3月18日(金)、作家の山崎洋子さんが朝日新聞の連載「Legend of Yokohama」に旧横浜刑務所のことを書いておられた。明治32年にできた、いわゆる“根岸の監獄”のことだ。 記事にもあるように、関東大震災当時の典獄(刑務所長)、椎名通蔵は24時間以内に帰還するようにという条件を付けて1,000人を超す囚人を市中へ解き放った。 その後、正確な人数は不明だが、かなり多くの者が戻ってきたという。それは、普段から刑務所を管理運営する所長の考え方が看守や囚人に行き渡っていたからなのではないだろうか。 彼は「刑の目的は応報でなく、教育による犯罪者の更生」という考えに立ち、囚人たちからも信頼を得ていたという。 『磯子の史話』によると、彼らは焼け残りの材料で仮収容所をつくり、さらに町の焼け跡の整理にも精を出して働いたので、住民にたいへん喜ばれたそうだ。 この刑務所がうまく機能していたのは、初代典獄である有馬四郎助の力によるところが大きいのかもしれない。刑務所は罰を加えることよりも、犯罪者を更生させることの方が重要であるという信念を彼は持っていた。 初代のこういう考え方が、歴代の所長に受け継がれていったのではないだろうか。 関東大震災のとき、有馬四郎助は小菅刑務所の所長だった。囚人が逃亡するのではないかと思った軍隊が刑務所にやって来たが、有馬は「囚人と自分の間には信頼関係があるから銃など無用である」と言って引き取らせたそうだ。結果は、一人の脱走者も出さなかったといわれている。 話は明治時代に遡るが、有馬四郎助は刑務所で働くかたわら、非行少年や出所者の自立を支援するため、明治39年に幼年保護会を立ち上げている。この会は現在、社会福祉法人となり、丸山町で保護施設「甲突寮」も運営しているが、それは有馬ゆかりの地にある。 ところで、旧横浜刑務所は“根岸の監獄”とも呼ばれていたのだが、その所在地を見ると根岸とは思えないような場所にあったことが分かる。(下にある明治時代の地図を参照してね) 地図の中央を流れているのが堀割川で、それに面する四角いエリアが刑務所だ。根岸という地区は堀割川の東側(地図の右側)にあたる。 西側は滝頭や丸山なのだが、なぜかそこにあった刑務所を“根岸の監獄”と言っていた。 なぜだか分かりますか。 河川が村の境界線になることはよくあることで、この地域でも江戸時代までは八幡川(堀割川の前身)を挟んで根岸村と滝頭村に分かれていた。 ただ、当時の川は今のようにほぼ直線の形ではなく、かなり蛇行していたという。そのため村の境界線もあちこちに屈曲していたのである。 明治時代の地図に描かれた村境を示す2点破線に色を付けてみた。 こんな感じで根岸村と滝頭村が分かれていたことが分かる。明治7年に堀割川が開削されてこのエリアが大きく二分されたのだが、なぜか村境は以前のまま残された。そのためお互いに大きな川を挟んで飛び地のような部分ができてしまい、施設の名称が妙なことになってしまったのである。 八幡橋の河口にある滝頭八幡神社も同じ運命となった。ここは滝頭村の鎮守なのだが、堀割川で現代の地区を分けてしまった結果、滝頭八幡の所在地は磯子区原町(根岸地区連合町内会)のエリア内ということに。 したがって、HPにもあるように原町は根岸地区でありながら滝頭八幡神社の氏子となっているのだ。 一方で、根岸八幡神社というのもある。場所はすぐ近くの磯子区西町。この二つの神社のことを書きだすと、ややこしくてキリがなくなるので今日はここまでにしておこうかな。 最後に、根岸周辺のおすすめランチをご紹介しよう。 駅近くにある「キッチン まつ」。 老夫婦が二人でやっている昭和の雰囲気漂う小さな食堂だ。 こんなメニューが外壁に貼ってあるよ。 そして本日のランチ。 エビフライ定食が650円♪ エビが2本、目玉焼き、それにキャベツのサラダ。 感動的なのはここのお新香。エビフライより美味しいわ♪ 根岸方面へ行ったらキッチン まつでランチを食べることをお勧めします。タジマもいいけどね。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
四角い街区のあたりです。
根岸、滝頭、丸山あたりは、「キッチンまつ」の他にもいい店が多いですね。
根岸に刑務所があったとは知りませんでした!
地図から見ると、滝頭のバス倉庫あたりでしょうか?
キッチンまつ、ハムエッグ定食を食べた事があります、
おしんこは記憶に無いのでその時は出なかった鴨・・・
こうゆう定食屋さん、続けて欲しいですね。