花は桜木・山は富士

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「台湾・陳絢暉さん 」(台湾)

2006-04-05 20:54:26 | 良い話(台湾)
文責:名無しさん 投稿日: 02/04/08 03:02 ID:g530DcQi           

(陳絢暉さんは、台湾に美しい日本語を残そうと8年前に結成された
「友愛グループ」の中心人物で、関東日華親善協会の常務理事を努められている。)

 昭和10(1935)年4月21日の早朝6時すぎ、台湾新竹州南部から
台中州北部にかけて、突然強烈な大地震が起きた。

 その規模は、明治39年3月17日の嘉義地方の烈震と同程度で、震源は浅いが、
有感覚区域は殆ど全島を被い、さらに対岸の廈門、福州方面まで広がった。
今ふうに言えば、マグニチュード7.5くらいではなかろうか? 

震央近くの新竹、台中両州下では、死者3,276人、重軽傷者12,187人、
全壊家屋20,709戸、半壊及び破損家屋62,314戸という甚大な災害を醸した。
のみならず断層、陥没など顕著な地殻変動を生じた点で、
全島民はすっかりパニックに落ち込んでしまった。

 この烈震に、当時公館公学校3年生だった
セン(澹のさんずいなし)徳根(とっこん)が、たまたま外に出ていたところ、
付近にあった廟宇の下敷きになった。瀕死の重傷を受けた彼は、
生死の境を彷徨いながらも終始国語(日本語)を常用し、恩師の名を呼びつづけた。

人づてに聞いて駆けつけた先生は、彼が臨終にさいし、
あえかな声ではっきりと「君が代」を奉唱してから事切れたのを見て感涙にむせんだ。
故に当時の人呼んで「君が代少年」と称賛し、記念に銅像を建てて校庭に飾ったが、
今次大戦後はすっかり取り払われてしまった。

         岡山国民文化懇談会・倉敷文化懇談会発行
 機関紙「まほろば」第160号(平成12年3月1日)から

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