カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

【満員御礼】仕事帰りに一杯ひっかけながら文学をグダグダと語る会―太宰治「駆込み訴え」

2017-08-29 | 文学系
           

【日時】2017年9月1日(金)19:00~21:00
【会 場】魚よし・本町店  ※変更しました母屋たすいち(福島市置賜町5-2)
【テーマ】太宰治「駆込み訴え」
【参加費】飲み代(割り勘)
【カフェマスター】 ふるほんやかずのぶ



仕事帰りの居酒屋で一杯ひっかけながら、文学をグダグダ語り合ってみませんか?
第一回目の「中島敦編」が大成功に終わった勢いで、さっそく第2回の企画がその場で決まってしまいました。
第2回の「仕事帰りに一杯ひっかけながら文学を読む会」は、太宰治「駆込み訴え」です。
今回もカフェマスターの暑苦しい文学愛が迸ることでしょう。

なお、週末の居酒屋は混雑することが予想されますので、8月25日までにこのブログのメッセージか、カフェロゴのFacebookへのメッセージにて参加申し込みをお知らせください。
定員いっぱいとなりましたので、参加希望を締め切らせていただきます

映画「幸福は日々の中に。」deカフェ・雑感

2017-08-27 | 映画系
         

鹿児島しょうぶ学園園長・福森伸さんと猪苗代町はじまりの美術館・岡部兼芳さんをゲストに、映画「幸福は日々の中に。」上映後、観客との言論カフェが行われた。
岡部さんには、はじまりの美術館での言論カフェでお世話になったが、恥かしながら福森さんのことを知ったのはこの映画の試写会がはじめてだった。
映画の中の福森さんの強烈な言葉の一つひとつ、そして鮮烈なしょうぶ園のパーカッションバンドotto&orabuの音楽に衝撃を受けた。
その瞬間、とてもこの「障害者」とアート実践の最前線に立つ二人をファシリテートなどできるはずもないことを直感し、その現場を知らないものが知らないものとして臨むしかないことを悟る。
というよりも、もはやこの巨人二人のファシリテートなんて蛇足もいいところだ。
阿部さん、勘弁してくれよ。ファシリテーターを引き受けたことをちょっと後悔した。

というわけで、本番当日。
福森さんの圧倒的な存在感と、それに思いをぶつけようとする岡部さんの真摯な姿勢に気圧される。
予め断っておけば、以下で「障害者」や「障害」という言葉を用いることには違和感以上のものがある。
後々ふれることになるが、「障害者」や「障害」はそもそも存在するのかどうかは、今回問われた大きな論点の一つだ。
その概念を問いにかける以上、さしあたりは括弧つきでこれらの言葉を使用することを確認しておきたい。

福森さんはまず、「障害者」施設における規則の暴力について語るところから始めた。
わずかでも歩けるのに怪我のリスクを懸念して施設利用者の物理的自由を奪うのは、当人にとってどうなのか?
福祉の専門知識はその疑問を論外の思考と排除しようとする。
往々にして、そこでは「障害者」の「幸福」や「自由」が、「健常者」にとってのその基準でもって測られる。
いや、その実、それは何か事をしでかすことへの「恐れ」や「不安」を、「障害者」にとっての「幸福」や「自由」に置き換えながら免責の欲望を働かせているに過ぎない。
そのことを福森さんは、「1%のリスクを回避するために99%の自由を犠牲にすることが果たしていいのか?」と問いかける。

「健常者」の「ふつう」が、生きづらさを抱えている人に不自由を強いる。
介護福祉に携わる参加者の一人は、「なんとか立っていられる」老人を歩かせることは転倒してけがをさせるリスクがあるからと、「椅子に座らせて立たせない」ままにする福祉現場の常識が、利用者とともに職員のストレスの原因になっていることを告げた。
「手で這うこと」を「転んだ」とみなす健常者側の「ふつう」を反転させれば、それは「這ってでも歩く自由」が残されていることでもあるはずだ。
しょうぶ園では週末に利用者が飲みに行ける「居酒屋」が開かれる。
それは福祉の専門家からすれば、「え?そんなことしていいんですか?」という反応を呼ぶ。
だが、福森さんは「俺だって晩酌したいのに、なぜ彼らはダメなのか?」と、逆にその評価を根底から問う。
「健常者」側の「ふつう」でもって規則を作り、彼らの「自由」や「幸福」を測るな。
専門的なリハビリテーションプログラムは、果たしてどちら側の「幸福観」でつくられているのか。
それは本人の「幸福観」に沿っているのか。
もちろん、当事者本人の幸福感そのものは、他者には知りえない。
にもかかわらず、「その人は幸せになるんですか?」と問いかけることによって職員同士が考え、議論し始めることは、どこかその思いが本人に通じていくのではないだろうか。福森さんはそう語る。

それでも介護の現実はどこか転倒している。
なぜ、人は重度の要介護認定評価を得ようとするのか。
もちろん、高い介護サービスを受けるためであろう。
けれど、あえて自分が不自由な状態である不健康を主張し、そのことを公認されることを欲するようなシステムは何かが転倒している。
福森さんは「ふつう」に考えれば「異常なこと」を、システムの側が「ふつう」だといってわざわざ転倒させている事態を問い続ける。

映画の中である職員女性がこんなことをいう場面がある。

私にとってみんな(しょうぶ園利用者)のいるところはどうしてもいけないところ。
私は何色を使うかとか考えてから書いてしまうけれど、彼らが筆を握ってすぐ紙に筆を下すことにあこがれや興味がある。
たぶんわからないんだけれど、近づきたいところがある
行動がすごくおもしろくて興味深い、謎だからそれを知りたい、みんなを見ていると毎日がおもしろい
利用者はなんでも受け入れるから、周りの自由も許してくれるから作業場は楽しい。


福森さんもまた、彼らの「世界」に入りたいけれども入れないという。
otto&orabuの音楽は微妙なリズムや音程のズレを特徴としている。
しかし、その「ズレ」が魅力的に響く。
心に訴えかけてくる感動を覚える。
彼らは「音がずれる」、「音痴」、「奇声を発する」ことが得意だ。
得意?
「ふつう」の基準からすれば欠点や異常と評されるものが、「得意なもの」と反転させることで人々の心を揺さぶる「音楽」になる。
彼らが板に刻む「ひっかき傷」もまた、そこに漆を流し込めば「狙わない美」を生み出す。
この「意図なき技=アート」に福森さんたちは「憧れ」を覚えるのだ。

「ノーマル」な発想を変えると「障害」は消える。
これまで括弧つきで「障害者」や「障害」と記述してきたが、岡部さんはそもそも「障害者はいない」と断言する。
あるとすれば、それは彼らに「理解」や「認知」に困難のあるが、果たしてそれは取り除くべき「壁」なのか。
岡部さんはそう問いながら、「壁を乗り越えようとするときに生じるエネルギー」や「発想力」を強調する。
それに対して福森さんは「修行なき時代」において、逆境をはねのける能力の衰退を指摘する。
いじめが問題になっている昨今、いじめの撲滅は叫ばれるが、いじめに遭遇した時にそれをどうはねのけるかという方法は教えられない。
撲滅する以前に、いじめが厳然と存在する以上、まずはそこを生き抜く仕方を考えなくてはならないはずだ。
しかし、そこが抜け落ちている。
すると、「いじめはなかった」とあることそのものを不問にしようという思考がはたらく。
そのことが見て見ぬふりや、問題の本質的解決に至らない結果を生んでしまう。
それは「障害」も同じではないか?

「壁(バリア)」そのものをなくそうとする思考は、どこか夢想的にすらなる。
福森さんは映画の中で次のように語っている。

社会が居心地が悪いんだったら、社会の中に彼らを出そうというリハビリテーションをやるよりも、居心地のいいところでリハビリしない方が幸福じゃない。
僕はリハビリしなければいけない立場だけれど、彼らをリハビリすると厳しい社会に送り込まなければならなくなるでしょ。
すると難しいわけだね、生き方が。
だからもっと生きやすい社会にしようというけれど、いつになったらって感じなんで。
それより今の時代に生きているんだったら生きやすいところにいていただくという考えの方が、その人を幸福感に満ち溢れて過ごせる時間の方が長いじゃないかというのが僕の考え方
早く外に出して社会復帰して、ノーマライゼーションにのっとってみんなと一緒に暮らすという考え方には簡単に賛成はできないんだよね。


この場面は、映画の中で最もドキッとさせられたところだ。
なぜか?
そこには、いつのまにか「健常者と障害者が共生できる社会」、すなわち「ノーマライゼーション」が望ましいという暗黙の価値観が自分の心に刷り込まれていたからだろう。
そして、その価値観の土台を現場に立つ福森さんの鋭い言葉が動揺を与えるのだ。
「いじめ」がない世界、「戦争」がない世界、「暴力」がない世界、「障害」がない世界。
これらの世界を僕らは理想としている。
しかし、理想としてその世界を目指すことと、現にある暴力状況のさなかをどう「幸福」に生きるかを混同してはいけない。
さもなければ、問題の具体的解決に至らないだけでなく、逆に「やさしい暴力」をふるうことにもなりかねないからだ。

では、この福森さんの言葉を福祉の現場ではたらく人々はどう受け止めるのか。
これについてアールブリュットの美術館を実践する岡部さんも同様の問いを抱きながら、その実践が地域に開かれていくことで健常者/障害者の枠を脱構築する社会の形成を目指していく思いが語られた。
そもそも近代化以前には、その区分なく共生が可能であった。そこへの回帰を課題解決の困難にぶつかりながらも目指していくという岡部さんの思想は、その限られた人生という短い時間の中で個々の「障害者」の幸福を充実させることに重点を置く福森さんと目的を共有しながらも一致しない。
そこが興味深かった。

こうも考えられないだろうか。
「障害者はいない」ということは、むしろ「一人ひとりがなにがしかの障害を抱いているのだ」、と。
8月25日の朝日新聞「折々のことば」には、こんな言葉が紹介された。

知らなかった?お父さんは花粉症だし、お母さんはちくのう症だし、アイちゃんはダウン症。みんな大変なんだよ。

これは小学生の娘に「自分はダウン症なのか?」と聞かれた母親の言葉である。
そこに「障害」の軽重などない。それぞれが抱える「障害」から見える世界が多様にあるという事実だけが示されている。

終盤、岡部さんから今回の言論カフェのテーマが「アールブリュット」であることを指摘された。
えっ!
一瞬、驚いた福森さんと僕の目が合った。
迂闊だった。
岡部さん以外、このテーマを確認していなかったのだ。
このテーマを目的に来場された観客にとっては拍子抜けだっただろう。伏してお詫び申し上げますm(__)m
とはいえ、話題は自ずとアールブリュットをめぐっての議論でもあった。

その一つは、しょうぶ園の利用者たちが皆、「本能」と「五感」で生きていると福森さんが指摘した点である。
岡部さんはアールブリュットを「生のアート」とするが、それはまさにいわゆる左脳的な計算や計画、意図を超えた、ありのままの生である本能から表出される芸術のことである。
発見と訳される「Discover」は「覆いをとる」ということである。
その覆いの下に隠されている「生」を表出させることがアールブリュットの意味であるというのである。
では、その「生」とは何か?
すでにふれたように、彼らは一心不乱に糸を縫い込んだり、板に傷をつけたり、一つのオブジェを作り続ける。
誰かの要望の応えようとか、喜ばせたいとか、評価されたいという「媚」がない。動機がない。
ただただ、その行為自体にのめりこむ欲求それ自体が生み出すもの。
そのようなことが果たして「われわれ」にできるだろうか?
福森さんは、誰からも評価されずただただ孤独にアート制作に取り組みたいというあるアーティストが、「では、果たして誰も存在しない無人島でそれをやり続けることができるだろうか?」と自問した時、「その自信がない」という言葉を紹介しながら、それを成し遂げてしまう「彼ら」の「世界」への憧れを語る。
しかし、そのように語りながらも、福森さんはけっしてアールブリュットを評価したいとは思わないという。
なぜか?
福森さんによれば、アールブリュットの作家の多くは孤独や不幸のうちに作品を制作した人が多く、作品の評価とは別に彼らの生きざまを考えたとき、その一芸術分野として称揚することには賛成できないという。
そもそも、「アールブリュット」という一芸術概念に彼らの作品のすばらしさを包摂させることは、どこか余計な感じがする。
素晴らしい作品は、ただ素晴らしいというだけでいいじゃないか。

今回の映画作品のタイトルは「幸福は日々の中に。」である。
これを各自どう考えただろうか。
ある参加者から福森さん自身は「幸福」をどのように考えているのかという質問が上げられた。
福森さんはしばし考えた後に、「何が思いつくかわからない状態の中で、さまざまな発想ができる状態が幸せ」と応えた。
それは福森さん自身の生きざまを示すような言葉だった。
これが誰かの「幸福」を意味するものではないことは言うまでもない。
自分の「幸福観」で他者の「幸福観」を測ろうとするとき、暴力は発生する。
彼らにとっての「幸福」や「自由」が非社会的であるからといって排除するわけにはいかない。
その「あわい」というか「エッヂ」が立つギリギリのところに立ち続けて、答えのない問いのあいだを生き抜きたい。
そんな「福森伸」というアートに会場は揺さぶられた時間だった。
その人の身体から出る言葉が「生きざま」というアートだとすれば、それはまた岡部さんのアールブリュットにかける熱い語りも同様であった。
お二人の隣でその言葉を間近で聴かせていただけた時間が、何よりボク自身の幸福でもあった。
さて、観客の皆さんにとって「幸福」とはなんであっただろうか。

おっと、この映画に対する個人的な感想を書き忘れるところだった。
観客の多くから「感動した」という声が上がった。
同感だ。
とりわけ、otto&orabu圧倒的な「音」に圧倒され、魅了され、自由を感じ、そしてその姿に「憧れ」を抱いた。
なぜか。
映画の中で福森さんが、彼らをして「仕事場で自分でいられるというのはある意味ですごく贅沢なことかもね」と語る場面がある。
そう、彼らが「自分でいられる」ことに「憧れ」を抱くのだ。
その点からすると、奴隷のように働かされている「ノーマルな人々」の多くは「不自由な世界」を生きているとはいえないか。
どちらが「障害」のある世界なのか。
その観点に立てるならば、福森さんや岡部さんが実践する「障害」をもつ人の能力の全面的な解放とは、ノーマルとされる人々が失った能力の解放のことだという気がしてくる。
「ノーマル」とされる社会で生きるために教育を受ける。
自分の職業(高校教師)に照らせば、そう教育する。
けれど、それで失わせている力は、実は数知れないのではないか。
その「ノーマル」な思考に揺さぶりをかける力を、この映画は確実にもっている。(文・渡部 純)

【終了しました】第9回エチカ福島のご案内-国民投票について考えよう

2017-08-25 | その他


日 時 8月26日(土) 13:30~
会 場 西沢書店大町店
参加費 500円 ※学生は無料


改憲問題シリーズです。
いよいよ、今秋にも改憲案が提案される可能性が高まってまいりました
事前に市民同士で語り、考えあいましょう。
第9回エチカ福島は世界中の国民投票を取材している大芝健太郎氏を招いてのセミナーです。
7月30日(日)の「みんなで自民党改憲草案」を読む会とひとつながりになる会になりますので、ふるってご参加ください。
ただし、「幸福は日々の中に。」deカフェと時間的に重なる悩ましい問題がありますが、そこは皆さんのご判断にお任せいたします。

【終了しました】映画「幸福は日々の中に。」deカフェ

2017-08-12 | 映画系



【開催日時】2017年8月26日(土)
     15:00~16:20上映
     16:30~18:00 言論カフェ 
  鹿児島県・しょうぶ学園の園長・福森伸氏
 ×「はじまりの美術館」館長・岡部兼芳氏
 ×ファシリテーター・渡部純 
【上映作品】茂木綾子/ヴェルナー・ペンツェル監督作品・『幸せは日々の中に。』
【開催場所】フォーラム福島 福島県福島市曽根田町7-8
【参加条件】フォーラム福島にて鑑賞券をご購入して下さい。
【カフェマスター】渡部 純
【お問い合わせ】ブログのメッセージへ


このたび、フォーラム福島で上映される『幸せは日々の中に。』を鑑賞したその場で、同映画に出演されている鹿児島県・しょうぶ学園の園長・福森伸さんと、アールブリュットの「はじまりの美術館」館長・岡部兼芳さんのトークイベントに、カフェロゴが絡ませていただくことになりました。
渡部がファシリテーターを担います。

この映画のキャッチフレーズは「『普通』という曖昧な海を泳いでいるみんなへ」です。
この「普通」に引っかかりを覚える皆様には、ぜひご参加いただき、様々な観点から話し合いができれば幸いです。

映画内容について、以下HPより引用させていただきます。
http://silentvoice.jp/whilewekissthesky/

「鹿児島マルヤガーデンズの屋上で、知的障がい者施設しょうぶ学園のバンド「otto & orabu」の演奏を見た瞬間、この人たちの映画を撮りたいと思った。

20人以上の怪しげで派手な衣装とメイクを塗った人々は、障がい者とその施設の従業員の混合の楽団だった。ザワザワと潜在意識に強く響いてくる、不揃いで不可解、でも楽しげで爆発するような音楽は、雨降る屋上のじめじめした空気を吹き飛ばすかのように、大きな疑問符を見る者の心に投げかけていった。
それ以来二人は鹿児島へ何度も通い、しょうぶ学園の世界の中に少しずつ融け込み、カメラを回し続けた。外から訪ねる人の目線ではなく、障がいを持つ彼らのあたり前の目線を見つめながら。

中庭で、来る日も来る日も一本の木の側で、しゃがみこんでどこかを見つめ続けるたけしくん。カメラをひたすら向け続けても全く気にしない。気持ちのいいカフェテリアでごはんを食べる様子も、皆人それぞれ。誰も自分を人と比べるということがない。刺繍工房で糸と布と戯れ部屋中を埋め尽くす吉本さん。彼には目的もゴールもない。ただただ永遠の今の中で、布を小さく切り取り、糸を並べて、満ち足りている。紙の上から椅子から机から、床も壁もペンキで四角い升目を描き続ける濱田さんもまた、何年も同じスタイルで毎日毎日升目を描き、その迷いの無い筆さばきは完璧な巨匠のそれだ。木工所では、みんなトンカントンカン好きなように掘って掘って掘りまくり、ニコニコ顔の中野くんはボタンの詰まった箱を来る日も来る日もぐるぐる回し続ける。

そんなしょうぶ学園を生み出し、守り支え続けてきた福森家の人々。現在の学園長福森伸さんは、長年彼らに寄り添いながら、常に自分自身のあり方に疑問を抱き続けてきた。
「僕たちは、彼らに社会の秩序というものを教える立場ではない。彼らから精神的な秩序を学ぶべきだ。やらなければならないことは、彼らが安全に歩ける道をつくることである」と言う。

私たちがどんなにがんばっても辿り着けない、真の自由と幸福に、彼らはいる。そのままいる、永遠の今の中で。このしょうぶ学園にいると、まるで未来の世界にいるかのような錯覚に襲われるのは、ここが、私たちがいつか辿り着きたい永遠のふるさとであり、あの不思議な音楽と共にキラキラとその姿を惜しみなく見せてくれるからなのだろう。」

仕事帰りに一杯ひっかけながらグダグダと文学を語る会―中島敦編・雑感

2017-08-11 | 文学系
中島敦を読む会なんかで人が集まるのだろうか。
今回のカフェマスター・ふるほんやかずのぶ氏とのあいだには、そんな暗黙の疑念があった。
でも、当日、7人も人が集まった。
正直、驚いた。
もちろん、相変わらず読んでこずに、その場のグダグダな語りあいを聞きに来ただけ(飲みに来ただけ)の人もいた。
開始一時間前から飲み始めて、すでに酔いつぶれそうな人もいた。
その一方で高校時代に使用した教科書とノートを持参し、やる気に満ちた人もいた。
中島敦。
彼の何がそうさせるのか。

何より、カフェマスターのふるほんやかずのぶ氏の嬉々として中島敦を踊るように語るさまが素敵だった。
ドストエフスキーを読む会の時もそうだったが、その作品をこの人は本当に好きなんだなぁと傍で見ているだけで、こちらも心躍る気持ちになる。
この人、本当に文学好きなんだなぁと。
二度目の「文学系」カフェだったけれど、文学好きにはこの種のアツさがある。
でも、この会のダメなところは、酔いが回るので、語りがグダグダになる以上に、記憶がグダグダになるところだ。
ただ、痛快だったという記憶だけは間違いなくあった。

冒頭、ふるほんやかずのぶ氏の中島敦の「山月記」への思いが語られた。
そもそも、彼は調子のいいときにはこの短編を朗々と暗唱できるそうだ。
きみは稗田阿礼か。
そんなツッコミも入れた。
彼は高校卒業後、この作品を「空費された過去」を思い起こしながら読んだという。
「空費された過去」とは?

『山月記』の主人公・李徴はエリート官僚として順調な人生を捨て、詩人として生きることを選びながら、そこで世に認められないから「虎」に化身していってしまう。
そんな虎と化した李徴と、かつての同僚であり友人の袁サン(「サン」は漢字が変換できない)とが邂逅する。
何が彼をそうさせたのか。
彼は詩人になるべく努力をしなかったわけではない。
しかし、その間、彼は誰かと切磋琢磨するわけではなく、「努めて人との交わりを避け」、自身に閉じたままに修行をしていた。
そのことが、ますます詩人として世に認められない「尊大な自尊心」や「羞恥心」を増大させていった。
努力していないわけではないが、そこにおいて実は時間は空費されていたんじゃないか。
李徴はそのことに後から気づいたのかもしれない。
しかし、それは決して取り戻したり戻ったりできないものだ。
この作品の意味を高校生くらいでは理解できないだろう。
そんな声はほかにもあった。
「なくしたものがある人ではないとわからない」
ふるほんや氏はそう語る。
李徴において「なくしたもの」とは、決して順調だったエリート官僚の生き方ではない。
家族も何もかも捨て去ってでも詩人になるべく努力した過程そのものが、実は空転したものだったということだろう。
なんだか身につまされた。
だが、その独りよがりな努力がますま名誉欲と羞恥心を膨張させる。
そして、自分でも制御できない獣性に飲み込まれた姿が「虎」だった。

ふるほんや氏は、その姿に映画『明日への記憶』を重ね合わせる。
「認知症」になり、次第に自分が自分でなくなるような恐怖心。
そのじわりじわり進行する状態を自分でも止めることができない。
そして、自分が自分でない自分に飲み込まれる。
それは自尊心や羞恥心に限ったことではない。
恨みつまり憎悪という悪感情もそうだろう。
日頃、「赦し」とか「アガペー」なんて「倫理」を語る教師でさえも、自分の家族を誰かに殺されたとき、そんな抽象的な「倫理」なぞクソの役に立たないことは容易に想像できる。
制御不能な憎悪は外側から襲ってはこない。
その種は自分自身の中にあるとしても、何事もない平常時には不在のその悪感情は不測の事態に巻き込まれたとき、突如鎌首をもたげる。
仏陀は自分の中に潜みながら自分を飲み込んでしまう「苦」を四苦八苦といった。

ふるほんや氏によれば、この物語は「人虎伝」という中国の故事に由来する。
そこにおいては主人公は家族への懸念を最初に触れるが、「山月記」においては「自分の死を伝えてほしい、自分の妻子を頼む」ということを最終場面で袁さんに託す。
けれど、妻子を考えなかったから虎になったわけではないんではないか。
ふるほんや氏はそう読む。
捨てた家族のことを懸念しながらも、けっきょくは自分自身に飲み込まれたことが虎の姿だった。
けれど、誰も李徴を「馬鹿な奴だ」と責められる人はいないだろう。
人生経験が乏しければ、これを「自分らしく生きた」とか道徳的説法に解釈したり、「家族と自分の生き方のどちらを優先すべきか?」なんてくだらぬ道徳ジレンマに落とし込みがになるが、そんな陳腐な道徳教材ではない。
そんなものは文学ではない。
ただただ、この李徴の悲哀を人間のひとつのあり様として味わい尽くすのみ。

『山月記』に限らず、中島の作品はどこかそんな人生のうまくいかなさに翻弄された自分つが描かれる。
李徴を「コンプレックスの強い人」と評した参加者もいた。
人生をこじらせた人間。
醜悪なまでに名誉にこだわる執着心は、日本の文学者にもママ見られる(太宰を見よ!)
でも、たぶん、そんな感情をなかったことにするわけにはいかないのだろう。
達観する聖人を描くのが文学ではない。
どこまでもどこまでも割り切れなさを残し、その些末さに翻弄されるのが人間。

そういえば、立川談志は落語をして人間の業の肯定と定義したが、文学もそうした面があるともいえる。
『李陵』もまた、歴史的状況に翻弄されながら自分の理想とする生きざまを貫けないことに翻弄される悲哀と劣等を描いた作品だった。
『弟子』においては、孔子の高弟・子路の愚直さが、自身を滅ぼす悲哀が描かれた。
そんな自制不能な生き様を「馬鹿だな」とか「直せばいいのに」というのは、それこそ愚昧な読みだろう。
子路の愚直さを、師である孔子は既に見抜いていた。
しかし、孔子はそれを諫めながらも、彼がそれを治せるわけでもなく、むしろそれによって身を滅ぼすだろうと予言していた。
もし、その愚直さを子路が治したところで、それは同時に子路が子路であることを失うことでもあることを看取していたのではなかったか。
李徴や李陵、子路の愚直さを愚直さんのままに、その「誰」性を肯定しようとする文学。
それが中島文学の真骨頂、と言わないまでも、じんわり読み手に響かせる力が底流に流れているのではないか。

今回の文学会、あるいは読書会は酒の勢いもあってか、痛快極まりない時間だった。
くり返すが、それはふるほんや氏の踊り狂わんばかりの楽しげな姿が参加者一同を愉快にさせたからであり、何かを愛おしく語るその姿が共鳴を呼んだからに他ならない。
そして、その勢いをかって、その場で次回のテーマと日時が一気に決まってしまった。
小さな福島という街の片隅で、こんなに文学で熱く語り合える時空が切り開けたことは、何ものにも代えがたい経験であったと、さらに心地よい酔いに飲み込まれていったものだった。(文・渡部純)

仕事帰りに一杯ひっかけながらグダグダと文学を語る会―中島敦編

2017-08-10 | 文学系


【日時】2017年8月10日(木) 18:30※開始時間を変更しました!
【会 場】屋台や十八番・本店
参加者多数により会場を変更します!ご注意ください!
魚よし・本町店(福島学院大学駅前キャンパス隣)
【テーマ】中島敦の好きな作品を各自で選び、それについてグダグダと語り合う
【参加費】飲み代(割り勘)
【カフェマスター】 ふるほんやかずのぶ

仕事帰りの居酒屋で一杯ひっかけながら、文学をグダグダ語り合ってみませんか?
完全にカフェロゴのカフェマスター同士の思いつきで生まれた、この即沈没しそうなイベントをちょっと覗いてみませんか?
しかも、初回は中島敦。
高校時代の国語の教科書で「山月記」を読んだ覚えはあるかもしれませんが、それにしてもマニアックな作家です。
でも、いいんです。
先日のドストエフスキーを読む会でもそうでしたが、思いがけず青春時代に読み耽った人たちは、ものすごく楽しそうに語っている姿が印象的でした。
人が楽しそうに語る姿を見ているだけでも幸せな気分になるものです。
しかも、酔いに任せれば、その幸福感は倍増するでしょう。
それは今回のカフェマスターふるほんやかずのぶ氏が思う存分力を発揮してくれます。
もちろん、「中島敦の生まれ変わり」と豪語する方がいらっしゃれば大歓迎です。


中島敦。
この不思議な作家を少しだけ読んだ経験があるだけでも、参加資格は十分あります。
(いや、毎回そうですが読んでいなくても参加資格があります。)
しかも、彼の作品は短いものばかりです。
青空文庫でも読めます。

こうやってちょこちょこ仕事帰りの居酒屋やバーで文学を語る会は、今後、安部公房やカフカ、夏目漱石につなげていこうという壮大な野望を抱いています。
ま、どっちかっつーと、文学を肴に飲み会を開く口実にしている感も無きにしもあらずですが…
もちろん、当日、ふらっと立ち寄るのはOKですが、席数の限りもあるので、できれば事前にFacebookかブログのメッセージにご連絡をいただけるとありがたいです。