一日中、小泉首相の靖国神社参拝の是非を論じています。
司会者も歴史を理解せず、つまりあからさまな史実すら知らないままで、
首相の靖国神社参拝はアジア外交の障害となると、誘導尋問を
続けているように感じます。
そもそも私は、靖国神社を論じるに、61年前の大東亜戦争時のみを
取り上げていることに、強い違和感を感じています。
明治2年に明治天皇によって建立された靖国神社は、近代日本樹立の
ために、命を捧げた人々をお祀りしているもであります。
幕末から今日に至るまで、絶え間なく日本を襲った外圧の中で
植民地化されることなく、国家の体を取り続けてきた日本の
避けられない苦悩の戦いに散った、全ての人を靖国神社はお祀り
しているのです。
だから、吉田松陰・坂本龍馬をはじめ幕末の志士達もお祀りされています。
国家のために、つまり究極の『公』のために、『私』の決意をもって
戦いに出た人々の魂を、お祀りしているのです。
「国家の平和と発展を願って」やまなかった兵士の、御霊をどのように
お祀りするかが、いかなる他国からの干渉も受けないことは、自明です。
しかし、町ゆく人々を含めマスコミ司会者までもが、なぜ「戦争責任」のある
A級戦犯と戦争被害者が共に、祀られるのは理解しがたい、と言うのでしょうか。
1つは、明らかな歴史的無知です。
一冊でも、戦後史の本を(正しいものですよ)読んだなら、
自分が受けてきた戦後教育が、偏ったものであったかを知るはずです。
私自身、小学校時代は共産党員の教師から
「日本はこんなひどいことをしたのですよ。
戦前の日本は、全く考えられない狂気の時代であった」ことを
平和教育と称して教わりました。
そこには、日本人の尊厳や道徳・美徳 精神は一切語られませんでした。
61年前、教科書の道徳教育的な部分を真っ黒にに塗りつぶした
教育と一体何の変わりがあるのだろうかと、今は思います。
「国を愛する」と言うと、行き過ぎたナショナリズム・・・と
集中砲火を浴びます。
しかし、真のナショナルを知らないから、真のインターナショナルな
感性は育たないのではないでしょうか?
活発な議論は、とっても重要であると思います。
しかし、それと同時に国際感覚のある、れっきとした史実だけは
教育現場にあるべきではないかと、考えます。
日本人の真の独立は、そこからではないでしょうか?
司会者も歴史を理解せず、つまりあからさまな史実すら知らないままで、
首相の靖国神社参拝はアジア外交の障害となると、誘導尋問を
続けているように感じます。
そもそも私は、靖国神社を論じるに、61年前の大東亜戦争時のみを
取り上げていることに、強い違和感を感じています。
明治2年に明治天皇によって建立された靖国神社は、近代日本樹立の
ために、命を捧げた人々をお祀りしているもであります。
幕末から今日に至るまで、絶え間なく日本を襲った外圧の中で
植民地化されることなく、国家の体を取り続けてきた日本の
避けられない苦悩の戦いに散った、全ての人を靖国神社はお祀り
しているのです。
だから、吉田松陰・坂本龍馬をはじめ幕末の志士達もお祀りされています。
国家のために、つまり究極の『公』のために、『私』の決意をもって
戦いに出た人々の魂を、お祀りしているのです。
「国家の平和と発展を願って」やまなかった兵士の、御霊をどのように
お祀りするかが、いかなる他国からの干渉も受けないことは、自明です。
しかし、町ゆく人々を含めマスコミ司会者までもが、なぜ「戦争責任」のある
A級戦犯と戦争被害者が共に、祀られるのは理解しがたい、と言うのでしょうか。
1つは、明らかな歴史的無知です。
一冊でも、戦後史の本を(正しいものですよ)読んだなら、
自分が受けてきた戦後教育が、偏ったものであったかを知るはずです。
私自身、小学校時代は共産党員の教師から
「日本はこんなひどいことをしたのですよ。
戦前の日本は、全く考えられない狂気の時代であった」ことを
平和教育と称して教わりました。
そこには、日本人の尊厳や道徳・美徳 精神は一切語られませんでした。
61年前、教科書の道徳教育的な部分を真っ黒にに塗りつぶした
教育と一体何の変わりがあるのだろうかと、今は思います。
「国を愛する」と言うと、行き過ぎたナショナリズム・・・と
集中砲火を浴びます。
しかし、真のナショナルを知らないから、真のインターナショナルな
感性は育たないのではないでしょうか?
活発な議論は、とっても重要であると思います。
しかし、それと同時に国際感覚のある、れっきとした史実だけは
教育現場にあるべきではないかと、考えます。
日本人の真の独立は、そこからではないでしょうか?