サヨンの物語をご存じだろうか。日本統治下の台湾で高砂族の少女と
恩師の日本人巡査を巡る悲しい物語である。60年以上経た今も地元で
子供たちに語り継がれている。
時は支那事変が勃発した昭和16年、宜蘭県南澳の山中深く、
タイヤル族のリヨヘン社(村)で警手兼教師の任務についていた田北巡査のもとに
出征の命令が届き、山を下りることになった。
普段から村人の面倒をよく見、慕われていた田北巡査を見送ろうと、
村の青年らが荷物運びを買って出た。
その日はもの凄い暴風雨が吹き荒れ、リヨヘン社から麓まで行く途中の南澳南渓は
水かさを増していた。それを渡ろうとした青年団の団員であるサヨンは、
丸木橋から足を滑らせて漆黒の激流に飲み込まれてしまう。
年のころ16、7歳だったという。
この悲劇は間もなく台湾総督・長谷川清大将の知るところとなり、
出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にしたということで、
愛国美談として顕彰されるようになる。サヨンの遺族には
長谷川総督より記念の鐘(この鐘は後日行方不明になる)が贈られ、
「愛国乙女サヨン遭難碑」も遭難場所付近に建てられた。
恩師の日本人巡査を巡る悲しい物語である。60年以上経た今も地元で
子供たちに語り継がれている。
時は支那事変が勃発した昭和16年、宜蘭県南澳の山中深く、
タイヤル族のリヨヘン社(村)で警手兼教師の任務についていた田北巡査のもとに
出征の命令が届き、山を下りることになった。
普段から村人の面倒をよく見、慕われていた田北巡査を見送ろうと、
村の青年らが荷物運びを買って出た。
その日はもの凄い暴風雨が吹き荒れ、リヨヘン社から麓まで行く途中の南澳南渓は
水かさを増していた。それを渡ろうとした青年団の団員であるサヨンは、
丸木橋から足を滑らせて漆黒の激流に飲み込まれてしまう。
年のころ16、7歳だったという。
この悲劇は間もなく台湾総督・長谷川清大将の知るところとなり、
出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にしたということで、
愛国美談として顕彰されるようになる。サヨンの遺族には
長谷川総督より記念の鐘(この鐘は後日行方不明になる)が贈られ、
「愛国乙女サヨン遭難碑」も遭難場所付近に建てられた。
しかし「サヨンの物語」は知らなかったですねぇ~。
勉強させていただきました。
しかし台湾内でも、どんどん中国からの圧力が強くなってきましたね。
特に台湾経済の中枢には大陸人が多いとかで、なんだかサヨンの話も、反日教育に使われる時代がくるのではないかと、プルプルしています。
と言うことで、また寄させて頂きます。
ずいぶん懐かしい名前がエントリーに上がりましたね(^-^)/ サヨン…細かないきさつは初めて知りましたが、昔『サヨンの歌』ってのがありましてね(^-^)/ よく口ずさんだもんです。♪花を摘み摘み 山から山を 歌い暮らして 夜霧にぬれる… 私ゃきままな 蕃社の娘…
李 香蘭でしたね。台湾総督府の監修で満映映画が作品化し封切りは十\八年くらいでした。良い話を有難うございました(^-^)/
愛国乙女サヨンのをご存知なんですね。
私は元々は無学なので、サヨンという名前は知りませんでした。
歌になり映画になったとも聞いていましたが、やはり有名なのですね。
台湾の年配者では誰でも知ってる歌であり、お互いに歌いあって親睦を深めるようです。
台湾人の親日観は現代に生きる私たちには余りある感謝の念にたえません。
元日本人である先輩たちが思い描く日本人である今の自分に、歯がゆい気持ちにもなります。