以前この文書の一節を耳にしました。
心に深く染み入るよな文体に静かな感動を覚えました。
今日ようやくその全文が収められた本に出逢いました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『二十一世紀に生きる君たちへ』 司馬 遼太郎
私は、歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにし
て、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生
がそこにつめこまれている世界なのです。」
と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がい
る。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほど
にすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、な
ぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きて
いるようなものだと思っている。この楽しさはーーもし君た
ちさえそう望むなら ー おすそ分けしてあげたいほどであ
る。
ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなもの
がある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世
紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのか
がやかしいにない手でもでもある。
もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめること
ができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている
二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういな
い。
だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということ
である。
もっとも、私には二十一世紀のことなど、とても予測でき
ない。
ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人
間の生き方の基本的なことでもある。
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そ
こに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他
の動植物、さらに微生物にいたるまでもが、それに依存しつ
つ生きているということである。
自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気
を吸うことなくいきることができないし、水分をとることが
なければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準において、人間の
ことを考えてみたい。
人間は、- ぐり返すようだが- 自然によって生かされ
てきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。この
ことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、
自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものと
して身をつつしんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
ーー人間こそ、いちばんえらい存在だ。という思いあがった
考えが頭をもたげた。二十一世紀という現代は、ある意味で
は、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
同時に、人間は決しいておろかではない。思い上がるとい
うこととはおよそ逆のこともあわせ考えた。つまり、私ども
人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学
もそのように考えた。ある意味では、平凡な事実にすぎない
このことを、二十一世紀の科学は、科学の事実として、人々
の前にくりひろげてみせた。
二十一世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるよう
になった。
おそらく、自然に対していばりかえっていた時代は、二十一
世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。
「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によっ
て生かされている。」
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、
そのようにへりくだって考えていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べた
ように、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどし
つつあるように思われる。
この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であ
り、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが
持ち、その気分をひろめてほしいのである。
そうなれば、二十一世の人間は、よりいっそう自然を尊敬
することになるだろう。そして、自然の一部である人間どう
しについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるのに
ちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待で
もある。
さて、君たち自身のことである。
君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確
立せねばならない。
-自分に厳しく、相手にはやさしく。
という自己を。
そして、すなおでかしこい自己を。
二十一世紀においては、特にそのことが重要である。
二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろ
う。科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまっ
てはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっか
りした自己が、科学と技術を支配し、よい方向に持っていっ
てほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。なな
めの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生き
ている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だっ
た。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界と
いう社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているので
ある。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるように
はつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大き
な道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりと
いう感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと、言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともとひとつの根から出ているので
ある。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけなければ
ならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友だちころぶ。
ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中
でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば
他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀
は人類が仲よしで暮らせる時代になるにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、
「たのもしさ」
ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代で
もたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男
女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言っ
た。自分に厳しく相手にはやさしく、とも言った。いたわり
という言葉も使った。それらを訓練せよとも言った。それら
を訓練することで、自己が確率されていくのである。そして
‘たのもしい君たち‘になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていく
うえで、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだ
かとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめ
つつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、
以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかが
やいているように感じた。
(「小学国語六年下」大阪書籍)