外交青書に有本さんの怒り爆発
そう言えば、下田の話や戸田号の話…
https://youtu.be/SDl_R5Szgnk
虎ノ門ニュース平成31年4月25日放送分より
1:48:30位~
私が育った伊豆半島、西伊豆の戸田(へだ)という所は、北方4島の帰属が決められた日露就航通商条約、これ下田にロシアの黒船が何回か来て、この時の逸話を残す所なんですよ。
もうこれ、小学生でも誰でも知ってる逸話なんですけど、小学校1年になったら、皆、その資料館に見に連れて行かれるんですね。
すごく簡単に言うと、ロシアの黒船が来たんですけど、下田沖で大地震、大津波に遭うんです。それで船、壊れちゃいました。で、この船修繕しましょうって言ってるんですけど、下田も壊滅的被害を受けて、外海だしって事で、もっと駿河湾の中迄引っぱってきて直しましょうといってる間に、船が沈んでしまうんですよ。
で、ロシアの人達は帰れなくなるからっていう事で、私の育った村にですね、ロシア船に乗っていた乗組員を皆泊めてあげるんですよ。何ヶ月も。タダで逗留させてあげるんですよ。
そんな国、何処に有りますか?ねぇ、竹田さん。普通の国だったら、黒船ったら半ば侵略船みたいなモノなんですから。
丁寧に船までこしらえてあげてね。
そうですよ。そんな国、何処にも無いじゃないですか。そんなのね、船の中にあったモノを略奪して、皆殺しにして終わりですよ、他の国だったらば。ですから、ホントに誇るべき郷土の歴史なんですよ。
で、そのロシアの人達が数ヶ月滞在してる間に、江川太郎左衛門という代官が居て、江戸からも色々応援を頼んで、西洋式の帆船を日本で初めて作るんですよ。そのロシア人とも協力してという事なんですけどね。
でも、ロシア人の乗組員は別に船を作るプロじゃないから、日本の船大工が頑張ったんですけど、それでその船でロシアに帰るんですよ。
で、地名の戸田(へだ)ってつけて、へだ号って名前で帰るんですね。で、この時に、帰った船がもう1回戻って来て、条約交渉やって、北方4島は要するに日本の帰属となったという、そういう所なので、私、もう、郷土の歴史を消される様な気分がありますね。
チョッとこれは酷いですね。
あの頃の幕府の役人たち、見事でしたね。チャンと渡り合って、しかも人間的魅力をロシア側にちゃんと与えてたという。
ロシアはあの時、後から出てきたから。アメリカなんかに大分遅れをとっていたんで、ロシア側も下手には出てたんですけども。でも、かなり日本側は強く、国際情勢を見ながら、交渉してましたしね。
で、それでいて、人道的に助けるモノは助けてという事だった訳ですけど。その様に、日本人が非常に日本人らしさをもって国際交渉に臨んだこの日々が繰り出したモノをどうしてくれてるんですか、今の外務省は。
そうですねぇ。
これはチョッと私は安倍官邸のね、方向性も疑問を抱きますね。これだと。
糸の切れた凧になってる可能性もある訳ですよ。だって、菅官房長官が元号をって言ってるのに、方や外務省はウチでは使いたくないって。そういう事は官邸の意志に反する事ですから。訂正しましたけれども。
今回だって、本当に官邸の指示でこうなってんのか、もしくは糸の切れた凧になっちゃっているのか、これだけではチョッと分からないですけど。まぁ、とにかく外務省は癌ですね。宮内庁と一緒に一度叩き潰した方がイイんじゃないですか?
確かにそれは有りますよ。外務省の悪口は大分昔に須田のオジキと言ったんですけど、この番組でねぇ。その内、外務省の前で番組やろうかって言ってたんですよ。
(下田市のホームページより)プチャーチンによるディアナ号来航と「安政の大津波」
1)日露通好条約締結の経過
条約締結を求めるロシア全権プチャーチン提督の乗艦するディアナ号は、1854年(安政元年10月15日)下田に入港しました。
第1回の条約締結交渉が福泉寺において日本全権筒井肥前守、川路左衛門尉らとの間で開始されましたが、不運にして翌日、安政の大地震が発生し、下田は壊滅的な被害をうけました。
プチャーチンは、ディアナ号が大破しているにもかかわらず、津波により流された人々を救助し、軍医と部下を上陸させてけが人の手当てにあたらせました。
また、幕府はプチャーチンに必要物資を供給したほか、破損した船の修復のため西伊豆の戸田へ回航中に沈没したディアナ号の代船として、ロシアへ帰国のための船の建造を許可しました。これが我が国の西洋造船技術を学ぶ端緒を開きました。
条約締結の交渉は、このような非常時の中で第二回、第三回は玉泉寺で、第四回、第五回は長楽寺に場所を移して続けられ、1855年(安政元年)2月7日、長楽寺において日露通好条約が調印されました。
2)ヘダ号の建造と戸田村の日露友好
戸田村の130年間にわたる日露友好関係は、安政の大地震が奇縁となりました。
使節プチャーチンは、大地震による津波のため艦底を破損したディアナ号の修理の場所を戸田に決め、戸田港へ向かいましたが、途中暴風に遭い、沿岸漁夫の命がけの救援も空しく、ディアナ号は富士市沖合で沈没してしまいました。
幸い乗組員には1名の死者もなく486名全員が上陸しました。これは、プチャーチンの沈着守行動と日本人漁夫の献身的救助によるもので、永く賛美されています。
一行は、陸路戸田村に入り、宝泉寺と本善寺のほかに長屋4棟を急造して宿舎としました。これから半年間、戸田村民とロシア人との友好関係が始まります。遭難した人々に対し、村民は誠意をもって何かと世話をし、協力しました。
艦を失ったプチャーチンは、帰国のための船の建造を幕府に願い出ました。ここに、ロシア人の設計と指導による西洋型船を、日本として初めて戸田で建造することになりました。
これまでの和船と異なり初めての体験で、戸田の船大工や近郷の船大工はたいへん苦心しました。プチャーチンは完成した船に、戸田村民への感謝をこめて「ヘダ号」と命名しました。
使節以下47名は、この「ヘダ号」に乗船し、他の人たちも、ほかの船で全員ロシアへ帰国しました。
その後、ロシアの軍艦や、プチャーチンの娘オルガさんも来村しました。戸田造船郷土資料博物館では、プチャーチンの遺品や造船関係資料を展示しています。
静岡県と北方領土のかかわり
安倍総理の故郷をプーチンさんが訪問された時に、総理がプーチンさんに贈った絵ってこんなのですよね 戸田号進水式の絵
北方領土の歴史
そう言えば、下田の話や戸田号の話…
https://youtu.be/SDl_R5Szgnk
虎ノ門ニュース平成31年4月25日放送分より
1:48:30位~
私が育った伊豆半島、西伊豆の戸田(へだ)という所は、北方4島の帰属が決められた日露就航通商条約、これ下田にロシアの黒船が何回か来て、この時の逸話を残す所なんですよ。
もうこれ、小学生でも誰でも知ってる逸話なんですけど、小学校1年になったら、皆、その資料館に見に連れて行かれるんですね。
すごく簡単に言うと、ロシアの黒船が来たんですけど、下田沖で大地震、大津波に遭うんです。それで船、壊れちゃいました。で、この船修繕しましょうって言ってるんですけど、下田も壊滅的被害を受けて、外海だしって事で、もっと駿河湾の中迄引っぱってきて直しましょうといってる間に、船が沈んでしまうんですよ。
で、ロシアの人達は帰れなくなるからっていう事で、私の育った村にですね、ロシア船に乗っていた乗組員を皆泊めてあげるんですよ。何ヶ月も。タダで逗留させてあげるんですよ。
そんな国、何処に有りますか?ねぇ、竹田さん。普通の国だったら、黒船ったら半ば侵略船みたいなモノなんですから。
丁寧に船までこしらえてあげてね。
そうですよ。そんな国、何処にも無いじゃないですか。そんなのね、船の中にあったモノを略奪して、皆殺しにして終わりですよ、他の国だったらば。ですから、ホントに誇るべき郷土の歴史なんですよ。
で、そのロシアの人達が数ヶ月滞在してる間に、江川太郎左衛門という代官が居て、江戸からも色々応援を頼んで、西洋式の帆船を日本で初めて作るんですよ。そのロシア人とも協力してという事なんですけどね。
でも、ロシア人の乗組員は別に船を作るプロじゃないから、日本の船大工が頑張ったんですけど、それでその船でロシアに帰るんですよ。
で、地名の戸田(へだ)ってつけて、へだ号って名前で帰るんですね。で、この時に、帰った船がもう1回戻って来て、条約交渉やって、北方4島は要するに日本の帰属となったという、そういう所なので、私、もう、郷土の歴史を消される様な気分がありますね。
チョッとこれは酷いですね。
あの頃の幕府の役人たち、見事でしたね。チャンと渡り合って、しかも人間的魅力をロシア側にちゃんと与えてたという。
ロシアはあの時、後から出てきたから。アメリカなんかに大分遅れをとっていたんで、ロシア側も下手には出てたんですけども。でも、かなり日本側は強く、国際情勢を見ながら、交渉してましたしね。
で、それでいて、人道的に助けるモノは助けてという事だった訳ですけど。その様に、日本人が非常に日本人らしさをもって国際交渉に臨んだこの日々が繰り出したモノをどうしてくれてるんですか、今の外務省は。
そうですねぇ。
これはチョッと私は安倍官邸のね、方向性も疑問を抱きますね。これだと。
糸の切れた凧になってる可能性もある訳ですよ。だって、菅官房長官が元号をって言ってるのに、方や外務省はウチでは使いたくないって。そういう事は官邸の意志に反する事ですから。訂正しましたけれども。
今回だって、本当に官邸の指示でこうなってんのか、もしくは糸の切れた凧になっちゃっているのか、これだけではチョッと分からないですけど。まぁ、とにかく外務省は癌ですね。宮内庁と一緒に一度叩き潰した方がイイんじゃないですか?
確かにそれは有りますよ。外務省の悪口は大分昔に須田のオジキと言ったんですけど、この番組でねぇ。その内、外務省の前で番組やろうかって言ってたんですよ。
(下田市のホームページより)プチャーチンによるディアナ号来航と「安政の大津波」
1)日露通好条約締結の経過
条約締結を求めるロシア全権プチャーチン提督の乗艦するディアナ号は、1854年(安政元年10月15日)下田に入港しました。
第1回の条約締結交渉が福泉寺において日本全権筒井肥前守、川路左衛門尉らとの間で開始されましたが、不運にして翌日、安政の大地震が発生し、下田は壊滅的な被害をうけました。
プチャーチンは、ディアナ号が大破しているにもかかわらず、津波により流された人々を救助し、軍医と部下を上陸させてけが人の手当てにあたらせました。
また、幕府はプチャーチンに必要物資を供給したほか、破損した船の修復のため西伊豆の戸田へ回航中に沈没したディアナ号の代船として、ロシアへ帰国のための船の建造を許可しました。これが我が国の西洋造船技術を学ぶ端緒を開きました。
条約締結の交渉は、このような非常時の中で第二回、第三回は玉泉寺で、第四回、第五回は長楽寺に場所を移して続けられ、1855年(安政元年)2月7日、長楽寺において日露通好条約が調印されました。
2)ヘダ号の建造と戸田村の日露友好
戸田村の130年間にわたる日露友好関係は、安政の大地震が奇縁となりました。
使節プチャーチンは、大地震による津波のため艦底を破損したディアナ号の修理の場所を戸田に決め、戸田港へ向かいましたが、途中暴風に遭い、沿岸漁夫の命がけの救援も空しく、ディアナ号は富士市沖合で沈没してしまいました。
幸い乗組員には1名の死者もなく486名全員が上陸しました。これは、プチャーチンの沈着守行動と日本人漁夫の献身的救助によるもので、永く賛美されています。
一行は、陸路戸田村に入り、宝泉寺と本善寺のほかに長屋4棟を急造して宿舎としました。これから半年間、戸田村民とロシア人との友好関係が始まります。遭難した人々に対し、村民は誠意をもって何かと世話をし、協力しました。
艦を失ったプチャーチンは、帰国のための船の建造を幕府に願い出ました。ここに、ロシア人の設計と指導による西洋型船を、日本として初めて戸田で建造することになりました。
これまでの和船と異なり初めての体験で、戸田の船大工や近郷の船大工はたいへん苦心しました。プチャーチンは完成した船に、戸田村民への感謝をこめて「ヘダ号」と命名しました。
使節以下47名は、この「ヘダ号」に乗船し、他の人たちも、ほかの船で全員ロシアへ帰国しました。
その後、ロシアの軍艦や、プチャーチンの娘オルガさんも来村しました。戸田造船郷土資料博物館では、プチャーチンの遺品や造船関係資料を展示しています。
静岡県と北方領土のかかわり
安倍総理の故郷をプーチンさんが訪問された時に、総理がプーチンさんに贈った絵ってこんなのですよね 戸田号進水式の絵
北方領土の歴史