良い子の歴史博物館

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キュロス大王

2005年01月04日 | 人物
キュロス

アケメネス朝ペルシャ帝国の事実上の創始者と言える。
アケメネスから始まるペルシャ王国はキュロスが即位した当時は、
メディア王国に属する1部族程度でしかなかった。
それをあれよあれよという間に世界帝国の地位まで登りあげた。
ギリシャ人たちの間では伝説的な英雄とされ、
ユダヤ人たちにとっては救出者(メシア)となった。

残念ながら詳しい記録は残っておらず、
何百年も後のギリシャ人歴史家たちの
眉唾物の記述に頼る以外にない。
それでも、キュロスの統治方針の興味深い面に気づく。

当初、ペルシャはメディアの属国であった。
メディア王国は強大な帝国であり、いくつもの属国を従えていた。
メディアを徳川幕府、ペルシャを薩摩長州を合わせた程度と
例えるとわかりやすい。
キュロスの母はメディア王の娘とも伝えられる。
またキュロス自身がメディア王の娘と結婚したという話もある。
明らかにメディアはペルシャと政略結婚を通じて、
影響力を行使しようとしていた。

しかし時のメディアの王は暴虐であった。
そのためメディアの軍の一部が反乱を起こすこととなる。
反乱軍は蜂起するに当たって、キュロスに使いを出し、
自分たちに加わるようにと要請した。
キュロスは応諾し、
キュロス軍+メディア反乱軍とがメディアの首都を攻め落とす。
これを多くの教科書や年表では「メディア王国滅亡」としているが、
そんなことはないのだ。

主導権を握ったキュロスはメディアの統治機構を温存させた。
新たなメディア王が即位し、形の上では、
キュロスはメディア王に仕えることになった。
事実上はキュロスが最高支配者であるが、
形式上はメディア“幕府”を尊重したのである。
その新たなメディア王の死後、
キュロスは自らを「メディアとペルシャの王」と名乗り、
メディアの名前を最初に称している。
メディア帝国とペルシャ王国の王を兼任する形式を採用した。
メディア人は積極的にそんなキュロスを支持した。

最強の敵であるバビロンを征服した後も同様である。
バビロンのネブカドネザル王朝は腐敗し、
バビロニア人自身が自分たちの王政にうんざりしていた。
キュロスが攻め込んだとき、ほとんど抵抗はみられず、
むしろキュロスを歓迎するムードまであった。
そしてキュロスはバビロンの宗教支配層に対し、
安全を約束した。
キュロスの主権を認めていさえすれば、
後は今まで通りというわけである。

バビロン捕囚に遭っていたユダヤ人に対しては、
故郷に戻って、エルサレムに神殿を再建することを許可している。
ユダヤ人にとって、キュロスは解放者となった。

それまでの、バビロン、アッシリア等のオリエント世界の支配者は、
被征服民を虐待することが多かった。

キュロスは支配下の諸民族に対し、
自由と自治を許す寛大な統治者となる。
これがペルシャ帝国の支配方針になり、
200年もの長きにわたって続くことになる。

キュロス死後、政治が混乱し、
多くの地域が反乱、独立してしまい、
一時、ペルシャ帝国は崩壊してしまう。
傍系のダレイオス1世が即位して、
崩壊しかけたペルシャを建て直し、
ペルシャ帝国の最盛期をもたらすことになるが、
ダレイオス1世は自分をキュロス王朝の正統な後継者と位置づけ、
キュロスの統治方針を引き継いでいくことになる。

「寛大な征服者」という異例のスタイルを始めたキュロスに
注目できるのではないか?