寿町の中にある「さなぎの食堂」で300円のランチを食べてきました。 これは日替わり定食。アジの干物、キャベツの千切り、切り干し大根、ワカメの味噌汁、漬物、ご飯というラインナップです。300円という値段にしては大満足のランチでした。 店内は学生食堂のようなテーブルが並んでいます。すべてが相席です。壁際にはカウンターも。ただし、こちらにはイスがありません。つまり、立ち食いコーナーというわけです。蕎麦の立ち食いは見慣れていますが、アジの干物定食を立って食べている若いサラリーマンを見たときは、新鮮な感動をおぼえたものです。 「さなぎの食堂」外観 300円定食のメニュー さて、寿町といえば山谷、釜ヶ崎と並ぶ日本の三大ドヤ街のひとつ。簡易宿泊所が集積した街です。この宿泊所(ヤド)をひっくり返して呼んだのがドヤで、ジャズをズージャ、ピアノをヤノピ、森田をタモリと言い換えるのと同じでしょうか。 そういえば“風太郎(プータロー)”という造語も横浜発の逆さ言葉から生じたとか。かつての横浜港には港湾荷役の労働者、いわゆる沖仲士が大勢いました。この人夫(ニンプ)を逆さにするとプーニンとなります。ここから風人(プーニン)、風太郎(プータロウ)と変化していったといわれています。 最近は別な意味で使われたりしていますが、本来はこういった意味だったわけです。 話が突然変わって恐縮ですが、朝鮮戦争(1950年)のころ、桜木町駅周辺には職安と柳橋寄場があり、軍需輸送の基地と化した横浜港の荷役労働を求めて、全国から労働者が集まって来ました。その人たちどこから来たのでしょうか。 沖の船に向かう港湾労働者たち(1956年岩波写真文庫より) わが国の産業の基礎となるエネルギーは石炭に頼っていましたが、50年代に入ると“石炭から石油へ”と、大幅なエネルギー転換が行なわれるようになり、その結果、仕事にあぶれた炭鉱労働者が都市にたくさん流入してきました。 同じころ、農業界でも機械化が進み、人手が余ってきました。農家の次男、三男は都市に移り住み、仕事を探すことになります。 港湾労働者の多くは、このような人々によって構成されていたのです。そんな彼らが宿泊する施設として、大岡川には“はしけ”を改造した“水上ホテル”もできました。 群馬県水上(みなかみ)温泉のホテルじゃありませんよ。“すいじょう”ホテルです。 そんな水上ホテルのひとつ(元開進丸)が1952年1月、極寒のなかで横転・転覆し多数の犠牲者を出すという事件が起きました。 この日の気温はマイナス4度。あまりの寒さに、普段は野宿をしている港湾労働者たちが水上ホテルに殺到し、定員の2倍近くの宿泊者がいたのが原因でした。 船倉で働く労働者 「岩波写真文庫1956」より 物を売りに来る船 「岩波写真文庫1956」より また、この年の4月には、国電の客車が桜木町駅手前で炎上し、100人を超す犠牲者を出すという事故もありました。いわゆる桜木町事件です。 横浜における50年代は、なんとも悲惨な幕開けとなりました。 話が横道にそれてしまいました。 桜木町周辺は、港湾労働者や日雇い労働者で賑わっていたのですが、1957年に職安が桜木町から寿町に移転すると、労働者も桜木町や野毛から寿町へ移っていきます。そして、この地域に彼らのための簡易宿泊所が次々と建てられていったのです。 しかし、港湾業界にも近代化の波がやって来ます。コンテナ時代の到来です。これによって大幅に省力化され、荷役の仕事はなくなっていきます。 これを救ったのがビルや道路・橋の建設でした。 それまで港湾を支えてきた日雇い労働者たちが、今度は丘に上がり建設現場で働くようになったのです。 しかし、これもいつまでも続くわけではありません。ビル建設や公共事業が減ってくると、真っ先に切り捨てられたのが彼らでした。あとは“あぶれ手当”や“福祉”ということになっていきます。 そこで「生活保護の町」とか「福祉の町」などと呼ばれることになるわけですが、ここに最近、新しい流れが出てきました。 ドヤに空室が目立つようになってきたというのです。高齢化した町は新たな人口の流入がない限り衰退していきます。町内に百数十軒あるといわれている簡易宿泊所はどうなっていくのでしょうか。 このような局面を迎え、寿地区の再生を図るプロジェクトが立ち上がりました。簡易宿泊所にツーリストを誘致する「横浜ホステルビレッジ」です。 このプロジェクトを推進するのがFunnybee(ファニービー)という会社。NPO法人「さなぎ達」の理事も務める谷津倉智子さんが社長で、資金的な側面からNPO法人を支援しています。 詳しくは「横浜経済新聞」2005年8月5日の記事をご覧ください。 なかなか泊まりに行くことができませんが、先日、そのヤドを見学してきました。どこか昔のユースホステルのようで懐かしい気分に浸ることができました。 提携先の林会館入口 林会館の内部。両側に個室が並ぶ。 共同の炊事場。電子レンジもある。 共同の洗濯場。乾燥機も付いている。 個室内。さすがに狭いがクーラー付きだ。 コイン式のシャワーもある。 外国人宿泊者を意識した展示。 屋上は憩いの場。 こちらは林会館の向かい側にあるホステルビレッジのフロント。奥に見えているのはパソコン。この日は宿泊している外国人グループが次々とインターネットをやりに来ていました。 石川町駅北口を降りて根岸線のガード下を右に行くと横浜中華街。左へ行くと寿町です。観光客がここで道を間違えて、中華街へ行くつもりが寿町へいってしまう光景をよくみかけますが、これからは中華街と寿町を一体的に利用することも考えていいのではないでしょうか。 中華街で遊んだあとは、寿町に宿泊し、翌日は「さなぎの食堂」でブランチを食べるなんてのが、JTBのお薦めコースになります。 【参考】 ●横浜ホステルビレッジのホームページ ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
最近横浜コンベンションから入って、毎日楽しみに読ませていただいています。
横浜在住ですが仕事場が東京なので、中華街へは2ヶ月に1度くらいしか行かれません(笑)毎日行かれたら、お得なランチも食べられるのに...ざんね~ん。
今日は寿町の昔と今を知ることができて、たいへん勉強になりました。ありがとうございました。
寿町の食堂も、この間TVでやってました。
そこにはイスがあったと思ったので(記憶では…)、「さなぎの食堂」ではないと思いますが、高齢になった寿町の住人が食事をするためにやって来て、食堂のおばちゃん達と話しをするのが唯一社会との接点だとか…。
賞味期限(消費期限)? ギリギリの食材を仕入れて300円でやり繰りしているそうです。結構大変そうでした。
行ってみたいと思ってましたが、寿町の食堂は一軒だけではないのでしょうか?
長者町近くのほうには、昔風の小さな飲み屋街もあります。入ったことはありませんが…。
食材はローソンからの提供もあります。販売期限と消費期限に時間差があって、使用しているのは、この販売期限が過ぎたもので消費期限が切れていないものだそうです。
米とか野菜などの寄贈もあるとか。
ごぶさたしております!さなぎの食堂や寿の歴史、ホステルビレッジのご紹介など、とても詳しい解説をありがとうございました。
いろいろな角度から、ジワジワ新しい人に、寿の町の存在を知っていただけることが、私達には何よりうれしく思います。
3月27日(火)22時~「ガイアの夜明け」でも、さなぎの食堂が一部とりあげられる予定です。よろしかったらご覧になってくださいませ。
寿の町は、まだまだ変化していきますよ。どうぞ、細く長く見守ってくださいますように。
またお会いしましょう!
27日は仕事を早く切り上げて、テレビの前に座って待ちます。