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カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

國分功一郎『中動態の世界』を読む

2018-07-17 | 開催予定


【テーマ】國分功一郎『中動態の世界』を読む
【テキスト】國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
【開催日時】 8月25日(土)13:30~17:00
【開催場所】 飯坂温泉みちのく荘
【申し込み】 要申込(宿泊の場合は1万円程度の予算になります)
 ※参加希望者はFacebookページへ「参加予定」をクリックし、かつ「メッセージ」を必ずお送り下さい。
 ※満員御礼 宿泊参加は締め切りました
【カフェマスター】島貫 真
【開催趣旨】

國分功一郎『中動態の世界』の読書会をやります。
Facebookのイベント告知はこちら。
https://www.facebook.com/events/721352934718770/?ti=cl

イベントの参加は上記Facebookで受け付けます。
人数把握のため、参加予定の方はぜひイベントページでのクリックをお願いします。
(宿泊を希望される方は、宿泊数に限りがあります。その場合は日帰りでの参加も十分可能ですので、そちらでお願いします。)

以下、イベントの紹介文です。

去年『中動態の世界』が出版され、人文系の本(ましてや哲学書!)としては格別に大きな話題となりました(小林秀雄賞受賞)。
どのぐらい凄いかといえば、普通に職場の同僚の多くが書名を知っていて、かつ何人か「読んだよ」と声をかけてくれる人がいたぐらい凄いのです。
哲学者の書いた哲学書の話題を、普通に同僚や上司(おどろくべきことに教頭も校長も読んでいた!)と共有できるというのは、それこそ小林秀雄以来(哲学者ではないけれど)かもしれません。

 医学書のシリーズとして医学書院から出版されたということも興味深いことです。私たちが感じている今この時代の閉塞感、自分たちの生きている現実を自分たちがうまくつかめていないのではないか、というもどかしさ、そんな「息苦しさ」を考えるときに、「中動態」という概念が本当に(自分が置かれた状況を見直すのに)「役に立つ」ということがあったのではないか、と思われます。

また、この本の主要な主題のひとつに(國分さん自身対談などでも触れていることだが)「アーレントの意志論批判」がある、という点にも興味を惹かれました。
かつて國分さんが、「アーレントの言うことは納得できないことが多い。だが、読む必要がある。
しかも注意深く。」というようなことを言っていました。それは単なるアーレント批判ではなく、アーレント批判をくぐりぬけることによってはじめて考え得る事柄があるんだよ、といっているように聞こえました。
 
そしてよく考えてみると身近に渡部純というアーレント読みがいるではありませんか。

というわけで、読書会のポイントは二つ。

①「中動態」とはいったいどういうことなのか。哲学以外の分野の人々に大きな反響をもたらした「中動態」は、実際どんな役にたつのか?についてちょっと話をしてみたい。

②著作の中盤でがっぷり四つに組みながらアーレントの意志について論じているところから、我々が読書会をやってきた「アーレント」と國分さんのアーレント批判とを出会わせることで、私たちが今抱える時代的な問題についてより深く考えていくきっかけが掴めるのではないか。

この二点です。

『中動態の世界』を一読しての参加を推奨しますが、

①については島貫が、②については渡部純がレジュメを作成し、ポイントや課題点などをかいつまんで説明した上で話し合いをしたいと考えています。
よろしかったらぜひお気軽にご参加ください。

國分功一郎『中動態の世界』を福島市で開催します。
(宿泊付きですが日帰りも大丈夫)。
場所のは詳細決定し次第改めて連絡します。(文:島貫 真)

第3回アーレント『責任と判断』を読む会・まとめ

2018-07-15 | 哲学系
          

暑い。ただただ暑い福島市。
前日に引き続き、気温37℃(@_@。
こんな環境で哲学するのは、哲学に対する冒とくだ。狂気だ。
と、椏久里珈琲のセミナールームには9人の反哲学的冒瀆者が集いました。
    

まず、今回のポイントは組織の「歯車理論」。
ワタシは組織の歯車として仕事を遂行しただけである。
それの何が悪いのか?
そんな居直りは、公文書が偽造され、証人喚問や政治家の答弁での嘘が誰の目からも明らかである政治状況において、毎日目にしています。
ある参加者は、出世の一歩手前で上司に「今の自分の仕事に全力を注げ」と訓示を垂れられたそうです。
これは言いかえれば、その立場の職責のことだけ考えろ。全体のことなど考えるべきじゃない。どうせ、その結果が出るころには別の人間が担当者に変わっているはずさ。
社会人であれば誰しも、仕事上で立場が変われば言うこともた変わる人の言動を目にしたことがあるでしょう。

他者との関係において自分の言動を首尾一貫させられるほど、人間は強くないのかもしれません。
では、自分との関係においてそれは通るでしょうか?
たとえば、公文書偽造を知りつつ、その事実を知らなかったと語る人は、自分の良心はどのように働くのでしょう。
もし、「思考」できる人間ならば、国会証人喚問で他者からの質問を偽証で逃れ切ったとしても、家に帰って一人になれば自分自身が問いかけてくる。
そこからは誰も逃げられない。
アーレントが「思考」という活動力を論じるときには、まずもって自己矛盾に耐えれる人間とはいかなる人間なのかを問うところから始めます。
それは他者との関係ではなく、自己との関係がまずもって重視されます。
思考停止できる人間とは自己矛盾なく巨悪に加担できるわけです。

でも、アーレントは全体主義的な「政治」とともに、全体主義的な「社会」では学校アメディアなどがこぞって全体主義的共生に協力するような仕組みになっているといいます。
これは教員にとってはイタい指摘ですね~
たとえば、2020年には東京オリンピックが来ます。
聖火リレーのスタート地が福島に決まったことも最近報道されました。
そして、福島に棲んでいる人間にとって、このオリンピックが「復興」という名の忘却イベントであることは周知の事実です。
では、それを知りつつ、もしその協力の要請が来た場合、自分はそれに応じることを拒否できるだろうか。
けっこう重い問いです。

これについてアーレントならどう考えただろう。
答えは明らかです。
私はそれに協力するとすれば、自分自身から激しく抗議されともに生きることはできなくなるだろう。
だから、たとえ周囲に無責任だといわれようが「協力しない」という消極的なこういにでるしかないということです。
ナチズム支配下でも、政策への協力を拒否で来た人間は、周囲から非難されようと、自分自身と不調和であるわけにはいかないとして政治から降りた人々であったことを示します。
ただし、その場合、注意しなければならないのは、それは他者や世界との関係ではなく、あくまで自分自身の破滅を避けるための行動であるということです。だから、思考すれば巨悪を防げるのではなく、アーレントの場合、思考すれば、少なくとも自己の破滅だけは防げるということなのです。

それにしても、全体主義とはそもそも何だろうか。わかったようで実はわからないという声も聞こえます。
いまの日本社会が法をないがしろにし、法治国家の名に値しないだけのひどい状況になっていることを指摘する意見も挙げられますが、それだけをもって全体主義というのは早計かもしれません。
アーレントにとって全体主義とは何か。
まず、彼女がそこにイデオロギーとテロをその要素としたことは押さえておく必要があるでしょう。
これは、やはり昨今、世間を震撼させたオウム真理教地下鉄サリン事件が想い起されるでしょう。
荒唐無稽なイデオロギー(教義)に、なぜ「優秀」な人間が踊らされて凶行に走ったのか。
参加者の中には、そもそもあのような組織に洗脳されてのめり込んでしまうのかが理解できないという意見が出されました。
当時大学生だったばわたし自身はといえば、それは何となく理解できます。
中高生時代にバブル経済をまのあたりにし、「カネさえあれば」という価値観が露骨に世間で肯定された時期に、「それとは別の何か大切なものがあるんじゃないの」と違和感を覚えた若者が新興宗教に回収されていく心理は同時代に生きた感覚としては理解できます。
さらに、そこには「孤立」とか「孤独」というものも重要な要素として存在しました。
それだけで?
と訝るかもしれませんが、少なくとも同時代の感覚としては十分な根拠であると思っています。
この問題構造がそのままナチズムやスターリニズムの全体主義性と同一視できるとは思いまえんが、少なくとも自分たちの身近な問題から考える上では重要な手掛かりになるはずです。

では、独裁と全体主義の違いは?
アーレントは、独裁において権力の犯罪性は政権に批判したり反抗的な人間を処罰することにおいて問題になりますが、全体主義ではそもそも無実で無力な人間に対して暴力をふるう点を挙げます。しかもそれは、国民のプライバシーにまで介入してくるといいます。
このことは「生権力」という現代思想のキーワードを想い起こすでしょう。
絶対王政時代では君主し君主の主権権力は臣民の生殺与奪の権力をもつ一方で、臣民の生命生活には関与しませんでした
しかし、現代国家ではすでに健康管理という名のもとに、われわれの生命生活は国家権力もとで監視されています.
なるほど、最低限度の生活の保障や生命の安全は国家の重要な役割だと人権をもって主張できます。
けれど、その反面、私たちは優生保護に結びつくような生命の品質管理を国家にゆだねたりもします。
難しいのは、優性保護が必ずしも単純に障害者差別と批判しきれるものではなく、生の質とは何かという問題と切り離せない問題だということです。
よく言われるように、ナチスは環境保護や有機農業の推進をした政党として、今日のエコロジー思想の先駆と見なすことも可能です。
問題は、くり返すように、それがなぜ全体主義と結びつくのかをわれわれが問い直さなければならないということでしょう。

こうして、議論は脱線しつつ本文に立ち返りながら進みます。
全体主義の淵源となる官僚制を、アーレントは「無人支配noman rule」と呼び、これほど残虐なことをなしえる支配はないといいます。
どんな暴君でも、人間としての人格が関わっている以上、それは極限までは達しない。
むしろ、全体主義的官僚制は人格が不在、つまり誰も個人として責任をh期受けられない仕組みであrがゆえに途方もない残虐性を実現するというわけです。
仕事上でもしばしば個人ではなく、役職で責任の所在を明確にしようとする場面がありますが、まさに人格を喪失したところに巨悪は出現する。
そうであるがゆえに、裁判はいかに無人支配と家でも、自分が人格としてかかわった範囲を明らかにすることで『罪』を確定します。
役職で答えるものに対して、「では、なぜあなたはその役職を引き受けたのか」と、個人の判断の責任を問うことになるわけです。

こうなってくると、次の段階ではなぜそれを選んだのか理由を答えねばなりません。
そこで出されるのが「より小さな悪」という論理でした。
ワタシがいなければ、もっと最悪の事態になっていたはずだ。
この理屈そのように自己正当化するわけですが、アーレントはこれまた厳しく断罪しますx。
獅子身中の虫になる。
「復興」物語の渦中で、この理屈をリアリズムの判断として根拠に用いる人も少なくないでしょう。
自分が火中のクリを拾いに行ってくると勇ましく声上げる人もいます。
しかし、議論の中では最悪を避けられたとか、より良い結果に導けたと、いったいどうして知りうるのか、という話題になりました。
そもそも手を引いた場合と関与した場合の結果は比較できません。
所詮歴史的な存在である私たちは、その結果を予測することもできごとの進行中にその成果を確かめることは不可能なのです。
だからこそ、後付けで断罪することは不当だという議論になることは既に第1回目の読書会で確認しましたが、人間の難しさは予測でいないにもかかわらず
侵してしまったことには、それにふさわしい判断(鯖い)を下さなければ、いつでも世界は歴史のタガから外れてしまう危険性にさらされているということです。

終盤、議論は教育論に展開し、それぞれの悩みについて意見が交わされましたが、話題はそのまま「たっちゃん」での懇親会にもちこされました。
ともかく、アツい福島を熱い議論で乗り越えた気がします。
毒を以て毒を制す。
「独裁体制下での個人の責任」は次回が最終回になるでしょう。
その前か後になるかはわかりませんが、8月25日は島貫さん主催の「『中動態の世界』を読む会」が予定されています。
ふるってご参加ください。その際には必ずメッセージも下さい。
今回もセミナールームをお貸しいただいた椏久里珈琲さんには心より感謝申し上げます。(文:渡部 純)