花は桜木・山は富士

完全に自分為の資料的ブログですが、このサイトを見て感じる人がいると嬉しいです。

「中国で18年前に起きた虐殺事件」(長文)

2008-02-16 21:25:46 | 中国
本書の最後で取り上げなければならないもう一つの無差別虐殺は、
今から18年前の1989年6月、中華人民共和国の首都・北京で起きた
「血の日曜日」、天安門事件である。

(略)

私にとって、この事件のことは単なる歴史書のなかには出来事ではない。
1980年代を通して多くの仲間たちと共に中国の民主化運動に身を投じた
一人として、私自身もある意味で、当事者の一人である。
当時、すでに日本に留学していた私は難を逃れることができたが、
私と面識のある数名の同志たちは、まさにこの「北京虐殺」において
かけがえのない命を奪われた。

(略)

天安門事件で殺された人々のなかに、袁力(えんりき)という若者がいた。

(略)

この年の4月下旬に民主化運動が勃発した後も、仕事に没頭していた袁力は、
デモなどの抗議行動にそれほど積極的に参加していなかった。
だが、同時代に生きる多くの若者たちと同様、彼も当然運動の展開を
熱心に支持し、行く末に多大な関心をもっていた。

(略)

5月19日、中国政府はとうとう北京において戒厳令を敷く事態になった。
その時から、学生運動にたいする軍の武力鎮圧が現実味を帯びてきたが、
袁力は頑としてそれを信じなかった。
彼は「人民解放軍は人民に銃口を向けるようなことは絶対ない」と
断言したという。


(略)

夜11時半頃、袁力の家の近くにある木犀地という長安街の交差点付近で、
爆竹のような銃声が炸裂するのが聞こえた。

(略)

しかし袁力は、「こんなときに何を言っているんだ。家でじっとなんて、
出来るわけないだろう」と険しい表情で怒り出し、気でも狂ったかのように
自転車を母親の手から奪おうとした。そして、母親の手が緩まった瞬間、
彼の体はすでに自転車の上に跨り、あっという間に闇の中に消え去ったのである。
それは、母親の李雪文さんが袁力の姿を見た最後であった。

(略)

両親はさっそく、北京市内の親戚にも声をかけて、一族総出で袁力を探した。

(略)

彼らはその時に見た光景を、手記の中でこう記している。
「天安門へ行く途中、私たちは学生たちの群れに数多く出会った。
ショックのあまり呆然としている人、手足に傷を負った人、
負傷者や死者を台車や板で運ぶ人。若い人たちの顔からは
心が炸裂したかのような深い悲しみがにじみ出ていた。

天安門に近づいていくと、長安街の両側の商店の壁には、
銃弾で開けられた穴が密集しているのが見えた。

道路には血の痕跡があちこちに残されていて、戦車がアスファルトの地面を
押しつぶした跡が一目瞭然だった。天安門広場はすでに完全武装の
解放軍兵士によって何重にも包囲されていた。
包囲網の外側には大勢の市民たちが集まり、沈黙の中で解放軍と対峙していた。
解放軍の兵士たちは一様に、銃口を市民に向けたままである

(略)

市内の各病院で、袁可志夫婦はまたもや地獄図を見ることになる。
手記はこう綴られている。「私たちが各病院で目撃したのは
犠牲者たちの遺体の山である。袁力を探すために44軒の病院を見回ったが、
遺体が収容されていない病院は一つもなかった。

少なくて数十体、多いと100体以上もあった。
私たちは袁力の確認のために、
遺体を一体ずつ見ていったが、ほとんどの死者は目を大きく開けたままである。
なかには、頭の半分や顔の半分が削られた者、顔全体が血に塗れた者もいた。
遺体の回りには、泣き崩れる遺族、気絶している母親の姿が多く見られた」

袁可志夫婦は探し回った44軒目の病院である海軍病院で、
やっと袁力の遺体を見つけた。手記は、発見された時の袁力の亡き姿も記している。

「袁力の身につけているTシャツとジーンズは完全に血に染まっていた。
喉の部分に穴があき、背中の下にもう一つの穴があいているから、
銃弾が上の方向から彼の喉の部分に命中して体を貫通したように見える。
おそらく、戦車か軍用トラックの上からの発砲だったのだろう。
袁力の両目は大きく開き、口も大きく開いていた。
殺された瞬間に何か叫んでいたのだろうか。火葬の時、私たちは彼の目を
閉ざすことがでたが、口はどうにもならない。袁力は最後まで、
口を大きく開けたままの姿であった」

袁可志夫婦の手記をここまで紹介してくると、私も涙を抑えられない。
私と同じ年代に中国で生まれ育ち、1980年代の民主化の夢を共有した
一人の若者の無残な死である。彼には何の罪もない。
悪いことは何一つやっていない。民主化運動の指導者や
中核的な参加者ですらない。彼はただ、その時代に生きる
一人の中国人青年として、自分自身の良識と良心に従って、
普通に考えて普通に行動しただけである。そして彼は最後まで、
「人民解放軍は人民に発砲するようなことは絶対にない」と信じていたようだ。


(略)

しかし、袁力の殺され方からもわかるように、1989年6月3日の夜から
4日の未明にかけて、小平と彼の率いる中国共産党政権が、
何の罪もない若者たちと一般市民にたいして、もっとも残虐にして
もっとも卑劣な無差別虐殺を行ったことは、揺ぎのない歴史的事実である。

「中国大虐殺史 なぜ中国人は人殺しが好きなのか」石平 著
-------------------------------------------------------------

本書は秦の始皇帝から現代にいたるまでの、中国史における特筆すべき
「虐殺」の歴史を記しています。
中国が歴史の長さを誇っていますが、そこには血生臭い「虐殺」の連続という
恥とすべき過去があります。

とはいえ、過去のことであり他国のことなので、それそのものを今更
糾弾することはしませんが、少なくとも過去にこういった虐殺の歴史を持つ
国を隣国に持ち、チベット、東トルキスタンその他の少数民族に対して
民族浄化という虐殺にも匹敵する行為を行っています。
中国という国を理解する本として参考になるでしょう。

また、著者は天安門事件には同世代で生きた中国人として
並々ならぬ思い入れがあるのでしょう。天安門事件で犠牲になった袁力への
悲しみ、怒りを本を通して感じます。

※最後まで読んで気になったのは、タイトルの「なぜ中国人は人殺しがすきなのか」
という疑問には明確に答えていないんですよね。
ま、読んだら分かるとは思いますが、石平氏の見解というのが
書かれていない感じがします。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんな国に (也きり)
2008-02-16 22:14:16
こんな国に援助なんかするなーーーーー!
返信する
その通りですね (マグカップ)
2008-02-17 05:29:04
意味は違うでしょうが「歴史を鏡に」と考えれば
凄惨な歴史を持つ中国は鏡に写るがごとく、今もその体質は変わらない、なんて想像してしまいます
ま、過去は過去と考えなければいけないのでしょうが、現政権は「天安門事件」という実例がありますからね
期待するのが無理というもの。
むしろ次政権(になったら)になら多少の期待はするかもしれません(きっと、多分、かなぁ・・・)
返信する