ちーろぐ

今日の出逢いに感謝を込めて

銀閣寺

2007-01-13 21:52:17 | そぞろ歩き
今日は、朝一番に京都で仕事がありました。
思いのほか打合せが速く終わったので、久しぶりに銀閣寺に
行こうと思い立ち車を走らせました。

午前中の京都は土曜日ということもあり、いつもよりひっそりと
した雰囲気でした。
キュッと引き締まった空気に日が差し、少しだけ特別な時間を
味わっているような気持ちになりました。



久しぶりに訪れた銀閣寺は、とても静かであり奥深い佇まいで
人々を迎えているようでした。
観光客でごったがえす京都ですが、銀閣寺界隈は大人の雰囲気が
あるので大好きなのです。

殊に哲学の道は、昔から私の憧れのスポットです。
なぜ憧れか?



疎水に沿って進む哲学の道を歩く時、トレンチコートの衿を
ピリッと立てた紳士とすれ違うことがよくありました。
髪が長く、背筋をピンと伸ばした女性ともすれ違いました。
そんな時決まって私は、はっと振返るのですが、その後姿に
いつも「大人」の洗練された雰囲気を感じていました。

この哲学の道が似合う大人になりたい・・・
と思ったので、憧れているのです。

まだまだですが。。。

コンビニフィットネスを体験

2006-11-26 17:30:06 | そぞろ歩き


心斎橋で『コンビにフィットネス』を体験していました。
マスコミで話題になったので、私が行ったときも満員でした。

たった10分で体脂肪が燃やせる!!

この宣伝文句に私もイチコロです。やらせてくださいっ!



機械に乗って500円を入れたら、・・・・・

ブルブルブルブル ブルブルブルブル

体中のあらゆる脂肪という脂肪が、ブルブルブルブル
何だかとっても暑くなって汗もタラ~っと言う状態です。

しばらくすると、内臓が締め付けられるような感じがしたので
そばにある説明書を読むと、そこには・・・・・

「内臓が鷲づかみにされるように感じる人は、内臓脂肪が
 たまっている人です」

そうだったのですね。
内臓にまで脂肪と仲良くなってしまっていたのですね。

はなればなれになってしまう脂肪を、内臓が引き止めていた
苦しみだったなんて。。。なんて感動的なことと思いつつ
早く離れろ~!と念じながらブルブル体験が終了しました。

節制を心がけ心身ともに健康になりたいと思いました。
皆さんも一度お試しを

にぎわう京都に想う・・・

2006-11-19 20:29:25 | そぞろ歩き
先日ご招待を頂いた特別講座のため、京都へ行ってきました。

青蓮院門跡で行われた講座は、大変盛況で外国からの方も加わり
慣れない手つきでお手前を頂いておられました。

まさしく『一期一会』。
その瞬間の出逢いをいとおしみ、相手を気遣う中に、亭主と客人の
豊かな関係性の世界を作り出す、稀有な文化を体感できる貴重な
機会でした。

無作法な私ですが、母が揃えてくれた袱紗などでお手前を一服
頂きました。


講座の帰り、近くにある平安神宮を訪ねてみることにしました。



本当にすごい人が秋の京都観光に訪れていました。
次々とバスが行きかい、様々な言葉も飛び交う賑わいでした。
そこで、私の目に飛び込んできたのは、この平安神宮の大鳥居の前
にセブンイレブンでした。

「神宮通り」と名づけられた通りには、その風情を損ねないように
工夫を凝らしてディスプレイされたお店が、京とらしさを演出しています。
その道をそぞろ歩いた最終ポイントにコンビ二!!
正直「え~!?」という感じです。

そんなことを思いながら、今度は祇園に向かいました。



満員のバスに乗って八坂神社前に降り立った私は、またしても
立ち止まってしまいました。目の前にはローソン

日本文化の本拠地として、雅なるものを求めて日本中から、いえ
世界中から愛され、人々を魅了してきた京都が本質を失いかけて
いるように思えて仕方がありません。

平安神宮と八坂神社が、単なる名所旧跡としての観光地になってしまう、
そんな危惧を覚えました。
京都の人自身が、集客力のあるシンボルとしてしか捉えていないのか?

コンビニの手軽さと便利さは誰もが承知し、恩恵に与ってもいます。
しかし、しかしです。
その「場」が持つ情景と情緒を一瞬に失わせる「軽さ」をもって
いるのではないでしょうか。

先人達が長い年月をかけて築き上げ、また受け継いできたものが
あるからこそ、京都は京都たる魅力を現代につなげていることを思うと
なんとも『もったいない』思いがしてなりませんでした。

これ以上、ただの観光地にならないで欲しいと思う京都めぐりでした。

伝統芸能に魅せられて

2006-10-21 11:07:04 | そぞろ歩き
昨日はお世話になっている老人ホームの理事長先生のお誘いで
『北と大地の恵みに感謝する』というテーマで行われた
お食事会に行ってきました。

北海道小樽から届けられた食材で創られた和食を頂き、
深まりゆく秋を感じさせていただきました。

    







目にも美しく、味わい深いお料理をおなか一杯頂きました。
料理長は、北海道は「まさに今晩秋を向かえ、冬に備える季節です。
食材を生かし、遠く離れた地のものを頂く中に味わいを感じて頂きたい」
と献立を紹介されていました。
一品の中に込められた思いが伝わるようでした。

お食事も終わった頃、今日のもうひとつのテーマ「伝統芸能を聞く」
『篠笛』(しのぶえ)の演奏会が行われました。



篠笛はだんじり祭りの際に用いられる音色で有名なのですが、
今日は、祭りのお囃子とは全く違った幻想的な音色に聞き惚れてしまいました。

演奏者の森田さんは、この篠笛が日本の民族伝統楽器である事を
若い人たちに伝えているそうです。
祭りそのものが、神の恵みに感謝して、神に奉納される『神楽』
であるのだから、その思いを決して忘れてはならない。
と語られました。

透き通るような音色は、日本人がその音色にのせて、神と人とが
つながっていることを感じていたことを、想像するほど素晴らしかったです。

「秋の音」と名づけられた森田さん作曲の旋律は、目を閉じると
秋の夕映えに光る黄金色の稲穂、そこに汗を流して一日の田仕事を
終えた大人と、大人の帰り支度を待つ子どもの姿が、目に浮かぶようでした。

そして、しみじみと日本人は農耕民族であり、その大地の恵みを
神に感謝して享受してきた民族であることを感じました。

伝統芸能とは、すなわち日本人の心の有様であることを改めて思いながら
篠笛の奏でる音を聞きました。



久々の休日に思う。。。

2006-08-20 23:08:55 | そぞろ歩き
今日は久しぶりの休日でした。
今年はお盆も仕事・仕事の毎日だったので、ほとんど
出かけることもなく過ごしました。

難波へ出て、そろそろ漂い始めた秋の香りを感じようと
思いました。
しかし、何だか街は閑散とした空気が漂っていました。

「な~んだ、皆さんはお盆に遊び疲れて今日は休息日にして
 おられるんだ!」 と思いつつ、引き続き梅田へ向かいました。

ありゃまぁ!!梅田はすっごい人なのです。
確かに大阪梅田はJRに私鉄3本が乗り入れる巨大なターミナル駅です。
集客力も難波とは桁違いなことはわかりますが、それにしても
違いの大きさに正直驚かされました。

都心部の景気回復が叫ばれて、上昇気流に乗りつつあるといわれる反面
地方都市の低迷はあがいても、突破口を見つけられないでいる、と
よく言われます。
同じ大阪でも、これだけの違いを目の当たりにして、息を吹き返しつつある
梅田に対して、弱体化する難波の相違点は何かを思いました。

単なる大型店誘致で、梅田に対抗しようとする難波の開発構想に
私は問題の元凶の一端があるのではと思います。
再生に悩む地方都市に共通するのは、
  ・地域性を無視していること
  ・どこかに似せようとしていること
  ・再生構想の前になすべきことに気づいていないこと
があると思います。

たとえば、難波であれば街自体の不潔さ!これが改善されるだけで
十分に人をひきつける魅力を持ちえると思います。
大阪難波がホームタウンの私は、今でも梅田を一人で歩けません。
思いっきり大阪弁で、道を尋ねています。

難波界隈なら誰にも聞かずに歩けます
その愛すべき難波が、浪速の文化に再び灯をともしてほしいと思います。
大型化することも、巨額の投資も必要ないと思います。
できることは今すぐ、どこにあると思います。

足元のゴミをそっと拾いたくなる、浪速人を増やしましょう!

旅を終えて・・・感謝と共に

2006-07-25 13:53:56 | そぞろ歩き
今回の知覧の旅を終えて、私は改めて
自分に与えられた使命を全うする人生を生きなければ
ならないと、思いました。
そのためには、やはり今日、この時を懸命に生きる
しかないと思いました。

トメおばあちゃんには、特攻兵士の最後を
手紙に記し、憲兵の目を逃れてその遺族に届けました。
しかし、トメおばあちゃんは10歳で女中奉公に出され、
夫の鳥浜義勇さんに出会うまでは無学文盲の女性だったのです。
それが、当時珍しい大学まで進学した名士の息子義勇さんから
むさぼるように読み書きを習い、後にそれによって、
立派に手紙を書いて差し上げれるようになったのです。

人間が欲っしたから、叶えられるものはなく
使命あるところに万事備わることを、トメおばあちゃんは
伝えてくださるように思います。

知覧の母 鳥浜トメさんに
心からの感謝を捧げると共に、安らかに眠られますことを
お祈り申し上げます。



また、長文をお読みくださいましたちーろぐをご愛顧下さる皆様
本当にありがとうございました。

情報としては、抜けており不足していることばかりであります。
ちーろぐが旅したちーろぐの感想と思いでありますゆえに
何卒お許し下さいませ。
もし、機会がありましたら、是非とも知覧へお出かけ下さい。







受け継がれる鳥浜トメさんの志 2

2006-07-25 13:43:33 | そぞろ歩き
「伝え間違えてはいけないよ。
 あの子達の供養と、この国の安全と発展を祈るんですよ」

これがトメおばあちゃんの口癖でした。

にっこり笑って、涙ひとつも見せないで
日本のために、早く行かなければならないのですよ。
と言って出て行った特攻兵士達の供養は、
彼らが願って止まなかった、日本の発展と平和のための祈りと
一直線に通じていたのでした。

そして、トメさんは
「生きれども、生きれなかった人」がいたことを
決して忘れてはならない。と強く強く語られました。

この国のために・・・・・
現在では、『国』という言葉を使うと、すぐに右や左や
とその人の思想を特定しようとしたりするきらいがあります。
しかし、国を思うこと、国を愛すること
この『公』の思いのために、自ら『私』を捨てて
身を捧げた「生きれども、生きれなかった人」若者の
『公』に尽くした生き方に、私達は学ばなければならないのでは
ないでしょうか。

『私』ばかりが巨大化し、『公』の意味が忘れ去られた社会は
もはや共同体の姿を失い、育つべき「思いあう心」が育てられる
土壌すら消えようとしてしまうのではないでしょうか。

トメおばあちゃんは、
「生きれども、生きれなかった人」若き特攻兵士達にその
『公』の崇高さと、『今、自分が相手にもってなす行為』の
尊さを教えてくれているようでした。

戦後、知覧を訪れる多くの人々にトメおばあちゃんは
常に目じりに涙を浮かべながら、彼らのまさにここにあった命を
語られました。
そこで語られる話は、よく平和の願い、日本の悲しい歴史として
紹介されがちですが、それは戦後の歴史観に基づいたほんの一面
でしかないことを今回は強く感じました。

トメさんは、彼らの死を言い尽くせない悲しみとして背負いながら
彼らが、ただひたすら尊い使命を抱いていたことも語っておられるのです。
それは、人は、生きても死んでも「その人に与えられた使命」があることを
伝え、その使命を果たさんと願うところに、輝きが与えられることを
伝えているのではないかと感じました。

「生きれども、生きれなかった人」若き特攻兵士達が願った
『国』の平和と発展を願う『公』の思いに、今一度私達は
立ち返らなければならないのではないでしょうか。

『国』思う心・・・それは万里を越え
『郷』思う心になり
『父母』思う心と結びつき
『人』を思い合う心を育てる

そのようにトメさんは「当たり前」なことなんだよ、と
教えてくれているようでした。

「生きれども、生きれなかった人」彼らの心を
無にして生きないでおくれ。

トメおばあちゃんの人生をかけた
このメッセージを私は、聞かせていただいたように思いました。



今はサッカー場と野球場になった飛行訓練場跡に立つ
トメおばあちゃんです。
向こうに見える給水タンクを目印に、特攻兵士達は
飛び立ちました。

トメおばあちゃんは、確かに聞いていたのです。
「おばちゃん、人生50年と言うけれど
 俺は20才で逝くよ。
 俺の残りの人生を全部おばちゃんにあげるから
 元気で長生きしておくれよ。」

「生きれども、生きれなった人」の人生を無駄にしては
ならない、彼らが伝えたかった思いを語り続けたトメおばあちゃんは
多くの人々に、「今生かせれてある生に与えられた使命」を
見つけてほしいと伝えるられました。


散るために 咲いてくれたか さくら花
  散るほど もののみごとに ちりにけり
 (トメさんが遺した唯一の歌)

受け継がれる鳥浜トメさんの志 1

2006-07-24 14:23:56 | そぞろ歩き
私の知覧訪問日記にお付き合い下さりありがとうございます。
知覧で出逢わせていただいた全てのことに感謝しています。
中でも、泊めていただいた富屋旅館の女将さんには多くのことを
教えていただきました。

朝食を頂いている時、女将さんは
「良かったら、8時半からお話をさせていただいていますので
 お越しになられますか?」とお声をかけてくださいました。

8時半、他の宿泊者と一緒に富屋旅館の広間で
トメおばあちゃんと特攻兵士のこと、そして
トメおばあちゃんが伝えておくれよと言い残したことを
お話いただきましたので、最後にご紹介させていただきます。


 富屋旅館の女将さんです。
 女将さんはトメおばあちゃんのお孫さんのお嫁さんです。
 ご主人が交通事故で亡くなられてからは、トメさんと共に
 旅館を守り、現在はトメさんの志を語り伝えておられます。



  富屋旅館の広間は、富屋食堂の離れとして当時開放され
  特攻兵士達が、くつろいだ場所です。
  柱、さんぎ、等当時のままが残されています。



  この柱に兵士達が背をもたれて、飲み、語り歌ったのかと
  思いを馳せました。

富屋食堂 4【生き残った者達と共に生きる】

2006-07-23 14:08:39 | そぞろ歩き
富屋食堂での物語は宮川さん、光山さんだけではなく
他にも数々あり、ご紹介し切れないほどです。

悲しみを抱きつつも、特攻兵士達の最後の時を
心からのもてなしを行い続けました。
時には、憲兵がトメさんを時間外営業をしたとの理由で
暴行を加えたこともありました。
しかし、トメさんは
「私は、あの人たちからお金をもらっていない
 お金をもらっていない以上客ではない。
 何も言われることはない。」と言い返し、さらに殴られたのでした。

そして間もなく、終戦の日が訪れました。

特攻基地があった知覧にはアメリカ兵が乗り込んでくるから
という理由で、特攻兵士をはじめ軍関係者は
瞬く間に引き上げていき、関係資料はことごとく焼却されていったのです。

たまたま、トメさんと次女は特攻基地へ花を手向けに
歩いていたところ、ゼロ戦機がバラバラにされて今まさに
焼かれようとしているところを通りかかりました。

ふと足を止めたトメさんは、くず折れるようにその場に
じゃがみこみ「私があの子達を殺したのも同じだ」
と涙を流したのでした。

心が張り裂けそうな思いになりながらも、
立派にお国のために死んでおいでと、若者を奮起させ、
見送った自分をトメさんは悔やまれてならなかたのです。

この若者達の死を、無駄にしてはならない。
彼らの死を自分の全人生をかけて、伝えなければならないと
心に誓い、彼らの供養に人生をかけた日々が始まったのです。

雨の日も風の日も、暑い日も寒い日もトメさんは
一輪の花を持って特攻基地跡へ向かいます。
そこにあった飛行機の残骸の一部を特攻兵のお墓として
そこに花をたむけ続けました。

そんなある日、トメさんのもとを特攻兵士の生き残った方が
訪れました。
彼は、「自分は生き残ってしまった」この思いにさいなまれ
この知覧の地で戦友と共に過ごした日を懐かしんでから、
友のところに自分も行こうと考えていたのでした。

その思いを察知したトメさんは、
「死んだものにも、生き残った者にも
 死ぬ意味、生かされた意味があるのですよ」
「死んではなりません。」
と自らも涙を流して、励ましたそうです。

トメさんもまた、生き残ったことを悔やみ、悩み、
その意味を探り続けた人生であったことを思う時、
時代の荒波。。。などという言葉では到底語りつくせない
人間の葛藤があったことを知らされました。



富屋食堂 3【アリランと共に逝った光山さん】

2006-07-22 11:47:36 | そぞろ歩き
「こん光山さんちゅう人は、朝鮮の方じゃったんよ。
 自分の国じゃなかやのに、飛んでいきなったんよ」

「こん人が私は、ただ不憫で不憫でならんのよ」

このように、光山さんのことを語るトメおばあちゃんが、
最も大切にしていた写真がこの写真です。



いつものように、富屋食堂にはたくさんの特攻兵が
集まり歌っていました。
常に、寡黙であまり多くを語らない光山さんでしたが
初めてトメおばあちゃんに会ったときから

「私は、朝鮮人です」

と打ち明けていたのでした。

祖国を離れ、一年前に母を失ったという光山さんを
トメおばあちゃんは、ことの他かわいがり面倒を見ていました。

そんな静かでありながらも、温かい日々を光山さんは
本当に心から喜び、トメおばあちゃんを慕っていました。
しかし、光山さんにも出撃の命令が下ります。
出撃前夜、富屋食堂の一角にあった土間で
光山さんは、トメおばあちゃんに最後の別れを告げたのでした。

「おばさん、お世話になりました。
 明日行きます。
 私は、生まれてからおばさんのように親切な人には
 会ったことがなかったよ。本当にありがとう」と

「最後に私の国の歌を歌うよ。」
 
 トメさんと、二人のお嬢さんはじっと光山さんをみつめていました。
 
   アリラン アリラン アラリヨ
   アリラン峠を 越えていく
   私を捨てて 行く君は
   一里も行けず 足痛む

帽子を目深に下げた光山さんの目には涙が溢れていました。
2回目はトメさんも歌いました。
そして4人で、3回このアリランを歌い、
自分の形見として、と黄色い巾着財布をトメさんに託したのでした。

深々と頭を下げて、電燈の向こうに消えていく光山さんの
最後の姿をトメおばあちゃんは、忘れることが出来なかったそうです。

光山 文博少尉は、本名は卓 庚鉉とおっしゃいました。
京都薬科大学から学徒出陣で、特攻兵を志願したのには
光山さんの悲痛な願いが込められていたのではないかと、
考えます。

当時、朝鮮人であることは大変な差別の原因でありました。
その差別の中、国の英雄として崇め奉られた「特攻兵」
に自分が志願すれば、父やや兄弟達が差別から開放されるのでは・・・
との思いから、志願したとも言われています。


このように特攻兵士の中には、11人の朝鮮人(当時)が
含まれていたのですが、戦後彼らが慰霊名簿に加えられるのにも
時間がかかっていることも覚えていただきたいと思います。

トメおばあちゃんは、戦後写真や遺品を遺族に返す活動を
続けていました。
しかし、どうしても光山さんの遺族に会うことが出来ず、
形見の黄色い巾着財布と写真をなでながら、

「わたしんところに、こいがあるっちゅうことは
 悲しいことなんよ。
 こん光山さんは、ご遺族を探してあげられんじゃった
 ほんとに、不憫なお方なんよ。」

今も光山さんの財布と写真は、トメおばあちゃんの腕の中で
慈しまれているのです。