から直々の電話をもらい、ある任務を命じられた。 「今晩、わしは赤坂の料亭で呑んでおる。その座敷に君が乱入してきて、思い切りわしをぶん殴れ」というのだった。 当時、中国の海岸は日本海軍が封鎖していた。蒋介石は米英からの援助物資をインドからビルマ経由で輸送してもらうしかない。その米英といずれ雌雄を決することになる。 そこで、援蒋ルートの調査と、ビルマで米英と衝突した場合のために現地の状況を把握しておきたい、というのが山下大将の考えであった。 しかし、当時は軍人を南方諸国へスパイとして潜入させることは許されなかったので、津島中尉が上官に暴行を働き官位を剝奪され、民間人となって極秘のうちにビルマに渡り諜報活動をしてほしい、任務中の費用は出す、家族の面倒も見る、帰国後は2階級特進させる…そんな提案であった。 上官の命令には背けない。彼は仕方なく山下大将に暴行を働くことを了承した。当時、津島中尉は31歳で、退役少将の娘である妻(27歳)と子供が一人いた。 その夜、打合せどおり、山下大将が芸者をあげて吞んでいる赤坂の料亭に津島中尉が乱入。 「国賊めっ! この非常時になんたることか!」 「なにっ!軍令部大将と知ってのことか!」 「天誅だ!」 そんなあらかじめ決められていたセリフでやりあったあと、津島中尉は山下大将の頭を2,3発殴った。ついでに芸者にも一発お見舞いした。お銚子や小皿も割れて現場は大混乱だ。山下大将に追われた津島はそのまま料亭を飛び出し東京憲兵隊へ出頭した。 津島はその日から10日間拘留され軍法会議にかけられた。結審は予想通り官位剥奪、即日追放であった。 その足で自宅に帰ると、妻は子供と一緒に実家に帰っていた。そうと知った津島は妻の実家に向かったが、退役少将の義父が日本刀を持って立ちはだかっていた。しかし、あれは敵味方を欺くための芝居だったとは言えない。そのまま引き返すしかなかった。 その後の津島は元同僚に借金したり、先輩に酒をねだったりして、人生の敗残者を演じていた。 そして1年後、彼はタイのバンコックへやって来た。そこで山下大将の指示どおり佃という歯医師を訪ねる。彼は元衛生兵で医者をやるかたわら諜報活動をしている人物だった。 ここで津島はビルマの最新情報を入手。ビルマ鉄道の北の終点ミイトキナから雲南省の昆明に至る滇緬公路 (てんめんこうろ)が貫通したことを知った。いわゆる援蒋ビルマルートである。 佃から金と情報を得た津島はこのあと、インドシナ山脈を越える間道を造るためチェンマイへ向かうことになった。持ち物は猟銃2挺、磁石、地図、ナイフ、キャンプ用具などだ。 出発する前夜、二人は川に船を浮かべ宴を張り呑み交わした。 「半年経って戻ってこられなかったら、私は死んだと思ってください」と、津島は厳しい任務に対する決意を語っていたが、酒が回ってきた頃、佃医師は彼に、こう言った。 「山下大将からの連絡ですが、奥様が再婚されたそうです」 これを聞いた津島は愕然とし老酒をあおり続けた。 気がついたのは翌朝。娼窟のベッドの上だった。妻の再婚を聴かされ、しこたま吞んでここに転がり込んだのだ。 ベッドの下を見ると若い女が正座していた。まるで侍女のように。 よく見ると彼女は「盲妹」とよばれる中国人の盲目娼婦だった。彼女らは先天的な盲人ではない。娼窟に売られた貧しい娘たちで、その瞳孔を針で潰し珍しい娼婦に仕立て上げられていたのである。 津島が外に出ると彼女もついてきた。「もう用はない。帰れ」といっても離れない。 「私は買われたのですから、あなたが旦那様です」 そう言われて津島は思った。一人で行動するより夫婦に見せかけた方が怪しまれない。彼女の名前は紅花といった。これは佃が用意したことだった。盲目の女ならば津島が何をしているのか知られる恐れはない。 ここから二人の奇妙な旅が始まった。ときは昭和14年11月、2頭のロバにキャンプ用具と食料を積んで、チェンマイから北北西の密林に向かう。 二人は黒ヒョウや毒蛇、山ヒルなどに襲われながら密林の中を踏査していった。磁石と腕時計で方角と距離を測り、地図に書き込む。目印となる樹木には「二」の字を刻んだ。 インドシナ山脈の一つの峠に着いたのは昭和15年の正月だった。眼下にサルウィン湖が見える。広がる樹海の先にマンダレーの町があった。 マンダレーからはイラワジ川(エーヤワディー川)に沿ってミイトキナ(現在の場所は不明)へ行き、さらに雲南省の謄越まで達した。 謄越で敵情を探索したあと、再びミイトキナへ戻り、今度はフーコン高原を横断し西へ向かった。盲目の紅花は津島に背負われ乞食夫婦のようだったという。 この頃には佃医師と約束した半年が過ぎていた。もう津島は残念ながら死んだと山下大将に報告されているはずだ。 それでも津島と紅花は先に進んだ。ビルマとインドの国境にあるパトカイ山脈は峻険な密林地帯である。標高3,000メートル、人跡未踏、歩兵の進軍しかできない。 そんな山脈を越えて彼はインパールを目指したのである。山中で無数の山ヒルに襲われながら二人はやっとの思いでインパールに到着した。 昭和15年春、米英軍はインド・ビルマ国境のレドよりパトカイ山脈を越え、さらにミイトキナ経由で雲南省の謄越に達し、滇緬公路 (てんめんこうろ)に接続させる計画に着手していた。これが「レド公路」である。 米英軍は大量の工事従事者を集めていた。津島はその人足になりすまし、紅花は洗濯女になった。ビルマ人、中国人、カレン族など様々な人種からなる人足は、デング熱やマラリヤで続々と倒れていった。英国の支配に抵抗するビルマ独立運動のゲリラや飢えたヒョウに襲われる者も続出。二人は昭和16年10月、そんな過酷な現場から脱出しマンダレーまで戻ってきた。 そのころの日本は近衛文麿内閣が総辞職し、東条英機陸軍大将が新内閣を組織していた。開戦が近いことを悟った津島は、一刻も早く帰国しなければと思った。これで紅花を偽の妻にしておくこともない。 それと察した彼女は「私にはもう用はないんでございましょ。無事に帰国できますように」と、津島の任務を知っていたかのように言った。 「これから、お前はどうするんだ」 津島の質問に紅花はこう答えた。 「盲人ではマンダレーの娼窟に身売りしなければ食べていけません。旦那様、最後にたった一つだけのお願いがあります。私を太々(妻)と呼んでくださいませ。私は最高に幸せでした」 津島が自分には日本で待っている妻がいることを説明すると、紅花は「時不再来」と言って彼から去っていった。 彼女と別れた津島はシャン高原を走り、サルウィン川を泳いで渡った。途中、果物で飢えをしのぎ、自分が造ったインドシナ山脈の間道をたどりチェンマイ、バンコクへと下りてきた。 そこで佃医師と会いボロボロになった地図と報告書を差し出したが、祖国では東條内閣に替わり山下大将も退役したことを知る。 佃は申し訳なさそうに言った。 「津島さんからの連絡がなかったので、あなたは密林で事故死したものと思われるという報告をしていたのです」 昭和14年11月に紅花と一緒に出発してから、もう2年も経っていた。あの日と同じように流れているメナム川を眺めていた津島は、佃が日本大使館へ電話している間に、そっと夜の町に消えていった。 それから1か月後、真珠湾攻撃が始まった。同時刻、山下奉文中将の第25軍がマレー半島に上陸。しかし津島は戻ってこない。 その後、飯田祥次郎中将が率いる第15軍がバンコクに集結。佃の手を通して飯田司令官に渡っていた「津島の地図と報告書」が役立ち、第15軍はビルマ攻略を開始。例の間道を利用したことは言うまでもない。 5月1日にマンダレーを占領すると、飯田司令官は佃の依頼により津島の捜索を始めた。間もなく情報将校が津島らしい人物を見たという娼窟のおやじ(中国人)を探し出すことができた。 「盲人の女が独りぼっちだから買ってくれと言って身売りしてきた。名前を紅花といった。それから20日と経たぬうちに、ヒゲ面のたくましい男が訪ねてきた。その女をいきなり見受けしたいと言う。二人はとても親しそうで、男は彼女の手をひいてシャン高原の密林の中に消えていった」 その後も第15軍は快進撃を続け、ビルマ独立運動の指導者らを支援し、新政府を樹立させた。 だが、それから1年後、インパール作戦の敗北をきっかけに、「勝利への道」は「地獄への道」へと一転した。 盲妹の紅花とジャングルに入った津島は、この地獄をどこかで見ていたはずだ。 ルバング島の小野田少尉は昭和49年に帰国を果たしたが、紅花と一緒に密林へ消えていった津島はそんなニュースも知らずにミャンマーで一生を終えたのか。 生きていれば116歳だ。可能性はゼロではない。 戦後、元日本兵らしい男が子供を連れて密林の中を歩いているのを見たという報告もあった。もしかしたら、その子は生存しているかもしれない。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
小堺昭三の書いた本はお勧めです。