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カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会・感想

2018-02-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む






佐藤和夫先生をお招きしての『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会を無事終えることができました。
北は岩手から南は東京まで、県内外から多くの方に参加いただきながら、正解となりましたこと、主催者として御礼申し上げます。
最先端を行くアーレント研究者からアーレントの「ア」の字も知らないといった方々まで集い、はげしい議論や自らの経験を踏まえた語らいが為されました。
とても、それを一気にまとめるには、少し時間をいただかなければなりませんが、それはともかく、4時間にわたる本編から夜中の2時まで繰り広げられた「饗宴」に一同、快楽の極みを楽しんでいただけたようです。
以下、いただいたご感想を紹介します。

「いきなりジェットコースターの展開、しかも全体として見れば「無限無軌道の4本のトレインが密接交錯して突っ走るのに飛び乗り移りながらアーレントワールドを巡りまくる!!!」というようなアリサマで、マジ興奮しつつ堪能させていただきました。朝まで生DearLogos!というのは、生ぬるい小生にとっては空前絶後の経験で、大学的知の醍醐味をようやく知った思いです。佐藤、森、小石川、池田の先生方はじめ、世話人各位、そして参加された皆さんへの、愛しい感謝でいっぱいです。ともあれこんな楽しいことはやめるわけにいかず、続けながら、現実社会を知的に「革命」するためにはいかに?というテーマに呻き愛悶え愛したいものと意を強くしています。カムサハムニダと叫んだ羽生くんのココロでありがとうございました!」

「個人的にはとっても楽しかったです。同時に、難しいバトンを勝手に受け取ったような気がして、これから大変なことになるなぁ、と少し気重にもなりました。なにを言ってるんだか、ですね(笑)でも、エチカ的な意味で考えていくと、福島で 「アーレントを読む佐藤和夫」をみんなで読むってことの意味を考えずにはいられません。またやりましょう!」

「読書会の準備から会計まで本当にありがとうございます。お疲れさまでした。アーレント、一人で読んでたら挫折してたと思いますが、何度も折を見て読み返したいなとも思いつつ、『人間の条件』までチャレンジしたいなとも思います。」

「大変お世話になりました。純さんを中心にチームワークよろしく準備、運営に当たられた方々に感謝。私が一番年長だったようですが、20才以上若返った気持ちです。(もっとかな?)」

「とても楽しいイベントに参加させていただき、ありがとうございました。多くの方々と議論したり、いろいろなアドバイスをいただいたりして、貴重な経験をすることが出来ました。今後の進路は決めていませんが、福島に住むことも真剣に考えながら決めていきたいと思います。」

「昨日は、たいへん愉しい一時(というより持久走な)時間をご一緒できてうれしかったです。佐藤先生の少年のような知的好奇心とパワフルさには感心しました。そして森・佐藤両先生のアーレント愛!福島の地でさまざまな形で思考することを続けていらっしゃる皆様、そして震災と原発事故について語る続ける困難な営みから逃げないご様子。どうぞ、これからも息長く活動を続けていただきたいと思います。」






『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・最終回まとめ

2018-02-22 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


5か月にわたる『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が、とうとう昨日最終回を迎えました。
長いようで短かったこの間、忙しく疲れがある仕事帰りにもかかわらず、毎回10名前後の方が集って継続できたことは驚くべきことでした。
昨日も、福島市某所に集った参加者の中には、本を抱えながらコタツで思いっきり夢に微睡みながら船を漕いでいる方もいらっしゃいました。
その気持ちだけでも発案者としては感謝です。
今回は昨夜の議論で印象的だったものだけをかいつまんでまとめとさせていただきます。

◎マルクスの労働の廃棄は人間の条件そのものの廃棄だと批判したアーレントの議論に関して。
この議論の前提には、労働は奴隷的営みだというアーレントの「労働」に対する評価について、Facebook上で次のような議論が交わされた経緯があります。

「エンゲルスの『猿が人間になるについての労働の役割』を読んだ記憶がよみがえっています。
二本足で立った人間が「自由になった」手をものづくりの労働に使うことが脳にも反作用して脳を発達させ人間になっていく。
たしかに労働が苦役であるという側面もありますが、労働することで、自然にふれ、作物を育てる喜び、それを他人に食べてもらって喜んでもらうこと。工芸的な職人のもの作りの喜びなど、人間の個性の開花などはどう見ているのでしょうか。
マルクスは共産主義社会を分配の原則から低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(Wikipedia)。
資料には<すべての物を共有する共産主義>とあります。生活に必要なものは必要に応じて受け取れるわけで、共有の根本は<生産手段の共有>だと理解してます。」


ここでは、昨今の「裁量労働」をめぐる政治の議論を踏まえながら、そこでの労働が奴隷的なのは資本主義という形態の下で行われるのではないか、という疑問が投げかけられました。
さらには、労働を通じて人間は能力を全面的開花させていくわけで、仮に労働がない社会が実現したとしても、釣りや写生のような牧歌的なぼーっと趣味に埋没するような人間になるわけではなく、個性を開花させていくものではないか、という疑問が投げかけられました。
なるほど、社会主義国家になれば、それこそ「活動」にように喜びを伴う「人間的な労働」になるのではないか、という疑問です。
以前、この会でも確認されましたが、育児や料理などの「労働」にも他者との協同がともなう「活動」的要素があるということを本書では述べられています。
問題は、マルクスが「労働は廃棄される」とした点にアーレントが批判を向けているという点でしょう。
アーレントの見立てでは、社会主義になろうとも「労働」という人間の条件そのものは廃棄されないし、または廃棄されてはならないものだということです。
そして、いかに喜びが伴おうとも、労働には生命維持の必然性が伴う以上、それはやはり生命維持の必要性に結びついている以上、強制力から逃れられない奴隷的な労苦を本質としているというのがアーレントの見立てです。
マルクスは「人間的な労働」が実現する共産主義社会を目指したといってもよいでしょうが、「生産手段の共有」によってそれが果たされただろうか。
むしろ、私有財産の廃棄が、むしろ個々人の「個性」を育むプライヴァシーを奪ったのではなかったか。
本書が繰り返し主張してきたこの点が、妥当するのかどうか再度確認してよいように思います。

◎AI(人工知能)とのコミュニケーション問題。
そもそも、AIと人間的なコミュニケーションはとれるのか?
siliレベルの受け答えは可能だとしても、人間的なコミュニケーションは取れないだろう、というのは現段階においてはそのとおりだと思います。
東大合格を目指して開発された「東ロボ君」も現段階では現代文の読解問題にまだまだ対応できていないようです。
基本的に情報処理と統計に基づくパターン認識ですから、「意味」を求められる問題解まではできないとのこと。
けれど、人間のコミュニケーションパターンの情報量をどんどん増やしていけば、けっこうどんな受け答えでもできるんじゃないだろうか。
SFの世界のように、もしかしたら生身の人間とのコミュニケーションよりも、よほどうまくいくのではないか。
「いや、俺はどんなにケンカをしても妻の方がいいね」
これは、ふだんパートナーを「鬼嫁」と呼ぶ方の発言です。
あれだけブーブー言っているのに、なぜそう言えるのか?

また、ある参加者はAIには「共感」がないといいます。
共感とは?
AI自らが自動的に学習を深めていくディープラーニングは、もはや開発者のコントロールを超えてしまっていると言います。
すると、「共感」的反応もまたパターン認識によってマスターできないとも限らないのでは…
意外な反応ですら、そこに人間が魅力をもつという情報をパターン学習すれば、そのようなトリッキーな対応すら可能にならないだろうか…
人間の意外性や予想不可能性すらパター化できるのではないだろうか…
そうしたら、AIの方がよほど悩みや愚痴を話しやすいかも。
恋愛をしない若者が話題になって久しいですが、生身の人間への魅力が希薄になっている現実があるとすれば、あながちありえない現実ではないのかも…
医療現場において、膨大な症例データを処理してパターン認識を生み出すAIは成功確率の高い医療方法を提示するものの、その根拠は示せないと言います。
つまり、判断の根拠が示せないというわけです。
僕らが「人間的なコミュニケーション」という場合には、この「根拠」や「理由」にヒントがあるのかもしれません。
ただし、それは「正解」ではなく、答えのない問いに対する「根拠」といえばいいのかもしれません。
つまり、「生きる意味」の答えは人によってそれぞれ異なるものですが、それを受け止めたときに「腑に落ちる/落ちない」とか「納得する/しない」という思いが生まれます。
そして、その「意味」は各人の一つとして同じではない経験や思考の仕方にもとづくものであり、「パターン」を求めているわけではないからだと思うのです。
それはAIにはそれを示せないという点で限界があるということなのでしょうか。

◎世界=地球疎外をめぐって
いくら科学が宇宙へ飛び出していったからって、火星に移住するとか宇宙ステーションに人間が居住したいなんて、そんなのアニメの話みたいでリアリティがないね、という疑念。
たしかにね。
でも、実際に居住したいかどうかという問題ではなく、人間の条件そのものである地球から飛び出したいという欲望は、科学の「過程的性格」にあるのであって、人間の欲望としてあるという意味ではないのではないでしょうか。
人間が好んで火星に住みたいと思う人なんてごく少数であるように思われます。
にもかかわらず、試験管ベイビーや代理出産、ips細胞も、もともとは何か目的のためにというよりは、ただむやみやたらに発見しつくしたいという欲望に基づくものだったののではないでしょうか。
わかっちゃいるけどやめられないかっぱえびせんみたいなものが、科学の根本的性格なのではないかということです。
だいたい、アニメの話で言えば、ありえないと思っていたドラえもんの未来の道具もけっこう出来上がっていますけどね。
科学の過程的性格は歯止めも予測もつかないものなのかなと思います。

◎「科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明なのだ」という言葉をめぐって
科学者といっても色々いるじゃない。
みんながみんな一緒くたにするのは暴論だ、という意見。
科学者も市民としての判断を下すという点では、そのとおりでしょうね。

でも、あまりにもナイーブな科学の中立性を信じている人も少なくないのでは。
科学的発見もいったん公共の場に投げ込まれると一つの政治的意見と受け止められるてしまうのが、まさに「政治」のアポリアです。

『水俣病の科学』を書いた西村肇は、「科学者から見た水俣病研究」(雑誌「環」25号)において、そのアポリアに対する不満を次のように述べています。
西村はまず、メチル水銀生成反応機構について詳細に説明した後に、これは自然科学の教育を受けていなければ理解が難しいことを確認したうえで、文系と理系のあいだに「全く理解不能」に近い溝があるといいます。
それを二つの精神の「敵意」や「対立」とさえ言います。
なぜか。

西村は、まず科学は真理の認識において人間精神を支配してきたスコラ学批判として生まれた歴史を指摘します。
スコラ学はキリスト教神学の骨子ですが、それは基本的に「人は正確な言語と厳密な論理によって思考すれば、思考のみによって真理の認識に到達できる」という信念があると西村は指摘し、これに対して「言葉と論理への100%の信頼を否定する」のが科学であるといいます。
それについて西村は「確立された知識を基礎に厳密な論理的思考を積み重ねて結論に達する点では、科学もスコラ学も違いはありませんが、基礎にする知識の性格が違います。スコラ学では、知識とは言語 知識ですが、科学ではその他に実体知識が加わり、こちらの方が重要です。
実体知識とはまだ言語に表現される前の生の知識であり、実験の際の生の観察結果、生まのデータ、写真のことを指します。
これを人に伝えるために言葉で表現したのが言語知識ですが、「実体知識にくらべ極めて貧しいものです」と述べます。
さらに、「スコラ学にくらべて科学の特徴は議論が定量的であ」ることも指摘します。
そのうえで、自然科学系と文科系の人間の違いの最も大きな違いは「科学者とは意見の違いでの論争を好まない人種だ」ということだといいます。
これは、立場を全く反対にしながら、アーレントの考え方と軸を一にしています。
アーレントにとって「政治」の領域は唯一の真理 が支配するのではなく、多様な「意見」が織りなす世界なのですが、西村はまさに科学者はそうした「意見」の論争を好まない人種だというわけです。
この「意見」の理解はとても重要です。

実は、西村がこのような論考を書いた背景には、水俣病問題で科学的事実に政治的解釈が介入したことで、科学者としては不当な「科学の政治化」が生じたことがあります。
これは放射線被ばくに関する科学的評価をめぐっても生じた問題でしょう。
科学的評価が政治的言説として流通することに、市民は不信と疑念が生じたものです。
だから、西村は「科学でももちろん意見の違いはありますが、それを言葉による論争で解決しようとはしません。
言葉は補助ですから言葉ではなくて良いのです」とさえ言います。
余計な議論を巻き起こさないように高度に抽象化された記号でいいのです。
たとえば、ウィキペディアで「相対性理論」から「E=mc²」を調べると、わけのわからない数式が並んでいます。
たしかに、ある意味ではこうした記号であれば言語が通じない外国人が相手でも、数学的知識が共有されていれば相互理解は可能になります。
しかし、個々人の抱く価値観などの差異に対応できる言語構造にはなっていません。
そのような言語空間で生きる科学者の政治的判断を信じない方が賢明だというのは、こうした言葉の問題に焦点が当てられているわけです。

さて、いよいよ明後日は佐藤和夫氏を招いての本番が開催されます。
そこにおいてこそ、まさにその言論空間の質が問われるでしょう。
少なくとも、アカデミックなジャーゴンが飛び交う空間になることを私たちは望みません。
しかし、同時にそれはアーレント思想の特殊な用語が充満する本書を、いかにして翻訳可能か、その力量が参加者自身に問われることになるでしょう。
全く予測のつかない会において、まさに私たちは「政治」を経験することができるのではないでしょうか。
楽しみです。(文:渡部 純)

【開催予定】最終回・『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会のご案内

2018-02-18 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会、いよいよ最終回です!
そして、その3日後には、いよいよ著者である佐藤和夫さんを福島に招いての本格的な読書会&討議が開催されます(なお、こちらは既に参加定員を満たしているので、申込のない参加は受け付けておりません)。
著者と一緒に読む会では、これまでのSkype読書会に参加されてきた皆さんの疑問・意見を思いっきり佐藤さんへぶつけながら、刺激的かつ楽しい「饗宴」を実現できることを願っています。
なお、復習になるかわかりませんが、第1回~第5回までのまとめをご参照ください。

第1回の議論のまとめ
第2回の議論のまとめ
第3回の議論のまとめ
第4回の議論のまとめ
第5回の議論のまとめ
        
『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【会の趣旨】
この『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、来たる2月24日(土)に著者である佐藤和夫氏を福島へ招き、本書についてともに議論しながら、アーレントという思想家のアクチュアリティや現代世界の危機について語り合おうという目的で始まりました。
当初は5.6人の少人数で集まるイメージでしたが、広く声をかけたところ、あっという間に参加者が増え、2月の「著者と一緒に読む会」に関しては定員20名がすでに満席となってしまいました。
現在継続している「読む会」には13名が参加されています。
参加者も幅広く、福島市、いわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内にお住まいの方から、金沢市と和光市のように県外にお住まいの方もスカイプで参加されています。
年齢も30・40代を中心に20代から70代まで幅広く、職業も多種にわたっています。
その点で、哲学やアーレントなどまったく知らない市民が、佐藤和夫=アーレントを通じて現代世界の危機について学び合う場となっています。
毎回、カフェマスター(渡部)の方でレジュメを用意し、それを読み合わせながら、参加者同士でわからない部分や事例を挙げて自分の解釈を述べたり、ときにははみ出して現代社会の問題を語り合ったりするという、お気楽な場となっています。
毎回の読書会は、お仕事の都合や家事などで参加できない方もいらっしゃいますが、一章ごとに区切ることで途中からの参加者も、できるだけ参加しやすい形で進めていますので、関心をお持ちになられた方は、ブログよりお気軽にメッセージを下さい。

【最終回開催日時】
 2018年2月21日(水)20:00~21:30
【読み合わせ箇所】
 第6章 「現代科学技術と『人間の条件』」
 ⇒今回のレジメは「『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と読む会」・資料・第6章要約を利用します
【参加条件】
 ⓵スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送り下さい。
 ⓶可能な限り事前に指定範囲を読んでご参加ください。

『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会・資料編

2018-02-02 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
           

 2月24日(土)開催予定である『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と読む会の資料を作成しました。
四苦八苦しながら毎月一度のペースで読書会を続けてきたわけですが、あらためて読み直すのはたいへんだし、要するにどんな話だったっけと、思い出すために活用していただくものです。
 要約なので、大切な部分もざっくりカットしてありますが、そこは各自でしっかり読み込んで、議論に参加して下さい。
なお、参加受付はすでに締め切っていますので、あしからずご了承ください。(カフェマスター・渡部 純)

佐藤和夫著『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会     

【開催日・場所】2018年2月24日(土)・飯坂温泉あづま荘
《タイムスケジュール》
13:30~13:45 開会・自己紹介
13:45~15:30 本書の内容についての質疑応答
15:30~15;45 休憩
15:45~17:30 本書が提起する政治の危機についての討議
17:30     閉会


【会の趣旨】
 当初、3,4名で始めようとした佐藤和夫著『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、あれよあれよという間に参加希望者が増え、いつしか10名前後で毎月一度のペースで読書会を行ってきました。しかも、参加者は福島市やいわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内在住の方から、金沢市や和光市のように県外在住の方まで広範囲にわたり、年齢層も20代から70代まで幅広く、多様な職種の方々からなっています。
 驚くべきことは、ほとんどの方が「アーレントなんか知らない」にもかかわらず、とにかく「何かについて考えたい」という衝動や、「なんだかわからないけれど、アーレントって重要らしい」という好奇心だけで参加したという点です。その意味で、哲学やアーレントを専門的に学んだことのない市民が、どこまでアーレント/佐藤和夫の問題提起や思想について思考し、語り合えるのかという実験的な会でもあります。もし、今回参加される方のなかに哲学をご専門とされる方々がいらっしゃるとすれば、この趣旨にのっとり「市民」に寄り添った議論を展開していただければ幸いです。
 今回、「著者と一緒に読む会」の企画を提案したところ、佐藤和夫先生にご快諾いただくとともに、多くの方々にご参加いただけたことは望外の喜びです。心より感謝申し上げます。ぜひ、参加者の皆さんには、一人ひとりが遠慮することなく自由闊達に意見を述べ合い、思考を深められる場であることを共有していただければ幸いです。(渡部 純)


【これまでのスカイプ読書会の記録】クリックすると各回の記録を読めます
第1回 はじめに・第1章
第2回 第2章
第3回 第3章
第4回 第4章
第5回 第5章 第1節・第2節
最終回

【各章の要点・要約】

「はじめに」
(1)本書の二つの目的
 ・これまでのアーレント研究において『人間の条件』は全体主義との関連が明確にされてこなかった。
 ・今日の世界における政治的危機と文明の転換の必要を『人間の条件』から読み解く。
(2)アーレントの危惧と問い
 ・人々が利害に関係なく協働して語り合う「政治」が衰退し、利害をめぐる「社会」にとって代わられた結果、「孤独な大衆」が生まれる。
 ・世界の中で「私的に自分の居場所をもちうること」が失われる現実
 ・現代科学の歯止めのきかない楽観主義
 ・他者と共生する世界への関心の喪失
 このような状況が生まれたのはなぜか?それは「人間の条件」の変容といかに結びつくのか?


第1章 時代の転換とアーレント
1.アーレントはなぜ難しいのか
・アーレントの「政治」概念の独創性が、われわれが用いる近代の政治概念とは異なるため
・『人間の条件』(1958年)が書かれた時期は、政治・経済システムの結合が国民国家の民主政治と矛盾しなかったため、経済問題抜きの〈政治〉を語るアーレントは非現実的と読まれてきた。
・近代民主主義は独裁制を批判できるが、全体主義とつながる民主主義の要素を見えなくする

2.アーレントが生きた時代と重なる現代世界
 第一次大戦でのドイツ敗戦、虚構の「黄金の二〇年代」が中産階層の民主主義や議会制への不信を生み、「上からの強力な支配に救いを求める人が増えた」。
 一方、冷戦崩壊後の金融資本主義のグローバル化、先進国の経済成長の限界により財政赤字を解消できず、経済政策の破綻を緊縮財政による増税や社会保障の削減によって埋め合わせる政策しかとれなくなったことが、「どの政党に投票しても同じ!」という「脱政治の政治」状況を生んだ。

3.アーレントが「政治」の名の下に擁護しようとしたもの
 人々が互いの違いを認め、共同で語り合う「活動」する政治空間(公的領域)は、経済的利害関係や支配・服従関係が入った途端に消失していく。
 そもそも「安全保障」や「生命維持」のための「統治」を意味する近代の政治概念は、「自然状態」の暴力を免れるための「政治以前」のものである。物質的増大と国家規模の経済的成功に国民が動員する現代の政治は「動物的部分」を重視し、人々の個性を奪うものである。つまり、「政治」の問題を生存の問題に従属させることは、「政治的なもの」を失わせるのである。
 「政治的なもの」とは、日常的な有意味性が露わになるのは例外的な「偉業」の中において現われる。それは話し合いと活動に参加する人と人とのあいだにできる空間である。アーレントの議論は「政治」の「経済」への従属化に対する警告である。資本主義でも社会主義でも、工業社会によって所有を奪われた大衆が自分らしさを取り戻すことためには、「政治の権力と経済的権力の分離」が行われなければならないのである。


第2章 『人間の条件』と20世紀
1.『人間の条件』という言葉をめぐって―アンドレ・マルローとブーバー=ノイマンの違い
 哲学が「人間とは何か?」を問うてきたのに対し、人間は環境や制約(条件)との関係の中でしか存在しえない以上、残酷な現実を前にしては、人間がどのような「条件」において悪魔か天使になるかが問われなければならない。
 マルローは『人間の条件』において清ジゾールに「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、〔…〕なんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」と語らせているのに対し、ホロコーストを生き延びたブーバー=ノイマンは「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができた。「考える」営みが個人的性格ではなく、世界との関係において条件づけられること、そして、どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ないことが示される。
 ここには、マルローに代表される実存主義が、「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」というように、「革命」が社会的政治的条件にではなく、「死」という人間の条件そのものに向けられたことに対するアーレントの批判がある。

2.労働の条件と人間の条件―シモーヌ・ヴェイユ
 アーレントがマルクスの労働観を批判する上でヴェイユは決定的な影響を与えた。労働と生命の必要から最終的に解放されるという希望は、マルクス主義のユートピア的空想に過ぎない。どれほど生産力が上がり消費水準が上がろうとも、「労働」という人間の条件から解放されることはない。「労働する動物」という人間観が「政治的な動物」という人間観をないがしろにする。
 ヴェイユにとって労働者は、工場においては厳密な生産労働の時間管理の中で自分の自由は奪われ、自分で働き方を決められる余地は与えられない、必然性に支配されている奴隷状態である。この条件から解放されない以上、「奴隷的でない労働の第一条件」として労働時間の短縮よりも労働者と工場全体の機能・機械との関係、作業中の時間の流れ方を変えるなど、労働者が仕事の過程の主人公となる条件が検討されなければならない。


第3章「自分らしさ」と「私的所有」
1.私的なものの意味(第1章より)
 自分自身の私的な場所をもたないことは、もはや人間でないことを意味する。古代ギリシアでは、「私生活を自分らしく確立し守ること」がなければ公的生活が成り立たないとされていた。その「私有財産」は、もともと「自分らしくあるためのプライヴァシー」を意味したのに対し、ロック以降の近代思想以降(資本主義)、労働のなかに所有と「財産」の起源を見出し、それが貨幣の肯定と結びついてしまったことで、「自分らしさのための所有」が、無限増殖する貨幣の量に還元される「富(カネ)」の所有であるかのように混同されてしまった。そのことが自分の存在の無用感を生み、この世界は私の「自分らしさ」を必要としてくれているという「根なし草」の感覚を喪失させた。

2.「私的所有」をめぐるロック・マルクス・アーレントの思想
 絶えざる生活不安に襲われている人は、公的な関心事に関わる条件に極めて乏しい。元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずだが、もし生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になる。だが、それは「政治」を破壊するものを「政治」が主たる対象にすることである。
 そもそもpropertyには、「所有/自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていたが、ロックが自分の身体の労働と手の仕事によって生じた「物」に私的所有権が発生すると論じて以来、近代社会理論において「物」をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきた。これは自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かった。
 これに対し、マルクスは「富が増大されれば人間の豊かさが実現される」という私的所有論が労働疎外と貧困化へつながるという批判を行った。彼はその原因を労働と資本が対立する社会では排他的な「私的所有」があるからだとし、すべての物を共有する共産主義を提唱した。
 しかし、アーレントはマルクスの「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、私的所有の廃止の後に現れる共産主義社会に、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」していると批判する。アーレントは、一人ひとりが異なる存在であることを認めることが人間社会の出発点とする。この「違い」を認め合える世界の条件を保障するためには、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的」領域・私有財産が確保されなければならない。マルクスは労賃。資本・地代の対立が人類共同のものになれば個人と人類の発達の対立は消えるとしたが、そこには個性の問題が見逃されている。「財産」とは一人ひとりが自分の安心できる「4つの壁」をもち隠れていられる状態であり、その上に公的領域で自分を示しうる条件が保障される。これが奪われた「根こぎ」の蔓延こそが全体主義運動を組織化していくのである。


第4章「労働・仕事・活動」
 この3つの概念はアーレント政治思想の中核である。
 「労働」は「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」を特徴とする。「労働力」は際限のない富の拡大の論拠となるが、これが私的所有の無視につながった。アーレントは、富の増大が話し合いという「政治的動物」の次元には達しえず、他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化されたことへ批判を向ける。
 「仕事」は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。
 また、「仕事」/「制作」はモデル(目的)と手段のカテゴリーに支配されるものであるが、道具から機械に変わっていくと労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始める。さらに、科学技術が蒸気・電力・オートメーションから核エネルギーの段階になると、自然過程に核エネルギーが入り込むと、「目的―手段」の関係が転倒し、自分たちの目的のために打ち立てるはずの手段が世界を破壊するようになる。
 「活動」は「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」という言葉に示される。他者との語り合いの中にユニークネスを示していくのであり(第二の誕生)、人間存在のリアリティやアイデンティティのためには「活動」が不可欠である。人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうることが、その政治空間の条件であり、経済的利害や労働条件によって活動の条件は奪われ、「活動」の忘却が全体主義を招いた。他方、「活動」は不可逆性と不可予言性という性質をもち、それゆえに過ちを犯すものでもある。それに対応するのが「赦し」であり、「約束」が予測不可能性に安定を与えるのである。
 なお、「活動」は家事や出産、教育、介護といった「労働」のなかにも「活動」の特性が見られるという点で、3つの概念で諸活動をひとくくりに区分されるというよりも、一つの職業の中にも3つの概念の要素があるという見方をすることに留意しておきたい。

第5章『人間の条件』に至る思索
1.『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」
 経済的豊かさが頂点を極めた社会にあっても、なぜわれわれは精神的な息苦しさから解放されないのか。本書は一貫してこの問いを根本に置いている。マルクス主義は資本主義の矛盾を資本家と労働者の「生産関係」における搾取の矛盾に光を当て、その矛盾の克服を史的唯物論で展開した。しかし、科学的客観的とされた歴史の認識も、それを認識する主体(労働者)自身がその歴史状況に捉われずに認識することはできない。マンハイムは、もしその認識は可能だというのであれば、それは現実から遊離したイデオロギーかユートピアに過ぎず、その点で支配者のイデオロギーを批判するマルクス主義もまた、その批判から免れないことになる。
 では、この両者の拘束から精神が自由になることはないのだろうか。それについてマンハイムは、現実から逃避する「故郷喪失」において精神は存在するという。これに対してアーレントは、精神は現実に拘束されるという点でマンハイムに賛成しつつも、そこから逃避するのではなく、しかもイデオロギーとユートピアにも陥らずに「社会的経済的利害」に対して、自分はどのような方針・態度をとるかという精神活動の中でこそ、「現実」が構成されるとみる。精神の生が世界に位置つけられるとはこの意味においてのことである。

2.『全体主義の起源』の文化的起源の考察
 近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされることから、経済的運営と富の無限増大が主題となり、市場から排除された「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくる。
近代国民国家ではタテマエとして誰もが人権をもっているが、一方で「無用」とされる大衆を生み出す経済システムをもつという矛盾がある。そこに自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないと人々が感じるとき、公的な問題に関心をもたない「大衆」が出現する。現代でいえば「無党派層」という存在がこれにあたる。
 アーレントは、大衆の成立は教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にあり、競争原意の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていったと分析する。この自己喪失の現象が全体主義を支える大衆を成立させた。
 なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?一つは、絶滅は計画的大量生産的な人口政策として、主観的には罪を感じないやり方で数約万の殺戮を組織した点にある。二つは、全体主義運動が「歴史の法則」・「自然法」に依拠し、人間社会はその法則実現のための素材となるとした点にある。この根底には人間の自由=活動の偶然性、不可予言性そのものが邪魔になるという思想がある。この法則を実現する運動に邪魔なものを除去するのが「テロ」であり、テロに支えられた法則の実現対応する観念形態が「イデオロギー」である。イデオロギー的思考は一切の経験から独立し、五感によって知覚される現実から離れることで、現実から生み出されない論理および首尾一貫性の強制力に支配される。
 そこでは3つの孤独と精神のあり方が重要となる。①政治的孤立Isolationは、共同のための活動が破壊されたときに生じる孤独だが、経験・制作思考する私的領域は残される。②見捨てられた孤独lonelinessは、プライヴァシーを奪われた根無し草としての全体主義の人間性である。③自分自身といっしょにいることができる単独solitudeは、自己内対話=思考の条件であり、自分の仲間たちとの世界との関係があらわされており、世界を失うことはない。
 大衆の深刻さは②が日常経験となり、政治的なつながりも一人になることもできない状況が蔓延することで、全体主義が生み出される点にある。しかし、人間の「始める」自由はいかなる論理、演繹も力をもたない。人間は流れに抵抗し、まったく新しいことを始められる能力を持つのである。

第6章 現代科学技術と『人間の条件』
 全体主義の問題を考えてきたアーレントが、『人間の条件』のプロローグにおいてスプートニクショックという現代科学技術のエピソードから始めてるのは、科学技術の歯止めのかからない「過程」的性格が「政治」を破壊しかねないと考えたからである。
 試験管ベイビー、人工授精、100歳まで寿命を延ばすこと、オートメーションの発展が人間を労苦から解放するという夢が実現されている今日、「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」を踏んだのが人工衛星の打ち上げだった。しかし、地球という生命体の条件から抜け出ることは人間存在の条件そのものを破壊する。
 近代思想は「労働」の労苦から自由になろうとしても、その自由が何のために使われるか知らないためにマルクスのように「労働者の社会」を超えることができなかった。オートメーションによる生産力の増大は動物的な消費欲望の肥大化を生み出し、それが豊かさであると錯覚させただけである。それ以上にAIロボットが人間の協同作業にとって代われば、コミュニケーションという「政治」の条件が破壊されないか。
 遺伝子操作や人工授精など有機生命の人間の条件を変えるかどうかは、「第一級の政治的問題」であるが、現代科学の言語は「もはや普通の言葉や思想の形で表現できない」。となれば、話し合う能力がノウハウの奴隷になりかねない。今日、話し合いは予定された結論を引き出そうとしたり、力のあるものが形式的に他人を説得して合意を強制する手段となっている。しかし、話し合いは予想もしない「新しい」ことが生まれるかもしれないから行われるのだ。
 アーレントはこの背景に科学的「真理」とされる言語が生活全体に影響を及ぼし、五感による判断や日常言語に翻訳しなおして議論できない問題を見る。だから「科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明」なのだ。加えてアーレントは、科学の方法は人間が設定した特定の条件で「拷問」をかけて成立するものであり、人間の想定を超えたものを無視する点、そして人間が生活で考え、語り合う「意味」の世界を駆逐してしまう問題を指摘する。
 近代科学が宇宙科学へ変容したのは、ガリレイ、デカルト以来の必然的な流れの結果である。宇宙へ飛び出した科学は地球に束縛されたままだった人間の限界を超え、以前は想像に過ぎなかったものをガリレイの望遠鏡は肉体的感覚でつかまることをもたらした。デカルトは、さらに人間の感覚能力という制約を超えて、科学を理性による数学に還元した。その結果、宇宙科学は地球に束縛されず、宇宙でしか実現されなかった無限の核エネルギーを地上へ持ち込んだのである。アーレントは人間が科学技術を「利用する」という表現が不適切になっていると指摘する。「道具や器具を機会に置きかえる」テクノロジーは労働者を機械の奴隷にする。これが核エネルギーに導入されると、人間のコントロールを超えた流れが「自ず」と生まれてしまい、とめどない「過程」性に襲われるが、これは「労働」支配の構造も特徴づける。
 これに対してtangible「蝕知性」がアーレントの「活動」にとって重要である。労働や科学において「話し合い」は無駄とされるが、『人間の条件』はこの共同が破壊されるのはどのような条件なのかを、近代全体から問い直そうとした。科学が宇宙へ飛び出すのと同時に、非飛び地は世界から自己自身へ逃亡飛行する。これを世界疎外と呼び、生存の利害闘争以外に政治の意味はないとした近代の根深い病である。
 アーレントは、民衆自らが世界に意味ある存在だと感覚をいかにして確保して生きていけるかに関心をもつ。人々が利害に煩わされず平等で自由に活動できる機会を強調したアーレントは、政治権力と経済権力が分離し、成長を前提としない福祉国家を希望した。西側諸国が社会主義国より自由であったのは、資本主義によるのではなく、市民のプライヴァシーを守ろうとする制度のおかげである。
 また、現代科学技術の巨大さと複雑さは私たちの手に負えないかのように見え、市民が対抗できる可能性は極めて限られているように見える。原発事故では自分の経験を語りあうことが対立や偏見を生むかのようである。これが象徴するのはアイヒマンやイーザリーのように数十万数百万という虐殺の「数字」が人間感覚の閾を超え、思考を停止させ。そんな今日、自分の経験を語りあうことの意味は、私的に語られる以上にどれほどの意味があるのだろうか。
 科学技術の自律的な「過程」性に対して、アーレントは「政治」を提起する。科学技術が目的―手段のカテゴリーでコントロールできる「制作」の論理ならば、人間の営みはありえないことが起きてしまう「政治」の原理を対抗させるしかない。

第5回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2018-01-25 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


数年に一度の大寒波の日、予定通り第五回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が開催されました。
しかも、福島市の某所では大雪の夜にもかかわらず、極上のプリンと大量の肉・アン・カレーまんを持ち寄っての開催です。
皆さん、平日のお仕事後だというのに、頭が下がると同時に感謝の念でいっぱいです。
しかし、そんなことにおかまいなしに、今回扱った第5章「『人間の条件』に至る思索」は難解な内容が盛りだくさんです。
レジュメを作成したワタクシも含めて、一同、沈黙の時間が続きました。
とりわけ第1節と第3節は本書のオリジナリティが色濃く出ている個所であると同時に、もっとも哲学的な記述が多いところです。
これまでのように、自分たちの経験をもとになかなか語りにくい様子でした。

その内容の難解さと膨大な量(一節が一章に値すると思われます)を踏まえ、急遽、第1節は報告者の要約でまとめ、第3節はカットし、第2節を中心に検討することにしました。
既にふれたように、アーレントの研究書としては第1節・第3節こそ重要だと思われますが、今回の読書会の趣旨が「市民が読むハンナ・アーレント」だということを踏まえれば、やはり「全体主義」の問題を中心的に論じた第2節こそ、参加者の関心に沿うものと考えたからです。
とはいえ、今回の読書会ほど沈黙が支配した会はないので、以下はレジメをまとめながら徒然考えたことを中心に書き連ねていきます。

まず、第1節『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」です。
「哲学と社会学」というエッセイはマルクス主義を批判したカール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』に対して、アーレントが批判を加えた論文です。
だからといって、アーレントはマルクス主義を擁護しているわけではなく、むしろ両者に含まれてる精神の居場所の危機を明らかにした、というのが佐藤さんの読みです。
この論文の難解さはマルクス主義に対する理解が多少必要となる点にありますが、それ以上に冷戦が崩壊して思想的アクチュアリティが失われた今日の状況下で読むことにあるのだと思われます。
これは読書会の話題にも上がったことですが、この節は学生運動を経験してある程度マルクス主義にリアリティをもっていた世代と、「マルクスって誰?」という世代とでは、理解度もリアリティもまったく異なるでしょう。
ただし、仮にマルクス主義にリアリティをもつ立場であっても、マンハイム、さらにはアーレントのマルクス主義批判を読み込むのは思考の枠をずらされる困難がつきまといます。
かろうじてマンハイムの批判は理解できるとしても、アーレントのそれはさらにもうひとひねり加わるので、なかなか理解するのが容易ではありません。

まず、マルクス主義の科学的客観的認識に対するマンハイムの批判。
そもそも、マルクス主義は資本主義下において人々の意識や精神が資本家側の価値観に洗脳されている実態を、「イデオロギー」と名づけて批判してきたわけですが、誰しも時代の子である以上、支配されている労働者だけが客観的科学的に歴史や社会構造を認識できるというのは嘘だという批判をしたわけです。
学校教育なぞは典型的なイデオロギー装置であることは、既にアルチュセールという哲学者が言ったことです。
さも、まっとうな人間教育しているといいながらも、学校の教師などは資本主義の支配層のためのイデオロギーを子どもたちに刷り込んでいるわけですね。
「部活動を一生懸命やればいい企業に勤められるぞ」という理屈は進路指導上の常套句となっていますが、これは同時に、どんな理不尽な仕事にも耐え抜く資本家にとって都合のいい労働力を生産しているといえば、笑い話では済まないでしょう。
イデオロギーというのは、こうした学校だけではなく、様々なメディアを通じて政治的文化的に(上部構造で)形成されるものですが、なんといってもそのもとになっているのが経済の生産関係(下部構造)だったと指摘したのがマルクスだったわけです。
つまり、僕らの意識は資本主義という経済構造でつくられちゃっているんだよということを見抜けというのがマルクス主義だったわけですね。

しかし、マンハイムは、それに劣らず支配されている労働者側もまた、現実から自由に物事をとらえられるわけではないと批判し、現実を起点とした思想は、すべからく支配者のイデオロギーか被支配者のユートピアという虚構に陥ると論じたわけです。
なるほど、われわれの意識はその時代社会に影響を受けていることは疑いえないでしょう。
これに関して、しばしば北朝鮮を全体主義的な洗脳社会として批判する側が洗脳されていないとどうしていえるのか、という問題にも通じます。
「ワタシは客観的だ、中立的だ」という人ほど、意外と何かの価値観に固執するというのは珍しいことではありません。

では、われわれの精神はすべて自分の外側にあるイデオロギーや価値観に染まり切っているのでしょうか。
アーレントによれば、マンハイムはそのように問いながら、現実から遊離した「故郷喪失」のところにこそ精神の居場所がある、としたのが『イデオロギーとユートピア』という本だったというわけです。
これに関しては、参加者から「現実」って何って考えるとわからなくなる。
あまりにも現実がつらすぎるとき、現実とは関係ないところに精神が引きこもるといいうのです。
これは実に的を射た発言だと思いました。
まさに、マンハイムは現実から逃避したところに精神の本当の居場所を見出しました。
マルクス主義のように現実に即して精神を動かせばイデオロギーかユートピアに陥る。
精神とはそういうものから遊離してこそ生きられるのだ、と。
これは、案外と現代人がなじんでいる思考パターンではないでしょうか。
しかし、アーレントのマンハイム批判はまさにそこに向けられます。

アーレントは、マルクス主義が経済的利害の必然性をもとに資本主義批判と社会主義の理想を描く問題を指摘します。
経済的な利害を「現実」と見なすならば、その現実の強制力に従って歴史は資本主義を解体し共産主義へ向かうというのは、まさマルクス主義の史的唯物論という理論でした。
なるほど、現実が意識や精神を拘束する力をもつこという点をアーレントは否定しません。その点ではマンハイムと意見を異にしません。
しかし、同時に精神は現実に必ずしも拘束されずに、その必然性の強制力に「NO!」という自分の態度を示すことができます。
「武士は食わねど高楊枝」ということではありませんが、生きる欲望に必然的に従うわけではないのが人間的な精神のありようだというわけです。
したがって、精神はマンハイムのように現実から遊離したところに居場所があるのではなく、まさに直面する現実と対峙し、かつその経済的利害のような必然性に服従するのでもなく、自分自身でその現実にどのような態度で臨むのかを決められるところにその居場所があるというわけです。
そして、その精神の活動においてこそ、まさに「現実」が構成されるのだというわけです。
精神と現実はバラバラにあるものではない、ということはシビアな現実にさらされた人からすれば暴力的に響くかもしれません。
しかし、それでもなお精神が現実とは別ものではなく、現実に差し向けられた問いにどうこたえるかという事態において生きられるというのは、なかなか面白い発見なのではないでしょうか。
著者によればこれはアーレントが恩師であるハイデガーやヤスパースとは異なる自分自身の哲学をつかみとった初めての論文として注目に値するといいいます。
さて、このような精神と現実の関係を皆さんはどのように受け止めるでしょうか?

昨日の読書会では、第1節の要約をここまでかみ砕いて説明できたとは思えませんが、特に参加者のレスポンスもなく消化不良の空気が重く感じられたこともあり、第1節には30分もかけずに、サクサクと先に進みました。


第2節は「『全体主義の起源』の文化的起源の考察」です
「近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされる」という議論は、これまでの読書会でも一貫してきたテーゼです。
つまり、政治が経済(カネ)に侵食されたことが危機なのだという話ですね。その結果、近代社会は経済的運営と富の無限増大を主たる目的とし、人間はそのための手段に過ぎないという論理がまかり通ることになります。
その結果、「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくるというのが、著者の読みです。
相模原事件でも露骨に加害者がこの論理を表明したことでもあることは、まだまだ記憶に新しいでしょう。
この場合の「余計もの」というのは、たとえば生産に役立たないものととらえてみると明確になると思われます。
子ども、高齢者、障がい者、同性愛者…
いまでこそ「ダイバーシティ」 という言葉が表すように多様な生き方を認め合おうという流れも生まれてきましたが、他方でヘイトスピーチのように十年前までは公に声を上げることが憚れるような排外主義も台頭しています。
こうした社会現象に関しては、既に読書会で何度か触れましたが、問題は近代社会が憲法で人権を保障する一方で「余計もの」を生み出す経済システムをとっているという矛盾です。
国民として人権を認めつつも、しかし生産拡大を至上主義とする資本主義を経済システムをとる以上、「役に立たない存在」「余計なもの」との折り合いをどのようにつければよいのか。

社会権に基づいた社会福祉制度がその部分をカヴァーしてきたことは言うまでもありませんが、しかし佐藤さんが指摘する通り、高度経済成長がストップし、財政状況も悪化する一方であるにもかかわらず福祉に頼らざるを得ない存在をどうするのか、という問題です。
生活保護受給者へのバッシングなどは、その露骨な反動現象であることは間違いありません。
さらに、今日の日本で深刻化しているのは、「貧しい人ほど福祉の充実を望まない」という現象があることです(「福祉の逆説 充実を支持する層は 」小熊英二,朝日新聞,2018年1月25日,参照。)
そこでの引用を借りれば、「雨宮は09年の「年越し派遣村」には支持が集まったのと対照的に、12年には生活保護叩きが広がったことへの変化をこう述べる。「多くの人がこの国の『格差と貧困』に麻痺し、諦め、『そんなもんなのだ』と受け入れていく過程そのものに思えた」ということである。
つまり、自分自身が「余計もの」であることさえも認定せざるを得ないほど、深刻化しているのが日本社会だとは言えないでしょう。
くり返しいうと、「余計もの」とされた存在への過激な攻撃は、「生産性」という論理を内在した近代社会の矛盾の現れに外なりません。
では、その攻撃性が一斉に爆発するのはどのようなときなのか?

アーレントは「全体主義」という言葉を用いてそのことを説明しますが、その担い手である「大衆」を次のように定義します。
すなわち、「公的な問題に関心をもたず、自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないときに「大衆」はいつでも存在する」。
このあたりのアーレントの論はなかなか難しいのですが、佐藤さんの解釈に従えば、議会制民主主義がタテマエとする「一国の住民はすべての公的問題に積極的に関心をもつ市民である」という前提と「支持政党があって、その政党に代表されている」という前提を幻想だということが知れ渡り、しかも、議会多数派に「民衆の多数が代表されていない」と大衆が感じるときに、その民主制度は危機に陥るといいます。
いずれも、中学高校の公民科の授業ではそのような「市民」になることを目標に教えるわけですが、アーレントによれば、それはそもそも幻想だというわけです。
いや、幻想というのが厳しすぎるのであれば、私たちの市民社会はこのフィクションを前提にしなければ回らない社会を維持構築しているということを認識しなければなりません。
そもそも、近代市民社会を正統化する社会契約論などは、原初状態(法がない自然状態)から人々が契約を交わして国家をつくったというのですが、そのような事実はあるはずもないことは自明のことでしょう。
問題は、そのようなフィクションのうえに暗黙の合意が成り立っていた政治が「嘘だ」と思われてしまったときに何が起こるのか、ということでしょう。

佐藤さんは現代の社会で言えば、この「大衆」は「無党派層」という存在に現れていると見ます。
議論の中では、この無党派層のなかにはむしろ正しい政治判断のもとで動いている人々もいるのではないかという意見も上がりました。
たしかに、シールズなど若い世代の政治的活躍は党派性にとらわれないという点で人々を惹きつけ、かつ自由な行動をとっています。
そのような存在がもちろんいることは認めますが、しかし無党派層の多くが付和雷同的な浮遊層であることも否めないでしょう。
問題は、平時ではなく危機の瞬間にこのような「大衆」が一気にどのような方向へ動くのか、ということです。
これまでの議論を前提にすれば、大衆は「根無し草」のようにプロパティを奪われた存在であるということが重要なポイントでしょう。
興味深いのは、アーレントは大衆の成立が教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にあると見た点です。
われわれからすれば階級社会が存在するのは封建制の名残や、それこそ不平等な世界の象徴であるかのように捉えてしまいます。
もちろん、アーレントは階級社会が必要だといいたいわけではないでしょう。
問題は自分の「所属」する場所が奪われたとき、人は孤立した「根無し草」になってしまうという事態です。
その結果、「大衆は競争原理の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていった」のであり、「自己喪失の現象こそが大衆の成立において重要」だということになるわけです。

したがって、「孤立」というキーワードが『全体主義の起源』の重要なポイントであり、そのことが複数者のあいだで交わされる「活動」概念の分析を際立たせた『人間の条件』の研究へ向かわせたというのが、第2節の趣旨になります。
そもそも、アーレントが「どうしてこのような全体主義が生まれたのか?」と全体主義の研究に向かわせたのは、ヒトラーやナチスの異常な残虐性などではありませんでした。
それは、昨日までの友人や信頼していた人々がなぜナチス支持に転向したのか、なぜいっせいにナチスに自発的に協力し迎合したのかという問題にありました。
その意味で言えば、いかにして「ふつうのドイツ人」の精神が全体主義と親和的になるのか?という問いが、彼女の根本的な問題だったわけです。

そのことを問うためにもまずは、「なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?」が明らかにされます。
それについて、ユダヤ人の絶滅は「人口政策」の一環として計画的で大量生産的に行われたという点が重要です。
「人口政策」という場合には色々ありますが、まず思い浮かぶのはナチスの優生思想に基づく政策でしょう。
T4計画と呼ばれる障がい者の安楽死政策は、まさに生産社会にとっての「余計もの」を排除することが社会全体のためであるとした政策ですが、重要なのは「本人にとってもその方が幸せだ」論じた点でしょう。
これによってその政策の実行者には主観的には罪を感じないやり方で数百万の殺戮を組織することができたわけです。
この罪悪感を覚えないイデオロギーを導入したという点は押さえておく必要があるでしょう。

次に、「合法的統治と専制政治の区別を無意味化した」という点が挙げられます。
専制政治は法を無視するが、全体主義運動は「歴史の法則」・「自然法」に依拠するというのが、アーレントの分析です。
どういうことか?
実定法の「法」は社会の安定を維持するためのものですが、それに対し、全体主義運動では歴史/自然の法則性の実現が重視され、人間社会はその「法則」実現のための素材となるといいます。
この場合、自然の法則にはダーウィン主義の「進化論」における「適者生存」や「優勝劣敗」という考え方が、あたかも自然の法則であり、その法則に則った政策こそが、自然や歴史の進化・進歩に則った正しい政策だとしたわけです。
さらに、ここには優等人種と劣等人種の区分も設けられ、医学界はまじめに瞳や髪の色、骨格などを測定し、「基準」に即した評価を下す研究に取り組んだわけです。
今から見れば明らかに「嘘」とわかるような似非科学も動員されたわけですが、こうした「法則」にとって「例外」や「偶然」は邪魔な存在なわけです。
そして、この例外や偶然とは人間の個性そのものであることを、アーレントは徹底して擁護します。
「ユダヤ人」という進化にとっての例外的存在=「余計もの」とされた彼女の身をもって知った恐怖が、その根底にあることは否めないでしょう。

ところで、アーレントにおいて「全体主義」とは、イデオロギーの支配と組織的なテロによって特色づけられる民衆自身の積極的関与による運動のことです。
この場合、「テロ」とは自然と歴史の「法則」を実現する運動に邪魔な劣等人種や生きるに値しない人間を除去する行動であり、「イデオロギー」はテロに支えられた法則の実現対応する観念形態とされます。
イデオロギーはこの歴史の法則に結びつけて、一個の事件や出来事があたかもその法則に従って進んでいるかのように説明し、そこに適合しないものを除去するのがテロ行動だということになるでしょう。
重要なのは、イデオロギーが「全体」を説明するものとして生成し運動するものであり、その思考は一切の感覚的な経験から独立したものだという点です。
根無し草となり孤立した人間にとっては、自身の感覚を通じて経験したことよりも、数学のような論理が精神に強制力を強く働く性質を、アーレントは見抜いていました。
哲学的にはあいまいで偶発的な「経験」は、法則性を告げ知らせる「理性」よりも劣ったものと扱われてた歴史がありますが、アーレントの場合、現実の経験から遊離した法則の首尾一貫した論理ほど、人間を残酷な思考に陥らせることに適合的なものはないということになります。
目の前でひとが殺されることに人間は強烈な抵抗を覚えるものでしょうが、そうした現実をつきつけない論理の強制的な性質によって、人はいくらでも絶滅に加担できるというのが、アーレントの発見でした。

この話はオウム真理教事件に当てはめてみると理解しやすかもしれません。
なぜ、あのようにまじめに人生を考えようとしたエリートたちがテロ行為に走ったのか。
そこには隔絶された世界の中で生成された終末思想の論理を貫徹させてしまうイデオロギー的思考を見ることも可能ではないでしょうか。

現実から生み出されない演繹的論理および首尾一貫性、論理的強制力の支配。
金融業に勤める参加者からは、まさに理論のフレームを立ててから統計的に処理する日常的な業務から、そのことを理解できるといいます。
その際、「例外」はどのように処理するのかと尋ねたところ、「無視する」との答えでした。
異常値は理論や法則にとって邪魔だということが、先端の金融業界の業務では当たり前だ問うことが窺われます。
問題は、それが社会の全領域で貫徹されることでしょう。
そして、これがイデオロギー的思考だとするならば、その思考はいかにして生み出されるのかが問われなければなりません。
それが「孤独」という問題と関係することになります。
“Loneliness is not solitude”という言葉は、そのことを端的に表すものでしょう。

アーレントは「孤独」という語をめぐってIsolation/loneliness/solitudeという用語を用いながら3つに区分します。
まずは政治的孤立を示すIsolationです。
政治的にパージされて孤立することがありますが、人はそのような状況に陥っても自伝や政治思想、小説を書きしるすことができます。その時の制作に没頭する孤独な営みがIsolationです。
これはこれで、政治的な活動に取り組む人にとってはシビアな状況ですが、他者との世界を失ってもなお制作に向き合える自己は失っていません。
深刻なのは、見捨てられた孤独を意味するLonelinessです。
これは本書で一貫して論じられてきた自分らしくいられるプライヴァシーとしての精神を奪われた孤独を意味しています。
これをアーレントは「根無し草」として生きる全体主義の人間性であるとし、「思考」という自己内対話の相手である自分自身からも見捨てられている状態だといいます。
全体主義と思考停止を結びつけたのはアーレントの大発見ですが、これが大衆の日常経験であるという点で真剣に検討されなければならない問題といえるでしょう。
最後に、自分自身といっしょにいることができる孤独を意味するsolitudeです。
「思考」が自己内対話を意味するとすれば、まさに自分自身を仲間にしつつ孤独でいられる状態がsolitudeでしょう。
重要なのは、この状態は一人でいれば可能になるものではないという点です。
アーレントは思考ができるためには、自分の仲間たちと議論できる世界が必要だといいます。
仲間と議論した後に、帰宅して一人になってあらためて仲間たちとの議論を自分自身で吟味しなおすことが思考なのだというわけです。
その点で他者とともにある世界と自分自身とともにある精神を往還できることが、思考の条件だということになりますが、まさに全体主義の社会にあっては、ともに語り合う仲間を喪失したことでlonelinessに陥ってしまうというのです。

こうした全体主義をめぐる孤立・孤独の問題が、なぜ人々との語り合いに基づく「政治」を分析する『人間の条件』へ向かわせたかは以上のような視点から明らかになるかと思います。
とはいえ、今回はあまりにも内容が難しかったせいか、報告が拙かったせいか、ほとんど議論らしい議論ができませんでした。
その点で「政治」的協同の経験は不十分であったかもしれませんが、後ほど読書会後のsolitudeを楽しんでいるという感想もいただきました。
時に、こうした難解なテキストに向き合って沈黙することは、「思考」のかけがえのない経験に結びついているのだろうと信じてやまない大雪の夜でした。
次回はいよいよ最終回。
そして一月後には、著者である佐藤和夫さんを招いての読書会&討議が開催されます。
こうご期待!(渡部 純)

第5回『〈政治〉の危機とアーレント」を読む会・レジメ

2018-01-24 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む

第5回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会の4時間前に、ようやくレジュメを切れました。
まず、長い!多い!
これ3つの節がそれぞ一つの1章として成立しますよ!
しかも、おそらく本書で最も哲学的な思考を試される個所なので、丁寧に読み込まなければならないところですね。
が、しか~し、著者を招く本番まで時間もないので、今回は強引に第1節は報告者による「要約」を読むだけにして、おそらくアクチュアリティの高い第2節の読解を中心にしたいと思います。
第3節は次回・最終回に先送りすることにします。
おそらく著者のオリジナリティは第1節と第3節にあると思われるのですが、やむを得ません( ̄д ̄)
というわけで、レジメ自体が長くなってしまいました。以下ご参照ください。


第5章『人間の条件』に至る思索

1.『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」
【要約】
経済的豊かさが頂点を極めた社会にあっても、なぜわれわれは精神的な息苦しさから解放されないのか。本書は一貫してこの問いを根本に置いている。マルクス主義は資本主義の矛盾を資本家と労働者の「生産関係」における搾取の矛盾に光を当て、その矛盾の克服を史的唯物論で展開した。しかし、科学的客観的とされた歴史の認識も、それを認識する主体(労働者)自身がその歴史状況に捉われずに認識することはできない。マンハイムは、もしその認識は可能だというのであれば、それは現実から遊離したイデオロギーかユートピアに過ぎず、その点で支配者のイデオロギーを批判するマルクス主義もまた、その批判から免れないことになる。
では、この両者の拘束から精神が自由になることはないのだろうか。それについてマンハイムは、現実から逃避する「故郷喪失」において精神は存在するという。これに対してアーレントは、精神は現実に拘束されるという点でマンハイムに賛成しつつも、そこから逃避するのではなく、しかもイデオロギーとユートピアにも陥らずに「社会的経済的利害」に対して、自分はどのような方針・態度をとるかという精神活動の中でこそ、「現実」が構成されるとみる。精神の生が世界に位置つけられるとはこの意味においてのことである。

(1)「どうしてこのような全体主義が生まれたのか?」―アーレントにとっての最大の問題
⇒友人や信頼していた人々の転向現象、ナチスへの自発的協力・迎合の波
⇒どのような精神の在り方が全体主義と親和的になるのか?
(2)「哲学と社会学」(1930年)―カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』
① 当時のマルクス主義の主流
 ・資本主義では、生産手段をもたないプロレタリアート(労働者)は自分の労働力を商品として売らざるを得ず、その犠牲の過程で資本主義を支える存在となる
 ・同時に資本主義を支える存在であるからこそ、資本主義を変える存在であるともいえる
 ・それにふさわしい「真実の意識」としての階級意識を形成することが重要だ!
 ② マルクス主義の議論は科学主義イデオロギーに支配されていた
・抑圧される労働者の立場は資本主義の問題を客観的科学的に分析できる
・資本主義の危機を克服するのは歴史の必然である
 ・その客観的真理をどのように捉えられるか、労働者の主体的な運動をどう位置づけるか
 ・歴史的制約をもった労働者がいかに必然的で真理を担う存在かが議論された
 ③ マルクス主義に対するマンハイムの批判と問い
 ・科学的社会主義といえども、その認識主体(労働者)は歴史的制約から自由になれない
 ・イデオロギーは支配集団が自分の利害のゆえに自分に不都合なものに目をつぶる虚偽意識ととらえたが、同時に支配される集団は変革のための夢や希望のために現実をとらえそこなるユートピアに陥る
 ・「人間の思想は、党派や時代に関係なく、全てイデオロギー的であり、それを免れない」
 ・この存在に拘束された状態をどう抜けることができるのか?
(3)アーレントのマンハイム批判―「哲学と社会学」
 ① マンハイムの矛盾
⇒人間の思考は社会的文化的な制約から自由になれないものとするが、(イデオロギー的かユートピア的)、他方で精神は「周囲の世界とは適合しない」時に生まれるもの
⇒精神は現実から逃避する営みとして消極的に存在するだけになってしまう。現実に向かうときにはイデオロギーかユートピアとして登場するにすぎなくなってしまう。
② アーレントにとっての「精神」
・精神は現実に拘束され、日常の現実から離れて存在するわけではない。精神が現実を超越するあり方は、ユートピア的にならなくても世界に「NO」という積極的な道がある
・社会全体に経済的利益が浸透していき、生活とは所詮、経済的生活の問題であるかのような意識が一般化して、経済的な富の蓄積が豊かさそのものであるとされ、生きる現実から精神が事実上排除されていくことへの抗議ある。
・思想は、経済的社会的構造地盤とする生の具体的な秩序を不可欠の発生の土壌とする

2.『全体主義の起源』の文化的起源の考察
a.「商売」になった「政治」と議会制度
近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされる
⇒主題は経済的運営と富の無限増大であり、人間はそのための手段に過ぎない
⇒市場から排除された「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくる
⇒自分の経験この個別性多様性を語り合う人間の精神は余計なものである
b.「国民国家の没落と人権の終焉」
(1)「余計もの」の形成…大量の難民発生
⇒人権のアポリア…誰もが生まれながらにもつ人権が国家から追放されれば無価値になる事実
⇒タテマエとしての人権と生産システムにおいては「無用」とされる大衆の矛盾
(2)全体主義運動を担う「大衆」
利害社会の中で公的な問題に関心をもたず、自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないときに「大衆」はいつでも存在する。
(3)議会制民主主義を支える幻想
①「一国の住民はすべての公的問題に積極的に監視をもつ市民である」という幻想
②「支持政党があって、その政党に代表されている」という幻想
⇒議会多数派に「民衆の多数が代表されていない」と大衆が感じるとき民主政の危機に陥る
⇒現代の「無党派層」という存在
(4)現代の「利益追求競争社会」のリアル
・はじめから公的・政治的問題に無関心・敵を抱くのが当たり前・容赦ない競争原理が市民としての義務や責任は耐えがたい重荷を感じさせる
(5)アーレントの「大衆」分析の特徴
 ①大衆の成立は教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にある
 ②大衆は競争原意の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていった
 ⇒自己喪失の現象こそが大衆の成立において重要である
 ⇒近代社会に孕む全体主義の要素が、いかにして人間の条件を危うくしたのかという『人間の条件』の研究へ向かわせた
(6)全体主義における「根こぎ」「無用化」の分析―ソ連の全体主義運動分析の重要性
スターリン主義とマルクス主義との思想的対決
 ⇒マルクスが全体主義に結びついたのではなく、西欧政治思想自体に全体主義の要素がある
c.Loneliness is not solitude-「イデオロギーとテロ」及び「見捨てられた孤立」
(1)なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?
 ①絶滅は計画的大量生産的な人口政策の一環として行われた
 ⇒主観的には罪を感じないやり方で数約万の殺戮を組織した…ナチス側に殺人の意識がない
 ②合法的統治と専制政治の区別を無意味化した
 ⇒専制は法を無視するが、是体主義運動は「歴史の法則」・「自然法」に依拠する
  実定法の「法」が社会の安定を維持するためのものであるのに対し、全体主義運動では歴史/自然の法則性の実現が重視され、人間社会はその法則実現のための素材となる。
※ダーウィン主義、マルクスの史的唯物論の活用
 ⇒この根底には人間の自由=活動の偶然性、不可予言性そのものが邪魔になる
(2)全体主義とは…イデオロギーの支配と組織的なテロによって特色づけられる民衆自身の積極的関与による運動。秘密警察、強制収容所の存在。
①テロ…法則を実現する運動に邪魔なものを除去する
  ※劣等人種、生きるに値しない人間は歴史・自然の法則の必然性のために除去する
 ②イデオロギー…テロに支えられた法則の実現対応する観念形態
 ⇒似非科学を装う
 ⇒歴史に結びつけて事件の進行が法則に従って進んでいるかのように説明する
※ 弁証法はその典型例
 ③イデオロギーの3つの特徴
  ・全体を説明するものとして生成し運動するもの
  ・イデオロギー的思考は一切の経験から独立し、五感によって知覚される現実からも自由になる
  ・現実から生み出されない演繹的論理および首尾一貫性、論理的強制力の支配
   ⇒個々人の信念や思考は犠牲にされる
④人間の「始める」自由にはいかなる論理、演繹も力をもたない。流れに抵抗し、まったく新しいことを始められる能力を持つ
(3)3つの孤独と精神のあり方―isolation/loneliness/solitude
①政治的孤立Isolation…共同のための活動が破壊されたときに生じる孤独。しかし経験・制作思考する私的領域は残される
②労働する動物の見捨てられた孤独Loneliness…プライヴァシーを奪われた根無し草としての全体主義の人間性。深刻なのはこれが現代の大衆の日常経験になったこと。
③自分自身といっしょにいることができる単独solitude…自己内対話=思考の条件であり、自分の仲間たちとの世界との関係があらわされており、世界を失うことはない。
⇒大衆の深刻さ…②が日常経験となり、政治的なつながりも一人になることもできない状況
⇒全体主義が生み出される思想的起源
(4)『人間の条件』における「政治」の復権へ

第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-12-28 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
昨日の福島は大雪でしたが、10人もの人が集まり第4回の読書会が行われました。
もっともスカイプ参加にはそんなことは関係ありませんが、忘年会を兼ねた某所では、あらためて顔をつきあわせながら話し合う方が、ひとりでスカイプ参加しているよりも参加感が違うし、読み進める実感があると話されていました。
直接的なコミュニケーションの力って何なんでしょうね。

さて、今回はアーレントの政治思想の最も基本的な「労働」・「仕事」・「活動」という3つの概念を扱うという点で、いよいよ読書会の山場を迎えました。
中には、この章が最も面白いといってくださった方もいらっしゃいました。
が、しかし、「やっぱり相変わらずわからないね、というよりも本書の冒頭で読むことに挫折して以来、読書会のレジュメや議論を聞いてから読むことにしている」という方から次のような問いが投げかけられました。
「なぜ、著者はこういう難しい書き方をしているのか?たとえば、NHKの『100de名著』で講師を務めた仲正昌樹さんの『全体主義の起源』の解説文などはとても読みやすいのに、どうしてこうしたわかりにくい書き方を選んだのか?」
加えて、「なぜ、アーレントはわざわざなじみのない難解な用語を用いるのか?それは翻訳の問題なのか?」という問いも投げかけられました。
これに関しては、佐藤さんご自身から難解な『人間の条件』を読んでみたいけれど読み進められていない大学院生を対象として書いたということを聞いたことがあります。
その点はぜひ著者と語る会で直接ご本人に質問してほしいと思うのですが、難解な用語に関しては想像する範囲で考えると、母語をドイツ語とするアーレントがアメリカに亡命して英語で論文を書かざるを得なかった事情もあるのかもしれません。
しかし、それ以上にしばしば指摘されることですが、翻訳の段階でどの言葉を選択するのかという問題はあるでしょう。
原書で読んだ方がむしろ読みやすいということは、よく耳にすることですが、翻訳を重ねる段階で日本語としては耳慣れない語句が用いられ、それがある程度固定化されて広まってしまうという面があることは否定できないでしょう。
それに関して、和光市で開かれている本書の読書会に参加された方は、やはりアーレントの用語は通常の意味とは異なるので、文脈や行間のなかから彼女が彼女が言わんとする意味をつかみだすしかないという感想をいただきました。
まぁ、いずれにせよ、難解な読解に挑戦しているという点では稀有な経験ですし、うんうんうなりながらアーレントを相手に思考することになんだかわけもわからず、こうして集まってくるわけですから、皆さん、何かを感じているんでしょう。

というわけで、今回は第4章「労働・仕事・活動」をレジュメに沿って議論していきました。
まず、この3つの概念をめぐる基本的な枠組みを概観するところから入ります。
西欧政治思想では「活動的生活」よりも「観想的生活」こそが最高としてきた点、ポリスの「不死」に対する疑念が「観照」という「永遠なものの経験」へ向かわせたという点、古代ギリシアにおいては「死すべき人間」の「活動」の儚さを「不死」のものにさせる歴史物語の伝統があった点です。
ここで、「活動的生活」と「観想的生活」ってなんだ?という質問が出されました。
前者は今回取り上げる労働・仕事・活動のことであり、基本的に身体が伴う活動のことで、後者は精神の営みだという理解で進めました。
ポイントは、「ポリス」を「世界」と読み替えてみれば、世界の存続に疑問を持つ時代には世界の存続にではなく、精神の生活に「永遠性」を見出す思想史があったという点は、核の時代を生きる我々にも当てはまるかもしれないということです。

そして、「労働」の問題に突入します。
アーレントとにおいて「労働」はかなり批判的に扱われる感があります。
たとえば、その批判は「労働がもつ他者との共同の忘却に向けられる」という点などはそうでしょう。
しかし、ふつう労働といえば、人々が共同しあうというイメージがあるけれど、これはどういう意味だ?
一同、「わからん」とうなります。
たしかに、労働疎外のように労働者同士が反目し合うという側面があることは働くものは誰でも経験があるでしょう。
ただ、ここでも通常の労働のイメージでとらえると訳が分からなくなるので、ひとまず「他者との共同の忘却に向けられる」営みを「労働」ととあえて見てはどうだろうか。
たしかに、自分の仕事上のノルマや数値目標を考えていれば、他者の存在は忘れるかもしれませんね。
さらに、労働は「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」という一文をどう理解するか。
家事労働を考えれば理解しやすいかもしれません。
料理してもあっというまに食べてなくなる、洗濯してもすぐ汚れる…とりあえずそんな営みを「労働」と理解しておけばよいでしょう。

と、ここまでの話の中で、ある参加者から「ここまで労働を貶めて、いったいアーレントは何をしたいのか?」と怒気を込めた問いが投げかけられました。
何をしたいのか?
さしあたり、すぐに消費されて、この世界から亡くなることに対するアーレントの不安以上のものを読み取ることはできるのではないでしょうか。
でも、それってすごく西洋的なものいいで、日本なんか諸行無常の世界観だし、まったく真逆のとらえ方で理解できない。
そもそも、そんな消費されてこの世界から亡くなることへの否定感を、この広い世界でどれだけ通用するんだよ。
うーん、なかなか厳しい問いかけですが、一つ言えることは、やはりユダヤ難民として吹けば飛ぶような存在を経験したアーレントにとっては、やはりこの世界での不死への欲望というのは切実だったんじゃないですかね。
これは佐藤和夫の読みですが、アーレントはそこまで労働を貶めて解釈していなかった。
仕事後の一杯のビールの格別なうまさは、宝くじに当たる「幸運」とは違って、労苦がともうなうがゆえに「幸福」は生まれることを認めていたといいます。
ただし、その幸福感もまた、つかの間の儚いものであることには変わりがないのですが。
さらに、他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化された「労働」については、他者の世話に従事するケア労働には「活動」的が含まれているという点にふれ、「労働」という概念で労働の種類をひとくくりに区分されるというよりも、一つの職業の中には「労働」的な要素もあれば、「活動」的な要素があるという見方をすれば、一概に職業的労働一般を否定されたと思う必要はないのではないでしょうか。

続けて「仕事」です。
「労働」と「仕事」が区別される点は、生命維持のために消費されるものを対象にするか、個人の生命を超えて存続するものを対象にするかの違いといっていいでしょう。
『人間の条件』には「仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である」と定義されています。

やはり、ここでもなぜ永続的な建築物や都市の建築が重要なのか、という問いが提起されます。
さらに、いったいアーレントは耐用年数が何年以上なら「仕事」の対象とするのかと、やはり怒気を込めて問いただす声が上がりました。
だいたい、歴史を振り返ればさぁ、都市の存続に「不死」なんてありえないじゃないか。なにいってんの?
なんだか、皆さん、いつも以上にアーレントに突っかかってきますね。
生命の安住の地としての「世界」。
その「世界」が存続することへの配慮。
これが仕事の本質なのでしょう。
すると、またまた「アーレントはユダヤ人として虐殺されかねない経験をしたのに、なぜ一つ一つの生命を大切するという方向にいかずに「世界」への配慮なのか?という問いが投げかけられます。
たしかに。
ただ、アーレントが一人ひとりの生命を尊重していないということは考えられないのですが、そもそも、その生命が生きるための条件であるはずの「世界」に関心や配慮を寄せなくなったことを問題視しているんじゃないでしょうか。
「住まう場所」それ自体をもたないユダヤ民族というアーレントの背負った運命というかアイデンティティが、そうさせるのではないでしょうか。
アーレントは『全体主義の起源』で近代の人権思想の欺瞞を暴いてしまいます。
生まれながらにして誰もが持っている自然権としての「人権」は、国家権力によっても制限を受けないことは学校の社会科で習う基本事項ですが、実は、国家から追放された「難民」という存在は、自然にさらされたときにまったく「人権」というものが保障されない存在に貶められます。
つまり、国家権力に制限を受けないはずの人権がが、国家を失うと同時に破棄されてしまう矛盾を「難民」として切実に問うたわけです。
こう考えると、以下に個々の生命が大切だといっても、それが住まうことのできる「世界」の存続がなければ、いつでもその生は廃棄されるという恐怖が背景にあるのではないでしょうか。

さらに、「仕事」および「制作」には「目的と手段」のカテゴリーに支配される点が重要です。
都市や建物の建設にかかる「工作人」は、その手段として「道具」を用います。
しかしその道具が機械に変わっていくとともに、労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始めるようになっていきます。
つまり、人間の労働負担を減らすという目的だった機会というの手段に、いつのまにか人間の自由が奪われてしまっているという事態ですね。
これに関しては、生活の豊かさを実現する目的をもっていたはずの原発が、いっきに世界を崩壊させかねないことに至った音は周知のことですし、さら核兵器が「抑止力」という名のもとに平和実現という目的の手段にされながら、いったん核戦争が始まれば人類そのものの自殺に至ることは容易に想像できるわけです。
つまり、近代科学技術は人間という目的のための手段であったはずなのに、いつの間にか逆転して手段に支配されているというのが、現代の危機ではないでしょうか。
そうした「目的―手段」というカテゴリーが「仕事」には内在しているという問題を、アーレントは喝破したということでしょう。
さらに、そもそも「何のための目的か?」と、身のまわりの目的が「有用性」(役に立つ)だけで終始してしまうことに問題を感じているという意見には多くの賛同がありました。

労働と仕事をめぐっては、今後AIの誕生により職業が減少することが懸念されていますが、それはある意味で人間的な活動的生活がより明確化していくんじゃないかという話にもなりました。
これは、AIによって労働がなくなっていくというわけではなく、おそらく質的に計算的な活動などのデータ処理はAIの方が量的にも正確さとしても人間を凌駕することは間違いないでしょうが、それとは区別される労働の活動性が見えるだろうということです。
外科手術や癌診断は明らかにAIの方が正確だというデータもありますが、その根拠は示してくれません。
その意味でコミュニケーションや職人的な勘のような部分がより一層問われてくるんじゃないかというわけです。
しかし、そうなると単純労働や考えたくないという人にとってはシビアな世界にますますなっていくでしょう。
AIによって労働・仕事がどのような変化をきたすのか、人間の条件の変化までもたらすのか興味深いところです。

と、ここまでで、予定時間をオーバーしてしまいましたが、皆さん、もう少し延長してもかまわないということで先を勧めました。
で、最後の「活動」です。
「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」
「人間が人間であるがゆえに直接コミュニケーションする存在であるということは人間が言葉で話し合うということによる」
「他者との語り合いの中にユニークネス(個性)を示していく」(第二の誕生)
「誰も自分の経験を誰かに変わってもらうことはできない。その経験を語るところにユニークネスが現れる」
いっきょに著者の「活動」にかける思いと興奮が爆発したかのような記述が連なります。

その中でも、「活動空間の条件」が「人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうること」であるという点は一つ考えてもよい論点です。
学生運動に関わったことがある方から、「組織」の観点から個々の意見を主張しては全体の士気が下がるため、全体一致を要求されたことの経験が話されました。
個々の意見を尊重すれば「組織」としての統制が弱まり運動の力が萎え、しかし、個々の意見が無視されることにも同じ限界があり、その両者が一致するということをどうすればいいのかというのがいつの時代でも課題だったのではないかというわけです。
結論から言えば、おそらく次章で話題に上がると思うのですが、アーレントは基本的にその一致は望めないといいます。
その上で、お互いの違いを認めながら平等と個々人の自由を実現しつつ、協同のパワーを生み出すというわけです。
そんなのはユートピアに過ぎなのじゃないのか。

たとえば、「活動」といえばこの読書会などは、利害関係もないがゆえにその自由と平等を実現できている場であるともいえます。
しかし、これが何かの力を生むのだろうか。
終われば雲散霧消して次の一月を待つ間は何もないじゃないか。
たしかに、アーレントは「活動」の儚さも指摘しており、個々の存在が「不死」を目指すのであれば、「物語」として語り継がれることが必要だといいます。
この物語作者は本などで世界に書き残す以上、「仕事」の人であり、それによって儚い「活動」の「不死性」は建築物に匹敵する耐久性を可能にするということになります。
ちなみに、私のこのブログの記録は「仕事」ですね。ただ、紙媒体のような物質性がないので制作物といえるかは微妙ですが、G00が存続する程度の「不死性」はあるかもしれません。

今回、皆さんの中で少し理解が進んだとすれば、「労働」・「仕事」・「活動」という3つの人間の条件は相互に均衡しているものであって、どれかをなくせば人間の自由が実現するものではないという点でしょう。
さらにいえば、この3つの概念によって様々な営みが分類されるのではなく、それぞれの営みの中に3つの要素が混在しつつ、どの部分が強いのか弱いのかという視点をもてるようになったことではないでしょうか。
家事・市民運動・出産・教育などの営みには労働的もあれば・仕事的・活動的部分があります。
そう考えると、一概にサラリーマンだから、教師だから、販売員だからといって「労働」の徒労だけにとらわれる必要もないでしょう。
問題は、その中に3つの部分のどこかが偏ってしまいすぎることを相対化でk理宇思考をもてることではないでしょうか。

最後に、「活動」は必ずしも優れた能力でありません。
そこには何をしでかすかわからないがゆえの自由、すなわち「不可予言性」という性質が備わり、そうであるがゆえに仕出かしてしまったこと元に戻すことはできない問題を引き起こす「不可逆性」という性質が備わります。
人間は、その過ちを自分自身で修復することはできません。
そうであるが故にアーレントは「赦し」という能力があることを指摘します。
従来、「赦し」は宗教的な能力だったわけですが、彼女はそれを超越的な能力ではなく〈政治的〉に実現可能な能力であるとしたわけです。
「撫順の奇跡」や「真実和解委員会」という実践には、具体的にその思想が結実しているともいえるでしょう。
この「赦し」があるがゆえに、人々は新たな「始める」ことができるというわけです。
そしてもう一つ、予測不可能な活動に安定を確保するための「約束」という能力があります。
「赦し」が過去の出来事に対応するのに対し、「約束」は未来に対応する力ですが、これによって人間の予測不可能で不可逆的な「活動」の自由から世界を守るための安定をもたらすわけです。

さて、思い付きで始めたこの読書会も後半に入りました。
2017年も年の瀬です。
こうして語り合える仲間に恵まれた一年でしたことをあらためて感謝申し上げます。(文:渡部 純)

第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-12-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第4回佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会 (まとめ:渡部 純)

第4章「労働・仕事・活動」
この3つの概念はアーレント政治思想の中核
【基本的な枠組み】
① 西欧政治思想では「活動的生活」よりも「観想的生活」こそが最高(133)
② ポリスの「不死」に対する疑念が「観照」という「永遠なものの経験」へ向かわせた
③ 「死すべき人間」の「活動」の儚さを「不死」のものにさせる歴史物語
④ 3つの活動的生活(人間の条件)
「労働」…生命を維持するための営み。だが、その確保はときに暴力性を発揮する
⇒恐慌、飢餓、戦争
「仕事」・「制作」への警戒…近代思想・科学が歴史と自然を「つくる」ことができる
⇒全体主義・原子爆弾
「活動」…活動的生活の中核をなす自由な話し合い。
 ⇒予測不可能性と不可予言性、儚さ

1.労働
① 近代の労働賛美…資本主義と科学技術は労働からの解放を実現するように思われた
 ⇒しかし、アーレントの批判は労働がもつ他者との共同の忘却に向けられる
② 労働…「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」
⇒他方、「生命の祝福」は労働に固有の物…仕事後の一杯のビール。この幸福は宝くじ に当たる幸運とは違う。労苦がともうなうがゆえに幸福は生まれる
③ マルクスの発見…は剰余価値が生みだす「労働力」は際限のない富の拡大の論拠となる
 ⇒私的所有の無視につながったことをアーレントは批判する。富の増大は話し合いという「ポリス(政治)的動物」の次元には達しえないのだ
④ アーレントが批判を向ける「労働」とは
⇒他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化された「労働」
※ しかし、他者の世話に従事するケア労働には「活動」的が含まれている

2.仕事
①仕事とは
「仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。」(『人間の条件』)
② マルクスの労働=アーレントにおける「仕事」…人間が自然に働きかける中で自己を対象化し、人間主体が形成され世界が人間化される
⇒しかし、今日、人間が自然に働きかける営みは、もはや無制限に肯定されない
⇒工作人は自然の破壊者になる
⇒自然に対する「制作」の「自己確証と満足」は暴力の経験である
③ 「仕事」/「制作」はモデル(目的)と手段のカテゴリーに支配される

a.道具の手段性とテクノロジーによる人間の「適合」
① 工作人は世界の持続と安定性を目指す世界建設的な営む存在である。
⇒しかし、道具から機械に変わっていくと労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始める
⇒機械が人間の条件になるのであって、そこから自由になることはありえない
② 科学技術の進行…蒸気⇒電力⇒オートメーション⇒核エネルギー=地球破壊の段階
⇒自然過程に核エネルギーが入り込むと、「目的―手段」の関係が成り立たず、自分たちの目的のために打ち立てるはずの手段が世界を破壊するようになる

b.手段性の拡大
① 制作の「目的―手段」の関係の問題点…何のための目的か?有用性だけで目的が定まるものはすべて他の物の手段としてのみ有用であるにすぎない
② 目的によって手段の暴力は正当化されるが…
 ⇒ベンヤミンの『暴力批判論』…軍隊や警察暴力を正当化する法

3.活動
① 「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」
⇒人間が人間であるがゆえに直接コミュニケーションする存在であるということは人間が言葉で話し合うということによる
③ 他者との語り合いの中にユニークネス(個性)を示していく(第二の誕生)
⇒誰も自分の経験を誰かに変わってもらうことはできない。その経験を語るところにユニークネスが現れる
④ 活動空間の条件…人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうること
⇒経済的利害や労働条件によって活動の条件は奪われる
 ※サラリーマンは現代の奴隷!
⑤ 「活動」の忘却が全体主義を招いた
人間存在のリアリティやアイデンティティのためには「活動」が不可欠
⑥ 近代の『歴史の進歩』
・光…科学技術の発展、資本主義による富の形成、市民革命による人権思想や民主主義
・影…物質的欲望の際限のない拡大、帝国主義と植民地化、侵略戦争、排外主義…
⇒歴史の進歩という必然性の中で予測不可能な個々人の共同による「活動」は忘却された
⑦ 家事・市民運動・出産・教育の活動/非活動性
⇒家族の中においても政治的要素が意味を持ちうる
⑧ 「活動」の予測不可能性と一回性
⇒活動の不可逆性と不可予言性という性質…予測不可能な「活動」は過ちをももたらす
・「赦し」…新たな「始める」ことを可能にする人間の能力
⇒撫順の奇跡…担白という『告白』作業による修復的正義、真実和解委員会
・「約束」…予測不可能な活動に安定を確保する

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-11-30 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
思いつきで始めたスカイプによる『〈政治〉の危機とアーレント』読書会も3回目です。
このシリーズも回を重ねるごとに、ムスカばりに「読める!読めるぞ!!」という声と、
 
「相変わらずわからないね」
  
という二つの声を聴きながら、今回も9名によるスカイプ読書会が開催されました。

今回のテーマは「自分らしさ」と「私的所有」。
「政治」が織りなす「公的領域」の重要性を強調するアーレントには、ややもすると家庭や家事が織りなす「私的領域」、すなわちプライバシーの重要性を不当に貶めているという評価が長らくありましたが、むしろその「政治」が可能になるための条件としてのプライバシーの重要性を指摘したのが本書の特徴の一つです。
ここでのプライバシーとは、「自分らしくあること」が確保される領域を指すわけですが、しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を、無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまったことを指摘したことが重要になります。
これは、ヴェイユが『根をもつこと』で述べたように「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」という言葉とも符合しますし、その「自分らしさ」の根が奪われているとき、人々は全体主義への誘惑から自由になれないというのが、ここでの中心的な論点になります。

議論のなかでは、やはり自分らしさの所有という意味での財産と貨幣としての富の違いが、やはりよく分からないという質問が投げかけられました。
「自分らしさ」を所有するための財産とは何か?
たしかに、わかったようでわかりませんね。
それぞれ、具体例を模索します。
バブル時代にブランドが流行ったけれど、どんなにカネを費やして高価なモノで自分らしさを表そうとしても、それが消費的で空虚なものであるし、そうしたカネの価値で示せるものではないのが「財産」ではないか。
「家」は「財産」の典型だけれど、でも、現代の家はローンで何十年もカネに束縛されているし、失業なんかすればすぐにそれは剥奪される不安定性の上に所持されるものです。
すると、そのローンの返済のために働かざるを得ないし、けっきょくはカネの返済ためだけに働かざるを得ないというのが実態でしょう。
だから、労働と富の結びつきにおいてアーレントが人間の条件が切り崩される危機を指摘したことが、なんとなく見えてくるでしょう。
ある参加者は、私的所有は「家」だけでなく、作物の獲れる農地などもそうじゃないかと指摘されました。
その話を聞いた時、原発事故で農地を汚染された苦痛を訴える人々に対して、東京の弁護士たちが「汚染されていない食材はスーパーにいくらでも売っているじゃないか」と述べたというエピソードを思い出しました。
都市生活する人間にとって食材は商品でしかありません。
だから、食材はカネで購入すれば済む問題だろうというわけですが、自分の畑で獲った作物を食べる醍醐味を知る人々にとって、そんな理屈は論外でしょう。
そこには、まさにカネで交換不能な私的所有の意義が示されているように思われます。
また、別の薬剤店で働く参加者は、ただ医療機関に点数で指示された商品を手渡すだけの仕事に、どこか自分の思いが伝わらない感じがして、やりがいを得られないという話をしてくれました。
この働き方を「自分らしさ」という言葉で表現するならば、その唯一性を点数やカネによって等価交換されることへの疎外感といってもいいかもしれません。
その点、感情労働もシビアですよね。
感情こそ最も私的なものの一つですが、それをカネとの交換で切り売りすることは精神の荒廃や身体への暴力につながるでしょう。
まぁ、でも感情労働は微妙だよね、その感情のやり取りに生きがいを覚えることは教員やっていると経験するものでもある。そんな話も上がりました。

安心できないところで公共的な意見を求めるなんて、アンフェアだという話にもなりました。
なんのことはない。教員採用試験の欺瞞の話です。
不安定な講師業を続けてきた人間に対して、教育の在り方を問うなんて、出来レースもいいところだろうという話です。
けっきょく、そこは受験者の教員としての資質を問うといいながら、審査する側=支配する側の論理に従う範囲での意見を答えられるかを試すだけであって、そんな不安定な人間に自分の意見を語らせるというのは欺瞞もいいところだというわけです。

また、そんなにカネの論理に縛られて身動きできなくなる社会なら、いっそ逮捕されても借金は返さないよという人々が公然と現れ始めてもいいんじゃないか、という突っ込んだ問題提起もなされました。
みんなが公然とカネを返さなければ、この資本の論理だって少しは歯止めが利かないだろうか、というわけです。
公然と法を犯して権利の主張を表明する「市民的不服従」の経済版ですね。
面白い考え方だなと思いました。
けれど、資本と国家主権の強大さは、おそらくそれを潰しまくるでしょう。
それでも、予想不可能な「活動」としての返済拒否運動が生じれば、資本と主権を廃棄するのかも…
(柄谷行人風に言えば「交換様式D」が到来する!的な。)

さて、いったん議論を打ち切り、第3章「自分らしさ」と「私的所有」へ突入します。
まずは、私的所有の重大な盲点として、個人の自由は全ての市民に保障されているわけではないという点を確認します。
一般に「政治・経済」の授業では、選挙権の人口拡大は往々にして時代の進歩と解してきましたが、近年の民主国家とされる社会で生じているファナティックな排外主義をみれば、それに疑問を覚えざるをえません。
誤解を恐れずに言えば、納税額などによって制限されてきた選挙制度では、たしかに資本家階級による利権政治という面は否定できないものの、一方で余裕のある身分であるがゆえの公共性を担保していたのではないか、という評価も成り立ちうるのです。
というのも、アーレント流に解釈すれば、家や土地、仕事が保障されることなく、絶えざる生活の不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しいからです。
元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずですが、もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になり、それは既に反政治的なものが「政治」の主たる対象となってしまうという点で、「政治」の破壊をもたらすのです。

一方、国家や市場による私生活への侵害・監視はメディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲームなど多岐にわたり、今日、この「社会的なもの」に侵食されていないプライバシーなどほとんど皆無でしょう。
こうなると隠れ家として安心できる居場所としての「私的領域」は、もはや皆無かもしれません。
このような状況下で、「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代であるというのが、本書を貫く大きな主張の一つとなります。

この段階の議論では、不安と政治の問題に絡んで、学校という空間は「政治」の空間のような気がするという意見がまず出されました。
その方によれば、自分の学生時代を振り返ってみても、そこはすごく居心地がよく、自分の意見を自由に言えた場所だったそうです。
これは、けっこう重要な指摘だと思います。
アーレントにおいて学校は、まさに私的領域から公的領域へ橋渡しをする中間的な「社会的領域」ともいうべき場所だからです。
この参加者が言う自由に意見を言いつつ、居心地が良いというのは、政治のための発言の自由さと同時に、安心できる自分の居場所としての空間が確保されていることを意味するでしょう。
リアルな話としては、学校や大学の昼食時に自分の居場所がなく、トイレの中でお弁当を食べる生徒・学生がいるという現象です。
その事例を見ればわかるように、子どもたちにとって学校は必ずしも居心地のいい場所ではなく、ともすれば弱者を排除する力学が生じるところでもあります。
だから、アーレントは、子どもの世界は自分たちだけで自律させてはいけないといいます。
もし、子どもだけの世界になれば、いじめが起きる残酷な世界になることは現代日本社会でもいやというほど問題化しています。
だから、学校の世界は教師という権威が存在しなければいけないし、そこにおいてはいかに自由な発言が可能になろうとも、不平等な命令―服従の関係性が支配するわけです。
後者の部分は、まさに家政内での封建的な父親の存在を想い起させますが、まさにそうした平等性がない部分が私的領域に備わることをアーレントは論じます。
権威に基づく命令―服従があるがゆえに、生命・生活の保護が為されるというのは、あまり納得のいく話ではありませんが、むしろアーレントはその私的領域における支配形態を平等原理によって営まれる「政治」に適用することを批判的に論じています。
プラトンの政治思想にもそれが見いだされますが、戦前の日本だって臣民は天皇の赤子だったわけで、思いっきり家族的国家を体現していたことは明らかです。
 
さらに議論では、この話題でふれられた「平等主義」に関してもう少し明らかにしてほしいという質問が出されました。
アーレントにおいて平等は差異の平等を意味します。
つまり、「違い」があるがゆえに平等に扱う原理のことです。
これと対比させられるのが、「画一主義」です。
日本、とりわけ学校はこの二つを取り違えることが往々にして行われます。
これに関しては色々な例を挙げながら模索されました。
たとえば、体育で一律100回の腕立て伏せをやらせるのが画一主義で、その子の体力に応じて目標回数を変更するのが平等主義なのか。
そうともいえるでしょう。
でもそうすると、別の子から不満が出るのが世の学校の常です。
これに関して、今日まさに人事評価をしてきた方が、一律に評価などできん!と啖呵を切ってきたという話も挙げられました。
その人の実力や目標がそれぞれ異なるのに、それを一律に評価するなんて無理だ、というわけです。
あるいは、子育てと働き方の問題など典型にそれが現れるでしょう。
熊本市議が議場にもちこん事例は、規則に書かれているから一律ダメという論理は、まさに原則主義であり画一主義であろうというわけです。
ジェンダーの不平等を考慮すれば一律に切り捨てるのではなく、それぞれの状況に応じて平等性を常に測りなおすという点で、差異の平等とは常にフレキシブルに再検討を促す原理と言えるのではないでしょうか。
この話題は後程再浮上します。

第3章は、アーレントによる所有権の正当化と貨幣を導入したロック批判から、その私的所有権論を批判して共産主義を主張したマルクスをさらに批判し、最後に彼女のプライバシー私的所有の意味を明らかにする展開となります。
まずロック。
そもそも「所有」を意味するpropertyには「自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていましたが、自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生するというロックの私的所有論は、市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」という意味が抜け落ち、「物を所有する」という意味での「所有権」に限定されてしまったといいます。
さたに、近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつくとし、これが自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かったといいます。

このロックに代表される近代の私的所有論に対してマルクスは、「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という割には、働けば働くほど労働疎外と貧困化を招くのはなぜかと問います。
その答えとしてマルクスは、労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!と結論し、すべての物を共有する共産主義へ向かうことを論じます。
しかし、このマルクスの「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない、とアーレントは批判します。
つまり、個人と類の同一視こそがマルクスに対するアーレントの批判ということになります。

では、アーレントの「私的所有」とは何か?
一言で言えば、それは「自分らしさのためのプライバシー」ということになります。
すなわち、一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたく、それをお互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険があるというわけです。
そして、一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的領域」・「財産」・「私的所有」が確保されなければならないのです。
おもしろいのは、「財産」と「富」の区別の事例として、「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪を挙げている点です。
参加者それぞれに「自分らしくいられる居場所はどこか?」と聞いたところ、自宅のトイレや布団のなか、風呂が挙げられました。
おそらく、そこは個々人の五感によって形成された秩序空間ではないでしょうか。
いくら毎日帝国ホテルに泊まってシーツを取り換えられていても、やっぱりしばらく洗濯もしていない布団のにおいに落ち着いたりするものです。
書棚なんて、他人がいじったらそれだけで秩序が乱された気持ちになります。
慣れ親しんだ空間というのは、個々人の感覚の相違によって生じる「癖」の集合体といえるかもしれません。
ゴミ屋敷といわれんばかりの乱雑な部屋であっても、そこには巣のような居心地の良さがあるわけで、それがプライバシーの空間ということなのでしょう。

一人ひとりの「違い」を前提にするかしないか。
学校では建前上「個性尊重」を言いますが、同時に画一主義の服装頭髪指導を継続してきました。
このダブルバインドをどう考えるべきか。
それを、けっきょくは秩序の範囲内で認める自由と表現した人がいました。
90年代にやたらと「個性」を尊重する教育が推進されましたが、おそらくそれはこれまでの護送船団方式では立ち行かなくなった経済の論理と符合していて、ネオリベラリズム的な自由主義という意味での「個性尊重」という経済の論理が背景にあると思われます。

公的空間で政治が為されるための条件としての私的領域・プライバシーの確保が、一人ひとりの違いを十分に育てることにつながるという点では、「サバルタン的公共圏」という領域も思い出します。
これはフェミニズム政治哲学者ナンシー・フレイザーの用語ですが、ここでの「サバルタン的」とはLGBTや難民のような、公的空間において言葉を奪われた人々が形成する「対抗的公共圏」といわれる領域です。
世界から疎外された人々がどのように物語や言葉を紡ぎだすのか、という問題はユダヤ人として社会から追放された経験を持つアーレント自身の大きな課題でした。
同じような境遇にある疎外されたもの同士が集う安心した領域を「サバルタン的公共圏」というならば、それは公的/私的領域の閾にあるものともいえるでしょう。
家族の問題がシビアだとされる日本社会においても、こうしたプライバシー領域を補完する新たな領域の生成は意義深いことだと思いますし、そこでの政治性が課題として問われることでしょう。

しかし、サバルタンという用語は、もともとスピヴァックの用語であり、そこでは自らの疎外や迫害を自らの言葉で語りえない人々のことを指しています。
それは何かの強制力によって表現の自由が抑圧されているという意味ではなく、そもそも語る言葉をもってない人々のことですが、それに対してアーレントはどのように論じるのか、という質問が投げかけられました。
いわば、抑圧されている側がその苦しみを訴えるためには、抑圧している側の言語で語らざるを得ないのだけれど、そこにはすでに言葉そのものが抑圧の構造によって規定されているため、訴える側の本意は伝わらないという問題です。
いくら、知識人が代弁しようとしても、その知識人の言葉そのものがすでに抑圧者の言葉を奪っているという構造を、スピヴァックは見抜いたわけです。
発達障害を持つ人々が、周囲の世界になじめず、それを言語化できないままに疎外される事例から、その問題を指摘する発言が参加者の中から上がりましたが、率直に言って、アーレントはこうした言葉をもてな人びとに対しては解決策を提示できていないと思います。
その点で、彼女は知識人の側に類するとも言えますが、しかし、それよりもむしろ、アーレントが言葉のもつ力を信じ切っていたというべきなのかもしれません。 
しかし、こうした言葉を奪われた人々が、「蜂起」という選択をしないのだろうかとの指摘も挙げられました。
言葉をもてないがゆえに放棄し、立ち上がる人々がいるのではないか。
とても興味深い指摘ですが、おそらくアーレントであるならば、その言葉を抜きにした闘争や暴力蜂起こそが脅威であるとみなしたのではないかと思います。
それはある種のルソー主義とも言えますが、その話は赤城智弘氏の「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」の論考を思い出します。
不安定な立場に置かれた若者の「希望は戦争」という言葉は、そのまま「暴力蜂起」と結びついているようにも思われるからです。
しかし、先に発達障害の問題に触れた参加者からは、そもそもそうした立ち上がることに関心を向けることからも疎外されている若者のことを問題にしたいのだとの指摘がありました。
同じ不安定で言葉を奪われていようとも、そこにはやはりある種の位相の違いがあるようです。

今回も予定していた90分内の時間でスムースに終えることができました。
ただ、スムースに終えることが、十分な理解や思考を深められたこととは別問題です。
皆さんの手ごたえはどうだったのか、カフェマスターとしては気にかかることです。
印象深かったのは、ある参加者がこうして読書会で一緒に読んでいると、佐藤和夫を介してアーレントの言いたいことがよくわかる、と思っているんだけれど、いざこの場を離れて読み直すと「はて?」という地点に戻ってしまうという感想です。
読書会そのものが「政治」の場であり、そこから離れて独りの「思考」という場になったとき、何か雲散霧消してしまっているというのは、アーレントを読む経験としては、何かとても本質的なことを衝いているように思われました。(文:渡部 純)>

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-11-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第3回の『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が一週間後に迫ってまいりました。
レジュメをまとめましたのでアップさせていただきます。
今回は「第3章」の読解をメインにしていますが、前回読み飛ばした「第2章3節」も大きく関わりますので、そこでの議論も含めてまとめてあります。
今回からご参加いただくこともできますので、ご関心のある方はスカイプを設定していただいた上で、ブログメッセージよりご連絡下さい。



「自分らしさ」と「私的所有」(報告担当:渡部 純)

1.私的所有=自分らしさのためのプライバシー(第2章3節)
(1)公的領域で活動できるための私的領域の意味づけの重要さ
 労働からの解放はありえないが、「自分らしくあること」の追求が人間の基本的な条件として求められる〔90〕
 ⇒しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまった!

(2)生命としての人間は「大地」という条件によって根源的に制約されているが、この条件は変容可能である〔93〕
 ⇒もっとも恐るべきは、この地球の中で自分が、ここだけは誰にも侵入されずに自分の場所(世界の内部に私的に保持された場所)をもつことができるという、いわば根本的な人間の条件が奪われること
 ⇒近代資本主義は労働のなかに所有と「財産」の起源を見出し、それが貨幣の肯定と結びついてしまったことで、「自分らしさのための所有」が、無限増殖する貨幣の量に還元される「富」であるかのように混同されるに至った。
 ⇒大地に根をもつことで可能になる「自分らしさ」の「所有」とは正反対のものであ

(3)ヴェイユの『根をもつこと』-「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」〔94〕
 ⇒自分の根が奪われているとき 人々は全体主義への誘惑から自由になれない〔95〕

2.「自分らしさ」と「私的所有」(第3章)
(1)はじめに
①私的所有の重大な盲点…個人の自由は全ての市民に保障されているわけではない!
 ⇒生活のための家や土地が保障されることなく、絶えざる不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しい
 ⇒元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずなのだが…〔107〕
 ⇒もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になるが、それは「政治」を破壊するものを「政治」が主たる対象にすることである
②今日のプライバシー問題…国家や市場による私生活への侵害・監視
 ⇒メディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲーム、
 ⇒この市場世界で生き残るために強制される精神的隷属と身体的虐待の問題
 ⇒今日の「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代である(外国人の排外主義とリーダー待望論)

(2)ロックの所有権の正当化と貨幣の導入
①property…「所有/自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていた
②ロックの所有権論
 ⇒自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生する〔114-115〕
 ⇒市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」の保障はブルジョワ市民階層を分析対象とした社会科学の主要な関心となりえなかった。
 ⇒「物を所有する」という意味は「物をもつ」という意味に限定されてしまった
③ロックの貨幣論
 ⇒近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつく
 ⇒「財産の蓄積を持続し拡大する」ものとして貨幣を正当化したが、これは自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向 かった。

(3)マルクスの私的所有批判
①マルクスの近代経済学批判
 ⇒「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という考え方への批判から始まる。〔117〕
 ⇒「物をたくさん所有することが豊かだ」という考え方が労働疎外と貧困化を招く
 ⇒人間の豊かさは、人間が労働生産の過程で主体的に自然に働きかけながら、自己が対象化され豊かな人間環境が形成される「文明化作用」によって実現する〔118〕
 ⇒しかし、現実は労働者が富を生産すればするほど…それだけ貧しくなる。なぜか?
②マルクスの答え〔119〕
 ⇒労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!
 ⇒すべての物を共有する共産主義へ
③マルクスの問題点
 ⇒「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」。人間は社会的諸関係のアンサンブルである。
 ⇒マルクス:私的所有の積極的な廃止の後に立ち現れるユートピア的な調和的人間
 ⇒アーレント:マルクスは「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない。
 ⇒個人と類の同一視こそがマルクスとアーレントの対立点である

(4)アーレントの「私的所有」=「自分らしさのためのプライバシー」
①アーレントの私的所有観〔122〕
 ⇒一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたい
 ⇒一人ひとりが異なる存在であることを認めることが人間社会の出発点
②アーレントの「公的」概念
 ⇒「公的に表れるものはすべて、誰にでも見られ聞かれたりする」
 ⇒世界とは、他者によって見聞きされる中で生じてくる
 ⇒人間が互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険がある〔123〕
③一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために
 ⇒一人ひとりの違いを十分に育てるための場所の確保(「私的」領域・財産・所有の確保)
 ⇒それを通じて自分のかけがえのなさが表明されること
 ⇒その表明を互いに認め合う空間の保障
④「私的」所有・財産の意義
 ⇒人間が公的領域で自由平等にコミュニケーションできる条件を成り立たせるもの
⑤ロック以降の近代思想のすり替え
 ⇒もともと「私的所有」は自分の生活に必要なものを思い通りにできることだった
 ⇒貨幣の正当化によって「万人が共有している世界に入る」可能性をもちこんだ
⑥私的所有・財産と富の区別
 ⇒「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪〔124-125〕
⑦私的領域の意義(まとめ)〔126-128〕
 ⇒自分らしい暮らし方を通じて自分を保つというのは人間の根本的な在り方であり人間の条件である。
 ⇒マルクスの議論は労賃。資本・地代の対立が人類経堂のものになれば個人と人類の発達の対立は消えるとしたが、そこには個性の問題が見逃されている
 ⇒「財産」とは一人ひとりが自分の安心できる「4つの壁」をもち隠れていられる状態であり、その上に公的領域で自分を示しうる条件が保証されている
 ⇒「根こぎ」の状態の蔓延こそが全体主義運動に組織化されていく