時は1985年湾岸戦争当時、サダム・フセインはイランの首都
「テヘラン爆撃」声明を発令したのです。
『「イランの上空は航行禁止区域とする。
3月20日午前2時以降,イラン上空を航行する
全ての航空機は攻撃対象になる。」』
テヘランに駐在していた邦人約500人は、直ちに命の危険にさらされる事と
なったのでした。
この時、残されたリミットは48時間でした。
「今すぐ、邦人救出を!」この叫びを聞きつつも、当時の日本では
邦人救出のヘリを飛ばすには、あまりにも危険である。との理由から
救出に手こずっていたのでした。
あらゆる手を模索しますが、バクダットへの攻撃も開始され
邦人救出は八方塞であるかのように思われた、まさにその時!!
現地のトルコ大使館から日本大使館へ連絡が入りました。
「トルコ航空機200人分を日本人に割り当てました。
すぐさま避難してください」
テヘラン攻撃の1時間前、日本人はトルコが用意してくれた
飛行機で無事に難を逃れることが出来たのでした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
私は恥ずかしながらこの話を、去年まで知りませんでした。
しかし、これは私達が過去から頂いた大いなる贈り物であることを
和歌山県串本で知りました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
一体なぜこのような危険を冒してまで、トルコの方々は
日本人を助けてくれたのでしょうか?
「130年前のご恩返しです」とトルコの方は仰いました。
130年前・・・・・の嵐の日・・・・・
和歌山県牟婁群串本大島の岸壁近くに住む人々は真夜中に
大きな爆裂音を聞いたのでした。
驚いた村人は家々から飛び出し、樫野崎の岸壁に一隻の巨大な
船が座礁している姿を目にしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/bc/65a787a2051bb38600625b607dee4b66.jpg)
【座礁した岩場】
事態を知った大島の人々は、あらゆる手段で乗組員達を救助しようと
試みます。しかし、眼下は断崖絶壁、大男のトルコ人、それでも
島人たちはひるむことなく一心に救助活動を行いました。
200Mはあろう断崖を傷ついた180cmもある大男をかかえて
のぼり、寒さに震える人には体を当てて体温で暖め、必死の介抱
を行ったのです。
乗り組み員65名の命はこのように救われました。
さらに島人たちは、当時保存食として持っていた食料を
全て差し出したのです。
保存方法のない時代、しかもそこは島、自分達の食べるものも
省みないでトルコ人に分け与えたのでした。
このことをトルコの人々は心から感謝し、子から孫へと
語り継いだのです。日本人の方がすっかり忘れてしまっても
トルコの人々の心には、鮮烈に焼きついていたのです。
「130年前のご恩返しです」
このように言って日本人を救出してくれたのは、このように
明治期の貧しい漁村で、名もない人々が行った壮絶な救出が
あったからでした。
今でもトルコは大変な親日派であると言われます。
トルコの大統領は来日の際は必ずこの大島を訪れ、慰霊碑に
花を手向けるのだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/10/67da808c967ff49dbc0071eecf562a52.jpg)
私達は未来の人々に、何を贈ることが出来るのでしょうか?
日本の南の最果ての地で、名もない人々が深い慈愛を持って
行ったこの出来事が、どれほど偉大であり、どれほど高い志に
根ざした行いであったかを通して、あり方、生き方を教えて
頂いたように思います。
安部首相が語る『美しい日本』
この美しいと言う言葉に、日本人の心のありようが
込められていると感じ、何を美しいと感じるかの感性を
育んでいきたいと思いました。
「テヘラン爆撃」声明を発令したのです。
『「イランの上空は航行禁止区域とする。
3月20日午前2時以降,イラン上空を航行する
全ての航空機は攻撃対象になる。」』
テヘランに駐在していた邦人約500人は、直ちに命の危険にさらされる事と
なったのでした。
この時、残されたリミットは48時間でした。
「今すぐ、邦人救出を!」この叫びを聞きつつも、当時の日本では
邦人救出のヘリを飛ばすには、あまりにも危険である。との理由から
救出に手こずっていたのでした。
あらゆる手を模索しますが、バクダットへの攻撃も開始され
邦人救出は八方塞であるかのように思われた、まさにその時!!
現地のトルコ大使館から日本大使館へ連絡が入りました。
「トルコ航空機200人分を日本人に割り当てました。
すぐさま避難してください」
テヘラン攻撃の1時間前、日本人はトルコが用意してくれた
飛行機で無事に難を逃れることが出来たのでした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
私は恥ずかしながらこの話を、去年まで知りませんでした。
しかし、これは私達が過去から頂いた大いなる贈り物であることを
和歌山県串本で知りました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
一体なぜこのような危険を冒してまで、トルコの方々は
日本人を助けてくれたのでしょうか?
「130年前のご恩返しです」とトルコの方は仰いました。
130年前・・・・・の嵐の日・・・・・
和歌山県牟婁群串本大島の岸壁近くに住む人々は真夜中に
大きな爆裂音を聞いたのでした。
驚いた村人は家々から飛び出し、樫野崎の岸壁に一隻の巨大な
船が座礁している姿を目にしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/bc/65a787a2051bb38600625b607dee4b66.jpg)
【座礁した岩場】
事態を知った大島の人々は、あらゆる手段で乗組員達を救助しようと
試みます。しかし、眼下は断崖絶壁、大男のトルコ人、それでも
島人たちはひるむことなく一心に救助活動を行いました。
200Mはあろう断崖を傷ついた180cmもある大男をかかえて
のぼり、寒さに震える人には体を当てて体温で暖め、必死の介抱
を行ったのです。
乗り組み員65名の命はこのように救われました。
さらに島人たちは、当時保存食として持っていた食料を
全て差し出したのです。
保存方法のない時代、しかもそこは島、自分達の食べるものも
省みないでトルコ人に分け与えたのでした。
このことをトルコの人々は心から感謝し、子から孫へと
語り継いだのです。日本人の方がすっかり忘れてしまっても
トルコの人々の心には、鮮烈に焼きついていたのです。
「130年前のご恩返しです」
このように言って日本人を救出してくれたのは、このように
明治期の貧しい漁村で、名もない人々が行った壮絶な救出が
あったからでした。
今でもトルコは大変な親日派であると言われます。
トルコの大統領は来日の際は必ずこの大島を訪れ、慰霊碑に
花を手向けるのだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/10/67da808c967ff49dbc0071eecf562a52.jpg)
私達は未来の人々に、何を贈ることが出来るのでしょうか?
日本の南の最果ての地で、名もない人々が深い慈愛を持って
行ったこの出来事が、どれほど偉大であり、どれほど高い志に
根ざした行いであったかを通して、あり方、生き方を教えて
頂いたように思います。
安部首相が語る『美しい日本』
この美しいと言う言葉に、日本人の心のありようが
込められていると感じ、何を美しいと感じるかの感性を
育んでいきたいと思いました。