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「二人の総督への台湾人の想いの違い」

2006-08-21 09:58:35 | 良い話(台湾)
そこには黒い石碑が建ち、明石総督のプロフィールが三ヶ国後で刻まれていた。
「博覧強記の人」蔡さんは当然この明石総督の歴史についても明るかった。
大正8(1919)年10月、明石総督は内地への公務出張中に病気が再発し、
郷里・福岡で療養するもその甲斐なく、同月26日に志半ばで帰らぬ人となってしまう。
享年56だった。

しかし明石総督が、彼の右腕であった下村長官に託していた
「自分の身に万一の事があらば必ず台湾に埋葬してほしい」という
生前の遺言にしたがって、わざわざ故郷・福岡からその亡骸が運ばれ
この地に埋葬された。

明石総督を尊敬してやまない人々からは、たちまち多額の寄付金が寄せられ、
「軍人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」といわれるほどの
立派な墓が造られた。ところが最後、国共内戦に敗れて台湾にやってきた
国民党の兵士達が、こともあろうにこの墓地にバラックを建てて住み始め、
墓石に敷居にしたり、ベンチ代わりにしたりした。もちろん立派な明石総督の墓も
逃れることはできなかった。
鳥居などはバラック家屋の柱となり、墓の近くには公衆便所までもが造られたのだった。

しかし1994年12月3日の台北市長選挙で民進党の陳水扁氏(現台湾総統)が
当選するや、このバラックに住んでいた中国人達は退去させられ、台北市政府の手で
明石総督の柩が掘り起こされたのである。この時、明石総統の偉業を称える台湾人と、
旧敵国の軍人を弔うなどもっての他とこれに反対する中国人の間でいさかいもあった。

遺骨の扱いについて検討がなされたが、明石総督の孫・明石元紹氏は、
祖父をその遺志のとおり台湾の地に永眠させてやりたいと願った。
この時、周麗梅さんら原住民の人々は、
「高砂族の英霊と私達の手でお守りしますからどうぞご安心下さい」と申し出たという。
これほどまでに台湾人に尊敬される明石総督、いったいどんな
統治を行なっていたのだろうか。

(略)

日本の植民地経営は、欧米列強諸国のそれとは根本的に違っていた。
欧米列強諸国の植民地経営は、愚民化政策の下に一方的な搾取を行なうばかりで、
現地民の民度向上など論外だった。当然、植民地での「教育」など
考えの及ばぬところであったろう。しかし日本の統治は違った。
「同化政策」の下に、外地でも内地と同じように教育機関が整備され、
その民度を向上させるべく諸制度の改革などあらゆる努力が払われたのである。

明石総督の偉業としていまも台湾人の人々に称えられているのは教育だけでない。
台湾電力を創設し、日月潭(にちげつたん)の水力電力事業に取り組んだことは
明石総督時代最大の偉業としてあげられる。

またこのほかに、司法制度の改革、絨貫道路(北端の基隆~南端の高雄まで)の着工、
鉄道など交通機関の整理推進・・・数え上げれば枚挙に暇がない。
そしてなにより、「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺して
台湾の土となった明石元二朗は、永遠に人々の心に生き続けることだろう。

蔡さんは語る。「台湾を愛し、死んだら台湾に『埋めてくれ』と遺ってくれた
明石閣下と、死んでも大陸へ帰してほしいといって死んだ蒋介石の違い。
我々台湾人は忘れません。大きな違いでしょう。どちらも台湾を統治した
最高権力者の言葉です」

「親日アジア街道を行く」井上和彦 著
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