2012年2月29日 ボランティア4日目の朝。 遠野市が用意した災害支援バスが来ていた。この宿泊所からボランティアを被災地へ運んでくれるのだ。 私は列車での移動なので、まずは散歩がてら朝食を食べに遠野市街地へ向かった。 遠野に宿泊しているボランティアたちが必ず訪れるという「新里豆腐店」。 国産大豆を使った美味しい豆腐という評判だ。 立ち食い寄せ豆富が150円。 搾りたて豆乳が100円! 外はメッチャ寒いけど、豆腐屋さんの中は温かそ~。 内部は半袖でもいいくらいだ。 お目当ての寄せ豆富。 凄いボリュームである。小食な人ならこれで朝飯としてもOKだ。 豆腐だけでも十分美味しいのだが、この醤油をかけると美味しさ倍増だ。 新里豆腐店こだわりの醤油らしい。 豆富を食べながらご主人とお話をしていると、いつの間にか遠野物語の話題に。 柳田國男の本には出てこないお話がまだまだあるという。その一部を話していただいたのだが、方言が強くて半分も分からなかった…。 腹がいっぱいになって遠野駅に向かう。 これは駅前交番。カッパのデザインだ。 そしてこの日の活動場所である仮設住宅に到着。 被災者のための健康相談会が開催されていた。 この日は単なる相談だけではなく、栄養のバランスを崩さないよう、料理の講習会・食事会も兼ねていた。 準備をするスタッフ。 地元の奥さんたちがお手伝いに来ていた。 参加者は少ないが、お食事会が始まった。 午前中の作業を終えて昼食に。 仮設団地近くのスーパーマーケット内のラーメン屋で「カレーライスと釜石ラーメンのセット」。 味はそれなりだ。 スーパーの横に宝くじ売り場があった。 被災地で買うのも支援の一つと思い、シャッターが開くのを待って10枚購入。 午後からは単身高齢者の安否確認と傾聴に。この日は70代女性の部屋に上がって、いろいろな話をお聞かせいただいた。 女性は足が悪くイスに座って生活している。狭い仮設住宅の部屋に大型テレビなどが置いてあり、動線的にはかなり不自由な感じである。 どの仮設にも同じ大型テレビが備えられているのは、あるメーカーが一括して寄贈したからだ。プレゼントされた家電製品には電気炊飯器もあるが、5合炊きの大型。 世帯の人数や仮設の間取りに関係なく、一まとめで寄贈されたという。 震災前に住んでいた家では七段の雛飾りがあったけれど流されてしまった。今はテレビ台の僅かなスペースに小さな内裏様とお姫様を飾っている。 防災スピーカーは津波で壊されて役に立たなかったという。 逃げるときにはホッカイロ、ちり紙をたくさん持ってきた。それらを持たずに避難所に来た人たちにも分けてあげた。 自分は足が悪いけれど、もっと弱い人たちがいる。避難する際はそんな人たちを優先的に車に乗せた。 仮設住宅に入って、座椅子や綿入れなどを知人からいくつも貰ったので、仮設の方々に差し上げた。 あちこちの友人から米や野菜も届く。パソコンも送ってくれた人がいる。インターネットを使えるようにと、その中に1万円も入っていた。 狭くて置く所がないけど、友人・知人には感謝している。震災前にいろいろな人と交流し助けてあげていたことから、今こうして支援してもらっていると思う。人は財産だと思う。 隣の部屋に住む男性は奥さんを津波で流された単身者。おかずを多めに作ったときなどおすそ分けをしている。逆に自分が病院に行くときには、その男性が車を運転して送迎してくれている。 津波のテレビを見ると眠れなくなるので、見ないようにしている。 自分は今の生活をありがたいと思っているが、避難民には所得格差がある。この先どうなるのか、考えると気分が滅入ってくる。頭と気持ちがバラバラ。 震災前に住んでいたところでは、避難所が指定されていたが、今の仮設住宅では避難所がどこなのか全く知らされていない。この地域の住民という扱いじゃないみたい。 でも、いい。こんど津波が来たら湾口防波堤もないし、いっきにここまで水が入ってくるかも。そうしたら次はどこへ行ったらいいの…。 もう諦めて、部屋の鍵を中からかけて、そのまま流されてもいいと思っている。 と、このようなお話を1時間ほど聴いてから次のお宅へ向かうので、1日に安否確認できる被災者の数はたかが知れている。もっと支援者が必要じゃないかと思った。 この日の活動を終えて遠野に帰るため最寄駅に向かう途中、こんな立て看板を見かけた。 夕食&呑み。 魚の天ぷら。 炊き込みご飯。 焼肉。 4日目ともなると、けっこう疲れてくる。 眠いし、宿泊所の門限も迫っているので、この日はこれで終了。 雪道を注意しながら帰る。 (その6に続く) |
メーカーの支援は純粋な気持ちからのモノと思いたいで
すが大型のTVや炊飯器ばかりが行き渡り支援の気持ち
が活かされていない現実。
役に立たなかった防災スピーカー。
仮設での住民としての扱い・・・この国の現実について考
えさせられてしまいますね。
それにしても自分は数十年後このお婆ちゃんのような
歳のとり方が出来ているでしょうか?全く自信があり
ません。
私も現地でお話を聞きながら、
涙をこらえることができませんでした。
辛いお話しをたくさん聞きましたが、
最後は「幸せだよ」よというお言葉で〆る方が多かったのが救いです。
ワシは仙台や八戸に複数回訪問しましたが、接したのは会社関係のヒトビトのみでした。
彼らのナカには自宅を流されたヒトもいましたが、それなりの生活を維持できておりましたので、仮設住宅に住まざるを得ない皆さんの苦労は分かってはおりませんでした。 酔華サンの記事を読んで、何とも言えない気持ちになりました。
ありがとうございます。
現地の見守りスタッフの方が仰っていました。
「被災地の状況をなるべく多くの人たちに知らせてほしい。
自分一人では発信するのにも限界がある。
こうしてボランティアで来られた方々が、見たこと聞いたことを、多くの人に伝えてくれることを願っている」と。