カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会・雑感

2018-01-29 | 〈3.11〉系
       

郡山対話の会のご協力を得て、中村和恵さんが3.11をめぐって書かれた「ワタナベさん」という詩を朗読しながら、それぞれの思いを語る会が開催れました。(詩の一部はこちらををご覧下さい⇒〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会の案内
「ワタナベさん」という詩と出会ったのは偶然ですが、これをもとにどこまで対話が可能か。
〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語るというテーマには、福島での原発事故の語りにくさを突破・開放される可能性がどこにあるのか、という思いを込めていました。
が、すっかりそのテーマそのものを途中まで主催者として忘れていたという失態をおかしていました。
ともあれ、対話の進行は郡山対話の会の「たけさん」であれば、そんなのおかまいなしに大丈夫という安心感もあり、すっかりゆだねてしまいました。
対話の記録の詳細に関しては、今後、参加者の承諾を得ながら時間をかけてまとめてまいりますので、以下ではワタシ(渡部)の個人的な雑感を書きしるしておきます。

約5時間にわたる長時間の対話の時間に参加して下さった方々は、最大で17名。
福島市から二本松市、いわき市、郡山市からはもちろん、遠くは熊本から東京からお越しいただきました。
そして、今回の「ワタナベさん」を書かれた中村さんと編集の方までもが、お忙しいなか参加して下さりました。
出版から7年近くが経って、突如再びその声が福島で召喚されたことの不思議な縁を感じました。

さて、会では本当に様々な立場の声を聞きました。
「ワタナベさん」とは誰か?
ワタシ個人は
「ワタナベさん!じわじわ殺されても黙っているんですか。 あんたの人生じゃないですか。
だれのために黙っているんですか。家族だってたまには本音聞きたいんですよ、ワタナベさん!」
という一文に引きつけられたというお話をさせていただきました。
それは自分が誰かに差し向けた言葉であり、誰かに差し向けられた言葉でもあったからです。
高線量に汚染される異常事態にもかかわらず、業務を継続する上司にその言葉を差し向けていました。
ただし、津波ほど被害の直接性がないせいか、被ばくにたいする温度差は顕著でしたから、自分も含めその判断にかなりの迷いがあったことは事実です。周囲を見てもその温度差は顕著でした。
避難所となった職場の運営を同僚とともに奔走しながら、ときに危険性を口にし、ときにその言葉を飲みこむ時間が被災直後でした。
しかし、予定通りに学校を始業し入学式を開始したことに対しては、「5年後10年後、生徒たちにあのとき先生たちは何をしていたんですか?と問われたらどうするんですか」という問いを投げかけた記憶があります。
特にそれに対する周囲からのレスポンスはありませんでした。
そのとき「ワタナベさん」という言葉を知っていたら、その言葉を何度も心で反芻したことでしょう。

しかし同時に、その問いかけは東京に住む知人からワタシ自身に差し向けられたものでもありました。
「お前は教員のくせに妊婦や子どもをなぜ避難させようとして動かないんだ」と責められたことがあります。
被ばくの恐怖と教師としての罪悪感をえぐるようなその言葉に、ずいぶんと焦燥感に駆られた覚えがあります。
これがワタシにとっての「ワタナベさん」の詩がもつ両義的な意味です。

実は、この会の参加者の一人に誘われて、翌日にはあの「大川小学校」の遺族らが運営する「小さな命の意味を考える会」の現場ガイダンス&座談会に参加させていただきました。
東日本大震災による津波によって校庭にいた児童78名中74名と校内にいた教職員11名のうち10名が死亡したという事故です。
詳細は述べられませんが、現場に訪れるのは4度目ですが、遺族・生存者の卒業生の言葉とともに現地を歩くことの大切さを痛感したものです。
たくさんの印象に残るお話のなかでも、とりわけ印象に残ったのは、防災放送も津波の襲来を告げ、近隣住民や迎えに来た保護者が「ラジオで津波が来るといっている山へ逃げて!」という忠告を耳にし、児童も教員の何人かも「山さ逃げっぺ!」と訴えていたにもかかわらず、津波に襲われる校庭に50数分留まってしまったのはなぜなのか。しかも、避難し始めたとき、その先が山ではなく、三角点だったのはなぜなのか、という論点です。
つまりは、教員集団の思考と判断の停止がどうして生じたのか、というものです。
遺族の佐藤敏郎さんは同じ教員として、なぜ「山へ逃げろ」の一言が言えなかったのか、と何度も悔しそうな思いを述べられていました。
同業者として身につまされたものです。
裁判の中で裁判官から「学校は子どもの生命を守れる場所ですか」というといかけに、被告である教委は一言も返さなかったそうです。
ここにも「ワタナベさん」たちの姿を垣間見た気がしました。

実は、参加者の一人にその当時の教え子がいました。
卒業以来、何度か対話の場に参加してもらってきましたが、迂闊なことにこの話をじっくりしたことがなかったことに気づかされました。
そして、そのとき、当時の彼女自身がこの地で生き残ることに絶望感を抱いていたことをはじめて知りました。
「5年後10年後、生徒たちにあのとき先生たちは何をしていたんですか?と問われたらどうするんですか?」
「ワタナベさん」に問うたはずの当時の言葉が、そのまま自分に還ってきたように思え、足元が揺らがされるような気持ちになりました。

教育の重要性についても話になりました。
この手の話では必ず出てくる話題です。
アレクシエーヴィチの「この国には抵抗の文化がない」という言葉を用いたことに対し、今の大人世代に期待することはないという意見も挙げられました。
せめて我々大人の世代ができることは、子どもたちにこの原発事故の教訓を伝えることしかできない、というお話も出ました。
この問題は何世代にもわたって解決するしかない。
だから、自分で考え、判断する、何でも忖度なく話し合える文化を伝えたい。
まったくその通りだと思いました。
しかし、いつもこういう話に出てくる「教育は大事」論には違和感も抱いてきました。
そういう教育が不必要だ、ということではありません。
その手前にまず、大人が語ったり考えたりする姿勢を示さずに、そんなことが可能なんだろうか?という疑問があるからです。
もう少し言いましょう。
自分たちが原発事故前にどうであったかのか、その責任を問おうという姿勢なしに、いくら福島県議会が「脱原発」「廃炉」を決議したとしても、何の意味があるのでしょうか?
どうして喜んでオリンピックを福島に誘致できるのでしょうか?
しばしば指摘されるように、戦後、軍国主義者が一晩で民主主義者に変わった転向の問題はここにも垣間見えてなりません。
教育の大切さを説くのであれば、その大人がこれまでなしてきたことを反省し、なぜこうなってしまったのかをもっと語りつくさなければ、若い世代に響いていかないのではないでしょうか。
もっとも、こんな話を、こうした問題意識を持つ方々ばかりの場で話すことは蛇足なような気がしたので、対話の中に出すことはありませんでしたが。

いみじくも、大川小学校の座談会で知り合った東京の女性のお話が、その点でとても印象に残りました。
彼女は大学で地震研究を学んでいたそうですが、その分野において東日本大震災という出来事はかなりの学問的危機をもたらしたそうです。
彼女自身はそのショックで研究に取り組むことができなくなり、就職はまったく関係のない分野へ進んだというのですから、相当な衝撃だったのでしょう。
印象的だったのは、3.11後に地震研究の教授・助教授たち全員が、それぞれの講義の前に地震を予測できなかったことの学問的反省・謝罪の弁を述べてから始めたそうです。
この研究で何をしてきて、なぜ今回のことが予測できなかったのか。そうした先行世代の失敗に対する潔さを目にしなければ、その後に続く世代の姿勢も思考も何も変わらないのではないか。そんなことを感じさせられました。
くり返すと、子どもの思考・判断・議論の力をはぐくむのは大切ですが、果たしてその手前で大人世代が〈語れない〉などといっている状況では、戦後民主主義と同じ運命を辿らないだろうか、という気がするのです。

今回の議論では、いくつかのキーワードがありましたが「今さら」という言葉が何度も出てきたことをファシリテーターのたけさんが途中で指摘してくれました。
「7年も経ってまだ言ってんの」、「7年も過ぎて今更なんなの」
こうした話がつい最近も身近で話題になったことを話してくれた方がいました。
「あきらめ」という言葉といっていいのかわかりませんが、みんなが前向きになっているのに、何を今さら過去をほじくり返すのか。
7年が経ち、ますます語りにくくなっている福島のなかでは、こうした気分が同調圧力となってますます語りにくくしているという話は何人かの人から挙げられた感想です。
ますます、大人たちが目をふさいでいくしかないような気持ちを追認させられたものです。

「抵抗」もキーワードの一つでした。
「ワタナベさん」は誰にでも備わっている複数的なものではないか。
だから、実はこの詩を読むものは共感とともに、自分自身が責められていると感じる言葉でもあるのではないか。
「ワタナベさん」の葛藤は現場にいなければわからない、被災当事者の葛藤や困難があるのは事実です。
それをわからずに外部の人間が差し向ける「ワタナベさん」への問いは、その葛藤で苦しむ人々を追い詰める言葉になりかねない。
実際、対話では当事者の内と外の話になり、事情も知らない外側の人間がとやかく言うことは避けるべきだという意見や、いや外側の人間が言うべきことを言わなければ誰もが忖度してしまうことになってしまう。そんなことには耐えられないという話にもなりました。
「ワタナベさん」は抵抗しない。
アレクシエーヴィチは福島や日本の人びとがみんな「ワタナベさん」にみえたのでしょうか。
その言葉に「ふざけるな」という感情を抱いた知人のエピソードも紹介しました。
何もかもが破壊された故郷に帰ってきて、自分たちの手で復興を目指そうとした人間にとっては「バカにするな」という思いだったのかもしれません。
では、その場合の「抵抗」とは何を意味するのか。
訴訟やデモ、反対の表現をする形の抵抗はあるとしても、この地に残ることを選択する中で日々を生き延びることそのものもが「抵抗」であることを、郡山対話の会に参加する中で教えられたものです。
世間という圧力に潰されずに、しかし自分の子供たちの生命をなんとか守り切ろうとしたたかに生きる母親の姿はその一つではないでしょうか。

しかし、それでは世界は変わらない。そんな声も聞こえてきそうです。
どうせ自分の力なんて世界を変えることに何の力も持っていない。
地元出身者でありながら原発事故のあいだ他所で生活していたこともあり、当事者性もないと感じ、一切この話題について語らないと決めた自分がいると教えてくれた人もいました。
しかし、そこにはどこかこの出来事と自分とのあいだでどのような折り合いをつければいいのか、と考えに考えつくした痕跡が垣間見られた気がします。
この当事者性をめぐっては、今回の議論のなかでもっともも熱を帯びた感じがしましたが、驚いたのは先の発言者が対話を通じて、自分の言葉で「自分の旗を立てる」ことがレジスタンスそのものなんだ、という境地に立ったという言葉です。
その境地に至る回路はご本人に教えていただきたいことですが、「抵抗」の意味が豊かになったというのは別の参加者の意見でもありました。

「ワタナベさん」という一篇の詩「抵抗」という言葉に結びついていくことは、もとより予想できませんでしたが、それでも「ワタナベさん」は変わることができるんだろうか、という思いが残りました。
あのときに存在した無数の「ワタナベさん」。
実は、ワタシ自身、こうした対話の場をやり続けることに意味などあるのか、という無力感というか無気力感を抱くことがしばしばです。
話し合ったて、自分の気持ちが解消されて終わり、場の消費で終わり、これが何かを生み出すことをどう見出だせばいいのか。
そんなことを日々抱いているのですが、こうした活動を続けることとのものが「抵抗」の一つの形であるのかもしれないなと得心させられました。
大寒波の大雪の後に、17名もの方々が集まってくださったことは望外の喜びでした。
詳細の対話記録は時間をかけてまとめさせていただきます。
こうした言葉の一つひとつが、今回の「ワタナベさん」のように何十年何百年後かに回帰してくれるかもしれないという、希な望みを抱きつつとりあえずの雑感を書きつらねました。
また皆さんと語らえる日を楽しみに。(文:渡部 純)

【開催予定】〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会―「ワタナベさん」と出会う

2018-01-26 | 開催予定
            
【テーマ】〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る
      ―「ワタナベさん」と出会う
【参考テキスト】『ろうそくの炎がささやく言葉』(管啓次郎‣野崎歓編,勁草書房)
      ※当日、資料として配布させていただきます。
【開催日】2018年1月27日(土)10:00~17:00(昼食休憩12:00~13:00)
     ※途中からの参加や途中退出は自由です
【会 場】チェンバおおまち・福島市民活動サポートセンター
     (福島市大町4-15チェンバおおまち3階
【参加費】200円(飲料費・施設使用料)
【共 催】郡山対話の会&カフェロゴ
【開催趣旨】
文:カフェロゴ・渡部 純
『ろうそくの炎がささやく言葉』(管啓次郎・野崎歓編,勁草書房)というアンソロジーがあります。
それを読んでいるさなかに、ふとある一編の詩に呼びかけられた気がしました。その一部を紹介します。

「ワタナベさん」 中村和恵
 …ワタナベさん!じわじわ殺されても黙っているんですか。 あんたの人生じゃないですか。
だれのために黙っているんですか。家族だってたまには本音聞きたいんですよ、ワタナベさん!
 怒ってくださいよ。おれの責任じゃないって、下請けには悪かったって、社長はどこにいったんだって、上司がこうしろっていったんだって、正直な話聞かせて下さいよ。 ワタナベさん、ワタナベさん。でもワタナベさんはなにもいわない。
ワタナベさんは限界まで耐えている。勇気がないから。
 ワタナベ君、会社のためなんだよ。わかってくれるね。…
お嬢さんはもう卒業したの。二人目は男の子だったね。 お母さんも大変なんだろ。奥さんはよくできた人だな。 ワタナベ君、会社のためなんだ。君も生活あるだろう。社員みんなの問題なんだよ。君ひとり勝手な正義感をふりまわして責任とれるのかい。 それは上が判断することだよ。
 ワタナベさん、それは他人じゃなくて、あんたが判断することだ。生き物として、一匹分の場所をと後ろに跳びながら叫べよ。でもワタナベさんは叫ばない。
…生きて死ぬのはあんたなんだよ。でもワタナベさんはうつむいて遠い目をして眼鏡を拭くだけなんだ 。いまさらなぁ。
…だけどわかんないよワタナベさん。やめる気になりゃやめられることをあんたはやめようっていわない 、それがわかんないよワタナベさん。
…おまえのしょうがないはしょうがないのかほんとにワタナベ。 ワタナベよ!ほんとうにワタナベ。ワタナベよ!ワタナベさん!」


偶然、私が渡部(ワタナベ)という苗字だということも関係するかもしれませんが、ずいぶんドキリとさせられました。
もちろん、この「ワタナベさん」は具体的な誰かを指すわけではありません。
もしかすると、「ワタナベさん」は彼・彼女のことかもしれないし、あなたのことかもしれないし、自分自身のことかもしれません。
しかも、どんな場面で「ワタナベさん」を想い起すかは人それぞれでしょう。
今回のカフェロゴでは、「ワタナベさん」という詩を通して〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会を開催いたします。

さらに、今回は「郡山対話の会」との共催という形を取ります。
同会は〈3.11〉後から一人ひとりの「ちいさな声」に耳を傾けるという活動を継続されてきました。
わたし自身もその場に参加しながら、対話の力を実感してきました。
同会のHP上の自己紹介文を一部紹介します。

私たちは「郡山対話の会」と申します。 活動を続けてもう4年くらいでしょうか。私たちは、 住んでいる場所も、生まれた土地も、性別も、 生きて来た環境もばらばらなメンバー。 こんなバラバラ人間たちが、3.11をきっかけに「 郡山」に集まりました。
宇宙が試練を与えるとき、「 一人ひとりの小さな声に耳を傾けなければ、 とても困ったことになる」と感じたフツーの人々が集まり、 輪になって話し合いを始めました。
 会のルールはたったひとつ、” 一人ひとりのちいさな声に耳を傾ける”。
個人や社会の、悩みと矛盾と葛藤を解決するのは、大きな社会ではなく一人ひとりの小さな声にヒントがあると信じ、 対話を続けています。

この活動趣旨に共鳴し、福島市周辺でもこうした対話の輪が広がることを期して、今回の共催に踏み切りました。

今回の対話は、基本的に「郡山対話の会」の方法で進めさせていただきます。
ファシリテーターはアーノルド・ミンデルと竹内敏晴を師匠にもつ「たけさん」。
午前中は参加者の顔合わせや場をなじませる時間をゆったりともち、午後よりテーマへ本格的に踏み込んでいきます。
参加される方々には、「ワタナベさん」を通して見える何かを語れないまでも、じっと耳を傾けながら考える機会になれば幸いです。

また、3月10日にはエチカ福島主催で「〈風化〉に抗う声をつむぎだす」というイベントの前哨戦にもなると思います。
こちらにご関心ある方もぜひ!

第5回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2018-01-25 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


数年に一度の大寒波の日、予定通り第五回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が開催されました。
しかも、福島市の某所では大雪の夜にもかかわらず、極上のプリンと大量の肉・アン・カレーまんを持ち寄っての開催です。
皆さん、平日のお仕事後だというのに、頭が下がると同時に感謝の念でいっぱいです。
しかし、そんなことにおかまいなしに、今回扱った第5章「『人間の条件』に至る思索」は難解な内容が盛りだくさんです。
レジュメを作成したワタクシも含めて、一同、沈黙の時間が続きました。
とりわけ第1節と第3節は本書のオリジナリティが色濃く出ている個所であると同時に、もっとも哲学的な記述が多いところです。
これまでのように、自分たちの経験をもとになかなか語りにくい様子でした。

その内容の難解さと膨大な量(一節が一章に値すると思われます)を踏まえ、急遽、第1節は報告者の要約でまとめ、第3節はカットし、第2節を中心に検討することにしました。
既にふれたように、アーレントの研究書としては第1節・第3節こそ重要だと思われますが、今回の読書会の趣旨が「市民が読むハンナ・アーレント」だということを踏まえれば、やはり「全体主義」の問題を中心的に論じた第2節こそ、参加者の関心に沿うものと考えたからです。
とはいえ、今回の読書会ほど沈黙が支配した会はないので、以下はレジメをまとめながら徒然考えたことを中心に書き連ねていきます。

まず、第1節『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」です。
「哲学と社会学」というエッセイはマルクス主義を批判したカール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』に対して、アーレントが批判を加えた論文です。
だからといって、アーレントはマルクス主義を擁護しているわけではなく、むしろ両者に含まれてる精神の居場所の危機を明らかにした、というのが佐藤さんの読みです。
この論文の難解さはマルクス主義に対する理解が多少必要となる点にありますが、それ以上に冷戦が崩壊して思想的アクチュアリティが失われた今日の状況下で読むことにあるのだと思われます。
これは読書会の話題にも上がったことですが、この節は学生運動を経験してある程度マルクス主義にリアリティをもっていた世代と、「マルクスって誰?」という世代とでは、理解度もリアリティもまったく異なるでしょう。
ただし、仮にマルクス主義にリアリティをもつ立場であっても、マンハイム、さらにはアーレントのマルクス主義批判を読み込むのは思考の枠をずらされる困難がつきまといます。
かろうじてマンハイムの批判は理解できるとしても、アーレントのそれはさらにもうひとひねり加わるので、なかなか理解するのが容易ではありません。

まず、マルクス主義の科学的客観的認識に対するマンハイムの批判。
そもそも、マルクス主義は資本主義下において人々の意識や精神が資本家側の価値観に洗脳されている実態を、「イデオロギー」と名づけて批判してきたわけですが、誰しも時代の子である以上、支配されている労働者だけが客観的科学的に歴史や社会構造を認識できるというのは嘘だという批判をしたわけです。
学校教育なぞは典型的なイデオロギー装置であることは、既にアルチュセールという哲学者が言ったことです。
さも、まっとうな人間教育しているといいながらも、学校の教師などは資本主義の支配層のためのイデオロギーを子どもたちに刷り込んでいるわけですね。
「部活動を一生懸命やればいい企業に勤められるぞ」という理屈は進路指導上の常套句となっていますが、これは同時に、どんな理不尽な仕事にも耐え抜く資本家にとって都合のいい労働力を生産しているといえば、笑い話では済まないでしょう。
イデオロギーというのは、こうした学校だけではなく、様々なメディアを通じて政治的文化的に(上部構造で)形成されるものですが、なんといってもそのもとになっているのが経済の生産関係(下部構造)だったと指摘したのがマルクスだったわけです。
つまり、僕らの意識は資本主義という経済構造でつくられちゃっているんだよということを見抜けというのがマルクス主義だったわけですね。

しかし、マンハイムは、それに劣らず支配されている労働者側もまた、現実から自由に物事をとらえられるわけではないと批判し、現実を起点とした思想は、すべからく支配者のイデオロギーか被支配者のユートピアという虚構に陥ると論じたわけです。
なるほど、われわれの意識はその時代社会に影響を受けていることは疑いえないでしょう。
これに関して、しばしば北朝鮮を全体主義的な洗脳社会として批判する側が洗脳されていないとどうしていえるのか、という問題にも通じます。
「ワタシは客観的だ、中立的だ」という人ほど、意外と何かの価値観に固執するというのは珍しいことではありません。

では、われわれの精神はすべて自分の外側にあるイデオロギーや価値観に染まり切っているのでしょうか。
アーレントによれば、マンハイムはそのように問いながら、現実から遊離した「故郷喪失」のところにこそ精神の居場所がある、としたのが『イデオロギーとユートピア』という本だったというわけです。
これに関しては、参加者から「現実」って何って考えるとわからなくなる。
あまりにも現実がつらすぎるとき、現実とは関係ないところに精神が引きこもるといいうのです。
これは実に的を射た発言だと思いました。
まさに、マンハイムは現実から逃避したところに精神の本当の居場所を見出しました。
マルクス主義のように現実に即して精神を動かせばイデオロギーかユートピアに陥る。
精神とはそういうものから遊離してこそ生きられるのだ、と。
これは、案外と現代人がなじんでいる思考パターンではないでしょうか。
しかし、アーレントのマンハイム批判はまさにそこに向けられます。

アーレントは、マルクス主義が経済的利害の必然性をもとに資本主義批判と社会主義の理想を描く問題を指摘します。
経済的な利害を「現実」と見なすならば、その現実の強制力に従って歴史は資本主義を解体し共産主義へ向かうというのは、まさマルクス主義の史的唯物論という理論でした。
なるほど、現実が意識や精神を拘束する力をもつこという点をアーレントは否定しません。その点ではマンハイムと意見を異にしません。
しかし、同時に精神は現実に必ずしも拘束されずに、その必然性の強制力に「NO!」という自分の態度を示すことができます。
「武士は食わねど高楊枝」ということではありませんが、生きる欲望に必然的に従うわけではないのが人間的な精神のありようだというわけです。
したがって、精神はマンハイムのように現実から遊離したところに居場所があるのではなく、まさに直面する現実と対峙し、かつその経済的利害のような必然性に服従するのでもなく、自分自身でその現実にどのような態度で臨むのかを決められるところにその居場所があるというわけです。
そして、その精神の活動においてこそ、まさに「現実」が構成されるのだというわけです。
精神と現実はバラバラにあるものではない、ということはシビアな現実にさらされた人からすれば暴力的に響くかもしれません。
しかし、それでもなお精神が現実とは別ものではなく、現実に差し向けられた問いにどうこたえるかという事態において生きられるというのは、なかなか面白い発見なのではないでしょうか。
著者によればこれはアーレントが恩師であるハイデガーやヤスパースとは異なる自分自身の哲学をつかみとった初めての論文として注目に値するといいいます。
さて、このような精神と現実の関係を皆さんはどのように受け止めるでしょうか?

昨日の読書会では、第1節の要約をここまでかみ砕いて説明できたとは思えませんが、特に参加者のレスポンスもなく消化不良の空気が重く感じられたこともあり、第1節には30分もかけずに、サクサクと先に進みました。


第2節は「『全体主義の起源』の文化的起源の考察」です
「近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされる」という議論は、これまでの読書会でも一貫してきたテーゼです。
つまり、政治が経済(カネ)に侵食されたことが危機なのだという話ですね。その結果、近代社会は経済的運営と富の無限増大を主たる目的とし、人間はそのための手段に過ぎないという論理がまかり通ることになります。
その結果、「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくるというのが、著者の読みです。
相模原事件でも露骨に加害者がこの論理を表明したことでもあることは、まだまだ記憶に新しいでしょう。
この場合の「余計もの」というのは、たとえば生産に役立たないものととらえてみると明確になると思われます。
子ども、高齢者、障がい者、同性愛者…
いまでこそ「ダイバーシティ」 という言葉が表すように多様な生き方を認め合おうという流れも生まれてきましたが、他方でヘイトスピーチのように十年前までは公に声を上げることが憚れるような排外主義も台頭しています。
こうした社会現象に関しては、既に読書会で何度か触れましたが、問題は近代社会が憲法で人権を保障する一方で「余計もの」を生み出す経済システムをとっているという矛盾です。
国民として人権を認めつつも、しかし生産拡大を至上主義とする資本主義を経済システムをとる以上、「役に立たない存在」「余計なもの」との折り合いをどのようにつければよいのか。

社会権に基づいた社会福祉制度がその部分をカヴァーしてきたことは言うまでもありませんが、しかし佐藤さんが指摘する通り、高度経済成長がストップし、財政状況も悪化する一方であるにもかかわらず福祉に頼らざるを得ない存在をどうするのか、という問題です。
生活保護受給者へのバッシングなどは、その露骨な反動現象であることは間違いありません。
さらに、今日の日本で深刻化しているのは、「貧しい人ほど福祉の充実を望まない」という現象があることです(「福祉の逆説 充実を支持する層は 」小熊英二,朝日新聞,2018年1月25日,参照。)
そこでの引用を借りれば、「雨宮は09年の「年越し派遣村」には支持が集まったのと対照的に、12年には生活保護叩きが広がったことへの変化をこう述べる。「多くの人がこの国の『格差と貧困』に麻痺し、諦め、『そんなもんなのだ』と受け入れていく過程そのものに思えた」ということである。
つまり、自分自身が「余計もの」であることさえも認定せざるを得ないほど、深刻化しているのが日本社会だとは言えないでしょう。
くり返しいうと、「余計もの」とされた存在への過激な攻撃は、「生産性」という論理を内在した近代社会の矛盾の現れに外なりません。
では、その攻撃性が一斉に爆発するのはどのようなときなのか?

アーレントは「全体主義」という言葉を用いてそのことを説明しますが、その担い手である「大衆」を次のように定義します。
すなわち、「公的な問題に関心をもたず、自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないときに「大衆」はいつでも存在する」。
このあたりのアーレントの論はなかなか難しいのですが、佐藤さんの解釈に従えば、議会制民主主義がタテマエとする「一国の住民はすべての公的問題に積極的に関心をもつ市民である」という前提と「支持政党があって、その政党に代表されている」という前提を幻想だということが知れ渡り、しかも、議会多数派に「民衆の多数が代表されていない」と大衆が感じるときに、その民主制度は危機に陥るといいます。
いずれも、中学高校の公民科の授業ではそのような「市民」になることを目標に教えるわけですが、アーレントによれば、それはそもそも幻想だというわけです。
いや、幻想というのが厳しすぎるのであれば、私たちの市民社会はこのフィクションを前提にしなければ回らない社会を維持構築しているということを認識しなければなりません。
そもそも、近代市民社会を正統化する社会契約論などは、原初状態(法がない自然状態)から人々が契約を交わして国家をつくったというのですが、そのような事実はあるはずもないことは自明のことでしょう。
問題は、そのようなフィクションのうえに暗黙の合意が成り立っていた政治が「嘘だ」と思われてしまったときに何が起こるのか、ということでしょう。

佐藤さんは現代の社会で言えば、この「大衆」は「無党派層」という存在に現れていると見ます。
議論の中では、この無党派層のなかにはむしろ正しい政治判断のもとで動いている人々もいるのではないかという意見も上がりました。
たしかに、シールズなど若い世代の政治的活躍は党派性にとらわれないという点で人々を惹きつけ、かつ自由な行動をとっています。
そのような存在がもちろんいることは認めますが、しかし無党派層の多くが付和雷同的な浮遊層であることも否めないでしょう。
問題は、平時ではなく危機の瞬間にこのような「大衆」が一気にどのような方向へ動くのか、ということです。
これまでの議論を前提にすれば、大衆は「根無し草」のようにプロパティを奪われた存在であるということが重要なポイントでしょう。
興味深いのは、アーレントは大衆の成立が教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にあると見た点です。
われわれからすれば階級社会が存在するのは封建制の名残や、それこそ不平等な世界の象徴であるかのように捉えてしまいます。
もちろん、アーレントは階級社会が必要だといいたいわけではないでしょう。
問題は自分の「所属」する場所が奪われたとき、人は孤立した「根無し草」になってしまうという事態です。
その結果、「大衆は競争原理の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていった」のであり、「自己喪失の現象こそが大衆の成立において重要」だということになるわけです。

したがって、「孤立」というキーワードが『全体主義の起源』の重要なポイントであり、そのことが複数者のあいだで交わされる「活動」概念の分析を際立たせた『人間の条件』の研究へ向かわせたというのが、第2節の趣旨になります。
そもそも、アーレントが「どうしてこのような全体主義が生まれたのか?」と全体主義の研究に向かわせたのは、ヒトラーやナチスの異常な残虐性などではありませんでした。
それは、昨日までの友人や信頼していた人々がなぜナチス支持に転向したのか、なぜいっせいにナチスに自発的に協力し迎合したのかという問題にありました。
その意味で言えば、いかにして「ふつうのドイツ人」の精神が全体主義と親和的になるのか?という問いが、彼女の根本的な問題だったわけです。

そのことを問うためにもまずは、「なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?」が明らかにされます。
それについて、ユダヤ人の絶滅は「人口政策」の一環として計画的で大量生産的に行われたという点が重要です。
「人口政策」という場合には色々ありますが、まず思い浮かぶのはナチスの優生思想に基づく政策でしょう。
T4計画と呼ばれる障がい者の安楽死政策は、まさに生産社会にとっての「余計もの」を排除することが社会全体のためであるとした政策ですが、重要なのは「本人にとってもその方が幸せだ」論じた点でしょう。
これによってその政策の実行者には主観的には罪を感じないやり方で数百万の殺戮を組織することができたわけです。
この罪悪感を覚えないイデオロギーを導入したという点は押さえておく必要があるでしょう。

次に、「合法的統治と専制政治の区別を無意味化した」という点が挙げられます。
専制政治は法を無視するが、全体主義運動は「歴史の法則」・「自然法」に依拠するというのが、アーレントの分析です。
どういうことか?
実定法の「法」は社会の安定を維持するためのものですが、それに対し、全体主義運動では歴史/自然の法則性の実現が重視され、人間社会はその「法則」実現のための素材となるといいます。
この場合、自然の法則にはダーウィン主義の「進化論」における「適者生存」や「優勝劣敗」という考え方が、あたかも自然の法則であり、その法則に則った政策こそが、自然や歴史の進化・進歩に則った正しい政策だとしたわけです。
さらに、ここには優等人種と劣等人種の区分も設けられ、医学界はまじめに瞳や髪の色、骨格などを測定し、「基準」に即した評価を下す研究に取り組んだわけです。
今から見れば明らかに「嘘」とわかるような似非科学も動員されたわけですが、こうした「法則」にとって「例外」や「偶然」は邪魔な存在なわけです。
そして、この例外や偶然とは人間の個性そのものであることを、アーレントは徹底して擁護します。
「ユダヤ人」という進化にとっての例外的存在=「余計もの」とされた彼女の身をもって知った恐怖が、その根底にあることは否めないでしょう。

ところで、アーレントにおいて「全体主義」とは、イデオロギーの支配と組織的なテロによって特色づけられる民衆自身の積極的関与による運動のことです。
この場合、「テロ」とは自然と歴史の「法則」を実現する運動に邪魔な劣等人種や生きるに値しない人間を除去する行動であり、「イデオロギー」はテロに支えられた法則の実現対応する観念形態とされます。
イデオロギーはこの歴史の法則に結びつけて、一個の事件や出来事があたかもその法則に従って進んでいるかのように説明し、そこに適合しないものを除去するのがテロ行動だということになるでしょう。
重要なのは、イデオロギーが「全体」を説明するものとして生成し運動するものであり、その思考は一切の感覚的な経験から独立したものだという点です。
根無し草となり孤立した人間にとっては、自身の感覚を通じて経験したことよりも、数学のような論理が精神に強制力を強く働く性質を、アーレントは見抜いていました。
哲学的にはあいまいで偶発的な「経験」は、法則性を告げ知らせる「理性」よりも劣ったものと扱われてた歴史がありますが、アーレントの場合、現実の経験から遊離した法則の首尾一貫した論理ほど、人間を残酷な思考に陥らせることに適合的なものはないということになります。
目の前でひとが殺されることに人間は強烈な抵抗を覚えるものでしょうが、そうした現実をつきつけない論理の強制的な性質によって、人はいくらでも絶滅に加担できるというのが、アーレントの発見でした。

この話はオウム真理教事件に当てはめてみると理解しやすかもしれません。
なぜ、あのようにまじめに人生を考えようとしたエリートたちがテロ行為に走ったのか。
そこには隔絶された世界の中で生成された終末思想の論理を貫徹させてしまうイデオロギー的思考を見ることも可能ではないでしょうか。

現実から生み出されない演繹的論理および首尾一貫性、論理的強制力の支配。
金融業に勤める参加者からは、まさに理論のフレームを立ててから統計的に処理する日常的な業務から、そのことを理解できるといいます。
その際、「例外」はどのように処理するのかと尋ねたところ、「無視する」との答えでした。
異常値は理論や法則にとって邪魔だということが、先端の金融業界の業務では当たり前だ問うことが窺われます。
問題は、それが社会の全領域で貫徹されることでしょう。
そして、これがイデオロギー的思考だとするならば、その思考はいかにして生み出されるのかが問われなければなりません。
それが「孤独」という問題と関係することになります。
“Loneliness is not solitude”という言葉は、そのことを端的に表すものでしょう。

アーレントは「孤独」という語をめぐってIsolation/loneliness/solitudeという用語を用いながら3つに区分します。
まずは政治的孤立を示すIsolationです。
政治的にパージされて孤立することがありますが、人はそのような状況に陥っても自伝や政治思想、小説を書きしるすことができます。その時の制作に没頭する孤独な営みがIsolationです。
これはこれで、政治的な活動に取り組む人にとってはシビアな状況ですが、他者との世界を失ってもなお制作に向き合える自己は失っていません。
深刻なのは、見捨てられた孤独を意味するLonelinessです。
これは本書で一貫して論じられてきた自分らしくいられるプライヴァシーとしての精神を奪われた孤独を意味しています。
これをアーレントは「根無し草」として生きる全体主義の人間性であるとし、「思考」という自己内対話の相手である自分自身からも見捨てられている状態だといいます。
全体主義と思考停止を結びつけたのはアーレントの大発見ですが、これが大衆の日常経験であるという点で真剣に検討されなければならない問題といえるでしょう。
最後に、自分自身といっしょにいることができる孤独を意味するsolitudeです。
「思考」が自己内対話を意味するとすれば、まさに自分自身を仲間にしつつ孤独でいられる状態がsolitudeでしょう。
重要なのは、この状態は一人でいれば可能になるものではないという点です。
アーレントは思考ができるためには、自分の仲間たちと議論できる世界が必要だといいます。
仲間と議論した後に、帰宅して一人になってあらためて仲間たちとの議論を自分自身で吟味しなおすことが思考なのだというわけです。
その点で他者とともにある世界と自分自身とともにある精神を往還できることが、思考の条件だということになりますが、まさに全体主義の社会にあっては、ともに語り合う仲間を喪失したことでlonelinessに陥ってしまうというのです。

こうした全体主義をめぐる孤立・孤独の問題が、なぜ人々との語り合いに基づく「政治」を分析する『人間の条件』へ向かわせたかは以上のような視点から明らかになるかと思います。
とはいえ、今回はあまりにも内容が難しかったせいか、報告が拙かったせいか、ほとんど議論らしい議論ができませんでした。
その点で「政治」的協同の経験は不十分であったかもしれませんが、後ほど読書会後のsolitudeを楽しんでいるという感想もいただきました。
時に、こうした難解なテキストに向き合って沈黙することは、「思考」のかけがえのない経験に結びついているのだろうと信じてやまない大雪の夜でした。
次回はいよいよ最終回。
そして一月後には、著者である佐藤和夫さんを招いての読書会&討議が開催されます。
こうご期待!(渡部 純)

第5回『〈政治〉の危機とアーレント」を読む会・レジメ

2018-01-24 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む

第5回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会の4時間前に、ようやくレジュメを切れました。
まず、長い!多い!
これ3つの節がそれぞ一つの1章として成立しますよ!
しかも、おそらく本書で最も哲学的な思考を試される個所なので、丁寧に読み込まなければならないところですね。
が、しか~し、著者を招く本番まで時間もないので、今回は強引に第1節は報告者による「要約」を読むだけにして、おそらくアクチュアリティの高い第2節の読解を中心にしたいと思います。
第3節は次回・最終回に先送りすることにします。
おそらく著者のオリジナリティは第1節と第3節にあると思われるのですが、やむを得ません( ̄д ̄)
というわけで、レジメ自体が長くなってしまいました。以下ご参照ください。


第5章『人間の条件』に至る思索

1.『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」
【要約】
経済的豊かさが頂点を極めた社会にあっても、なぜわれわれは精神的な息苦しさから解放されないのか。本書は一貫してこの問いを根本に置いている。マルクス主義は資本主義の矛盾を資本家と労働者の「生産関係」における搾取の矛盾に光を当て、その矛盾の克服を史的唯物論で展開した。しかし、科学的客観的とされた歴史の認識も、それを認識する主体(労働者)自身がその歴史状況に捉われずに認識することはできない。マンハイムは、もしその認識は可能だというのであれば、それは現実から遊離したイデオロギーかユートピアに過ぎず、その点で支配者のイデオロギーを批判するマルクス主義もまた、その批判から免れないことになる。
では、この両者の拘束から精神が自由になることはないのだろうか。それについてマンハイムは、現実から逃避する「故郷喪失」において精神は存在するという。これに対してアーレントは、精神は現実に拘束されるという点でマンハイムに賛成しつつも、そこから逃避するのではなく、しかもイデオロギーとユートピアにも陥らずに「社会的経済的利害」に対して、自分はどのような方針・態度をとるかという精神活動の中でこそ、「現実」が構成されるとみる。精神の生が世界に位置つけられるとはこの意味においてのことである。

(1)「どうしてこのような全体主義が生まれたのか?」―アーレントにとっての最大の問題
⇒友人や信頼していた人々の転向現象、ナチスへの自発的協力・迎合の波
⇒どのような精神の在り方が全体主義と親和的になるのか?
(2)「哲学と社会学」(1930年)―カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』
① 当時のマルクス主義の主流
 ・資本主義では、生産手段をもたないプロレタリアート(労働者)は自分の労働力を商品として売らざるを得ず、その犠牲の過程で資本主義を支える存在となる
 ・同時に資本主義を支える存在であるからこそ、資本主義を変える存在であるともいえる
 ・それにふさわしい「真実の意識」としての階級意識を形成することが重要だ!
 ② マルクス主義の議論は科学主義イデオロギーに支配されていた
・抑圧される労働者の立場は資本主義の問題を客観的科学的に分析できる
・資本主義の危機を克服するのは歴史の必然である
 ・その客観的真理をどのように捉えられるか、労働者の主体的な運動をどう位置づけるか
 ・歴史的制約をもった労働者がいかに必然的で真理を担う存在かが議論された
 ③ マルクス主義に対するマンハイムの批判と問い
 ・科学的社会主義といえども、その認識主体(労働者)は歴史的制約から自由になれない
 ・イデオロギーは支配集団が自分の利害のゆえに自分に不都合なものに目をつぶる虚偽意識ととらえたが、同時に支配される集団は変革のための夢や希望のために現実をとらえそこなるユートピアに陥る
 ・「人間の思想は、党派や時代に関係なく、全てイデオロギー的であり、それを免れない」
 ・この存在に拘束された状態をどう抜けることができるのか?
(3)アーレントのマンハイム批判―「哲学と社会学」
 ① マンハイムの矛盾
⇒人間の思考は社会的文化的な制約から自由になれないものとするが、(イデオロギー的かユートピア的)、他方で精神は「周囲の世界とは適合しない」時に生まれるもの
⇒精神は現実から逃避する営みとして消極的に存在するだけになってしまう。現実に向かうときにはイデオロギーかユートピアとして登場するにすぎなくなってしまう。
② アーレントにとっての「精神」
・精神は現実に拘束され、日常の現実から離れて存在するわけではない。精神が現実を超越するあり方は、ユートピア的にならなくても世界に「NO」という積極的な道がある
・社会全体に経済的利益が浸透していき、生活とは所詮、経済的生活の問題であるかのような意識が一般化して、経済的な富の蓄積が豊かさそのものであるとされ、生きる現実から精神が事実上排除されていくことへの抗議ある。
・思想は、経済的社会的構造地盤とする生の具体的な秩序を不可欠の発生の土壌とする

2.『全体主義の起源』の文化的起源の考察
a.「商売」になった「政治」と議会制度
近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされる
⇒主題は経済的運営と富の無限増大であり、人間はそのための手段に過ぎない
⇒市場から排除された「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくる
⇒自分の経験この個別性多様性を語り合う人間の精神は余計なものである
b.「国民国家の没落と人権の終焉」
(1)「余計もの」の形成…大量の難民発生
⇒人権のアポリア…誰もが生まれながらにもつ人権が国家から追放されれば無価値になる事実
⇒タテマエとしての人権と生産システムにおいては「無用」とされる大衆の矛盾
(2)全体主義運動を担う「大衆」
利害社会の中で公的な問題に関心をもたず、自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないときに「大衆」はいつでも存在する。
(3)議会制民主主義を支える幻想
①「一国の住民はすべての公的問題に積極的に監視をもつ市民である」という幻想
②「支持政党があって、その政党に代表されている」という幻想
⇒議会多数派に「民衆の多数が代表されていない」と大衆が感じるとき民主政の危機に陥る
⇒現代の「無党派層」という存在
(4)現代の「利益追求競争社会」のリアル
・はじめから公的・政治的問題に無関心・敵を抱くのが当たり前・容赦ない競争原理が市民としての義務や責任は耐えがたい重荷を感じさせる
(5)アーレントの「大衆」分析の特徴
 ①大衆の成立は教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にある
 ②大衆は競争原意の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていった
 ⇒自己喪失の現象こそが大衆の成立において重要である
 ⇒近代社会に孕む全体主義の要素が、いかにして人間の条件を危うくしたのかという『人間の条件』の研究へ向かわせた
(6)全体主義における「根こぎ」「無用化」の分析―ソ連の全体主義運動分析の重要性
スターリン主義とマルクス主義との思想的対決
 ⇒マルクスが全体主義に結びついたのではなく、西欧政治思想自体に全体主義の要素がある
c.Loneliness is not solitude-「イデオロギーとテロ」及び「見捨てられた孤立」
(1)なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?
 ①絶滅は計画的大量生産的な人口政策の一環として行われた
 ⇒主観的には罪を感じないやり方で数約万の殺戮を組織した…ナチス側に殺人の意識がない
 ②合法的統治と専制政治の区別を無意味化した
 ⇒専制は法を無視するが、是体主義運動は「歴史の法則」・「自然法」に依拠する
  実定法の「法」が社会の安定を維持するためのものであるのに対し、全体主義運動では歴史/自然の法則性の実現が重視され、人間社会はその法則実現のための素材となる。
※ダーウィン主義、マルクスの史的唯物論の活用
 ⇒この根底には人間の自由=活動の偶然性、不可予言性そのものが邪魔になる
(2)全体主義とは…イデオロギーの支配と組織的なテロによって特色づけられる民衆自身の積極的関与による運動。秘密警察、強制収容所の存在。
①テロ…法則を実現する運動に邪魔なものを除去する
  ※劣等人種、生きるに値しない人間は歴史・自然の法則の必然性のために除去する
 ②イデオロギー…テロに支えられた法則の実現対応する観念形態
 ⇒似非科学を装う
 ⇒歴史に結びつけて事件の進行が法則に従って進んでいるかのように説明する
※ 弁証法はその典型例
 ③イデオロギーの3つの特徴
  ・全体を説明するものとして生成し運動するもの
  ・イデオロギー的思考は一切の経験から独立し、五感によって知覚される現実からも自由になる
  ・現実から生み出されない演繹的論理および首尾一貫性、論理的強制力の支配
   ⇒個々人の信念や思考は犠牲にされる
④人間の「始める」自由にはいかなる論理、演繹も力をもたない。流れに抵抗し、まったく新しいことを始められる能力を持つ
(3)3つの孤独と精神のあり方―isolation/loneliness/solitude
①政治的孤立Isolation…共同のための活動が破壊されたときに生じる孤独。しかし経験・制作思考する私的領域は残される
②労働する動物の見捨てられた孤独Loneliness…プライヴァシーを奪われた根無し草としての全体主義の人間性。深刻なのはこれが現代の大衆の日常経験になったこと。
③自分自身といっしょにいることができる単独solitude…自己内対話=思考の条件であり、自分の仲間たちとの世界との関係があらわされており、世界を失うことはない。
⇒大衆の深刻さ…②が日常経験となり、政治的なつながりも一人になることもできない状況
⇒全体主義が生み出される思想的起源
(4)『人間の条件』における「政治」の復権へ

【開催予定】第5回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会

2018-01-07 | 開催予定
明けましておめでとうございます。
今年もはりきって佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』の読書会やってます!
いよいよ終盤突入ですが、途中からの参加もOKなので、その際にはメッセージをください。
第1回~第4回の様子はこちらをご覧ください

第1回の議論のまとめ
第2回の議論のまとめ
第3回の議論のまとめ
第4回の議論のまとめ


        
第5回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【会の趣旨】
この『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、来たる2月24日(土)に著者である佐藤和夫氏を福島へ招き、本書についてともに議論しながら、アーレントという思想家のアクチュアリティや現代世界の危機について語り合おうという目的で始まりました。
当初は5.6人の少人数で集まるイメージでしたが、広く声をかけたところ、あっという間に参加者が増え、2月の「著者と一緒に読む会」に関しては定員20名がすでに満席となってしまいました。
現在継続している「読む会」には13名が参加されています。
参加者も幅広く、福島市、いわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内にお住まいの方から、金沢市と和光市のように県外にお住まいの方もスカイプで参加されています。
年齢も30・40代を中心に20代から70代まで幅広く、職業も多種にわたっています。
その点で、哲学やアーレントなどまったく知らない市民が、佐藤和夫=アーレントを通じて現代世界の危機について学び合う場となっています。
毎回、カフェマスター(渡部)の方でレジュメを用意し、それを読み合わせながら、参加者同士でわからない部分や事例を挙げて自分の解釈を述べたり、ときにははみ出して現代社会の問題を語り合ったりするという、お気楽な場となっています。
毎回の読書会は、お仕事の都合や家事などで参加できない方もいらっしゃいますが、一章ごとに区切ることで途中からの参加者も、できるだけ参加しやすい形で進めていますので、関心をお持ちになられた方は、ブログよりお気軽にメッセージを下さい。

【開催日時】
 2018年1月24日(水)20:00~21:30
【読み合わせ箇所】
 第5章 『人間の条件』に至る思索(p.169~p.238)
【参加条件】
 ⓵スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送り下さい。
 ⓶可能な限り事前に指定範囲を読んでご参加ください。