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しあわせに死ぬための生き方

2014年01月21日 | Life
今まで「しあわせに生きるにはどうすればいいか?」と考えてきたけど、義母の最期に立ちあって考え方が変わりつつある。
すなわち「しあわせに死ぬにはどうすればいいか?」ということの方が大切なのではないか。

わたしの実父はアルコール依存症で57歳くらいで働けなくなり、生活保護を受けながら一人暮らしをしていたが、60歳のとき心臓発作で亡くなった。
役所の人から連絡を受けて駆けつけたとき、すでに死後三日経っており、わたしは無惨な父の姿を見て、悲しみよりも憐れみと煩わしさに似た気持ちが芽生えた。それほど父とわたしの人間関係は冷えきっていた。
今あらめて彼の人生をふりかえってみると、ずいぶん孤独で寂しいものだったろうと、この歳になってようやく思いいたる。
だが、家庭を崩壊させた張本人の身から出たサビだと、当時のわたしは冷血漢を装っていた。

一方、妻が介護休暇までとって自分の母親を見つづけたその態度に、わたしは畏敬の念をいだいている。
妻だけでなく、三人の妹たちが献身的に母を介護する姿にも同様のものを感じた。
つらい子ども時代を経験しているわたしには、この間の彼女たちの結束力と母を大切に思うようすが奇跡の光景に見えた。
四人の娘たちを愛しつづけた母親が、最期にその報いを一身に受け、しあわせに亡くなる姿を目の当たりにしたのだ。
月並みなことをいえば「愛の力は偉大なり」ということであるが、だれもが同じようにできるものではない。



ひるがえって、自分が死ぬときにだれが看取ってくれるのかを考えると、可能性の高いのは息子であるが、うまくいけば妻もそこにいるかもしれない。いや、看取られて死ぬことがしあわせだといいたいのではない。
どこで死のうと、だれに看取られようが看取られなかろうが、それは問題ではなく、その人の死ぬ前後の時間でだれがどのように思いを馳せるのか。その人のことを考えるのか、ということが大事だと思う。
だとすれば、自分のことを考えてくれる人が近くに存在するためには、逆算していくと今どんな生き方をすべきなのかが、ぼんやりと見えてくる。

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