今回は、福島泰樹のなかの賢治ではなく、 「宮沢賢治」その人に関して記す。
人間、ちょっとしたとっかかりが、その人への親近感を増したりするものだ。
宮沢賢治は盛岡高等農林学校卒業だ。
父の友人で三木茂という植物学者がいて、三木さんも盛岡高等農林学校に在籍していた。
三木さんはメタセコイアの化石からその存在を発見した人だ。メタセコイアは和名を“アケボノスギ”といい、
中国から広がり、今はどこにでも見られる。
ある時父が言った、「三木君は盛岡高等農林学校の出身だが、その1年上に宮沢賢治がいた。だから
たぶんあの学校には非常に優れた先生がいたのだろう。」
父の言葉には間違いがあり、予想は当たっていなかったかもしれない。宮沢賢治の生まれは1896年、
(明治29年)、三木さんは1901年1月生まれだから、4、5歳の差はある。
しかし宮沢賢治は卒業後2年間、同学校の研究科に在学して地質学を専攻して1920年に卒業し、
三木さんは1921年卒業だから高校では重なり合っていて立ち話くらいは交わしたかもしれない。
自分に身近な人が、ある傑出した人物と関連があったかもしれないと想像するのは楽しい。
宮沢賢治はその40年にも満たない短い生涯で数多くの優れた作品を生み出した。
銀河鉄道の夜、グスコブドリの伝記、やまなし、よだかの星、風の又三郎、注文の多い料理店・・・・・。
いろいろあるが、私が一番好きなのは「セロ弾きのゴーシュ」だ。
下手なセロ弾きのゴーシュが指揮者の罵倒をあび、憤然として毎晩猛練習をする。
その間タヌキ、ネコ、カッコウ、ネズミなどに練習を邪魔されて怒りながら付き合ううちに、自分でもわからない
ままに優れた演奏者に変身してしまっている。
演奏会が終わって家に引き上げたゴーシュは、水をがぶがぶのみ、
“それから窓をあけて、いつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くの空をながめながら、
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。 おれは怒ったんじゃなかったんだ。」” とつぶやく。
禅の悟り的なものを感じるこの結末がわたしは好きだ。 なんとも言い知れぬ余情がある。
ところで、27年前に仕事で花巻に行ったとき、イーハトーブセンター(宮沢賢治記念館?)に立ち寄った。
そこで賢治学会に入会した。会が出来て次の年の1991年、極めて初期で、会員番号は91-〇〇〇〇、
賢治のシルエットと “すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの”という文字が印刷されている
この会員証を家内へのおみやげとしたのである。
しかし送られてくる学会誌が、まったくアカデミックというか、どんな研究がどこに発表されているかの記録
だけで、楽しい記事を期待する私のような人間には読むところが全くなかった。
家内も同様で、だから結局たった2年間の会員で退会した。