日本人の美意識のあり方で「わかるようでわからない」最たるものは、
私にとっては「もののあわれ」とか、「わび」「さび」と
言われるものだった。というよりも、そこがわからなければ
日本人がわからないというほどの、肝心要な所だと思った。
(略)
秋を迎えて、何か物哀しい気分に陥るのは、洋の東西を問わず
ある事だと言ってよいだろう。それは通常、それまで活き活きとしてあった
生命が衰えて行く事、それが哀しいからである。
(略)
裏を返せば、秋という季節を疎ましく思い、
恨めしく思う気持ちともなっている。
ところが日本人の秋への思いは、同じ所もあるのだが、
よく聞いて見るとこれとはかなり違っている所がある。
どう違うかというと、明らかに秋そのものが、そして秋が象徴する
衰えた生命そのものが感動の対象となっているのだ。
私が知る限りでは、こうした感覚が広く国民の中に情緒としてあり、
一般庶民の美意識にまでなっている文化は日本以外にはない。
欧米や中国・韓国などでは、かなり高度な哲学者タイプの知識人
あるいは芸術家、しかも少々厭世的な人々の間で、
ごく例外的に見られるに過ぎない。
こうして美に対する感受性が歴史の中で発展を遂げ、
高度な美意識にまで至り、なおかつ広く一般にまで広まって
庶民化していったような事態は、世界の中で日本にしか見る事が出来ない。
(略)
仏教的な無常観からこうした美意識が生じたのではなく、
もともと日本にあった自然に対する感受性に基づいた情緒が、
仏教的な無常観と派生し、日本独自の美学として、
人々の間に広く根を下ろすまでになった。そうに違いないと思う。
(略)
通常の「世界市民」にとっては、何といっても満開の花こそが最も
美しいものだ。少なくとも、私が質問を向けてみた欧米・アジアの
庶民たちの大部分がそう答えていた。
しかし「日本庶民」にとってもは満開の花だけが美しいものではない。
蕾の花にも萎れた花にも風情がある。枯れ落ちた花、
花を落とした枝にすら何とも言えない風情がある。
かつてある年配の日本人に、満開な花が100点で、
蕾の花は70点くらい、萎れて落ちた花は20点くらいかと
聞いた事がある。するとその人が「いや、どれも100点です」
と言った事を、今でも鮮明に覚えている。
またお月様でもそうなのだ。韓国でも旧暦の8月15日には月見をする。
どこから見ても完璧なまん丸に整っていてキラキラと輝く月は美しい。
ところが日本人は、「満月だけが美しいものではない」という。
「ちょっと欠けた月には格別な風情があるんですよ」という人に
「それはあなたの趣味じゃありませんか」と聞いてみて
失笑されたことがあった。後に調べてみて、
日本には十三夜の月を愛でる習慣のある事を知った。
十六夜の月も好まれてきたという。それは本当に驚いたのものである。
(略)
世界でも齢のない「枯れた生命」「か弱き小さな生命」に触れて
抵抗しがたい感動を身のうちに感じるという、独特な美意識にまで通じるものと
言えるだろう。
「『脱亜超欧』に向かう」呉美花 著
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私にとっては「もののあわれ」とか、「わび」「さび」と
言われるものだった。というよりも、そこがわからなければ
日本人がわからないというほどの、肝心要な所だと思った。
(略)
秋を迎えて、何か物哀しい気分に陥るのは、洋の東西を問わず
ある事だと言ってよいだろう。それは通常、それまで活き活きとしてあった
生命が衰えて行く事、それが哀しいからである。
(略)
裏を返せば、秋という季節を疎ましく思い、
恨めしく思う気持ちともなっている。
ところが日本人の秋への思いは、同じ所もあるのだが、
よく聞いて見るとこれとはかなり違っている所がある。
どう違うかというと、明らかに秋そのものが、そして秋が象徴する
衰えた生命そのものが感動の対象となっているのだ。
私が知る限りでは、こうした感覚が広く国民の中に情緒としてあり、
一般庶民の美意識にまでなっている文化は日本以外にはない。
欧米や中国・韓国などでは、かなり高度な哲学者タイプの知識人
あるいは芸術家、しかも少々厭世的な人々の間で、
ごく例外的に見られるに過ぎない。
こうして美に対する感受性が歴史の中で発展を遂げ、
高度な美意識にまで至り、なおかつ広く一般にまで広まって
庶民化していったような事態は、世界の中で日本にしか見る事が出来ない。
(略)
仏教的な無常観からこうした美意識が生じたのではなく、
もともと日本にあった自然に対する感受性に基づいた情緒が、
仏教的な無常観と派生し、日本独自の美学として、
人々の間に広く根を下ろすまでになった。そうに違いないと思う。
(略)
通常の「世界市民」にとっては、何といっても満開の花こそが最も
美しいものだ。少なくとも、私が質問を向けてみた欧米・アジアの
庶民たちの大部分がそう答えていた。
しかし「日本庶民」にとってもは満開の花だけが美しいものではない。
蕾の花にも萎れた花にも風情がある。枯れ落ちた花、
花を落とした枝にすら何とも言えない風情がある。
かつてある年配の日本人に、満開な花が100点で、
蕾の花は70点くらい、萎れて落ちた花は20点くらいかと
聞いた事がある。するとその人が「いや、どれも100点です」
と言った事を、今でも鮮明に覚えている。
またお月様でもそうなのだ。韓国でも旧暦の8月15日には月見をする。
どこから見ても完璧なまん丸に整っていてキラキラと輝く月は美しい。
ところが日本人は、「満月だけが美しいものではない」という。
「ちょっと欠けた月には格別な風情があるんですよ」という人に
「それはあなたの趣味じゃありませんか」と聞いてみて
失笑されたことがあった。後に調べてみて、
日本には十三夜の月を愛でる習慣のある事を知った。
十六夜の月も好まれてきたという。それは本当に驚いたのものである。
(略)
世界でも齢のない「枯れた生命」「か弱き小さな生命」に触れて
抵抗しがたい感動を身のうちに感じるという、独特な美意識にまで通じるものと
言えるだろう。
「『脱亜超欧』に向かう」呉美花 著
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