ちーろぐ

今日の出逢いに感謝を込めて

さかなクンの話

2007-01-10 23:01:03 | 教育
「さかなクン」という愛称を皆さん聞かれたことがありますか?
現在は東京海洋大学客員助教授として活躍している「さかなクン」

とにかく並外れた魚の知識で、魚の世界の魅力を生き生きと語って
くれる姿が印象的です。

そんなさかなクンが、話しておられた魚の話です。

  集団で回遊する性質を持つある小魚を、もっと快適な環境で
  飼育しようと大きな水槽に移し変えた時。
  さかなクンは、魚達がさぞ気持ちよく泳いでくれるだろうと
  わくわくしながら眺めていました。
  すると、その中の1匹だけがどうも様子がおかしいのです。
  仲間とすいすい泳げないでいます。
  よく見ると、一匹だけが一緒に泳ぐのを仲間から拒絶されて
  いるかのように行く手を邪魔されています。
  「あっ!これだけいじめられてるんだ」と思ったさかなクンは
  この一匹を水槽から取り出しました。
  しかし、しばらくするとまた別の魚が同じようにのけ者にされて
  いるではありませんか。
   驚いたさかなクンは、ここに「いじめ」の本質を見たようだ
  というのです。
   つまり、いかなる社会にもいじめは存在する。
  魚の世界にもあるのだから。いじめられる人が、その場からいなく
  なれば、いじめがなくなるのでも何でもない。
  集団がある限り、いじめが存在し続ける。というのが本質だそうです。
   だから、自分がいなくなりさえすれば・・・などと決して思わないで
  ほしい。というものでした。

このさかなクンの言葉は、本当に人間社会の本質を表したものだと
思いました。

一見悲しく思える現実の中で生きる。ここに「生きる」真実があることも
感じました。
辛く、悲しく、絶望の淵に立つときも、必ず逃れ出る一筋の光があると
もう一度叫びたくなりました。

2006-12-05 19:36:49 | 教育
ヤンキー先生の別名で知られる義家弘介さんが、早朝のテレビで
語られた言葉に感動した母が、私が起きるのを待ちかねたように
その内容を教えてくれました。

『子どもの変化に親はいつ気づくことが出来るのか?』

この問いかけに対する答えとして語られたとのことです。
義家先生は迷いなく、それは『朝』だと仰いました。

『朝』という字を良く見てみると、
 十月十日という文字の組み合わせでできている事に気づくでしょう。
 
つまり『朝』とは、母の胎から産まれ出た喜びを与えられていると、
義家先生はお話されました。
だから、誰もが迎える『朝』は、全く新しく輝かしいのだと、
喜びをもって語られたそうです。

その朝、おはようと声を掛けた時の子どもの声・顔・様子、
その中にこそ、子どもが抱いている思いが集約されている
と伝えられました。

確かに、子どもでなくとも私自身を思い返しても、朝目覚めた時が
最もその時置かれた状況に対する心理状態を現しています。

今日の活動が楽しみで仕方がない日の朝・・・
  おはようの声も軽やかに、弾んでいることでしょう。

一転、気乗りのしない、むしろ嫌な仕事をしなければならない日・・・
  起き出すのもやっと、家族のいつものおはようもいささか
  能天気な声に聞こえがち。

どのような朝を迎えられるかは、これまた日々の生き方に
関わってくると痛感しました。

十月十日の愛情を注がれて産まれ出た『いのち』と同じように
自分の努力や計画など何もしていないのに与えられる『朝』。

感謝せずにはいられない思いになった朝でした。

いよいよ教員免許更新制度実施へ

2006-12-04 18:22:27 | 教育
中教審より厳格化、教員免許5年更新・試用3年へ

 教員免許更新制度のあり方を検討している安倍首相直属の
教育再生会議(野依良治座長)は4日、
〈1〉免許の更新期間を5年間
〈2〉正式任用前の「条件付き任用期間」(試用期間)を
  現在の1年間から3年間に延長――
とする方向で最終調整に入った。

 中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)が答申した
「更新期間10年間で研修30時間」では、
不適格教員を排除するには不十分だと判断した。
今月8、9日に開く分科会の合宿審議で詳細を詰める。
来年1月の第1次報告に盛り込み、通常国会に関連法案を
提出する方針だ。

 中教審答申よりも更新期間を短縮し、「試用期間」を延長するのは、
教員免許制度の運用をより厳格化し、首相が唱える
「教育現場からダメ教師を排除し、教育の質を高める」
ことにつなげる狙いがある。

        ≪読売新聞より引用≫

やはり現在の教育現場の状況に大きな危機感を持った証のような
『教員免許更新制度』になりそうです。

先生方も5年という短いスパンで、自身の教師としての『質』が
確かであることを示さなければならず、前向きな導入で成功すれば
大きな成果が期待できると思います。

その一方で、懸念されるのは、人間としての幅を失った
ロボット先生が誕生するのではとの点ではないでしょうか?

教育が人間の人格形成に対し、全人間としての基礎つくりを
行わなければならないという観点において、この免許更新制度の
中に、『何を持って良しとするのか』の指針が明確であることを
求めたいと思います。

教師の全人間としての成長なくして、教育の使命が果たされる
ことがない。と言うことを私は感じています。

始めから完全な人間はいません。
一部の類まれなる才能に恵まれた人以外は、ほとんどが平凡な
人間であると思います。

しかし
「凡夫なれども、聖人たらん」生き方を学び、身に付けて欲しいと
思うのです。
そこに到達しようと願う時、私達の喜びと輝きが生まれると
思うからです。

先生にしか出来ない『業』を貫いて下さることを心から願います!

教育再生会議「いじめ問題への緊急提言」に思う

2006-11-29 02:07:24 | 教育
いじめ「見ぬ振りも加害者」・・・教育再生会議が緊急提言

安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は29日午前、首相官邸で、
首相も出席した総会を開き、「いじめ問題への緊急提言」をまとめた。

 提言は8項目で、いじめをした児童・生徒に出席停止など
厳しい措置を取ることを念頭に、問題行動に対する指導・懲戒基準を
明確にして毅然(きぜん)と対応するよう求めたほか、
いじめにかかわったり、放置・助長したりした教員を懲戒処分の対象
とすることなどが柱だ。いじめを傍観した児童・生徒の指導強化も盛り
込むなど、踏み込んだ内容となった。

 首相は総会で「いじめは社会全体で真剣に取り組むべきだ。
政府も真摯(しんし)に受け止め、提言を具体化するよう努力したい」
と語った。

    ≪読売新聞 より引用≫

『出席停止』という言葉だけがなぜか独り歩きし、今もって本質的な
問題点になかなか近づけないもどかしを、誰もが感じているのでは
ないでしょうか?

●いじめにかかわったり、放置・助長したりした教員を懲戒処分の対象
 
 この当たり前のガイドラインが示されたことに意義はあると思いますが


●問題行動を取った生徒への毅然とした指導

●見て見ぬ振りをした者への指導の強化

 との提言の中のキーワードである『指導』の部分は、全て学校裁量と
 さらに言えば、教師の裁量に委ねられているのです。
 
 大多数の教師が、大学では教職取得課程では教科の知識の習得はあっても
 その指導法や、教育学や保護者への対応などはほとんど学ぶ機会もなく
 採用後は教壇に立つのです。

 新人研修と呼ばれるガイダンスは行われますが、それも先輩教師による
 指導であり、その先輩教師の価値観の中でどのような「指針」が
 示されているかの実態把握はよくわかりません。

 つまり『的確な指導』を謳えば、教育現場では『的確な指導』が
 施されるとの前提での、提案に多いに疑問を感じているのです。

多くの先生方が
 「今の子は、悪いことをいけないといっても、そのこと事態が
  通じない。親もまた然り」
と嘆きの言葉を吐露されていることをよく伺います。

『指導』することがどれほど難しく、この点において先生方が
迷いや困難を感じているかの現状認識が乏しい中で、この提言に
よって、この問題の突破口が開かれたように思うのは無理があると
思います。

だからこそ、
『何を』『指導するのか』
『その指導をいかに行うのか』の提言がなされなければ、
本質的な解決につながらないのではないでしょうか?

教育指導の本質は、
 ●全ての子どもに光を当てる
   ・・・発表の機会、発言の機会、言葉掛け
 ●人間社会の真理と普遍性を伝える
   ・・・日本の素晴らしい先人の人生を学ぶ
ことであると、私は思っています。

まどろっこしく思えるかもしれません。
これもまた遠くから進むみちかも知れません。
しかし、真理の追求なしに問題解決の道はないと思います。


諸行無常を伝えたい

2006-11-23 20:03:49 | 教育
『平家物語』の冒頭に語られる「諸行無常」のくだりを
覚えておられるでしょうか。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。


諸行無常とは、現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化する
ものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができない
ことをいいます。
この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法を現しています。

虐めを苦に命を絶つ子ども達に、この諸行無常の理(ことわり)を
伝えたいと思います。

子ども達は、小学生であっても高校生であっても生活空間や
接している社会が大変狭いものであるために、過酷な状況にあればあるほど
その状態が延々と続き、八方塞がりの心境に追い込まれてしまう。
これが、絶望となり自らを暗黒の世界へ導いてしまうことが
あるかもしれません。

しかし、人間の社会にあってその一瞬たりとも「常」なるものは
ありえないと、説いたこの教えはその状況と苦しみが続くことは
ないと教えてくれています。

今瞬間だけに捉われて、本当に大切なものを自らの手で葬って
しまうような愚かな思いを抱いてはならないのです。

具体的な対策はもちろん必要です。
しかし、人の世に横たわる真理を語ることもまた必要であると
強く感じます。


ストップ!いじめ

2006-11-18 22:43:04 | 教育


おそらく全紙に掲載したのだと思いますが、『ストップ!いじめ』
というメッセージが文部科学省から出されていました。

日常的に繰り返されるいじめがなくなることは、大変難しいと思います。
ならばどうするのか?
これまでの学校や家族の見解を見ると、「いじめに気づかなかった」
「いじめられてるようには感じなかった」という発言が目立ちます。

教育関係者は、いじめの事実認定をすることによって後におこる、民事裁判
や責任問題を見越しての発言も有るかとは思いますが、保護者は違うはずです。
ただでさえ思春期の子どもの心を読み取ることは、大変です。
自分の世界観を持ち、大人に対してはことさらに壁を作っていることが
多くみられます。

しかし、学校内では(クラスでは)確実に誰が誰からいじめられているか
は、ほとんどクラス全員が分かっているはずです。
自分の小中学校時代を思い出せば分かるはずです。

いじめられている子をかばう前に、いじめている子をかばってきたつけ
ここに問題の根が有るように感じています。
教室内で犯人探しをしてはいけない・・・
みんなで考えよう・・・
などと言う言葉で、虐めを矮小化してしまってはいけません。

誰かを虐めることが、黙認されるから子どもは絶望してしまう
のではないでしょうか?

「なぜ虐めはいけないの?」

私は色々な理屈はいらないと思っています。
「あかんことやから!」と言い続けたいと思います。
そして、自分で死ぬことも「あかんこと!」です。

教育基本法反対の声について

2006-11-17 20:25:31 | 教育
教育基本法に反対する北星女子中学3年生が首相に意見書を提出
したそうです。

 十六日、衆院本会議で可決された教育基本法改正案について、
北星学園女子中高(浅里慎也校長、札幌市中央区)の中学三年生
が同日、改正反対を訴える安倍晋三首相あての意見書を送った。
同校は現行の教育基本法をつくったメンバーの一人、
河井道(一八七七-一九五三年)の母校で、生徒たちは
「先輩がつくった基本法の精神を曲げないで」と訴えている。

 意見書はA4サイズで四枚。教育の目標として
「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを掲げた改正案について、
「国を愛する心は人それぞれが自分から思うものであって、
おしつけられるものではない」と指摘。
安倍首相に「本当に私たちの将来のことを考えてくれていますか?
返答をください」と求めた。

 社会科で教育勅語について学んだのがきっかけ。改正案で「愛国心」
が重視されていることを知った三年生一クラスの二十七人が「戦前の
ように心が強制されるのは嫌」と相談。連名で意見書を作成し、
安倍首相のほか各党、扇千景参院議長にファクスで送った。

 改正案に反対する声は学校全体に広がり、中学では署名活動も行い、
高校も意見書を作成したほか、一人ずつ反対意見を記したカードも募集した。
十七日にも安倍首相や伊吹文明文部科学相などに郵送する。

 高校三年の生徒は「国にとって好ましくない人物というだけで、
仕事などに影響が出るのは怖い」と訴える。意見書を送ったクラス担任の
北野聡子教諭(32)は「子どもたちの行動力に驚いた。
考える力が育っている証拠で、担任として誇りに思う」と話している。

  【北海道新聞より引用】


この記事を読んで、私の第一印象は社会会の時間で教育勅語を学んだと
言っても、どのよう観点で学んだのか?と疑問に感じました。
なぜなら、私自身小・中学校時代は、日教組バリバリの先生から
「望んで戦争に行った者などでれもいない、赤紙一枚で人の命を
奪う戦争ほど愚かなものはない。
戦前の教育は間違っていた。自由がなく、思想統制が図られ子ども達を
戦争へ送ってしまった責任は大きい」
と言うようなことを、何度も何度も言い聞かされたのを思い出します。

そのような言葉と関連つけて話される、教育勅語についても天皇から
くだされたもので、戦争に人民を駆り立てる思想的道具であったように
聞かされていました。

だから、戦後天皇がなぜ優遇(すみません)されているのだろうと
大きく疑問に感じた時期もあったほどです。

今思えば、なんて純粋でいたいけな子どもにしかも絶対的な立場の
教師が一面的な教師の思想を押し付けていたものだ、と辟易とします。

この中学生も、ある意味まじめで純真で潔癖で正義感溢れる生徒なのでしょう。
しかし一面、全くもって欠如していることがあると思います。
奇しくも、担任教師が『考える力が育っている証拠』と語っていますが、
この考える力の根底に必要なことが、教えられていない。ことを思います。

考えるためにには、そして、自分の意見を導き出すためには、
多面的な情報の収集と精査が必要であることを、この学校では教えていない
ことを露呈しているからです。

このような学校のありかたこそ、戦前のような情報操作と思想操作が
起こりうる土壌のような気がしてなりません。

それにしても、この学校の社会科教師の教育勅語の授業を、一度受けて
みたいものです。







心の教育とは・・・

2006-11-13 19:19:58 | 教育
この2ヶ月いじめが原因での自殺報道がなかった日はありませんでした。
子どもが死に、先生が死に、学校のなかで「死」に直面した日が続いて
います。徐々にこの問題が、教育という枠の中でだけ語ってたのでは
埒が明かないことを、切実に感じ始めているのではないでしょうか?

「命を大切に」
「心の教育」

と言葉では語られますが、なぜ命が大切なのか。そして大切にするとは
どういうことなのか?
また、心の教育とは具体的に何を子ども達に語ればいいのか?

大人は目の前にいる我が子に迫る状況に、非常な危機感を覚えながらも
具体的な策を求めつつ、「今」の子どもの有り方を見守っておられるのでは
ないでしょうか。

私はいじめ問題を解決するため、ではなくもっと抜本的な教育構造の
改革が必要であると考えます。
現在の学校教育で抜け落ちた内容に光を当てることだと思います。

●道徳教育
●日本近代歴史教育
●宗教教育

それがこの3点であることを、青年塾の上甲塾長から教えていただきました。

「道徳教育」・・・
 大戦後、道徳教育の大部分は墨で塗りつぶされ日本人の素晴らしい
 思想や行為全てが『軍国主義につながる危険思想』と排除されて
 しまったのです。
 このブログにも何度も書きましたが、道徳教育が軍国教育なのではなく
 戦時下においては、あらゆる物が戦争のために用いられる状況でを
 余儀なくされるのです。
 だから、戦争はまさしく恐ろしいモンスターなのです。

「日本近代歴史教育」・・・
 皆さんは小・中学校時代どのよう日本近代史を学びましたか?
 私は、徹底的に侵略国家日本の凶行と、それを素地にした反戦教育
 でした。そのような一面は確かにあったと思います。
 しかし、そのことをもって近代日本人全てが傲慢で残虐であった
 と教えてきた日教組の教育は、これこそ糾弾されるべきです。
 
 日本の独立と自立のために心血を注いだ日本人に、気概と気骨
 を感じないではおられません。
 
「宗教心」・・・
 国家神道という宗教によって天皇は現人神とされ、日本人は泥沼の
 戦争に入り、罪のない国民の命を奪った。その反省に立ち、宗教は
 信教の自由によってこれを押し付けることは出来ない。
 との思想から、戦後公教育において、宗教は徹底的に排除されていました。
 全くのタブーであったとも言えるでしょう。
 
 しかし、思い出してください日本人は古来より農耕民族として
 大地を耕し、作物を植え、収穫する生活を営んできました。
 彼らは、収穫をもたらす天を神とあがめ、恵みを感謝し祈る
 敬虔な心を持った民族であったはずです。
 村祭りは全て神に捧げる感謝の祭りなのです。
 なのに、宗教がタブーだとは全く理解できない発想です。

 ひとつの宗教をことさらに教えること、が宗教教育なのはありません。
 宗教の持つ意義とそこにある倫理観と、哲学を伝えるのです。
 
 大東亜戦争敗戦の反省とGHQから教えられた自虐史観で、日本人は
 本当に【民族としての根】を失ってしまったのではないでしょうか?

 
漠然とした言葉で「心の教育」を謳っても、子どもの心には届かない
と思います。
戦後教育を受けた私達ですが、今ならまだ間に合います。
かの時代を生きた、人生の先輩がいらっしゃる間に大人である私たち自身が
学び、子どもに伝える言葉を持ちたいと願う者です。

 

止まらないいじめ

2006-11-04 16:22:45 | 教育
中2男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した福岡県筑前町立三輪中で、
この男子生徒をいじめていたとされるグループが事件後も別の生徒にいじめを
繰り返していたことが分かった。
学校側は遺族側に「再発防止を目指す」と繰り返しているが、いじめ対策が
進まない現状が浮き彫りになった。

複数の関係者によると、新たないじめを受けているのは自殺した男子生徒と
同じ学年の別の男子生徒。暴力的な行為はないものの、言葉によるいじめ
だったという。

男子生徒の自殺後、間もなくいじめグループが別の男子生徒を対象にした
いじめを始め、見かねた他の同級生が保護者に相談し、保護者が学校側に
通報した。学校側はこの保護者に「実際に新たないじめがあるかどうか調査中」
と説明しているという。

同級生の保護者によると「いじめのやり方は亡くなった男子生徒と全く同じ
と聞いている。学校は一体何をしているのか」と憤っている。

自殺した男子生徒は自殺直前に7人の生徒からいじめを受けていたことが
判明している。同中にはこの7人を含む多人数のいじめグループがあり、
新たないじめもこのグループの生徒が繰り返しているという。

男子生徒は死の直前まで「消えろ」など言葉によるいじめを繰り返し受け
「いじめが原因です。いたって本気です。さようなら」などと記した遺書を残し、
先月11日に自殺した。自殺した男子生徒の父親(40)は「また息子と同じよう
ないじめが起きているとすれば許せない。つらい思いをするのは私たちで十分だ」
と話している。
    ≪mnsニュースより引用≫


この記事を読んで、言葉に出来ないいたたまれない思いになったのは
私だけではないと思います。
どうなっているんだ!と怒鳴る気力すら失せ果てるような、失望感と
絶望感と脱力感を感じています。

彼らの心の中を切り裂いて、流れる血にぬくもりがあるのか確かめられる
ものならば確かめてみたいと思うほどです。
もはや、現状を誰かの責任にしても何ら解決にならないことを、子どもから
突きつけられていると思います。

私を含む大人すべてが、彼らのような子どもをつくったことにこそ真実がある
と思います。
間違ったことに対しては、半ば一方的であっても厳しく厳しく叱ることのできる
大人は疎んじられ、子どもに媚を売り、「好かれる大人」の姿を作り上げた
社会では、人間は本当に人間になれるのでしょうか?

子どもの可能性にだけスポットライトをあて、人間そのものに内在する
光と影を気づかせぬまま、そして教えぬまま教育を行ったつけが子どもを
冷酷な非人間的な人格に仕立て上げていることを感じます。

いじめは『虐め』と書きます。
人を虐待し、死にまで追い詰めた事実はまさしく「自殺強要罪」に相当する
大きな罪だと思います。

一人の人間を死に追いやるという、卑劣極まりないことをしながら
またもや別のターゲットに同じ行為を繰り返す彼らを、かばうことも
許すことも出来ません。
このまま野放しに学校にいさせていいのだろうかとも思います。

この学校では、先生がいじめを誘発したために、先生の権威も地に落ち
もはや無法地帯と化していることすら危惧します。

どうぞどうぞ、死を選んだ悲しさとかきむしられるような心の叫びを
わずかでも感じる感性を育ててください。
そして、私を含む全ての大人がそれを伝えることに本気になりましょう。





ねじれた教育改革

2006-10-30 18:37:02 | 教育
連日校長先生が謝罪し、教育委員会は権威を失い、文科省は遺憾の意を
表明し続けています。
ついには、履修偽装問題で校長先生の自殺まで起こってしまいました。

もはやこの未履修問題は、全国的に深々と浸透していた公然の事実が
表面化したものであり、決して教育現場では不信感も罪悪感もなく
行われてきた既成事実であることは明白ですね。

「まじめに取り組んだものが損をすることだけはないように」
と口々に政治家は言いますが、『学ぶ』ことが「損をする」と
いう捉え方事態が、教育の本質から大きく逸脱しているように感じるのは
私だけでしょうか?

長年、念仏のように『教育の機会均等』と謳いながらも、
実は学ぶべきこと、教えられるべきことを学校側の勝手な判断で
なされなかったのです。
つまり、教育の機会均等など存在しないことが露呈されました。

最近は、教育予算の配当を一律固定の地方交付税交付金として
各地方自治体に交付すること事態を減らして、様々な目的に対して
積極的に「○○をしたい」との意欲に予算をつけようと、予算配当の
あり方そのものが変化してきました。

しかし、様々な問題を受けて学校を、もっと国の監督下にしっかりと
置いて欲しいと言う声が大きくなりつつあるのです。

学校の裁量権を広げ『特色ある学校づくり』を目指す取り組みと
教師のあり方を含めて『国が監督責任をもった学校つくり』。
まさしく教育政策のねじれが起こりつつあります。

これほど教育と学校と先生がクローズアップされることはないと思います。
この中に最も欠如した観点は、子どもではないでしょうか。
教育が大きな転換期を迎えているのではなく、大人が「教育の本質」に
立ち返るべき時が来た事を自覚して、この問題に立ち向かうことを
心から願います。