3月9日、福島市写真美術館で映画『たゆたいながら』の監督・阿部周一さんをゲストに招いた対話イベントが開催されました。
「13年目の『たゆたいながら』」と題した今回のエチカ福島は、8年前に一度本作品の上映会を開催したことがあります。
そこでの場面が今回の上映作品に盛り込まれていますが、あのときにこの映画が引き出した対話の力を再び〈3.11〉から13年目に見たとき、何が引き出されるのかを期して企画しました。
以下、雑駁な対話のやりとりを記録させていただきます。
阿部周一監督
2016年のエチカ上映会では15年バージョン。その上映会の場面を挿入したのが今回の作品。
久しぶりに自分でも見たけれど、時間の流れを感じた。
映画に出演してもらった幼稚園園長さんも昨年亡くなられた。父母も若くて元気だったなぁという感想をもった。
観ながら、編集のパッションを思い出した。
こんなに長かったかなという思いももった。
〈3.11〉から13年目を迎えるにあたって、この作品が参加された皆さんがどのような感想をもたれたか、ぜひ聞いてみたい。
・自分自身が映っていて、こんな顔していたんだ。浪江町出身で、震災当時から福島市渡利に住んでいて、自分たちは子どもも含めて避難しなかった。今日はその後の答え合わせができた。その後、自分の考え方はどんどん変わっていった。映像を見てながら、子どもたちに「フレコンバックって、オレの故郷にもっていったんだぜ」、「東日本壊滅寸前だったんだぜ」と伝えたい。自分の中で折り合いをつけていく。これからも新しいことが出てくるので、考え続けるべきだし、阿部監督には撮り続けて行ってもらいたい。自分の中では「復興」という言葉の呪いが解けた。一人称で語るっていう事をテーマに考えている。福島の怒りや喪失はたくさんの人の話がある。一人一人違う。私は被災地の出身者として、外から来た人に話すときに相手に一人称で語ることを意識している。
・「大学では、学生たちと復興のために聞き取りをしてアーカイブに残すことをしている。高校教員時代は外になかなか出られなかった。浜通りにも行けなかった。浜通りの先生の話を聴いて代表する形で、組合の大会で県外の人たちに報告していた。自分自身被災者なのか。中通りに住んでいて津波被害もない。線量計を見て感じることもあったが、自分が被災者なのかという疑問があった。組合活動で国や県と交渉する過程で空虚な感じがした。環境省は予算を使って汚染土について学生の話し合いをさせる予定である。大学もイノベに反対するとカネが来ない。映画の感想は自分の中でのわだかまり、自分もこういう思いがあったなぁと思った。一番素の福島の人の証言を生で聞くことができる映画だと思った。質的に他の映画異なる。映画の続編でこの続きを見ていきたい。
・私も映画の続編はどんなものができるのかを考えていた。毎年3.11が近づくと憂鬱になり、当時のことを思い出した。今の福島はこの映画の続編を生きている。同じテーマで続編をとることができるのか?変えなければならないのか?私は今でも十分たゆたっている気がします。たゆたい方が違っているのかなと分析できないんだけれど。
【阿部】ずっと続編を考えてはいるが、テーマが思い浮いては悩んでいる。当時、聴き取れなかったのは子どもたちのこと。「実はあの時、避難したくはなかった」ということを言語化したケースもある。あの時、子どもたちはどう思っていたのか?子どもたちの世代が、あらためてこの13年をどんな思いで過ごしていたのか?フレコンバックの意味もわからなかった子どもたちが、今どう思うのか。「子どもを守るために避難した/残った」親の選択を子どもがどう思っているのか。
・浪江で過ごした子ども時代に、「原発安全なの?」と父親に聞いたら「ば~か、原発爆発したら日本がなくなるから心配しなくていいんだ」と聞いてから考えなくなった。それが自分にとって一番の取り返しのつかない経験だった。「これからの福島の夢と希望、復興を語ります。福島を復興させるために〇〇になります」と語る高校生の言葉をしばしば耳にするが、それは大人が言わせたんじゃないか。大人が求めることを先回りして言える力が高校生にはある。子どもが子どもである所以は、自分が言った言葉に囚われる。自分で自分に呪いをかける。それはどうのかな?一生自分の言葉に縛られてしまう。あの震災を覚えている人たちが、そういう経験をした。あの経験を知らない今の子どもたちがどう思うか。阪神淡路大震災を経験した福大の先生が「被災から10年後が問われる」といった話を思い出す。
・小学校の教員をしています。震災の齢に生まれた子がこの三月で卒業します。立場上花むけの言葉を言うのだけれど、あなたたちが生まれるちょっと前に震災があった。新しい生命は希望だった。あなたちの親さんたちが苦労したことを覚えておいてほしいと伝えた。
・2014年に京都から東京、福島へUターン。県外避難者の支援・相談のお仕事をした。2016年に全国に窓口を作る。住宅支援の打ち切り話し合いの場づくりを思い出した。行政と避難者の間に入って支援団体の声を県に伝える役目で、ストレスが多すぎて限界がきて辞めたけれど、そのときにつながった団体とは今でもつながりある。母子避難者の子どもたちが大学に巣立ったタイミングで、お母さんたちがつながりやすい場づくりの相談をした。そのときにできたつながりが、今も関係する。その後の家族や住む土地の変容。それぞれの家族にとってはあの出来事は今でも続いているのではないか。
・以前に観たけれど、忘れているシーンがけっこうある。自分の立ち位置が変ってきていると感じている。どう変わったか。震災から二年後に始まったエチカ福島の立ち位置ががこの映画の上映会をしたときに変わった、と今思う。語りえないけれど発信しなければいけない、けれど何を言っていいかわからないから、まずはお勉強しようとエチカ福島は始まった。その時期は勉強しなきゃというカオスの状態。4回目以降、南会津など過疎地域や教育を考える時期がしばらくあったが、この映画を観た会が決定的な変化になった。生きている人の声。他人が語る解説ではなくて、内から出てくる言葉を紡ぎ出そうとする人の声を聴きたいという思いに変わった。それは簡単なことではない。でも100年経ったら「こんな茶番はありえない」と思うかもしれないけれど、でも、たぶんその茶番は続いていくだろう。エチカで漁師の現場の話を聴きに行ったとき、ご高説を賜る縦軸じゃなくて、仲間同士の横軸のつながりが大事だと思った。「あなたはどう考えているの?」と、同じ地べたで考えている人の言葉を聴くことにたどり着いたのかな。地べたで生きている自分の言葉を探したい。
・映画に出てきた「大きな物語」という発言が重要。故郷への帰還を物語化する「家路」という映画の危険性を思い出した。この「たゆたいながら」で一番大切なものは自主避難者たちや残った人たちの「小さな物語」。俵万智の「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言えへ」という歌を思い出しながら、当初は一時避難だったはずが長期避難になってしまった故郷喪失を想う。なかなか戻れない問題。それぞれの声をもう少し見てみたい。言葉の方言の違いは避難と帰還に大きな影響をもつのでは。日系一世の定住/移住の判断は、実は言葉の問題が大きく影響していた。
・私自身、3.11が近づくからという理由だけではなく、あの日福島へ逃げまどっていた自分を思い出す。今現在も同じ思いでいるんだろうなと思っている。子どものためと思って逃がしたのに、避難先から子どもが壊れて帰ってきた。私の不勉強から子どもを壊してしまった。その子どもを「イイ子症候群だね」と尾木ママに言われる。イイ子でなければお母さんが泣いちゃう。だから、被災地の子たちはイイ子が多い。解放してあげて下さいと言われた。でもそう言われても、状況が変わっていない中でいったいどうすればいいっていうのか。小さな社会や家庭の中で、この思いを変えていかなければならないのだろうか。そこに復興という大きな物語が入ってくる。今、インバウンドで語り部の仕事を頼まれる。福島の夢と希望を語ることを要求される。子どもが小学校入学時に「お母さん、僕はどこの小学校に行くの?」と尋ねられたことでハッと気づき、それで南相馬に戻った。生活のために、子どものために働く、子育てする、そこに子どもは「イイ子症候群」だと言わる。自主避難/強制避難という言葉で括ってほしくない。どちらも「子どもをどうやって守るのか」の一点でやってきた13年だった。自分の中であまり区切りがなかったんだなぁと思う。Fレイの話が息子の通う高校で話題にされたとき、息子はぼそっとこう言った。「ここに人が戻ってくるのか?ここに来るのは移住者だ。3.4年経ったら皆いなくなるでしょう」と。
・前向きで被災のことを話さない被災地出身の同僚。その中で変化している人もいる。故郷を諦める人が増えている。全国に散らばった浪江の避難者たちが戻る場所はあるけれど、海に入っちゃいけないことになっている。賠償金の問題で「浪江」という言葉を口にできない。自分の故郷を誇れるものがない。口をつぐんでいる人たちが、口を開けるようになるには、一人称で語ること、自分で考えたことは語っていいのだというのが当たり前となればいい。広島の被爆者の中で本当に訴えたい人たちは喋られない死者であったり、胎児性水俣病患者の人々であったりすることを知り、そのことを思い出す。
【阿部】皆さんのお話を聴きながら、なおさら続編は取れないんじゃないかなと思った。ますますわからなくなってきた。今振り返ると、この映画では「自主避難者/残った人々」という対立構造を作っているので、結構危ないことをしていたなと思う。もっと両者の間にはグラデーションがあるはずなのに、カテゴライズを当てはめて編集しているなと思った。一人称の言葉を並べて編集することの怖さを感じる。当時の子どもの言葉を聞かなくてよかったんだなと思った。
・先日、小高と浪江の人たちの話を聴いて、ほんとうに震災の心の傷の酷さを実感できた。自分も南相馬市鹿島出身だけれど、そこは30km圏内。小高は20km圏内。そのあいだに温度差がある。息子が自死した親さんが「なぜ、息子を助けられなかったのか」と、ようやく人前で話せるようになったという話を聴いた。震災の被害は現在進行形。心の病はこれから出てくるのかな。福島にいると自分はそれほど原発に深刻さを覚えなかったが、これだけの被害の深刻な人の話を聴くにつけ、自分自身の無力さを感じる。
・今ドキドキしている。映画を観て当時のことを思い出した。3.11は気が重くなる。こんなに気持ちが辛い感じがしているのに、また政府は原発再稼働している。震災当時、実家の大津に息子を連れて避難した。そのときも周りの人たちは無関心。腫れ物に触りたくない気持ちもあったのかも。私たちが3.11が近づくと気が重くなっているのに、13年も経っているのに政府は何もやっていない、誰も学んでいないことに唖然とする。こういう映画を全国でいろんな人に見せた方がいいんじゃないか。今まで福島以外でどれくらい上映されてきたのか?
【阿部】関西の原告団や京都の原発反対のシンポジウムなどで上映させてもらった。けれど、残念なことに、そこでは原発になにがしか答えをもっている人しか来ない場所で、そういう答えをもっている人たちが集う場でしか上映していない。そこに来る人たちは、自分がもっている意見の答え合わせに来ている。自分の考えを補強するためにきている人が多い。若い人は来ない。そういう経験の中で徒労感のようなものを感じてきた。
・あらためて強度をもった映画だと感じた。自分の中での答え合わせをするわけだけれど、8年経ってみると、それだけじゃないな、それこそが地べただと感じている。
・今30歳。この映画ははじめて観た。はじめのスタートが分断の話で、分断の構図を示しながらも、その中に色々から見合ったものがあってそれが和解、赦しに至る。映画を観た後に、感想が思いつかない。分断すべきではなく和解の方向性に向かうべきなんだろうけれど、「うん、そうだよね」で終わってしまうところがあって、そこから自分が何かを語ろうとすると、こちらが止まってしまう。言葉を引き出せている一方で、自分自身が何を語ろうかとなると出てこない。自分には高校・大学など自分のルーツへのこだわりがないところがある。気になったのは分断を超えていく中で、赦しが結果として描かれていたと思うが、「おばあちゃんを家から追い出したのは僕だったかもしれない」という傷はこの映画を通じて報われたのか?
【阿部】急に東京に住むことになったストレスで、数日後に両親が一時避難してきたときに、一緒に帰られると思ったときに「残れ」と言われたのがすごくショックだった。祖母への八つ当たり。ちゃんと謝ることができなかった。祖母がわかる間に謝りたかった。心残り。
・こうやって3.11について話し合う場にいたくなる。違う温度差。私自身の一人称で語ることができない環境を作ってきてしまった気がする。2014年柏崎に入る。学生という立ち位置は色々な人と距離が旨く持てる、貴重な立ち位置なのではないか。
時間が足りず、もっともっと話し合いたいこと、語りたいことがあった様子が参加者の皆さんから感じられましたが、ここで対話は打ち切りとなりました。
しかし、〈3.11〉から13年目をむかえる時点で、ようやく一人一人の語りが少しずつ出されるような予感を覚える時間でもありました。これをきっかけに、あらたな語り合いの場づくりができる予感もあります。
阿部監督にはお忙しいところ福島にまでゲストに来ていただき、感謝申し上げます。
ここでの出会いが新たなつながりへ展開していくことを期待します。