2012年3月1日 ボランティア活動5日目。 今日も遠野から釜石線に乗って被災地に向かう。 余震の不安を抱えながら、1時間ほど列車の旅をする。 沿線はほとんどが山の中であるが、たまに集落が現れる。 こういった所にも小さな仮設住宅が建てられているそうだ。 市街地にある仮設住宅団地の集会所に行くと、テーブルの上にこんな新聞が置いてあった。 名古屋の大学生がエアコンフィルターの掃除をしていったという記事だ。 この日、最初に訪ねたのは70代の単身女性。恰幅の良い彼…ではなく、おばあさんだ。 いたって元気なのだが、問題は足が悪いこと。ひざを曲げることができないらしい。 そのため困っているのが、狭いお風呂での入浴だという。 「湯船に入れないから、椅子に座ってシャワーを浴びるだけなの」と厳しい入浴状況を語る。真冬は寒いだろうなぁ……と思うが、私にできることは、こんな状態であることを見守りスタッフに伝えることくらいだ。 午前中は3人訪問しただけで終了。この日は皆さん、上がって話を聴いて行って、というので1軒が長くなってしまった。 昼食は近所の焼肉屋で。 岩手の牛肉なのかどうか分からないが、なかなか美味しいランチであった。 食後にはアイスクリームもついてきた。 牛乳がいいからだろうか、これも美味しい! 焼肉屋でしばらく休んだあと、午後は再び安否確認と傾聴に。 途中立ち寄った集会所の掲示板。 この仮設住宅は最初期にできた団地なので、緊急度の高い方々が入居している。そのため、被災者の元の居住地はバラバラだ。ある地域の方々がまとまって移転してきていれば、それなりに昔のコミュニティを継続していくことができるのだが、ここのように、あちこちから入居してきている仮設住宅だと知り合いもいないし、なかなか近所づきあいもできず、とくに男性の場合は部屋に引きこもりがちになるという。 そんな中でも、なんとか情報を交換し、つながりを持とうとしている人々もいる。 昔の職場の仲間が、15年ぶりに仮設住宅で出会ったんだね。こんなこともあるんだなぁ……。 辛く厳しい生活だが、なんだか明るい光が差し込んだような気持ち。 掲示板を眺めたあとは安否確認の再開だ。続いて訪問したのは70代単身女性。 隣の仮設に息子と孫も住んでいるが、本人は単身者用の部屋に。息子の嫁は流されてしまった。もともと足が悪かったのだが、仮設に入ってからは、ほとんど外に出ていないという。 玄関口での聞き取りでは寒いだろうから、上がっていきなさいと勧められる。コタツに入って最近の状態などを聴いているうちに、話は3月11日のことに。 以前住んでいたところは海の近くだった。あの日、地震のあと津波が来るということで避難するよう指示があったが、ちゃんと歩けないためオロオロしていたら、高校生の孫が自分を背負って近くの神社まで運んでくれた。 神社は小高い丘の上にあって、150段くらいの階段を登らなければならない。ここが避難所に指定されていたわけではないが、孫の咄嗟の判断で連れてきてもらったのだった。 社殿の中に入れられたあと、孫は「まだ隣の婆ちゃんが残っているから助けに行く…」と言って引き返していってしまった。隣の婆様は90歳。一人では避難できないからだ。 それからの時間が長く感じられた。津波が押し寄せて来ているし、孫は戻ってこないし……。 何分後だったのか、何十分後だったのか分からないが、孫が隣のお婆さんを背負って階段を登ってきた。助かったのだ。 神社は指定された避難場所ではないので、防災用品も食糧も何もなかった。ここに逃げてきた人たちはみんな着の身着のまま。寒くて、寒くて、凍えるほどだった。 それからどれだけ時間が経ったか分からないが、救援の人たちがやって来て、ちゃんとした避難場所に移動することができた。 あとから聞いた話では、あの神社以外の方面に逃げた人たちの中には、津波に飲み込まれてしまった人も多かったそうだ。 お婆さんから見せていただいた新聞。 まず湾口の防波堤の復旧が先決だという。今は壊れてしまっているので、こんど大きな余震が起きて津波が発生したら、一気に海水が流れ込んでくるのを心配していた。 このあと6,7軒ほど訪問して、この日の活動は終了。 再び釜石線に乗るため最寄駅へ向かう。 寂れた状態で佇む小佐野小学校の旧校舎。新しい校舎と仮設住宅団地が、この裏側に建設されている。 6時過ぎ、遠野に帰着。 さっそく居酒屋で晩飯だ。今日は50代のボランティアおばさんと一緒なので、なかなか酒量があがらない……。 まずは「新里豆腐店」の寄せ豆富。やっぱり旨いわ~ モツの和え物。 和風パスタ風の麺。 牛肉の串焼き。 自家製赤カブの漬物。 メンチ。 濁り酒。 どれも美味しい! この日がボランティア活動の最終日だった。ということは、遠野でのグルメツアーも終わりなのね。 まぁいいや、また次回と思っていたら、なんと、遠野の金太郎ハウスがこの3月9日で閉鎖されてしまったのだった。 今度行くときは仮設住宅の集会所を借りて寝泊まりするかなぁ…。 ここが仮設の集会所。 中央は仮設住宅見守りスタッフのHさん。両サイドの女性は釜石市社会福祉協議会の生活支援相談員。 震災後、このエリア内には二つの仮設住宅団地ができ、地域の人口は一気に1,000人ほど増加した。そこで市役所は、仮設住宅の住民を見守るスタッフとして嘱託員を採用している。 Hさんは60代半ば。地元の建設会社で働いてきた方だ。会社員時代の前半は技術屋として、後半は営業マンとして定年までやってきた。 会社を辞めたあと、次は何をやろうかと思い巡らしながら、悠々とした生活をしていたところに、あの大震災だ。幸いなことに自宅はほとんど被害がなかったという。 そんなとき、市役所が仮設住宅見守りスタッフを募集していることを知り、即応募。 自分の車を持ち込んで毎日、二つの仮設住宅を回って声かけをしている。その合間にも、荷物の運搬とか大工仕事など、さまざまな肉体労働が入ってくる。 ボランティア活動の最終日、「実は腰が悪くてコルセットをしているんだ」とHさんが打ち明けてくれた。一緒に行動している間は、そんなことには一言も触れなかったのに。何もかも失って身体一つで避難してきた高齢者のため、今日も痛い腰をかばいながら仮設住宅を巡回しているはずだ。 (さらに続く) |
できることをやりましょう! と、言うのは易きけれど実際に実行できるのは素晴らしいことです。
忘れないこと、続けることを肝に銘じることにいたします。
これで活動を終えましたが、
このあとさらに北上したのです。
そのことは、また後日。
ない様々なものがあるんですね。
酔華さんはとても貴重な体験をされたのだと思います。そ
れを伝えていただき僅かですが自分も考えさせられました
。ありがとうございます。
もっと早くお伝えしなければならなかったのですが、
こんな遅くなってしまい、
現地スタッフの方に申し訳ないです。