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「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」ことを語る会・雑感

2017-07-16 | アート系
猪苗代町にある「はじまりの美術館は、十八間の酒蔵に建築された小さなアールブリュットの美術館だ。
同美術館のHPによると、アールブリュットは「日本語で「生(き)の芸術」。フランス人画家のジャン・デュビュッフェが、伝統や流行、教育などに左右されず、自身の内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術のことを指し、提唱した概念」を指す。
その取り組みの背景には、運営母体である安積ホスピタルが知的障がいの支援に取り組んできた歴史があるわけだが、いわゆる美術館の企画コンセプトにはないユニークな企画展示に、私自身これまでいつも楽しませてもらってきた。
なんといっても、ここはじかに触ることができる作品があったり、撮影もOKという従来の日本の美術館では考えられないことが許されている面がありがたい。
今回の「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない展」もまた鑑賞した瞬間に、これで対話をしたらおもしろいんじゃないかという直感がはたらき、矢も楯もたまらず館長の岡部さんにお願いしたわけである。
いや、作品だけではない。
この企画テーマそのものに何かを感じたからこそ、やってみようという気になったのだ。

「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」というフレーズに対して、ある友人は「それはもう違うに違いないですね」と答えた。
たしかに、感じ方は人それぞれである。
これは、もはや私たちの社会では常識といってもよく、ある意味では常套句になっているとさえ言えるかもしれない。
しかし、このフレーズをあえて企画テーマとして打ち出したのはなぜなのか?
今回、ワタシがこの企画展で対話を試みたいと思った根底には、その問いを含んでいた。
より行ってしまえば、この企画展のテーマ自体には、「感じ方は人それぞれだ」という常識をもつことが、同時にその多様性を排除しうるということがありうるのではないかという疑念をあぶりだす力を感じたからに他ならない。

さて、参加者9名がお互いに語りながら、あるいは各自で作品を鑑賞した後に、カフェでの対話は、それぞれが印象に残った作品とその感想を述べあうところから始まった。
真っ先に挙げられたのは、乾ちひろの「あなたの言葉」という作品群だ。
 
ネガティヴな言葉が、それぞれ材質も重さも色も異なるオブジェに書き込まれているのが、どこか見るもの触るものの心をざわつかせる。
「キモッ」や「ただのデブ」という言葉が刻まれるオブジェは意外に軽い。
なぜだろう。
言われた方の心の重さを思い起こせば、もう少し重くてもいいはずではないか…
いや、それは「言う方」の何気ない「軽さ」を示しているんじゃないか。
そんな発言に、なるほど、これは言う側の「軽さ」を示すのか!ハッとさせられた。

逆に、最も重いオブジェは「死ね」と「役立たず」である。
形状も尖がっている。
 
この言葉は人間にとって、言う方にとっても言われる方にとっても、もっとも重い言葉だということだろうか。

いや、それをそんな風に一般化はできないんじゃないか。
冗談で「死ね」と笑いながら言ったり言われたりすることもあるじゃないか。
そう考えると、そんなに重さと残酷性を一般化できるものだろうか。
それは、まさに言う側/言われわれる側の状況に応じて感じ方や見方が変わるということじゃないか。
言葉の意味と重さを額面通りに受け取ることに揺さぶりをかける発言であった。

これを「イジメ問題」の境界線のあいまいさと重ねて論じる発言もあった。
いわく、学校において「イジメ」は、被害者が傷ついたという主観的な感じ方をもって定義される。
「イジメた側」に悪意がなくとも、である。
その感じ方や意識のズレにおいてすっぱり裁定せざるを得ないほどに、いじめ問題の残酷性は緊急を要することは否定できない。
しかし、一歩引いて考えれば、そのいじめの被害者/加害者の感じ方や認識のズレは、「死ね」という言葉を発したり受け取ったりする状況、あるいは関係性においてその「重さ」は変動することと、どこか重なり合う。
その発言者が言い淀みながら語るさまには、「イジメ問題」において主客のズレを指摘することが、加害行為の容認と受け取られるかねない危険性をはらんでいることを窺わせるものだった。
「女子力」という言葉も、女性か男性かという立場において、「軽すぎるんじゃないか」、「重すぎるんじゃないか」という感想の違いを生むものだろう。
しかし、そこにもまたジェンダーという非対称的な構造的暴力が潜むがゆえの語りにくさが示されていたことは印象的だった。
これらのオブジェは「死ね」或いは「女子力」と刻まれたオブジェの重さを、「同じ重さ」として括る安易さを、いったん宙吊りにする作品として興味深い反応をもたらすものだった。

「最低」と「(笑)」という言葉が、蓋を外された箱の中からはみ出しているオブジェも、また面白い発言を引き出した。

なぜ、蓋が外れてそこからはみ出したのか。
それは心の函なのかもしれない。そうだとすれば、それは密やかに心の隅に生まれる言葉が漏れ出すということなのか。

一方、これら「あなたの言葉」の中にあって、個人的には言葉が刻まれていないオブジェが気になった。

このウミウシにも似たオブジェを触りながら、これは心の澱のような言語化される以前の何かじゃないかと指摘した発言から、妙にその物質化された姿煮見入ってしまったのである。
気泡のように見えるのは言語化の発酵作用なのだろうか。
この泥のような様態を、どこかでもっていたようにも思える。
でも、その言語化以前の様態に不気味さと同時に、切っても切れない親縁性のようなものを感じる。

高岡源一郎の「おっぱい」という作品がある。
 
「おっぱい」というイメージでこの作品に対して、「おっぱいなのになぜ固いのか」という冗談めいた感想が漏らされた。
筋肉性を意図したんじゃないか。
しかし、そもそもこのオブジェ群に「おっぱい」という名指しがなかたっとすれば、私たちは何をイメージしただろうか。
作者の意図を考慮することはあまり意味はない(作者の死)。
とはいえ、この名指された言葉に囚われながら意味を探し出さざるを得ないのは、人間のやみがたい習性なのかもしれない。

一方、視覚に障害がある方からは、その手触り感に材質の違いがあるのかという指摘がなされた。
視覚で捉えがちな参加者にとっては、まさに盲点だった。
触覚においていくつかの「おっぱい」作品に差異があるようには思えない。
そこに感じることの違いは如実に示された。
それは真っ暗闇の部屋の中にオブジェが配置される「触覚地図」においては、当然ながら視覚障がいをもつ参加者にとっては日常空間と変わらないという経験に違いにも示される。


すると、そこに過剰に不安や恐怖を抱くのは、視覚による先入観が形成されているからではないかという視点が生まれる。
見えることが、ある種の先入観や偏見を生み出している。
もう少しつっこんでみよう。
感覚は、単なる身体の感官を刺激を脳の電気信号による反応解釈のことではないのではないか。
それは、高橋舞「無題(はったかんじシリーズ)」という、ガムテープを貼られた数々のオブジェに対して、「コワさ」や「不気味さ」を感じたという感想から考えさせられた。

何に対してもガムテープを貼りたがる高橋は、止めなければ延々とその営みを続けていくという。
そのガムテープの貼り方は、(おそらく)クマのぬいぐるみや(おそらく)福助人形にまで施されていったものが展示されているのだが、その発言者はクマのぬいぐるみや福助人形の目や顔が、あるべきところにない状態に不気味さやコワさを感じるのだという。
これをカラフルでかわいいオブジェと感じる感想ももちろんある。
しかし、他方でこれを不気味と感じるのはなぜなのか。
おそらく、それは「あるべきところにない」という常識感覚に対応しないということへの不気味さなのではないだろうか。
さらに、ガムテープの中身が何だか分からないオブジェにいたっては、そもそもなぜそこにガムテープを貼るのか、といった意味を宙づりにされるような経験が不気味さやコワさと結びつくのではないだろうか。
意味の剥落は、ある種の狂気性を帯びる。

しかし、その意味とは感覚だけがつくるものではなく、私たちの「あるべきところにある」という価値に結びついたものだ。
その常識という価値が引きはがされるときに、人は不安を覚える。
たとえば、ガムテープに巻かれた福助人形が廃屋に置かれていた状況を想像してみると、ゾッとしないだろうか。
なぜ、そこに福助人形が置かれているのか?しかも、なぜガムテープにグルグル巻にされているのか?

説明がつかない状況、状態。
それは私たちの常識を形成する共通感覚を乗り越える。
これがまずいといいたいわけではない。
その逆である。
常識が宙づりにされるとき、はじめて人は「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」という境位に経てるのだと思う。
「あなたが感じていることと、わたしが感じていることはちがうのは当たり前だ」という常識や常套句は、その差異を知らず知らずのうちに排除している。

この作品に関してはもう一つ、別の論点が提起された。
この作品がアートとして美術館に展示されるということは、ある意味で権威ある美術評論家に評価されたがゆえにアートたりうるという差別的な構造があるのではないかという指摘だ。
この発言は視覚障がいをもつ参加者から提起されただけに、とても重い意味をもつ気がする。
いや、「視覚障がいをもつ参加者から」という言い方それ自体にも、もしかしたらその差別的視線を内包していると指摘されるかもしれない。
しかし、そうであるにもかかわらず、彼の発言には当事者であるが故の、ニーチェ流に言えば、ある種の「同情」のまなざしを嗅ぎ取る鋭敏さが含まれているように感じるのである。
これはとても難しい問題だ。
アールブリュット自体が、正統な美術教育外に放逐されたものの中から美的価値を見出すものであったはずだ。
それは日々の生活の中に「美」を見出す柳宗悦らの民藝運動にも通底するともいえる。
正常とされるものから排除されたものの中に価値を見出すことは、必ずしも「同情」的な視線をもった営みではなく、新しい価値の創造でもあるはずだからだ。
しかし、その疑念は完全に払しょくされるものでもないように思われる。
むしろ、この新たなアートの創造性と可能性は、その両義性を帯びながら展開していかざるを得ないのではないだろうか。
この境界線上のあわいをどう考えていくかが、おそらく今回の企画展のテーマそのものを問うことなのだろうと思う。

今回は13歳の参加者にも恵まれた。
その彼は、大人たちがこんなに感じ方の違いをめぐって議論する姿がとても新鮮だと言う感想をもったようだ。
学校というところは、一方で個性尊重といいながら他方で画一主義を強いるダブルバインドに支配された空間である。
そこにおいて大人たちがあーでもないこーでもないという議論を聴きながら、自分自身の感性を大切にしてもいいんだという確信を持ってもらえたとすれば、これ以上の喜びはない。(文:渡部純)


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