イスラエル大使の後ろに並んで、見学します。
今、高石市では『日露戦争 浜寺捕虜収容所資料展』が行われています。
日露戦争時、浜寺に捕虜収容施設があったことは分かっていましたが、
ほとんど資料らしいものは残っていなかったそうです。
今回、捕虜収容所の子孫にあたる方から、写真などの貴重な資料の寄付が
あり、詳細を知ることが出来るようになったとの事です。
なぜイスラエル大使が・・・?
それは、この浜寺捕虜収容所で1年を過ごした「ヨセフ・トルンベルトール」
という人物が、イスラエル建国の英雄であり、彼はこの浜寺での日本人の
姿に『国家』形成の重要たるものを見たと後に語っているからなのです。
「ヨセフ・トルンベルドール」氏は、明治38年1月1日
乃木大将とステッセル将軍が激しい旅順攻防戦の末に行った「水師営の会見」後、
片腕を失った負傷兵となって、浜寺捕虜収容所へ送られました。
ロシア軍人でありながらも、トルンベルドール氏はイスラエル人でした。
そもそもロシア軍は、イスラエル人をはじめ、様々な民族で構成されていました。
そのロシア兵を浜寺では、それぞれの宗教によって生じる生活習慣の違いに
まで配慮した収容所を作り、食事に至るまで細やかな配慮を行い、
遠く祖国を離れた兵士達を手厚くもてなしたのでした。
また、手当ての甲斐なく不幸にも亡くなったロシア兵には、それぞれが
持つ信仰をその墓石に刻んで、葬りを行いました。
敵軍に対して、このような心遣いを行える日本人に多くのロシア兵が
感慨の念を抱き、敬意を持ったのは言うまでもありません。
トルンベルドール氏もそんな一人でした。
当時国家を持たず、世界各地に散らされたイスラエル人であった彼が
夢見る国家像が、当時の日本に見えたのでした。
たとえ戦争中であっても、戦いに傷ついた兵士をこれほどの思いでもって
受け入れる日本人と日本の中に、彼は「惻隠の情」を持つ『武士道』を
見たと後に語っています。
1年の浜寺での捕虜生活の後、ロシアへと帰還したトルンベルドール氏は
その熱い思いを胸に、イスラエル建国に向けて片腕となった体を酷使して
開拓に励み、緊張状態にあったレバノン国境でイスラエル国家樹立のために
その生涯を捧げたのでした。
イスラエルの歴史教科書では、『片腕の建国英雄』として始めに登場する
人物だそうです。
このことに感銘を受け、今回イスラエル大使は高石市を訪問されたのですね。
私は松山に行ったとき、全く同じような話を聞きました。
そして松山の人たちは、自分たちの先祖がそのように
「貧しくとも心温かく、気高い精神を持った」人たちであったことに
誇りを持っておられました。
私の身近な町にも、確かに気高く生きた『日本人』がいたことを
思いもかけず知ることができたことを、心から感謝したいと思います。
所に関わりなく、明治時代本当に貧しかったけれども、気高くあれと
生きた心篤い日本人の姿に、私もまた深い感銘を覚えました。
今、高石市では『日露戦争 浜寺捕虜収容所資料展』が行われています。
日露戦争時、浜寺に捕虜収容施設があったことは分かっていましたが、
ほとんど資料らしいものは残っていなかったそうです。
今回、捕虜収容所の子孫にあたる方から、写真などの貴重な資料の寄付が
あり、詳細を知ることが出来るようになったとの事です。
なぜイスラエル大使が・・・?
それは、この浜寺捕虜収容所で1年を過ごした「ヨセフ・トルンベルトール」
という人物が、イスラエル建国の英雄であり、彼はこの浜寺での日本人の
姿に『国家』形成の重要たるものを見たと後に語っているからなのです。
「ヨセフ・トルンベルドール」氏は、明治38年1月1日
乃木大将とステッセル将軍が激しい旅順攻防戦の末に行った「水師営の会見」後、
片腕を失った負傷兵となって、浜寺捕虜収容所へ送られました。
ロシア軍人でありながらも、トルンベルドール氏はイスラエル人でした。
そもそもロシア軍は、イスラエル人をはじめ、様々な民族で構成されていました。
そのロシア兵を浜寺では、それぞれの宗教によって生じる生活習慣の違いに
まで配慮した収容所を作り、食事に至るまで細やかな配慮を行い、
遠く祖国を離れた兵士達を手厚くもてなしたのでした。
また、手当ての甲斐なく不幸にも亡くなったロシア兵には、それぞれが
持つ信仰をその墓石に刻んで、葬りを行いました。
敵軍に対して、このような心遣いを行える日本人に多くのロシア兵が
感慨の念を抱き、敬意を持ったのは言うまでもありません。
トルンベルドール氏もそんな一人でした。
当時国家を持たず、世界各地に散らされたイスラエル人であった彼が
夢見る国家像が、当時の日本に見えたのでした。
たとえ戦争中であっても、戦いに傷ついた兵士をこれほどの思いでもって
受け入れる日本人と日本の中に、彼は「惻隠の情」を持つ『武士道』を
見たと後に語っています。
1年の浜寺での捕虜生活の後、ロシアへと帰還したトルンベルドール氏は
その熱い思いを胸に、イスラエル建国に向けて片腕となった体を酷使して
開拓に励み、緊張状態にあったレバノン国境でイスラエル国家樹立のために
その生涯を捧げたのでした。
イスラエルの歴史教科書では、『片腕の建国英雄』として始めに登場する
人物だそうです。
このことに感銘を受け、今回イスラエル大使は高石市を訪問されたのですね。
私は松山に行ったとき、全く同じような話を聞きました。
そして松山の人たちは、自分たちの先祖がそのように
「貧しくとも心温かく、気高い精神を持った」人たちであったことに
誇りを持っておられました。
私の身近な町にも、確かに気高く生きた『日本人』がいたことを
思いもかけず知ることができたことを、心から感謝したいと思います。
所に関わりなく、明治時代本当に貧しかったけれども、気高くあれと
生きた心篤い日本人の姿に、私もまた深い感銘を覚えました。