前回は、中原中也の詩を例にとって、絶叫歌人福島泰樹の紹介をした。
今回は彼の、“バリケード1966年”のライブのビデオテープの中におさめられている「闘いのテーマ」をとりあげる。
ここでは宮沢賢治と福島泰樹が互いの緊張感の中で交感しあう。テープでの聞き取り故、表現は正確でない。
*まず福島自身の短歌が詠みあげられる
”天にふる微塵の光ああそして跋渉しゆく 若きたまゆら
一匹の修羅ゆえ青くほとばしる 涙たたえているほかはなし
然り、世界中の独り孤りが幸せにならない限り されど賢治よ
椀に雪 盛りてすぎゆく童顔の わが心象にあおしぐれ降る” (泰樹、ドンと足踏みする)
*ここから宮沢賢治の「春と修羅」になる
“まことの言葉はここになく 修羅の涙は土にふる 四月の気層の光の底を 唾きし はぎしり
ゆききする おれは一人の修羅なのだ”
*次いで同じく賢治の「永訣の朝」
“今日とおくへいってしまうわたしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
・
・
(おらおら で しとり えぐも) ”
*そして福島泰樹
"1968年の別れに際して クリストボテフ、
泣かないでお母さん 泣かないで わたしが兵士になったことを
兵士です おかあさん パルチザンです
しかもわたしは死んでゆくのです 長男なのにと嘆く 気の毒なお母さんを残して
でも 呪うなら おかあさん
悪辣な トルコの仕打ちを呪ってください
彼らは我々若者をおいはらうのです あの暗い 異境の地に
そこでは当てもない労働と放浪の日がまっています
愛もなく 幸せもなく めぐみもなく
ああ わたしは 明日 渡るのです 静かに輝くドナウの河を
・・・・・・・・・・・・・・・・
(このような調子で絶叫してゆき、やがてまた「永訣の朝」になり、最後、「春と修羅」へと戻って行って)
“おれは一人の修羅なのだあ・・・・”
と観客を少なからず興奮の渦の中に巻き込んでいって絶叫は終わりとなる。
まだ私がじゅうぶんに若かったといえるころ、文学に無縁の人間が出会った思い出深い懐かしいシーンの
ひとつである。