久しぶりの文学、そして読書会でした。
課題書はサリンジャーの『フラニーとゾーイ(ズーイ:村上春樹訳)』。
今回のマスターはあをだまさん。
あをだまさんはこの日のためにしっかりとしたレジュメと資料を用意して下さいました。
その準備期間はおよそ一か月。
あをだまさんの並々ならぬ意欲が伝わります。
しかし、あをだまさんはこの本のエッセンスを参加者にどう伝えるべきか悩んだそうです。
悩んだ挙句に頼ったのが、なんとチャットGPT !
なるほど、そういう相談相手としての活用法があったのか!
レジュメはチャットGPTとのやりとりから作られたものだそうですが、そのやりとりは神にすると20頁ほどになるとか。
これまた驚きです。
17歳で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』から入ったあをだまさんのサリンジャー経験を述べながら、本書初読時に抱いた3つの疑問を提示しながら、その解釈を述べるところから会は始まりました。
その疑問とは、
①なんで最後に眠りに落ちて終わりなんだ?
②「太っちょのオバサマ」がどうしてキリストだってことになるわけ?
③ゾーイのキャラは皮肉っぽくて反抗的で、あまり良い子に見えないのに、どうして妹には優しくできるのか?
あをだまさんは、サリンジャーの他の著書の読解や解説書を下調べしながらその疑問を読み解いていきます。
その際、サリンジャーの宗教観にもふれます。
たいへん興味深いあをだまさんの解釈については、写真にあるレジュメをご参照ください。
さて、参加者どうしの話し合いでは、まず主な登場人であるフラニーとゾーイ、母親のなかの誰の視点に立って読んだかが話題となりました。
青臭すぎるフラニーはスノッブな彼氏や大学の教授、院生などのファッション的な定型の言動に嫌悪感を催し、純粋な宗教性に魅かれていきます。
若さの純粋性といえば美しいですが、それは心身に危機を生じさせます。
はっきり言って、日々の仕事にウンザリさせられる日々を送っている参加者はフラニーの視点で読んでいたでしょう。。
一方、彼女の兄であるゾーイはフラニーの青臭い純粋さが誤っていることを言葉巧みに解きほぐそうとします。けれど、そうしながらも彼は彼でその自分の未熟さに自家中毒になるちょっと大人になりかけた青年です。
まぁまぁ、そんな若気の至りというか、そんな理想に周囲がなっていないことに失望して感情が揺さぶられていた時代もあったよね、とちょっと人生に達観した方は、このゾーイの視点で本書を読んだようです。
また、息子娘たちとかみ合わない、理解し合えない会話のやりとりをする母親という視点から読んだ参加者は、まさにご自身の母親としての経験が深く影響していたようです。
もうちょっと母親の身になって話し相手になってよ。
ゾーイは、それでも母親の要望にある程度こたえられる演じ方を身につけられているよね。
けれど、青臭いフラニーにはそれができない。
純粋さなんてありもしないけれど、その純粋さに苦しんでいることにゾーイは気づかせようとしている。
そういえば、ゾーイは俳優だし、演技というのも本書のキーワードの一つでした。
いずれにせよ、本書は言葉のやり取りは膨大にあるけれど、その核心が何なのかよくわからない。
そんな読後感をもったようです。
たとえば、フラニーとゾーイは7人兄弟。
幼い頃に兄妹全員で羅時を番組に出演していた、いわば子役たちという背景があります。
年長の兄弟には戦死したものもいれば、自死した者もいます。
とりわけシーモアという自死した亡兄の存在がこの小説の中で大きな意味をもつのですが、しかしなぜ彼は死ななければならなかったのかなどは説明がありません。
母親は、会話しなくなった兄弟たちにラジオ出演していた頃に戻ってもらいたいと思っていますが、本書では一人ひとりが深い問題を抱えていることをほのめかしながら、その原因が何なのかも説明されません。
ただ、幼いことに公衆の目に曝され続けたことがフラニーをして、画一的な大衆性に嫌悪感を催す感性=問題をもたらしたのではないかなと推測できるのみです。
目に見える会話のやりとりでは明らかにされない何かがある。
ということは、本書の会話や言葉のやりとりの意味だけを探っていてはなにがなんだかわからない。
これはサリンジャーの戦争体験、PTSDが大きく影響しているのではないか。
サリンジャーはベトナム帰還兵たちに「これはわれわれの話だ”!」と受け取られたという話も挙げられました。
だからといって、精神分析や精神医療の問題に回収されたくはない拒絶感も本書では語られています。
はっきり言って本書は読みにくい。
でも、その読みにくさとは、このサリンジャーの戦争体験に深く関係している。
新しい文学とは、それまでの文学や文体、形式では語りえない時代に入ったことを別の仕方で表現せざるを得ないものだとすれば、サリンジャーのおもしろさとはそこにあるのではないでしょうか。
それは、一見するとなにがなんだかわからない。
けれど、その時代のとば口でもがいている人間にとってはすぐさまに直感的に「これだ!」とわかるものでしょう。
それは、残念ながら訳者である村上春樹にはない。
村上春樹はドーナツの穴、空洞であると評した参加者もいました。
いかにも、それは中心に何もない。
ロラン・バルトもまた『表徴の帝国』で東京という都市を「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」と評しましたが、それは村上春樹の作品群にもあてはまるでしょう。
サリンジャーはそれとは違います。
何かがあるけれどそれが無数の言葉のやり取りの中から想像されるしかない。
それはけっしてフロイト的な無意識の構造というものでもないでしょう(なぜなら、精神分析を忌み嫌ったやりとりも描かれているので)。
それが何なのか。
「解説」を付さないことを出版条件にしたサリンジャーでしたが、それでも何かを言いたくなるということで村上春樹は付録でそれに近いものを書いています。
そこで村上は、サリンジャーの「表面的な『宗教臭さ』にまどわされれることなく」読むことを注意しています。
そうなのか?
ということが話題に上がりました。
キリスト、イエスの思想を誤解して苦しんでいるとフラニーを諭すゾーイですが、しかしそれは必ずしもキリスト教っぽくないよねという話になります。
「太っちょのオバサマ」やスノッブな教授たちもキリストだっていう仕方は、むしろ仏性が生きとし生けるものという東洋仏教を読んでいるかのようだったし、あるいはそれはスピノザの神、すなわち汎神論的な説明であって、ユダヤ性すらかぎ取れるんじゃないの?
それに抜きにしたら、やっぱり片手落ちの読解になっちゃんじゃないか。
そんな話にもなりました。
「太っちょのオバサマ」といえば、この話のデジャブ体験を語ってくれた参加者もいました。
本書の中で、ラジオ番組に出演する際に製作スタッフ・観客・スポンサーみんなが「うすらバカ」とつむじを曲げたゾーイに対して、兄シーモアが「それでもお前は太っちょのオバサマのために靴を磨くんだ」と諭します。
この「太っちょのオバサマ」は実在ではなく、いわば統制的理念のような存在なのでしょう。
フラニーとゾーイはそれぞれラジオの前で、それを楽しみに、あるいは習慣的に聞いている「太っちょのオバサマ」なる人物を想定して、けっして目にすることはない自分の「靴」を磨くことは、その存在のために万端準備することが仕事に対する構えそのものを成立させるということなのでしょう。
見えない細部にこそ神は宿れ。
あをだまさんはこれを「禅っぽい」と評しました。
さて、先の参加者のデジャブ体験とは、彼もまた子どもの頃の学芸会で準主役を務めた際、当日になっていきたくないと駄々をこねたそうです。
すると、お父上が「この学芸会をいつも楽しみにしているおばあちゃんがいるから、その人のために出なければいけないよ」と諭してくれたそうです。
さて、そのおばあちゃんが実在したかどうかは定かではない。にもかかわらず、その統制的理念のようなものが出演の行為を促したそうで、それが後年『フラニーとゾーイ』に書かれた「太っちょのオバサマ」の話を詠んだ際に、「これはあのときのことではないか!」と驚いたそうです。
ちなみに、お父上はそのエピソードを全く覚えていなかったようです。
本書ははっきり言えば、読みにくい本でした。
おもしろいかと聞かれれば、けっして面白いとは言い難いものです。
にもかかわらず、読書会という経験がなければ読むこともなかったでしょうし、何より複数で読むことのおもしろさがいかんなく発揮される時間となりました。
選者にしてカフェマスターを務めて下さったあをだまさんには心より御礼申し上げます。