カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

哲学カフェ―〈生まれない権利〉を考える

2019-12-17 | 生老病死系

【テーマ】「生まれない権利」を考える
【日 時】1月11日(土)16:30〜18:30    
【会 場】ペンとノート(福島市上町2-20 福島中央ビル2階 )
【申 込】基本的に申し込みは必要がありませんが、席数に限りがありますので、参加される場合はできるだけメッセージを下さい。
【参加費】会場費2,100円を参加者で割り勘にします。
     飲み物は各自でご購入下さい。
【カフェマスター】渡部 純
【開催趣旨】

哲学カフェを開催します。
哲学カフェはテーマについて各人の考えを述べ合いながら、対話によって思考を深める活動です。
今回のテーマは「〈生まれない権利〉を考える」です。

〈生まれない権利〉とは何か?
この言葉にはじめて目にしたのは、2000年にフランスで起きたペリシュ事件についての新聞記事です。
ペリシュ事件とは、医師が妊産婦の風疹に気付かなかったため、深刻な脳損傷を抱えて生まれた17才の少年ペリシュに賠償を受ける権利を認めた医療裁判です。
出生前診断によって障害が見つかっていれば、母親は中絶を選択していたとするペリシュは自らの出生を否定する権利を訴え、それがフランス司法において認められたのです。
さらに、その後も同様の判決が破棄院(最高裁)で下されています
もちろん、これに対しては障害者団体から強い反発が起きましたが、今日、これは障害者だけの問題に止まりません。
昨今の倫理学では、この世界に生まれ出ることそのものが反道徳的だと主張する「反出生主義」という潮流がありますが、実際にインドでは「同意なしに自分を生んだ」と両親を訴えた事例があるそうです。
〈生まれない権利〉はこの反出生主義と結びつくものですが、もし自分の子どもからこのような訴えを受けたとしたら、あなたはどのように応えるでしょうか?
この議論をめぐる資料は当日準備するつもりですが、まずはシンプルに〈生まれない権利〉の是非を身近な問題として考え合ってみましょう。




【記録】「死を看取ること」を語るカフェ

2017-09-25 | 生老病死系


今回、島貫真さんの震災の中で「死を看取る」経験談をテクストにしたカフェロゴには、12名の方々にお集まりいただきました。
中には、今回初の試みであるスカイプで遠隔地から参加された方や専門職の方もいらっしゃいました。
島貫さんの貴重な体験談にいつも以上の深い語り合いがなされたこともあり、今回は参加者に承諾を得た上で、その場で交わされた対話を可能な限り再録させていただきました。
なお、プライバシーに配慮して部分的に加工しています。(文責:渡部純)


《カフェマスター・島貫真(以下、M:)による騙り》

父が亡くなって6年半にもなりますが、どなたにも話す必要はないだろうと思いつつ、人は皆お迎えが来るし、それくらい生きればどうという事はないだろうと思いながら、自分の中ではどう受け止めるかを亡くなってから考え出したところがあって、その時は夢中でいたのですが、終わってみてどうかという二つの側面から簡単にお話してみたいと思います。
特別重い病気のわけでもなく、ふつうに淡々と亡くなっていった親父の話をするのも、本人でもないし、病気がどうだったか客観的に語れるものでもないし、脇にいただけだし。
たまに泊り込んだりもしていましたが、たかだかが一月弱ちょっとだったし。

そんな話す価値もないかなとためらいもあったんですけれど、それでもお話してみようかなと思ったのは、一つは震災の中で生命をどう扱うかという局面がなかったわけではなくて、その時には病気は治らないからそんなもんじゃないかとずっと過ごしていたわけですけれども、病院がなくなっちゃうかもしれない、閉鎖されるかもしれない、その中で「お帰り頂くかもしれないんですけれど」といわれると、じゃあそれをずっと自分の家で引き受けてもあとは苦しくなるんですけれどと思ったりして。
病院では在宅訪問はできませんといわれると、えー、そのまま放置は困るなというのがちょっとあって。
それでも面倒見ていただくことになって、軟着陸させていただく結果に終わるんですけれども。
そのことは自分の中ではなるべく考えないようにしていた側面があって。

つまり、なんて言うんでしょうか。
もっと頑張らせればもう少しは生命はなんとなく生き永らえたことはあったかもしれないという思いもあり。
だからといって、家に戻れたわけでもなさそうなわけで、そんな中で自分は不作為の作為をしたみたいなことも、ちょっと感じないわけでもない。うんと感じるわけではないんですけれども。
病院の人も言いにくそうに、やっぱり治療しなきゃいけない人も(他に)いて、うちの親父はそこから戻りにくいという考えは合意がなされていたので、3月16日には立ち去り型の不在が看護師さんのなかにも増えてきていた時期だったし。
ご飯を食べさせる量も減ってきていて。
石油はまだあって、暖房や電気はついていましたが、なかなか厳しい状況で。どうすんだと。
気胸だったもんでポンプで空気を入れなければいけない状況で。しかも水も出ている。
痰の吸引もあるので、家では難しいんですけれど。
そういうところでお迎えが来ました。

そういうことで、寿命だよなと家族も自分の中でも納得させていたのですが、考えてみても、寿命といっても、いつ亡くなるかわからないし、それを自分たちだけでコンロールもできないし、お医者さんの言われたことで、あぁそうなんだなと思っていく。
そこで、もっとそのとき大きな震災の状況があり、いつ物資が来るかわからない状況もあり、その中でどういう風に向き合ったらいいのかわからないまま終わっていったという意味では、病室の中で看取っているという事と、何かわからないものと向き合っているという意味では、いつ死ぬのかというところで、大きな状況と小さな状況がシンクロしていたという事が、後から段々わかってきました。

昨年、沖縄の琉球新報の方の話を伺ったときに、やっぱしその状況をとらえていかなければいけない時に、一人ひとりの生活だけじゃないんだよと。
それは政治的な話ですから、あまり直接関係はないのですが、でもやっぱりもう一度自分の父親の死を見つめた方がいいかなと思いました。
あとは個人的な感想です。
だんだん断片化していく。
病気は肺気胸といって空気の抜けるものなので、それそのものは意識とは関係ないのですが、断片か間欠か。
もしくはモルヒネ投与とか、つまりあまり痛くないようにして下さいとか、延命しませんみたいな話の中であったのか、3週間くらいいましたから、やっぱり動いていないと認知力が下がってきたのか、体力がなくなってきたのか、それは全然わからないけれど、断片化し完結化して、目が覚めると「おしっこー」というのと、「おかあさーん、いないの」という、その二つがくり返されて、排せつと愛着というんですかね。それが最後の言葉でしたね。

10日くらい震災からあったんですけれど、もう震災が起こったことは、あまりよくわからないまま、おしっこ行かなければというと、「大丈夫だよ、導尿しているから」というとまた寝る。
それで起きると、「なんだ、お前か。お母さんはいないのか」という。
そういうくり返しがありました。
そんな中で、ふと、ふと、我に還るときがあって、父親が「お前も本当はいい奴だったんだな」とか。
いや、これを聞けて俺はちょっとなんか幸せだったなみたいなところがありまして。
いや、世話になっているからしょうがなくていったのかもしれないけれど、それは僕にとっては大きな言葉でした。
それからもう一つ。
「最後にお前に言っておきたいことが・・・カハァッ!」みたいな感じで、目が覚めると「おしっこー…」がくりかえされて、あれは何だったんだろうと。
まぁ、おそらく十中八九、「母親をよろしく頼む」だったんじゃないだろうかとは思いますけれど。
そんなやり取りがあって断片的で、間欠的で、もはや一貫性は喪失したみたいだけれど、一生懸命、なんかこう、その時に対応しようとすることはなくなっていなくて、それはボケというものではないだろうと。
意識はあるけれど連続性はない。
断片化しているけれど、そのときは三秒まともみたいな。
なんかそういう感じに思って、年寄りはだんだんわけわかんなくなっていくんだなという認識は、ものすごく強く改まった感じがありました。

最後。なぜあらためて語るのかというところです。
こんなというとなんですけれども、共有できる話でもないのかなぁと思っていたのですけれど。
そんな中で半年後に飼っていた犬が亡くなったんです。
僕が朝ごはん食べているときにハァハァいっていたものが、ちょっと目を離した一分くらい後に、ふと見たら、はく製のようになっていて。
つまり、「顔面」に、要するに「モノ」になっていたんですよ。
それまでは表情があったのに。
でも、その瞬間を見ていないですよ。
瞬間を見るというのはなかなか難しいというか。
見ていてもヒューとなるだけでわからないのかもしれないのですが。
その「顔面」と「顔」、「表情」のあるものがなくなるという。
それとその父親が寝ていても、ポックリしていそうになったり、そういう表情があったり、そこに「おしっこ―」という言葉があり。
それがつがってるところと、ミルフィーユのようになりながら、行ったり来たりしている極限が「顔」と「顔面」。
これは鷲田清一の「顔の現象学」から引用させてもらっているんですが、そこに生きるということと、それの究極の魂の失われがあるのかなと思ったり。
でも、主観と客観のあいだで脇に立っている人間は、でもなんか、それについて色々感じることもあり、考えるところもありつつ、どうしたらいいんだろうなと思いつつ、記憶の中で出直しているんですが、それは単なる記憶補正、幻想補正なのか。
でも、それであらためて出会い直していると意味をもたせていいのか。
その辺のことを自分の中でよくわからないんですけれども、せっかく話すなら意味を持たせられればいいなと思ってお話させていただきました。

《以下、参加者同士の対話編》
◎Mさんの短歌の中に、お父さんを看取っているというイメージが脳裏にしみついた作品があったんですけれど、その短歌を教えてもらえませんか。

M:『お前には伝えることが』と言いかけて 眠りに入る 父を起こさず

◎何を伝えようとしたのか?

M:まぁ、たぶん母親を頼むだという事でしょうね。俺のことはどうでもいいはずだし。本人もお迎えが来ないなぁと、その前の年から軽い冗談を言う人だったので。たぶん妻のことだとは思いますが。

◎お父さんは死を自覚されていたのですか?

M:それがわからない。おうちに帰りたいって言っているから、僕は、自覚はないという方に見ていました。当時は。自分でも、これもうちょっと低空飛行しそうだなみたいな感じは、90まで生きている人って意外と頑健なんですよね。医者が言ってましたもん。90まで生きるってすごいねっていうんだけれどだから、凄いから生きているんだよって。なかなか止まらないんです。空気は抜けているし、水はたまるし、肺はぺっしょっとしていて、水も溜まっていて、肺影も真っ白なんだけれど、今すぐどうこうっていう話ではなかったですね。お医者さんの話では。だから、本人は帰りたい。「帰りたい」が三番目の言葉でした。おトイレ、お母さん、帰りたいのヘビーローテーションでした。最後の一週間くらいは。

◎これは特別なケースではなくて、ものすごいよくあるケースなんですよ。年配の人で自然気胸っていうのは肺の先の組織がもろくなって、そこが破れちゃうと風船みたいなところが破けてがしぼんじゃうんですよ。年配の方でその穴がふさがらないというのはよくある話で手術はお勧めできませんね。

◎今回のMさんのお父さんのケースだと延命は難しいと思いますが、もし延命措置ができたとしたら延命を望みましたか。

M:91歳で手術はどうかなという話でしたから、素人ながらにもそれはないなと思いました。けれど、見ていると呼吸とか脈拍は、けっこう安定しているんですよ。これがけっこう微妙なところで、それで家にもって帰れるんなら家にもっていきたいんだけれど、この状況ではもっていってちゃんとしたクオリティは維持できないと思いますという話を16日に丁寧な説明がありました。接着剤みたいなのを空気と一緒に入れるんだけれど、それで穴をふさぐことがうまくいかない。そうなると手の施しようがないという事になり、そのまま見ている状態でした。病院にいるのもいいけれど、病院もベッドがギリギリなってきているんでという感じだったので。そうでなければもうしばらく延命しようかという話になったかと思いますが、そうでなければもう一回知り合いや会いたい人を、こちらが忖度して呼ぶかという事はあったかもしれません。もし手術できるというのであれば、別ですけれど。延命をするかしないかを問われたら、そういう状況になったら、延命措置をやってくださいというのかなぁ。その時は本人の意志かなぁ。でも、親父ももういいよみたいなことを言っていたので、最初に入院した時からほどほどにと先生に言っていましたね。3回くらいそのやり取りは病院がともちました。

◎私は、どういうわけか人の最期の場面に立ち会うことが、とても多くてですね、祖母も今回私が最終的に看取ったんですが、癌が広がっていまして、ただ本人が亡くなる2週間前まで気づかなかったんですね。痴ほうもあったので病院の先生も不思議がっていたんですが、おそらく脳の痛みを感じる部分が損傷していたかなんかで、たまたま痛みを感じなかったんじゃないかなという事でした。最後の二週間というのは寝たきりで、入院したのは3日間だけだったんですね。私たちも本人があまり痛みを感じることないのであれば、自宅で看取りましょうという事で、家族で見ていたんです。なので、延命するかどうかという選択肢も私たちにはなくて、死の直前までゼリーを食べられる幸せな最後だったねといっているんですが、もし選択ができるんだったら延命していたのかなというのが凄く疑問なんですね。家族の思いと本人の思いも違うんじゃないのかなと思うんです。

◎うちもそうでしたね。父親が亡くなったときに、母親は延命したかったみたいで、臓器移植を考えたりしていたんですね。ちょっと、個人的にはそれは勘弁と思っていましたが。ただ問題は、弟の結婚式がその先にあって、そこまでどうすれば延命させられるかという問題が生じましたね。じゃあ、余命を本人に伝えるかどうかとなったときに、それを知らせたら、延命どころか寿命を縮めるというので、その選択はしませんでしたけれど、そこが島貫さんのお話と関係するのは、僕の場合は「お前に最後に言っておきたいことがある」という言葉を聞くことができなかったんですよね。結局、余命を知らせていないから、そういう場面にはならないわけですよ。そのあいだに亡くなってしまいました。

M:「最後に」っていうのは「今日」ではないんだよね。たぶん本人はね。「明日」も生きていると思っている、という感じがしないわけではなくて。だから、最後の最後に言うつもりではないんだよね。「最後の方」なんだよね。

◎それを口にした時の恐怖っていうのはあるんじゃないかな。「お前に最後に言っておきたい」といったときは完全に自覚しちゃっているのかもしれないし、そのときの恐怖っていうのはあるんじゃないのかな。

M:本気で思っていたらそうかもしれないけれどね。でも、うちの親父に限って言えば、何となく怖いから、あらかじめ言っちゃっておくタイプの人だったんだよね。「俺はもうダメだ」って300回目くらいの「最後」なんだよね。だから覚悟の上での一回こっきりの「最後」というわけではなくって、怯えている人だったかもしれない。準備はしていましたけれど。

◎でも、そこはわからないよね。

M:そう、わかんない、わかんない。一人称じゃないからさ。脇で見ているだけだからさ。いえばよかったかどうかはわからないよね。

◎告知するって難しいんですよ。結局、告知することによってどういう効果があるかは、人によって様々なんですよね。昔は一律告知しなかったんです。告知するとどうなるかわからないというのが一般的な考え方だったんだけれど、今はだいたい告知はします。少なくとも家族には全部言います。というのは、それを踏まえて、あと残り少ないからどうしようか考えてもらうおうというのが基本的な考え方です。告知されて有効に使う人と、しぼんじゃう人とがいるので、やっぱりその人のキャラクターを考えます。まず、最初に身うちの人にどういう人かを聴きます。言った方がいいのか、言わなかった方がいいのか、やっぱり考えて選びます。だから、一律みんな一緒ではないですね。

◎そりゃそうですよね。知り合いでもステージ4だといわれて手術して、5年生存率20%だといわれたのが、5年経ってもまだ明るくふるまって生きています。

◎5年生存率20%というのは、2割の患者さんは生き残るという事ですから、実は単純に確率の問題でしかなくて、5年後に生きているかどうかを正確に表しているわけではないんです。

◎あと、延命するかしないかの話なんですけれど、母は病状が急変して半日で亡くなっているんです。そのときせん妄状態になっていて、意識を取り戻すと「苦しいから死にたい」といったり、意識を失ったりの繰り返しだったんですけれど。その時、実は父は別の病院に入院していて、翌朝にならないとつれてこれなかったんですよ。そうなると、死に目にも会えないという事になっちゃうので、朝くらいまで何とかなりませんかという話になったんですね。それで、人工呼吸器をしてもらって、心臓マッサージしてもらって。でも、やめたら心臓が止まっちゃう。でも当人は苦しいから、意識を取り戻すと苦しいから死なせてくれという。また意識が落ちちゃう。それを半日くらいくり返していました。医者はもうダメかもというところで、人工呼吸し、心臓マッサージし、でもそれをやめたら止まるというところで。実際、もういいですっていうことになるんですけれど。もうダメだってわかっているんだけれども。よくわからないですよね。とりあえず生きているという状態を保って。もうやめますっていうんだけれど、人工呼吸器で肺は動いているんですよ。でも心臓は動いていないんですよ。

◎Mさんは看取ったという感じはしているんですか。

M:いや、とても、とても。「看取る」っていうと、もっと大変な道筋を辿って誰にも何もわからないような道行をいったものを「看取る」というイメージをもっていたので、それと比べると家族でローテーション組んで回していたから、家族のシステムとしてはありだったと思いますが、5人で回せたから、システムとしての看取りは動き始めていたけれど、自分一人で責任を負った感じはしない。だから、一人ひとり落ち込まずにやれたという事はありました。

◎当人の意識というのはどうなんでしょう。親戚のケースは自宅療養で在宅酸素をしていたんですけれど、最終的には呼吸困難で亡くなったんですが、意識はずっと最後まであったらしいんです。そのときに、酸素テントの中で患者本人が本当に苦しがっているから、あまりに苦しそうな姿を見て、家族がそのまま酸素を止めようかと考えたことがあるという話を聞いたことがあります。でも、止められなかったわけですけれど。

◎それは、ご家族のお気持ちとしてはよくわかるんだけれども、一人で決めようとすると昨今問題になっている、安楽死なのか殺人なのかという問題になっちゃうんです。絶対に一人では決めないというのは、医療関係者でも家族でも、それは徹底しています。ひとりで決めて一人でやろうとすると、それは家族であろうと医療関係者であろうと、やっぱり後々問題になります。法律上の問題にならなくても、ありますよね。絶対に、絶対に一人で決めないというのが鉄則ですね。実際にそれで、家族の気持ちを忖度して医者がそれをやって有罪になったケースがあります。

◎看取りって何なんだろう。寄り添うというイメージがあったんですけれど。それだけじゃないものもあるんじゃないかなと。

◎寄り添うことは医者にはできないんですよ。専門職って、色々具体的に動かしたり説明はしたりしますけれど、医師がやることは仕事であって寄り添う事ではないんですよね。医師は患者からは距離があるんですよ。それが的確にできるのが医者の仕事としていい仕事だと思うんですけれど、寄り添うことは家族とかおつれあいとか、親しい人にしかできないと寄り添うことはできないんですよ。

◎そこから問題になるのは、そのような存在がいない人にとっては、深刻なことがあるということですね。孤独死の問題なんかがそう。

◎東野圭吾の「人魚の眠る家」という小説があるんですけれど、娘の脳死を受け入れられない母親が、臓器移植などをしたりして生き人形として生きているという体で続けるんですけれど、そのうち弟や妹が「本当は死んでいるんじゃないか」と疑うようになったり、外部から指摘されたりしてヒステリックになったりするんですが、最終的には娘の死を受け入れて娘の臓器を臓器移植に提供するという事になるんですけれど、寄り添うというのも、寄り添う側の人間がその死を受け入れなければ難しいのかなと思うんです。自分が家族に寄り添って看病した時には、この人は死ぬんだという受け入れができて看護できたんですけれど。だからこそ、最後お手伝いできたらいいなと思ったんですけれど、その死を受けれられないときには難しいよね。

◎みなさんは、先日NHKで放送された医師であり僧侶の方ががんで亡くなるドキュメンタリー(「ありのままの最期 末期がんの“看り医師” 死までの450日」・2017年9月18日放送)をご覧になりましたか?それを死まで撮り続けているんですよ。それで主治医が奥さんなんですよ。あの奥さんは難しいですよね。

◎でもね、あれはボク見てね、ああそうだなと思ったのは、ディレクターさんが「こういう人だから、死ぬときはこの人流の理想の死を演出するんじゃないか」と取材を始めるんだけれど、「最終的にそんなことはないよね」と終るじゃないですか。僕はそれで非常に納得したんですよ。医者が一般的に科学的にこうですよと説明するけれど、それと家族が腑に落ちるというのは全く別問題で、科学的に提示されてもそれはそうですねと思うかどうかは、その人次第なんですよ。だから、患者会みたいなことをやって、先生がそこに必ず出て行って、患者さんたちとお話し合いをしていて、最後にはご本人が患者としてぐったりしている場面がありましたが、あれを見ていて思ったのは、しゃべったり、宗教的に死とはこういうもんだと語っても、あれは無駄なんだなと思いました。結局、個々の問題でしかないように思えてきたんです。あの奥さんも、最後にお坊さんの恰好をしてご主人をお見送りしているときに大泣きしているんですけれど、あれは医師としてみているんではなくて、つれあいとしてみているわけですよ。だから、そうなると医師としてああだこうだ喋ったり、宗教家としてああだこうだと喋ったりすることは、結局のところ意味がないと思ったんです。具体的科学的に説明できても、そこから先どう解釈するのか、飲みこむのかは個々の問題であって立ち入れるものではないと思います。

◎そうなると「寄り添う」とはどういうことになるんでしょうか。あの番組を見ていて、本人の苦しみが共有できないということはわかったんだけれど、じゃあ看取るとはどういうことなのかな。本当に意味がないことなのかな。たとえば、自分が父親を看取ったときには、あまりに苦しそうな姿に、早く苦しみから解放されるようにと祈りながら手を握っていたのですが、あの時は出産の逆バージョンといいますか。出産のときは、男はあの苦痛はわからないのですよね。でも、寄り添いながら手を握りしめるっていうのはどう意味があるのかな。

◎出産ですか。立ち合いましたよ。子どもたちも立ち会いましたよ。

◎だけれど別に手を握ってくれても…あ、さすってくれていたか。さすってくれたのは楽でしたけれど、別に精神的に安心するということはないですね。だから関係ないですね。そういうのはないですね。痛いのは自分で受け入れるしかないですよね

◎あれはなかなか微妙ですよ。介在してくれた事をありがたく思う人と、余計なことだという人に分かれるんですよ。所詮、女の世界だからお前らにはわからないでしょと、立ち入ってほしくない人も世の中にいるんですよ。逆に一緒に立ち会ってほしいという人もいて、一概にどちらがいいとは言えないんですよね。

M:この後、妻が癌のサバイバーになるんですよ。そのときに診察室に呼ばれたときに、自分の身体が熱くなってきて、ザワザワしてきて、本人も顔が上気してきて。やっぱり、親父の時と妻の時は全然違って、身体がフワフワして、躁状態じゃないけれど、足取りがしっかりしないというか。頭と身体がつながっていないというか。あの状態で看取りとかはしっかりできないというか。今度は考えていたから、うまく寄り添わなきゃな、とは思うんですけれど、やっと50にして彼女と一緒にやっていこうと腹が決まった時期に、その出来事は衝撃的でした。
 
◎やはり自分も妻が大病を患ったときに、同じフワフワ状態になりました。そもそも、その状態に自分が耐えられるのかどうか。その延長線上に看取りがあるのだとすれば、自分の苦痛とともにパートナーを看取ることなんてことができるのだろうか。

M:そのときに、自分の苦しみのことだけ考えているのもなんだかなと思うじゃないですか。二度目はうまくやらないとって。今はあまりしなくなりましたが、診断結果を見たときのシミュレーションを何度もしていますよ。

◎兄弟のパートナーが亡くなったときに、彼が精神的に立ち直れなくて。結婚前から癌だとわかっていて結婚していたんです。だから、親なんて最初からわかっていたんだからもう少ししっかりすればいいのにというんだけれど、わかっていてもそんなことは言えないでしょというんですけれどね。いくらわかっていても受け入れられませんしね。

◎たしかに、けっきょく寄り添っても役に立たないというか、本人の苦痛に届かないかもしれないなって。けれど、他方ではそれを看取る家族の苦痛が交わることはないなんて言っちゃっていいのか。そこを考えたいな。

◎闘病されている方には本当に失礼なんですけれど、死ぬなら急死したいなと思いました。看取られることが、こんな風に思われるんだと思うと。わかってもらえるわけないし。看取られたくはないないなとおもっちゃって。いま、障害者に関わっているんですけれど、わかろうとしても、自分がそれを絶対的に分かってあげられないし、そこに溝があるんです。寄り添うというのがキーワードとしてはあるんですけれど、自分が健康体だからこの仕事ができるんだなと思うんですよね。絶対に病気になっても、わかってもらえないんだなぁと思うとみとられるって経験もないですけれど、同じ立場の人とは違うのかなって。看取られるのって、経験もないけれど、大変だな。いやだな。だから、どうやったらすぐに死ねるかな。

会場:笑い

◎けっきょく、よく世の中の高齢者が、ピンピンコロリで逝きたいんだっていうけれど、ピンピンコロリで逝かないから、じゃあどうしようっていうのが世の中の悩み事なんですよ。

◎私の母親の父はピンピンコロリで逝ったんですよ。前日までピンピンしていて、自分のことは自分でできて、誰の世話にもなっていなくて、ある日寝たままま起きてこなくて、そこから数日間寝たきりのまま意識を取り戻さずに終わりですよ。チャンと家族はいて一緒に番ご飯を食べたりしていたんですよ。

◎いいなって思いますね。ある意味孤独にお亡くなりになられたんですね。

◎それは宝くじ当たるようなものなんですよ。たまたまそういうラッキーな人がいるだけで、たいていみんな病気を引きずるわけですよ。たいがい病気って、なんかパパっと治療してパパっと治る病気って実はほとんどないんです。

◎本当に病気をしたことのない人間の甘ったれた言い分なんですけれど…

M:いや、若いんですよ。もう、僕なんかは病気がお友達だから、これがどんどん友達が増えていくんですよね。本当にね、もういらないっていうぐらいね…増えちゃうんですよ。

◎だから、わかっていないんだというところだけわかっていればいいんだと思う。「私、わかっていないんだよ」というところから始まって、私わかっていないから敬意を表するとした方が、近いんじゃないかな。病気をしている人と病気をしている人をサポートしている人への敬意。医療従事者に関してはそれができれば御の字だと思うんです。

M:それに加えていいですか。共感はできないんですよ。だって、こっちが死ぬわけじゃないから。それはやっぱり孤独に逝くんですよ。うちのお母親なんか親父のことを「死ねばごみ」なんてひどいことを言うんですけれど、本当に「ごみ」だと思っているわけではないんですよ。表現なんですよ。共感じゃないんですよ。要するに、相手のことなんかわからないんですよ。介護や医療従事者の方と少し次元が違うのかもしれないけれど、近くにいたってわからないところがあるっていうか、わかったつもりになるなよって。わからないでいてもらっていいんだけれど、「ここにいるよ」と。相手に「あっちいけ」と一回石投げられて病院の外に出ても「また来たぜ」みたいな感じかなっていう風には思いたいな。父親と妻と犬の死を間近に感じて、わかんないけれどいるぞ、そして表情を見ているぞって。だから、死んだらもうそれは終わり。あとは記憶の側に転移していく。そして、記憶になったときは言葉が大事になるんですよ。犬だったら動画や写真でいいんですけれど、人間は言葉をもっていますから、どんな罵声でも言葉を聞いておくというというのは、すごく大事かなと。一度目は身体が死んで二度目は記憶を失われた時に死ぬとしたら、二度目は生かしておくぞという意味で。それはわからないままでも二人称のままそこにいるぞという事かな。どうですかね?きれいごと過ぎますかね?そうじゃないと救いようがないかなと思うんですよね。

◎親戚が孤独死しまして。だから、誰にも看取られずに死んでしまうというのはなんだか…

◎僕は広い意味で看取りをとらえていて、その場にいないと、死の瞬間にいないと看取りができないというわけじゃないと思っていて。それは誰でも可能なわけではないですよね。先ほど、Mさんから記憶の死が二度目の死とありましたが、ご親戚も孤独死したとおっしゃいましたが、その方がどういう人だったか、生きてきた姿を見ている人たちはそれを物語るわけじゃないですか。それが為されるのであれば、広い意味での看取りともいえるのかな。そこまで看取りといっていいのかどうかはわかれるけれど。身元が分からなければ無縁仏となって、役所の方で埋葬してもらうわけですよね。

◎私の友人の父親が失踪した後に、どこに住んでいるかもう何十年もわからなかったんですけれど、県外で亡くなって役所からその友人に連絡が来て、引き取ってくださいといわれたんですって。でも、自分としては小学校以来顔を見ていなかった父親だったんだけれども、興味もあって顔を見にいったんですって。最終的には市役所の方で埋葬してもらったみたいなんですけれど、友人にその時どう感じたのって聞いたら、「何も感じなかった」といわれたんですよ。「ああ、こういうところにいたのか」と思ったくらいだったという言葉を聞いたときに、えーそういうものかって私は…

◎記憶の前提になる時間がなかったわけだよね。

◎うん、一緒にいたときの記憶があまりいいものじゃなかったというのもあるんでしょうけれど。

◎私の祖父母は二人とも亡くなっているんですけれど、事情があって顔を合わせたこともなかったんです。その二人の死に顔を見たときに、正直なんとも思わなかったのに、愛犬が死んだときは本当に悲しさが凄まじくて。
急に具合も悪くなって、看取ることもできなかったことが心残りで。Mさんの報告を見ている限りは、すごく家族で協力し合って、少しのあいだだけでも傍にいれたというのは看取りだなって思ったんですよ。

M:あ、でも、母親は父親が亡くなったときには一切泣かなかったのに、半年後犬が亡くなったときに大号泣ですよ。あまりの落差にポカンとしてしまいましたが。あれ、なんなんでしょうね。

◎あー、でもなんかわかりますよ。愛着の度合いが違うんですよ。先ほど親御さんとおつれあいで違うとおっしゃったじゃないですか。親御さんというのは年も取っていて、順番もそうだし、一番納得できるんですよ。でもおつれあいはざわざわしますよね。で、たぶんペットというのは、お子さんに近いんですよ。愛着の抱き方が親御さんやおつれあいと違っていて、距離の取り方がお子さんに近いんだと思うんです。

◎動物病院でペットが亡くなったときに、犬猫のためじゃなくて飼い主さんたちの心のケアをするところに重点を置いていますね。納得していただけるかなぁと。

◎もう一つの論点としてMさんのご経験は、「震災の中での父の死」という主題がありますよね。最後にそこを語りませんか。

M:真面目に親父が死んだときにどうだったかなんて形にしたのはこれが初めてです。
そんな人をつかまえて話しするものでもないし。
母親とも思い出話はするけれど、あのときどうだったなんて、そんなに詳しくしゃべらないし。
でも、なんでこんな話をしてもいいかなと思ったのは、大きな震災の中でどうしたらわからない。
で、言葉をもてない。
で、人の死の看取りってこうだよねって言われると、いや、俺そんなじゃないしっていう感じと、震災っていうけれど避難したわけでもないし、何か強制的なことがあったわけでもないし、被ばくなんかしたわけでもないし。
俺なんて、みたいな感じ。
そして言葉にならないんだけれど、でも、言葉にならないんだけれど、言葉にならなないから何かそれを忘れられちゃうかっていうと、そうでもない。
言葉にしにくいんだけれども、状況の中で受け入れていくしかない。
父親がだんだん何かできなくなっていく、人間的な一貫性を失っていって向こう側に逝くのをただ見ているしかできない、これを自分の中でどうつかまえるのか。
死と向き合うってどういうことなのか。
手に負えないような部分があり。
それで、震災後も何かしゃべろうとすると、いや自分だけの体験を喋ってもしょうがないよなとか、人が「こういう時はこうなんですよ」といわれると、うーん、でも、そうなんだろうか、何か自分と同じような気もするけれど、違うような気がする。
つまり、すごく大事なことなのに、大事なことだからこそどうやって喋ったらいいのか、誰に喋っていいのか、よくわからないところがあって、そのままにしていたんですけれど、エチカ福島って原発事故以後のことをみんなで喋ろうみたいなことをやっていたら、沖縄の人もきちんと言葉にすることも何十年もかかったといわれて、福島に人はまだ言葉を十分に持てないんじゃないか。
十分に言葉を発するというか、状況を把握しきっているんだろうか。それをつかまえられているんだろうか。
どういう風につかまえればいいのか。
そこに立っているんだけれど、周りの状況も含めて起こった出来事を自分でどういう風に受け止めていけばいいのか。終わったから記憶も忘れて、なかったことっていうか、今生きられればいいやというのは、ちょうど、いつ死んでもいいけれど今じゃなくてねというのと同じで。
日常はそうやって進んでいくんだけれど。
「いつ死んでもいいや」って母親は言うんだけれど、でも、それは「今日」じゃないんですよ。
しかし、「今日じゃない」という日常と、「今日だ」っていう大変な時と向き合ったときに、たとえば具体的に言うと、車が三段重ねになって無茶苦茶な状況になっていることと、犬が死んだ瞬間の顔と、つまり意味やオブラートに包まれたものが取っ払われたモノ、定義できないモノ化した社会的な約束とか、自分でこういうものだと思っていた日常のリズムが完全に奪われてしまう事と向き合うことだし、死に向き合うってことは。
そう考えると、震災の時にたまたま身近な人の死が重なっただけなんですけれど、でも何か言葉をもつ。もたなくても日常を暮らしていけるんですけれど、でもそれでいいのかという思いが自分の中でシンクロしたんですね。
それは共有できるものかどうかもわからないんですけれど、両方考えていかなければならない。大きなものと小さなものと、人間が営んできた日常と非日常、自分たちが作っている生とそれがバッと終わる死と。
自分の中ではこういう大きな震災と小さな死とがつながってしまっている。そういう感じがあります。

◎Mさんのお話を聞いていくと、もしかしたら「震災がなければ、もうちょっと延命できたのでは」という思いもあったのかなと引っかかているんです。なぜかというと、もう一方で、「震災があってもこれは自然の死だからしょうがなかったんだ」と受け入れる思いとパラレルに引き裂かれているような気がするのですが

M:鋭いですね。ま、震災があったから少し進めたかもしれないけれど、しょうがなかったんだと、確かめようもないんだけれど、やっぱりもし何にもなくて、小康状態になっていた時に、さてどうなったのか。そのときに、程度問題かもしれないけれど、なるべく長く生きるようにして下さい、と思ったのか。自分の中で難しくなったかもしれないですね。大きな出来事があったからこれは仕方がないんだと、小さなことだと、もしかすると思ったのかもしれないと、今言われてドキッとしました。

◎これが人災であったら、寿命縮めやがってという思いも生まれたんじゃないでしょうか。

◎強制避難区域の方がそう言っていましたね。避難所を転々していく中でご家族があっけなくなくなったときに悔しいって。人災がなければ、長く生きられたのに。

M:難しいですね。病院が閉鎖されることに対する違和感は、病院の人には向きにくいですよね。だって、僕らだって避難するかしないかというときに、医療者だって家族をもっていて決断は一人ひとりあるわけだから。物資だって全然こない状況だったから、それはしょうがない。自分の親父もこの病院でもうすぐお向かいが来ることはまぁ間違いない。何日か違うだけとなったら仕方がないけれど、それが平和な時に人災事故が起きたときに逃げられないとなったら、どう思うかわからないですよね。

◎浜通りでは自主避難した看護師さんたちがかなり責められた話があるんですよね。

M:それはあるかもしれませんね。でも、それは言いたくなという感じはありますよね。自分は子どもたちを逃がしておいて、それは言いたくないな。難しいですけれどね、残ってやっていた人が仕事がつらくなってきた人たちの立場は患者の立場と違うかもしれないから。何となくわかるような気もするし。人為によって左右されるっていうのは大きいですよね。

◎病院の物資資材不足によって、病院側から退院を確認されているという点ですが、大災害が起きたときに患者さんを選別するトリアージが為されます。災害時には残り玉いくつで何人やれるかという事は、特に災害時にはあるという事は心のどこかに置いておいた方がいいと思います。おそらく混乱は起きると思いますが、これから現実に起きる可能性が高いと思います。でも、それを頭でわかっていても、いま納得してちょうだいといっても、納得してくれないですよね。きっとそれで亡くなったらモヤモヤするでしょうけれどね。

M:その時の場合にはしょうがないんだろうなと思った。病院が閉鎖されたら家に置こうが病院に置こうがそれまでという思いがありますが、それでも病院に返したのは、延命してほしいという事ではなく、苦しまないようにという話だけした記憶はあります。こっちも色を成す種の話ではなく、それはそうだよなという思いもありつつも。

◎死を看取るっていうのは難しいなと思いました。死に立ち会うっていう感じですよね。私は立ち会うっていう事じゃなくて寄り添ってあげたいなという事を感じました。看取ることはできなくても。

「死を看取ること」を語るカフェ

2017-09-18 | 生老病死系


【日 時】2017年9月23日(土) 16:00 - 18:00
【会 場】サイトウ洋食店福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階
【テーマ】「死を看取ること」
【参加費】 飲料代300円 ※参加申込は不要です
【カフェマスター】 島貫真 & 荒川信一


『ひと、死に出あう』(朝日新聞社)という本を読むと、人が死に直面するのは本当に多様であることを思い知ります。
しかし、どんなに死の危機に直面しようとも、人間は自分の死だけは経験して語ることができません(臨死体験はありえるでしょうが)。
その意味で、人は常に誰かの死を手がかりに死に思いを巡らすものでしょう。
とりわけ、身近な存在の死に直面したとき、その衝撃とともに精神は動揺しながら死の意味を考えてしまうものです。

今回は、3.11の東日本大震災・原発事故のさなかに肉親の死に直面した島貫真さんの経験談をテキストに、参加者それぞれが経験したり、考え込んだ「死を看取ること」の意味を語り合いたいと思います。
それから、もうお一方。
最近、ご家族を亡くされたばかりの荒川信一さんにも、その時の想いを語っていただきます。
今回はエクリチュール(書き言葉)やアート作品ではなく、まさに当事者の「騙り/かたり」というテキストを材料に対話と思考を試みます。

延命措置が崩壊し、為すすべがない状況下において人は身近な人の死にどのように向き合うのか。
あるいは、予告なしに直面させられる他者の死に、人はどう向き合えるのか。
なぜ、「看取り」が必要なのか。あるいは、そうではないのか。
お彼岸の時期に、みんなでその意味を考えてみましょう。
もちろん、まだ「死を看取る」経験をしたことがない人でも参加資格はあります。
申し込みは不要です。どなたでもご自由にご参加ください。