ちーろぐ

今日の出逢いに感謝を込めて

マイ☆バースデイ

2006-10-31 19:04:48 | つれづれに
本日、誕生日を迎えました。

いくつになっても自分の誕生日だけは、何だか特別な日ですよね。
いつものように仕事をしながらも、「誕生日」というキーワード
が、頭の中をぐるぐる回っていました。

そんな中でふと思い出したことがありました。
私が高校3年生の時、大学受験の推薦入試のための学校面接で
校長先生から「あなたの死生観は?」と聞かれたことです。
死生観・・・と言われても、的確な答えに到達できずに、とっさに
「人は誰でも死にます。死ぬことを見つめて生きることで
 人間は本当に生きると思います。」
と言う感じで、訳の分からない答えをしたのを覚えています。

「誕生日」は文字通り「誕生した日」です。
それは、人が「生まれ」た日です。
しかし、人は生まれた途端に「死」に向かっているのですから
まさに限られた間、「命」を預けられた存在のようなものですね。

「命」を預けられたものと思えたならば、またその預けられた時間を
いかに過ごそうか、そしていかに用いようかを、わが身に問わなければ
と思います。

生と死の間にあるひと時の命だからこそ、かけがえのないものである
とつくづくと感じます。

私が生まれた日少なくとも私の両親は、私の命の誕生を心から喜び
こぼれおちる笑顔で私を迎えてくれたことでしょう。
ならば私が死を迎えた時、預けられていた命がどなたかの笑顔に
つながるような死でありたいと思いました。

私もいよいよ人生本番!
まだまだ山あり谷ありを繰り返すとは思いますが、わが身に恥じる
ことのない生を生きたいと思った一日でした。

私を選んで預けられた命を輝かせるために頑張ります!


ねじれた教育改革

2006-10-30 18:37:02 | 教育
連日校長先生が謝罪し、教育委員会は権威を失い、文科省は遺憾の意を
表明し続けています。
ついには、履修偽装問題で校長先生の自殺まで起こってしまいました。

もはやこの未履修問題は、全国的に深々と浸透していた公然の事実が
表面化したものであり、決して教育現場では不信感も罪悪感もなく
行われてきた既成事実であることは明白ですね。

「まじめに取り組んだものが損をすることだけはないように」
と口々に政治家は言いますが、『学ぶ』ことが「損をする」と
いう捉え方事態が、教育の本質から大きく逸脱しているように感じるのは
私だけでしょうか?

長年、念仏のように『教育の機会均等』と謳いながらも、
実は学ぶべきこと、教えられるべきことを学校側の勝手な判断で
なされなかったのです。
つまり、教育の機会均等など存在しないことが露呈されました。

最近は、教育予算の配当を一律固定の地方交付税交付金として
各地方自治体に交付すること事態を減らして、様々な目的に対して
積極的に「○○をしたい」との意欲に予算をつけようと、予算配当の
あり方そのものが変化してきました。

しかし、様々な問題を受けて学校を、もっと国の監督下にしっかりと
置いて欲しいと言う声が大きくなりつつあるのです。

学校の裁量権を広げ『特色ある学校づくり』を目指す取り組みと
教師のあり方を含めて『国が監督責任をもった学校つくり』。
まさしく教育政策のねじれが起こりつつあります。

これほど教育と学校と先生がクローズアップされることはないと思います。
この中に最も欠如した観点は、子どもではないでしょうか。
教育が大きな転換期を迎えているのではなく、大人が「教育の本質」に
立ち返るべき時が来た事を自覚して、この問題に立ち向かうことを
心から願います。



バザー開催!

2006-10-29 20:30:22 | つれづれに
今日は私が毎週通う教会でのバザーが行われました。

大阪南部の浜寺の地に教会が建てられて56年が経ちました。
閑静な住宅街に教会はありますが、通りがかりに教会があるな
と思われても、なかなか入りづらいなという方も多いかと思います。

地域にあって少しでも教会を知っていただきたい。
そんな願いを込めて、私の通う浜寺教会では毎年バザーを
行ってきました。

ご近所に住む方々は、毎年とても楽しみにしてくださり教会へ
足を運んでくださいます。
教会員も半年前から準備を重ね、豊かなバザーを作り上げるために
様々な取り組みをしてきました。
手作りの品を心を込めて作成し、当日は朝早くからおいしいご飯を
作って下さいました。

教会学校の子ども達も、当日はエプロンに三角巾をかぶって
食堂係として活躍してくれました。
お天気にも恵まれ、本当に楽しく温かなバザーが催されましたことを
心から感謝いたします。

 
手作りのクリスマスツリー

 手作りのアドベントカレンダー

キリスト教の教会では、約一ヵ月後からアドベントという期間に入ります。
これは、クリスマスまでの準備期間のようなもので、クリスマスの喜びを
待ち望み、様々な準備を行います。

プレゼント交換やパーティーだけではない、教会でのクリスマスを
過ごしてみるのも素敵ですよ。






社内ISOから生まれる喜び

2006-10-28 22:18:16 | エルピス
当社エルピスでは、かねてより社内ISOを推進してきました。
社内ISOって何?
それは、本当に小さな取り組みの積み重ねです。
例えば、ゴミを出来るだけ分別する。
使わない箇所の電気は極力消す。リサイクルできるゴミ類は
全て処理場に持ち込む、梱包材料は全てリサイクル品で行う。
こんな感じです。

そのような取り組みの方法と心がけを教えてくれたのは、
青年塾で出逢った「イエローハット」さんの会社方針でした。
『ひとつ拾えばひとつだけきれいになる』このように、ゴミを
拾い続け、掃除を信条に会社経営を支える鍵山秀三郎相談役の
佇まいは、まさに神々しさを感じるほどです。

わずかなことの積み重ねを続けることで、大きな差を生み出すことは
誰でも知っていることです。
しかし頭では知っていても、実際に行動に移すことがどれほど大変か
またそれを継続することに、どれほどの信念が必要かを今当社は
社内ISOを実践する中で、痛感しています。

そんな中、先日から何度か嬉しいお言葉をお客様から頂きました。
初めての配送便で商品をお届けした時、廃材で作った当社オリジナルの
梱包財で商品を保護しお送りしたところ、わざわざ
「とても丁寧な梱包で送っていただいてありがとう」とお電話を頂きました。

社内ISOから生まれた梱包財を通して、お客様との心の交流が
できたことをみんなで喜び合いました。
そして改めて、この取り組みの大切さと素晴らしさを実感し、
徹底して実践することを心に誓う日々です。

ご一緒に身近なISO初めてみませんか?

学校教育まで「偽装」なのか

2006-10-27 18:38:38 | 教育
本当に日本の教育は何を見失ったというのでしょう。
古くからの言葉に「箍(たが)がはずれる」という言葉があります。
箍(たが)とは、樽などの組み木で作られたものを金属でかがりとめる
もののことをいいます。

教育における「箍(たが)」とは、まさしく世にあって正しいことを
正しくある規範であると思います。
しかし、その「箍(たが)」が、全くはずれてしまったのです。
しかも、受験という一点で教師達は『偽装』をした上、そのつけを
全て生徒にまわすというのです。

公教育の改革・・・・
安部首相が掲げる教育改革の根源において、行われ続けた悪しき習慣
に自浄作用をもって改革を促すことは出来るのでしょうか。

皆さんは、高速道路を走行中に不届きな高級車が路肩をわがものがお
に走行する姿に憤りを感じたことはありませんか?
全ての「偽装」は、この状態にとてもよく似ていると思います。

寝る間も惜しんで、血のにじむ努力をしながら勉強する生徒を横目に、
受験勉強に効率的であるからと、必須教科の学びをすっ飛ばし
我こそ「勝ち組」とばかりに結果に酔いしれる。

路肩走行が規則違反であることをしりながら、見つからなければ
それでいい。
つかまらなければそれでいい。
見つからないように『偽装』を施す。
ここに「教育」が行われる土壌があるのでしょうか?

今日、都立高校で校長が生徒に謝罪を行う姿が流れました。
「皆さんに一点の非もありません。誠に申し訳ありませんでした」
この校長の言葉に生徒からはどよめきが起こりました。

一体誰に責任があるのか!

これを明らかにせず、問題解決と繰り返し、大人の事情だけを
子どもに押し付けて弁明をする姿に、生徒は絶望と同時に
自分達だけ、今発覚した自分達だけがとても運が悪かったと
思うのではありませんか?
去年までの高校3年生は、この偽装で正規走行する他校の生徒より優位に
受験勉強できたのに、自分達だけ全く不利ではないか!
この怒りが第一になっていると思います。

それでは、この問題の「根」に議論が及ばないと危惧しています。
本来の教育が務める役割を放棄し、受験カリキュラム化した授業が
教育であろうはずかありません。

路肩走行を平気で行う「下品」な教師と学校は、
断じて許されないことを真摯に受け、徹底的な改善を行う事を願います。

大人の背中がこれほどに痩せて、汚れてしまってはいけません。
立派な教師は背中が薄汚れたりはしていないはずです。





これってマクロビオティック!?

2006-10-26 18:34:51 | 美味しいもの
今日は以前お店で食べてとてもおいしかった雑穀米を
炊いてみました。



ひえ・大麦・もちきび・大豆・玄米・あわ・というもろこし
などなどがたくさん入った雑穀米は、香ばしく味わい深く
おいしかったです。

これを頂きながら、これって今流行のマクロビオテック!?
と一人で、急に健康になったような気分になって食事をしました。

マクロビオティックとは・・・
桜沢如一氏(1893~1966)が、自身を蝕んだ肺・腸結核や、その他の大病を
日本の伝統の食生活と生活態度によって克服した経験から、「食養生」として
研究・確立したものが、始まりだそうです。
桜木氏の食の概念には、古来、その土地土地の人々が育んできた食生活の伝統に、
中国の易の陰陽を融合した哲学的な側面もあります。桜沢氏はこの食養生
「マクロビオティック」を人類の健康の源、ひいては平和の源だとする考えから、
世界平和運動として、マクロビオティック、そのライフスタイルの普及・伝播の
ために、30カ国以上を訪れ、7千回以上の講演を行いました。

 この食養生「マクロビオティック」の教えを久司道夫氏、岡田 定三氏などが
引き継ぎ、現在、啓蒙・発展活動に精力的に尽力されています。

 マクロビオティックは、ギリシャ語で、「マクロ=大きな」「ビオ=生命」
「ティック=術、学」からなる言葉で、「偉大なる生命」を意味し、
自然の生命力を、食を通じて人体に取り込むという所作を表現しています。

マクロビオティックの考え方では、食べ物は、そのまま、あるがままに、
丸ごと食べるべきだということになります。
穀物なら精米しない玄米を、野菜は皮も葉も根も全体を、
魚も頭から尾まで丸ごと。アクもとらず、ゆでこぼさずに加熱調理することで、
おいしく栄養満点の食事ができるという提唱です。
ただし、皮までいただくので、必ずオーガニックなものを選ぶ必要があります。

でも、よく考えてみると・・・・

このマクロビオティックな食事って、完全に昔の『日本食』ですよね。

玄米ごはんを食べ、根菜のお味噌汁を頂き、頭ごとめざしを食べる。
古くて新しい食事スタイルのことですものね!

こんなにおしゃれな感じの和食スタイルを皆さんもいかがですか?






グラミン銀行とユヌス総裁

2006-10-25 19:28:33 | つれづれに
2006年のノーベル平和賞にバングラディシュのグラミン銀行と
その総裁ムハンマド・ユヌス総裁が選ばれました。



ユヌス総裁は、貧困こそ人間の最も悲しい姿であり、
撲滅すべきものであると語り、世界一貧しい国といわれる
バングラディシュでも特に貧しい農村部の女性に無担保で
融資を行ってこられました。

グラミンとは「農民の」と言う意味だそうです。
グラミン銀行は働いても働いても豊かにならない貧困層の中で
もがきながら生きている人々の、光と救いとなっているのです。

貸し付けるお金はわずかです。
それを村の女性5人で組を作り、返済計画を立て、みんなで
頑張ろうとモチベーションを上げる助けを行います。
だから、返済率はなんと95%を越えているのです。
無担保ですが、金利は20%です。
激しいインフレが起こるバングラディシュでのこの金利は
決して高いとはいえません。

資金を手にした女性達は、雑貨屋を営むために使ったり
自前のミシンを購入して衣類を作ったり、それぞれが自活のために
何かを始めるのです。

大それた大仕事を始めよう!そんな計画ではありません。
一家が安定した生活を送れるための、ささやかな「立ち上がり資金」
これがバングラディシュの人々には必要だったのです。

以前このブログでも書きましたが、バングラディシュは世界一貧しい
と言われながら、世界一「幸福感」を抱いている人々が暮らす。と
言われています。

家族が揃って食事ができること、今日一日が笑顔で過ごせたこと
こんな当たり前の事柄を素直に喜べる人々が生きる国なのです。

ユヌス総裁はそんな素晴らしい心を持った人々に、もっと希望と
夢を描いて欲しいと願っておられるのではないでしょうか。

かつて、松下幸之助翁は
「貧乏は四百四病よりもつらい」と言いました。

世界ノーベル平和賞にこのグラミン銀行とユヌス総裁が選ばれたことは
世界における『貧困』こそが、様々な紛争と悲劇を生み、
『貧困の撲滅』こそが、人間性に基づいた『平和』を生み出すことを
メッセージとしているように感じました。

もっともっと日本でこの活動が紹介されるといいのにと思います。
貸金規正法の改定などの、大切なポイントもここにあるのではないでしょうか?


誰が救うのか!

2006-10-24 17:24:04 | 教育
京都でまた幼い命が奪われました。
父親と同居する女によって虐待を受け、3歳でわずか7キロにまで
痩せ衰えた餓死でした。

各報道によると男の子の異常な泣き声に近所の住民は皆
虐待を感じ、民生委員らと共に児童相談所に5回も通報を
行っていたとのことでした。

しかし、児童相談所は一度も訪問することなく電話応対のみで
緊急性なし、との判断をしたと会見を行いました。

ここに児童虐待防止法の一部をご紹介したいと思います。

●児童虐待の定義

(1)身体的な暴行

(2)わいせつな行為

(3)食事を与えない、世話をしないなどのネグレクト  

(4)心理的に傷つける言動

●早期発見による虐待児童の保護

学校や児童福祉施設、医療機関の職員や弁護士らに早期発見の努力義務を課し、
児童相談所に通告しても守秘義務違反を問わない。

児童相談所の職員らは虐待の恐れがある場合、児童の自宅などを立ち入り調査し、警察の援助を求める。

●親権の一時停止  

児童を保護しても保護者が「親権」をたてに児童を連れ戻すケースがあるので、
保護者の面会や通信を制限できるなど「親権」の一時停止を認める


このように記されているのです。
虐待を行った父親とこの女が裁きを受けるのは当然であり、
語る言葉も見つからないほどの鬼の所業であることは、明白です。
しかし、この子どもは誰かが救えたのです。

この子の6歳になる姉は、今年3月に虐待の上にはだしで歩いているところを
近所の住民に保護され、現在児童相談所で保護されているのです。
その同じ家の子どもについて、何度も通報があったにもかかわらず
一切行動を起こさなかった児童相談所は、この子を見殺しにした
張本人であるのではないでしょうか?

上記の児童虐待防止法に明らかに違反し、職務怠慢の上子どもの
命が失われたことを「残念でならない」などという常套句で語らないで
欲しいと思います。

彼ら児童相談所は、各地で何度もこのような見過ごしと放置を
繰り返してきました。
もう、お役所仕事に任せてはいられません。
一日も早く、民間でこの業務を担える団体が現れることを
心から願います。




二宮金次郎④『封建社会の中で生きる金次郎』

2006-10-23 20:02:09 | 先人に学ぶ
一家離散の上赤貧に耐えた金次郎がなぜ、足柄平原有数の地主にまで
登りつめることが出来たのか。
それは、封建社会にある『盲点』をついたものであったと言われます。

封建社会において、唯一租税がかからない土地は「開発田」でありました。
金次郎は、酒匂川の氾濫によって財産の全てを失った自らの経験を
生かした発想でした。
金次郎は自らの辛酸をなめた経験を、農地を救い、農民を救う社会活動に
高めた人物であったことを覚えたいと思います。

金次郎は、小田原藩家老「服部家」の財政建て直しにも成功し、
その高い才能を藩主・大久保忠真公に認められ、1822年(35歳)
桜町の復興を命ぜられ、田畑・家財道具の全てを売り払い一家で
桜町に赴任しました。

当時の桜町は、4000石といわれていましたが、実際には1000石
にも満たないほど田畑は荒れ果て、農民の心も疲れ果てていました。
そんな農民に金次郎は、早朝から一軒一軒を訪ね歩き、勤勉を勧め
農具を与えるなどして盛んに表彰を行い、農民達に「精を出す心」を
起こすように務め、用水路や堰また橋の改修にも陣頭指揮をとりました。

これらの施策が実を結び、桜町は3000石を越す豊かな村に生まれ
変わったのでした。


人々が徐々に豊かになっていく中で、教え諭したのが
『分度』(ぶんど)という教えでした。
 人は自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい
 生活を送ることが大切であり、収入に応じた基準(分度)を
 設定し、その範囲内で生活することの必要性を説いたもの。

これは、現代に生きる私達には、封建社会の中にあって新しい
世界に踏み出すことを規制した概念であるかのように感じられる
かも知れません。
しかし、決してそうではないのです。
むしろ、豊かになればその中の一部の人間によって平然と行われる
封建的な搾取を、徹底的に排除するための教えであったのです。


ちーろぐの思い

農民たちは、働けど働けど報われない封建社会の搾取に疲れきって
いたのでしょう。
彼らの心の叫びを誰よりも骨身に染みて理解できた金次郎が
生み出した「分度」は、農民達に覆いかぶさっていた搾取の
手を取除く制度であったことを思いました。
金次郎が考えた制度は、封建社会の中で生きる農民達に、最も
現実的かつ具体的に救済の方法を示していたのです。

栗東市長決まる

2006-10-22 22:52:11 | 税金ウオッチャー
栗東市長選挙が行われました。
結果は、現職の国松氏が再選されました。
得票は11800表、次点は田村氏で10900票、続いて5800票で
杉田氏となりました。
投票率は約64%であったとの事です。

かねてより国松氏は新幹線新駅建設推進の立場でありました。
今回の市長選はこの新駅問題が、大きな焦点になって行われました。
候補者3人がそれぞれの立場で、賛成と反対を明確に示した選挙で
建設推進の国松氏が再選されたことは、『建設こそ民意』と主張される
ことが想像され、嘉田知事との対立はまさに『民意』対『民意』と
なりました。

栗東市民によってとられた舵が向かう先をこれからも見続けて
いきたいと思います。