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テオ・ヤンセン展を見に行こう!そして語ろう!・まとめ

2018-04-22 | アート系


いってきました、テオ・ヤンセン展。
そして、初のいわき開催。
なんと9人も集まっちゃいました。


このチラシの中に映し出された作品の美しいフォルムに、多くの人が「観に行きたい!」と思ったようです。
そして、この風を受けて自立歩行をする姿に魅了された人も多いでしょう。
さながら、突き進むその姿はナウシカの「王蟲」を彷彿とさせます。

で、さっそく集合とともにみんなで作品を観に行くと、ちょうど作品を室内で稼働させるところでした。
その名も「ストランド・ビースト」。


テオ氏によれば、これは生命体。
1990年に仮想生物がコンピュータの中で、現実世界に飛び出したいと悩んでいたところ、テオ氏がプラスチックチューブを使って創造した。
という設定らしい。


風邪からエネルギーを得るこの「生物」は、まったく食料がいらない。
だから、砂浜のような栄養分が乏しく風が強い土地を支配できる生物なのだ。
これはガイドブックを読んだ情報。
なので、いっしょに観に行った参加者の多くは「この世界観がなんなのか、もっと情報がほしい」という感想をもった。

けっして「エコ」ではない。
チラシではぱっと見で竹材を使っているのかなと思わせるそのボディは、プラスチックチューブで構造化されている。
骨、筋肉、腱、血管。
それらにあたるものがプラスチックチューブなのだ。
そこにコンプレッサーで空気を送ると、羽のようなものが動き出す。
羽も繊細な紙材でできているのかと思いきや、ビニール製。
使い古しのペットボトルも突き刺さっている。
そして、明らかに「小汚い」。


けっこう老体なんだね。
アクアマリンの別の場所には、この「生物」の「化石」があったらしい。
この展示物もいずれ…
たしかに、この作品群の終着点が福島になるだろう、ということだった。

たしかに室内で稼働させるところを見ることができたのはよかったけれど、やっぱり物足りないなぁ…
実はみんなもそう思っていたんだ。
あの浜辺をさっそうと、颯爽と駆け抜ける「ストランドビースト」の姿を見てしまうと、室内で動く「ビースト」はさながら動物園のパンダ。
もっと言ってしまえば、この展示群は既に「ご遺体」なのではないか。

精巧なプラスチックチューブの構造は計算し尽くされている。
ほんとうに生命体のような動きを見せる。
でも、細部を見ると意外とつくりが雑なんだよね。

解説も独特。
「ビースト」の進化に合わせて「グルトン期」とか「「アウルム期」とか表記される年代は、テオの制作の進化過程なのだろうが、それを生物年代記として表記している。

風が吹くと羽のようなものが動き出すけど、これは求愛行動らしい。
でも、生殖行為や出産はできない子の生物はどのようにして繁殖していくのか?
これは「ビースト菌」によるとのこと。
この細菌に感染したものは、「ビースト」をつくらずにはいられなくなるらしい。
つまりこの作品を観たり触ったりした人は、この「生物」を創造せずにはいられなくなる。
どうやって?


はい、入り口に「ビーストの卵」が販売されていました。
これを購入すればあなたもビーストの生みの親、というわけ。
参加者で感染したのはワタシを含め2名。
これからこの生命体の創造に着手します。

さてさて、皆さんこの作品を観ながら何を考えたのか?
さしあたり、「生命」とは何か?を問うことはできるかもしれませんね。
人間はこうして「疑似的な生命」をつくりながら「生命」が鼓吹されることの意味を考えてきたように思われます。
テオ・ヤンセンの場合、それが「風」を得て動き出す「ビースト」。
風という外部からエネルギーを得て自立的に動き出す。
太陽エネルギーを得なければ動かない爬虫類とどこか似ているのかもしれません。
それでも、この生命体のボディは人工物。
つまりは無機物であり、生命体ではない。だんじてない。
にもかかわらず、そこに「生命」性を僕らは同時に感じてしまいます。

この感覚はボストンダイナミクス社の最新型ロボットの動きにも感じたことがあります。
もちろん、こちらは自然のエネルギーを糧にしているわけではありません。
が、その「動物」らしい動きにどこか不気味な感覚を覚えます。
近親憎悪ならぬ近親不安?
実は風を受けて動く「ビースト」の動きにもこの感覚を覚えました。
王蟲。尺取虫。
プラスチック材がなまめかしい生命の動きをすることのちょっとした異様さ。

アンドロイドを制作研究者の石黒浩はアンドロイドをつくる目的は「人間を技術で再構成することで、人間を理解しようとする意図がある」(『人と芸術とアンドロイド』,日本評論社)といっています。
アンドロイドもまた、人間に見紛うまでに進化し続けていることはもはや否定できません。
しかし、それでもなお「人間らしさ」を欠く、その何%かの不足は何をもってして埋められるのか。
テオの意図もそれに近いのでは。
「芸術」という方法に、「人工/自然」の境界線に迫る可能性を二人は認めているんじゃないかな。
しかし、「再構成」はあくまで近似値に迫るにとどまるだけでは。
いや、だから「不完全」だと難じたいわけではありません。
人間はそんな「遊び」をしながら、距離をとって本質に迫りたい衝動をもち合わせている。

不思議なのは、この作品がなぜ「美術館」ではなく「水族館」に置かれたのか、ということ。
生命の展示の内部に「非生命的な生命」を配置することは、どこか生命を楽しみに来た人々の思考の枠を解体する意図があるのかしらん、と解釈するのは深読みしすぎ?
とりあえず、「ミニチュア・ビースト」をつくりながら考えてみるか。(文・渡部 純)

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