カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

【高校生哲学対話サークル・キックオフイベント】映画「ぼくたちの哲学教室」から考える哲学対話

2023-07-20 | 哲学系

《日時》2023年7月29日(土)13:00~16:30
《場所》フォーラム福島(福島市曽根田町6-4) 
《哲学対話イベントへの参加について》
申し込み不要です。高校生に限らずどなたでも参加できます。
ただし、前半は高校生主体の対話とさせていただきます。 参加費:映画観賞券 高校生¥1,000 
《タイムテーブル》
映画上映 13:00~14:50  
高校生哲学対話 15:00~16:30
大人の哲学対話 17:00~19:00
《発起人》佐藤伸郎  髙橋洋充  渡部 純(福島東高校教員) 林 裕文(ふたば未来学園高校教員)
《お問い合わせ先》  渡部 純 wajun1973@yahoo.co.jp


《開催にあたって》
 わたしの身体はわたしのものなの?
 わたしが見ているものとあなたが見ているものは同じものなの?
 夢と現実は区別できるの?
 わたしたちは子どもの頃に「不思議だなぁ」と思う数々の疑問を抱いていましたが、いつの間にか目の前の仕事や勉強に忙殺されて、それらをなかったことにして生活しています。まるで、それが「大人」になることであるかのように。けれど、人間は一度心に芽生えた答えのなかなか見つからない問いを忘れることはできません。哲学対話はそんな根本的な問いを誰かと一緒に語り合おうという活動です。
 今回のイベントのきっかけは桜の聖母学院高校インターアクト部の投げかけから始まりました。ふだん、接することの少ない他校の高校生たちと哲学対話をしてみよう。さらに、その言葉をフォーラム福島支配人・阿部泰宏さんに投げかけたところ、「うってつけの映画作品がある!それを観た後に映画館で哲学対話をしよう!」とのお返事をいただき、企画がトントン拍子で進みました。
 その映画作品がナーサ・ニ・キアナンとデクラン・マッグラ監督作「ぼくたちの哲学教室」です。本作品は北アイルランド、ベルファストの男子小学校で実施されている哲学の授業を2年間にわたって記録したドキュメンタリーです。その授業実践の背景には北アイルランドの宗教紛争が影を落としていますが、まさに社会的な問題を哲学的に考えることを通じて未来を築こうとするマカリービー校長の挑戦は、原発事故を経験した私たち福島に住むものにとっても希望を感じさせられる作品です。
 さらに、この時間だけでは物足りないという方のために、17:00~19:00に会場を移して「大人の哲学対話」を開催します。会場は決まり次第お知らせします。
 この映画作品を通じて福島の高校生たちの間に哲学対話の文化が広まることを期して「高校生哲学対話サークル」のキックオフとさせていただきます。なお、北アイルランドの領有を巡るイギリスとアイルランドの領土問題について予習しておくと、映画の内容を深く理解することができます。
《ルール》
 〇 他者の意見を否定しない限り、何でも自由に話そう。
 〇 他の人が話している間はその人を見て最後まで聴こう。
 〇 他の人が話してくれたことに反応してあげよう。

沈黙がつながる 東北、福島、西成、北海道

2023-07-15 | 哲学系


日時 7月22日(土) 14:00〜16:30
場所 福島市写真美術館 多目的ホール 
福島市森合町11-36
電話:024-563-4990


緊急告知!
あの、サイレントアイヌ研究の石原真衣さん(北海道大学)と現象学研究の哲学者・村上靖彦さん(大阪大学)をお招きし、フォーラム福島の阿部泰宏支配人と渡部純との座談会を開催いたします。
これまで、この4名は東北・福島・北海道・西成を拠点として、主題である「沈黙」をキーワードに「語りのインターセクショナリティ」研究会でつながりをもってきました。
福島開催はこれで二回目です。
座談会は4名が最近考えていることを雑談風に語ることをしながら、参加者の皆さんのお話を交えていく形を取りたいと思います。
急なイベント告知になりましたが、ご関心のある方はぜひご参加ください。途中参加もありです。
14:00~15:00 座談会
●阿部泰宏 (フォーラム福島支配人)
●石原真衣 (北海道大学教員)
●村上靖彦 (大阪大学教員)
●渡部純 (福島東高校教員)
15:00~16:30
参加者との意見交換会

著者と読む『〈政治〉のこれからとアーレント——分断を克服する「話し合い」の可能性』

2023-01-12 | 哲学系


【テーマ】著者と読む『〈政治〉のこれからとアーレント——分断を克服する「話し合い」の可能性』
【日 時】2023年2月12日(日)13:00~16:00
【ゲスト】佐藤 和夫(千葉大学名誉教授/哲学)。
【会 場】福島市写真美術館多目的ホール
      福島県福島市森合町11−36
【参加申込】メッセージよりご氏名とメールアドレスを記載の上でお申し込み下さい。


「いま、〈政治〉に何ができるのか?
収束なきコロナ禍、恒常的な雇用の不安定化、深まる社会的孤独と孤立感、そして「役に立たない人」を排除する全体主義の影……この「危機の時代」において、求められる〈政治〉とは何か。異なる他者との共生とそれを可能にする「自由な政治空間」の実現のため、60年代学生運動の反省的考察を通じて、今こそハンナ・アーレントの到達点〈活動と話し合い〉の効力を問う」(花伝社)
複数性の時代を迎えるための、渾身のアーレント論を論じた本書の著者である佐藤和夫氏を招いて、この本を通して自由闊達に今の世界とこれからの〈政治〉について語らいましょう!
新型コロナ感染対策のため定員数を設けます。
参加希望の方は、必ずメッセージを主催者にお送り下さい。
主宰者としては、できる限り事前に本書に読んで参加していただくことを望みますが、話を聞いてみたいという方でも参加できます。

●著者紹介●
佐藤 和夫(さとう・かずお)
1948年生まれ、千葉大学名誉教授(哲学)。
著書に『〈政治〉の危機とアーレント』『仕事のくだらなさとの戦い』、『ラディカルに哲学する』シリーズ(大月書店)、訳著にハンナ・アーレント『精神の生活』『政治とは何か』(岩波書店)、『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』、J・ギリガン『男が暴力をふるうのはなぜか』(大月書店)ほか。

●目次●
はじめに
第一章 歴史の「今」と自由の「遺言」
第二章 「私的所有」が保障する思考
第三章 「胃袋の反乱」としての「革命」から「連帯」による「活動」へ
第四章 マルクス思想の出発点としての「私的所有」
第五章「政治的自由」と統治
第六章 二一世紀の「政治」の可能性と「自分らしくいられる」文化の形成
あとがき


【ご案内】「沈黙を残す:オートエスノグラフィックな経験をめぐる対話」

2022-06-24 | 哲学系


直前で恐縮ですが、このたび、渡部が日本質的心理学会研究交流委員会企画「沈黙を残す:オートエスノグラフィックな経験をめぐる対話」へ登壇させていただくことになりましたので、ご案内申し上げます。。

【日 程】2022年6月26日(日)15:00~17:00
【開催方法】対面+Zoomを用いたオンライン形式
      対面:大阪大学人間科学研究科51講義室にて参加
      オンライン:Zoomによるライブ配信に参加
【講 師】石原真衣(北海道大学アイヌ・先住民研究センター)
     渡部純(福島県立福島東高校)
     宮前良平(福山市立大学都市経営学部)
【参 加】会場の都合上、対面での参加は先着30名様に制限いたします。
     会員非会員問わず無料でご参加いただけます。
【お申し込み】上記の日本質的心理学会HPよりお申し込みください。

エクリチュール・オンライン読書会-プラトン『パイドロス』

2021-01-06 | 哲学系

あけましておめでとうございます。
まだまだコロナ過が収まりませんが、本年もオンラインなどを活用して言論カフェを継続していきます。
いつもの対面方式が復活する日を楽しみに。
今回はチャット形式の読書会です。どなたでも参加できます。書き込まなくても読んでいるだけでも大丈夫です。下記のFacebookグループから入れます。

【日時】2021年1月10日(日)19:00~

【課題図書】プラトン『パイドロス』(岩波文庫など)
 

真実そのものの把握なしには真実らしく語ることさえ本来的に不可能であることを立証し,「哲学」の立場から鋭く当時の弁論術を批判したのがこの対話編である。
本書はプラトンの代表作の一つであって,特に『ソクラテスの弁明』をはじめとする前期著作群を『テアイテトス』以降の著作に結びつけてゆく重要な役割を担っている。(岩波書店)

【方法】Facebook上の公開グループ内で行います
今のところFacebookの使用が前提になっています。ご関心のある方は「カフェロゴ・エクリチュール・オンライン読書会-プラトンを読む」グループ内をのぞいてみて下さい。
    
【カフェマスター】深瀬幸一

【エクリチュール読書会とは】

 ここ、福島市もいよいよ「緊急警報」が発令されるなどコロナ禍が深刻さを増しています。
 そのような中でどうしたら言論カフェができるだろうか。
 個人的なことになりますが、ワタクシは他者とのやりとりに介在する対話独特の「息づかい」や「間」が感じられないオンライン読書会や飲み会におもしろみを感じません。画面上に固定化された参加者の「表情」にも違和感がある。少なくとも、それは対話のツールではあっても「場」ではありません。
 しかし逆説的ですが、「パロール(音声)」を前提にするオンライン読書会が、その「場」における他者の「息づかい」や「表情」、「間」を排除せざるを得ないのならば、むしろそれらを前提としないからこそ可能になる言論カフェというものもあるのではないか。それが今回企画した「エクリチュール(書かれたもの)」によるオンライン対話です。
 要はチャット形式の読書会なのですが、そこに期待するものは空間を共有した他者の身体性を抜きに、テキストを媒介とした自分の「読み」と他者の「読み」が織りなすエクリチュールによる「対話」の実現です。テキスト本文と他者の「読み」にじっと目を凝らして読みながら、そこに自分の「読み」を挿入する。
 つけ加えれば、そこには「場」の現在性を共有するリアリティを条件としません。したがって、後からの書き込みが可能であり、しかも究極的には現時点での参加者がこの世から去った後にも、誰かが書き込み続けることは可能です。
 この空間的時間的な条件からも解放されたエクリチュールによる対話は、「音声」によるものとは別の姿を実現するのではないか。
 そんな思いつきから実験的に試みることにしました。
 コロナですることもなくなった年末をお過ごしの皆様、ぜひこの実験に乗っかってみて下さい。

エクリチュール・オンライン読書会-プラトン『メノン』

2020-12-22 | 哲学系

【日時】2020年12月28日(月)19:00~

【開催趣旨】

 ここ、福島市もいよいよ「緊急警報」が発令されるなどコロナ禍が深刻さを増しています。
 そのような中でどうしたら言論カフェができるだろうか。
 個人的なことになりますが、ワタクシは他者とのやりとりに介在する対話独特の「息づかい」や「間」が感じられないオンライン読書会や飲み会におもしろみを感じません。画面上に固定化された参加者の「表情」にも違和感がある。少なくとも、それは対話のツールではあっても「場」ではありません。
 しかし逆説的ですが、「パロール(音声)」を前提にするオンライン読書会が、その「場」における他者の「息づかい」や「表情」、「間」を排除せざるを得ないのならば、むしろそれらを前提としないからこそ可能になる言論カフェというものもあるのではないか。それが今回企画した「エクリチュール(書かれたもの)」によるオンライン対話です。
 要はチャット形式の読書会なのですが、そこに期待するものは空間を共有した他者の身体性を抜きに、テキストを媒介とした自分の「読み」と他者の「読み」が織りなすエクリチュールによる「対話」の実現です。テキスト本文と他者の「読み」にじっと目を凝らして読みながら、そこに自分の「読み」を挿入する。
 つけ加えれば、そこには「場」の現在性を共有するリアリティを条件としません。したがって、後からの書き込みが可能であり、しかも究極的には現時点での参加者がこの世から去った後にも、誰かが書き込み続けることは可能です。
 この空間的時間的な条件からも解放されたエクリチュールによる対話は、「音声」によるものとは別の姿を実現するのではないか。
 そんな思いつきから実験的に試みることにしました。
 コロナですることもなくなった年末をお過ごしの皆様、ぜひこの実験に乗っかってみて下さい。

【課題図書】プラトン『メノン』(岩波文庫、光文社文庫など) 「徳」は人に教えられるのか?
 そもそも、「徳」を自分は知らないし、知っている人に出会ったこともない。
 そんなものを果たして人に教えることなどできるのか?
 ソクラテスはこのような問いをもってメノンと問答を交わします。
 人が徳を知ることは可能か?はたまたそれを他者に教えることは可能なのか?
 ページ数も少なく、プラトン(ソクラテス)入門としてうってつけです。
【方法】Facebook上の公開グループ内で行います      今のところFacebookの使用が前提になっています。ご関心のある方はグループ内をのぞいてみて下さい。                   
【カフェマスター】渡部 純

政治と嘘を考えるーアーレント『真理と政治』を読む・まとめ

2020-10-11 | 哲学系


富良謝と渡部の共同企画「政治と嘘を考える」は、同僚二人の間で交わされた会話がきっかけでした。
去る9月に実施された高校3年生の進研模試・現代文の問題文に用いられたのは宇野邦一『政治的省察 政治の根底にあるもの』でした。
テキストの冒頭はこう書き始められている。
「どうやら政治に嘘はつきものである」。
この文章から察しがつくように、この論考の趣旨は嘘が政治にもたらすものの問題性であり、それが前政権への批判が込められていることは容易にくみ取れる。
そして、この時期に高校生へ向けて発した問題作成者の意気込みにいてもたってもいられなくなったのか、富良謝が鼻息荒くこの問題文を5mほど離れた席から飛んで持ってきてくれた。
一読して、嘘と隠ぺいにまみれた安倍政権への痛烈な批判が込められていること、それを問題文とはいえ高校生に差し向けられたことに素直に感動した。
が、しかし、いくら何でもこの文章は難解すぎる。いや、難解というより意味不明の部分が多すぎる。悪文である。
通常の意味での語彙とアーレントが用いる言葉の意味は、かなり隔たりがあり、率直に言って、アーレントの思想に多少なじみがなければ、ほとんど意味はくみ取れないのではないか。
言い過ぎかもしれないが、宇野氏の文章自体アーレントの文の切り貼りで構成されているだけの印象があり、全体的には”So what ?”である。
管見では、解釈そのものに疑義が差しはさまれる部分もある。
これを高校生に読ませるのは酷だし、むしろ、問題作成者の意気込みは評価できるとしても、これでは入試特有のテクニカルな解き方に終始してしまい、せっかくの高校生に政治と嘘の問題を考えさせようという意図(模試ごときにそんな意図はないのだろうか?)も台無しにならないだろうか。
それはともかく、今回の企画は「コレ、高校生と一緒に読めないか」という富良謝さんの問いかけから始まったものだ。
残念ながら「高校生と」という企画ではないけれど、とりあえず大人たちの間でこの議論をしてみようというのが今回のチャレンジだったのでした。


会の冒頭、富良謝から宇野氏のテキストをめぐって富良謝から問題提起が行われる。
大きく分ければ、「「嘘が積み重なるとは?」、「嘘を積み重ねることで現実の方向感覚が失われるとはどういうことか?」という点についての問題提起がなされた。
後半の議論を先取りして言えば、この方向感覚の喪失は、元大手メディアに勤めていいた経験を持つ参加者から、もはや報道の内実そのものに信頼がおけないような事態にあり、政治の基盤である「事実」そのものが崩壊しているとの意見が出された。
ウソ、という以前に事実そのものが確定できない現実に、我々が生きているとすれば、もはやアーレントの問題提起そのものを超越してしまっているのではないか。
発表者二人で打ち合わせをしていた時に議論になったことの一つは、モリカケ問題をはじめ安倍政権がぶち壊したものとは、実はこの「事実そのもの」への信頼感であり、もし誰もこれが「嘘」だと思っていなければずっと「事実」になるのではないか、というものだった。
「嘘もつきとおせば真実になる」という陳腐なもの云いもにわかにリアルになる。


では、実際にアーレントは「政治と嘘」をめぐってどのような論を展開していたのか。
以下、渡部がアーレントのエッセイ「真理と政治」(『過去と未来の間』所収)をまとめたものを中心に記録する。
冒頭、政治と嘘をめぐる昨今の問題を挙げた。
挙げたけれど、記事を選定するのに時間がかかった。
だって、嘘と隠ぺいの政治ばっかりなんだもの。
とりあえず、陸自南スーダン日報隠蔽、森友学園問題文書改ざん、佐川宣寿国会証言拒否、近畿財務局職員自死、杉田水脈「女は嘘をつく」発言を挙げてみた。
しかし、これらの嘘と隠ぺいの政治と、アーレントが論じる「政治と嘘」の問題は同じ水準か、否か。

まずアーレントは「政治と真理」の冒頭で、「嘘は…政治家の取引にとっても必要かつ正当な道具とつねに見なされてきた」ことを認める。
そこから、「欺瞞は権力の本質なのか」、「真理が無力ならば、いったい真理はどのようなリアリティを持つのか」という問題を提起する。

【ポイント1】
「事実の真理が権力の攻撃から生き残るチャンスは、実に微々たるものである」
「事実や出来事はいったん失われれば、理性がいかに努力しても、永遠にそれらを取り戻せないであろう」
アーレントは、「理性の真理」に比べて「事実の真理」の脆弱さを指摘する。すなわち、理性による科学的真理はニュートンやアインシュタインの発見がなかったとしても、人間が理性を用いる限りにおいて、いずれ誰かが発見する可能性が消える心配はない。
これに比べると、事実はいったん廃棄されれば、二度と取り戻すことはできないというのである。
このぞっとするような指摘で思い出すのは、NHKスペシャル「沈黙の村~ユダヤ人虐殺・60年目の真相~」(2002年9月14日)である。このドキュメンタリーは、1941年、ポーランド・イエドバブネ村で起きたユダヤ人集団虐殺。長らくナチスの仕業とされてきた事件が、実は同じ村の住民によるものだという疑惑が浮上、国を挙げての調査が始まり、半世紀も前の重い過去に向き合う村人達の苦悩を描いたものである。
その疑惑のきっかけは、奇跡的に虐殺を生き延びたユダヤ人が残した「殺害は村人がやった」というメモ書きだった。
村内の学校では、ナチスが起こした悲劇として歴史教育もなされていたわけだから、この疑惑は村をひっくり返すほどの衝撃を与える。
政府による調査の結果、村内で起きたユダヤ人虐殺は同じ村に住むポーランド人が起こしたことが判明する。
これは権力によって事実が抹消されたケースではないが、しかし、もしその「メモ」が残されていなければ、その事実の真理はどうなっていただろうか、という恐ろしさを感じずにはいられない。
これほどまでに、事実の真理が生き残るのは微々たるものなのである。

【ポイント2】
「私が考えている事実とは、公に知られているにもかかわらず、それを知っている公衆自身が公然と口にすることを巧みに、またしばしば自発的にタブー視し、実際とは別様に、すなわち秘密であるかのように扱いうる事実である」[p320]
しかし、アーレントが問題化する「事実」とは、単に隠蔽されるような事実ではない。
むしろ、公然の事実であるにもかかわらず、誰もがタブー視し、それがあたかも存在しないかのように扱われる事実である。
それが絶滅収容所の存在であった。
「ヒトラーのドイツやスターリンのロシアにおいてさえも…『異端的な』見解を支持したり口に出すよりも、その存在が決して秘密ではなかった強制収容所や死の収容所について語ることの方が危険であった」[p320]

【ポイント3】
「さらに厄介に思えるのは、歓迎されざる事実の真理が…意見へと姿を変えられてしまうことである」
「意見」とは、「私にはそう思われる」ものであり、これは説得によって変えられるものである。
事実の本性とは「説得」ではなく、「証拠」にもとづくものであろう。
ましてや、個人的見解のように「思われる」ものではありえない。
しかし、この事実はいったん政治の領域に投げ込まれたとたん、「意見」に変質させられてしまう危険性がある。
たとえば、デンマークの放送局DRドキュメンタリー「ユダヤ人虐殺を否定する人々」では、イギリスの歴史家でありホロコースト否定論者のアーヴィングが、「ドイツ人は真理も公正さも剥奪された。…私はこう予言します。ドイツ人は歴史の虚偽に気づき、根拠のない罪悪感から解放されるでしょう」と語る場面がある。
そして、そのアーヴィングの演説を聞いた若者が「彼は正しいかも…ガス室ですか?存在したかどうか怪しい気がします。…彼の話が本当だとしたら、ドイツ人は今までより自信を持つことができます」という感想をもらす。(高橋哲哉『歴史・修正主義』参照)
ホロコーストという事実が否定されることにおいて、存在が「怪しい気がする」という若者の揺らぎは事実への不信がもたらすものであろう。
しかし、ここで注意しなければならないのは、「罪悪感から解放される」や「自信を持つことができる」という価値の問題に重点が置かれていないかということだ。

【ポイント4】
「事実の真理は政治的思考の糧である」[p323]
「事実は意見の糧であり…事実の真理を尊重する限り正当でありうる。事実に関する情報が保証されず事実そのものが争われるようになるならば、意見の自由など茶番である」
ミック・ジャクソン監督の作品映画「否定と肯定」は、この事実をめぐって裁判闘争に展開したアーヴィングとリップシュタットの闘いを描いたものであるが、そのなかにリップシュタットがアーヴィングと議論しないことを挑発されるシーンがある。
アーヴィングは「意見と違うものと戦わないのは真実を知るのが怖いのだ」と、リップシュタットを挑発する。
映画のワンシーンではあるが、ここで事実認定に関する問題に「意見」という言葉が刷り込まれていることは無視できない。
リップシュタットはホロコーストについて「なぜ起きたか」、「どうやって起きたか」については議論するけれど、「なかった」とする相手とは「議論」する気はないという。
議論は意見を戦わせることだ。
しかし、その前提条件となる事実が共有できなければ議論はそもそも成立しない。
このように、アーレントは「事実」が政治という複数の人間領域に投げ込まれるや否や「意見」に変質する危険性を、プラトンがすでに「洞窟の比喩」で指摘していたことを見抜く。真理を語る者は孤独なのである。

【ポイント5】
「嘘を語る者は…真理を語る者よりもはるかに説得力に富む」[p342]
「出来事の顕著な性格の一つ、つまり予期せぬことという要素が丁寧にも消し去られているため、彼(嘘つき)の説明の方が論理的に聞こえるのである」
事実とは何か。
「事実は小説よりも奇なり」という諺が示すように、アーレントは事実が偶然性を本質としているとみる。
それゆえに、事実は人々の理解を得難い面をもつ。
むしろ、嘘を語る者の方が論理的に説明できるというのである。しかも、「(事実の)リアリティも、利益や快楽だけでなく、常識の推論の健全さに事あるごとに逆らう」。
事実は常識に反する一面をもつ。
少なくとも、アーレントが扱おうとする事実の水準はそこにある。
アーレントは『全体主義の起源』第3巻で「忘却の穴」という概念を提示する。
それは、アウシュヴィッツのような絶滅収容所におけるユダヤ人殲滅について、全体主義的な権力者たちは「全体主義の大量犯罪が暴露されること」を「それほど気にしなかった」という。
それは「犯した犯罪の途方もなさそのもののために、犠牲者…よりも、むしろ殺人者…の言葉の方が信じられてしまう、という結果が目に見えているから」である。
常識では理解しえない途方もない巨悪が出来したとき、生存者の証言が「真実であればあるほどますます伝達力を失う」のである。

【ポイント6】
「現代の嘘は、秘密でないどころか実際には誰の目にも明らかな事柄を効果的に取り扱う」[p345]
「イメージはリアリティの完全な代用品を提供すると考えられている。この代用品は現代技術とマスメディアによって、オリジナルが以前そうであった以上に公衆の眼にふれる」
絶滅収容所の存在を、あたかも健全なイメージで写真化したのはナチスの側である。
そして、福島第1原発事故の廃炉や汚染水問題、帰還問題が全く解決のめどがつかない時期に「アンダーコントロール」を主張し、オリンピックを誘致した安倍晋三前首相の行為は、まごうことなくこの事例の一つである。
そして、その問題群を聖火リレースタート地点というイメージで糊塗して「福島の復興」を喧伝する猥褻さは、この指摘のとおりのことである。

【ポイント7】
「伝統的な嘘と現代の嘘との違いは、隠蔽することと破壊することの違いにほぼ等しいであろう」[p343]
伝統的な嘘は敵を欺こうとしただけで、全員を欺こうという意図は持っていなかった。そして、自分自身が虚偽の犠牲になることはなく、自分自身を欺かずに他人を欺くことができた。
それに対して現代的な嘘とは、自らをも欺くような嘘である。
自らも欺かれている場合のみ、真実に似たものがつくり出される。
嘘をつくものが自分自身にも嘘をつくことは可能だろうか?
これはデリダが『嘘の歴史』で議論している問題であるが、ここではそれに触れる余裕はない。
しかし、アーレントはこうもいう。
「嘘を語る者が成功すればするほど、それだけ彼は自分自身の作り話の犠牲者になる」。
そして、嘘を語る者が他人を欺くよりも、自分自身の嘘によって自ら欺かれる場合の方が、なぜ当人にとってばかりか世界にとって都合が悪いのかと問う。
伝統的で冷血な嘘つきはまだ真偽の区別を知っており、他人の目から隠している真理は世界から完全に抹消されずに、真理は彼の内に最後の隠れ家となっているが、この場合、リアリティに加えられた傷は取り返しのつかないものではない。
しかし、自分自身にも嘘をつくものは、その秘密にする事実すらも抹消してしまう。

【ポイント8】
「すべてのものが取り返しのつかなくなる可能性こそ、現代の事実操作から生じてくる危険である。事実の真理を徹底的にかつ全面的に嘘と置き換えることから帰結するのは…、我々が現実の世界において方位を定める感覚…が破壊される事態である」[p350]
我々の現実の方向感覚の破壊。これこそが事実を破壊することで生じる問題である。
そのことによって政治的判断は困難になろう。このことが、今まさに私たちの社会で現実に起きている問題ではないだろうか。

【ポイント9】
「堅固たる点で、事実は権力に優る」[p353]

【ポイント10】
「既成の権力と真正面から対立する場合、無力であり、つねに挫折するにもかかわらず、真理はそれ自身の力を持っている」[p353」
「説得や暴力は真理を破壊しうるが、真理にとって代わることはできない」
 しかし、ここまで事実の真理の脆弱さ、破壊されることで回復不能となる希少性について触れてきたアーレントだが、一転して「事実や出来事が持ち事実性の最も確実なしるしは、堅固たるものとして現れるが、事実のもろさは奇妙にも大いなる復元力に結びついている」と論じる。
楽観的ともいえる、このアーレントの根拠は何だろうか?
確かに冒頭に紹介した「沈黙の村」では、奇跡的に逃れたユダヤ人のメモが見つかった。
アーレントはこのように、事実の真理を完全には殲滅できないある種の堅固さが備わるという。
「イメージは事実の真理に対して、一時的に優位に立つが、しかし、イメージは安定性の点で…端的に存在するものには到底及ばない」[p351]
プロパガンダによる政治的イメージは長持ちしない。
なるほど、そのように私たちは信じたい。真理は最後に勝つ。
映画「A few good men」は、まさにそのカタルシスを解放する。
浦沢直樹の『20世紀少年』もしかり。
しかし、果たしてそのように楽観視できるのはなぜか?
独裁のプロパガンダが70年も継続している国家があることをどのように考えるべきか。
ましてや、そこにおいて現実の方向感覚を失っているとすれば。
それについて、アーレントはこう説明する。
「記録を修正しようとする人は、本当の物語の代用品として自分たちが提供した虚偽を絶えず変更を加えなければならない」
「人間の事柄の領域の内で実際に起きたことはすべて別様でもありえた以上、嘘を語る可能性には際限がない。そしてこの際限のなさが自滅を招く」[p352]
嘘は最後に破綻する。
いかにも日常の道徳的な教えとしても通用しそうな言葉である。
アーレントが事実に見出す堅固への信頼とは何か。

【ポイント11】
「政治の領域はその権力の及ばない人々や制度にかかっている」[p356]
アーレントは、事実の真理は政治の領域、すなわち複数の人々の言論空間に投げ込まれる瞬間、意見に変質するといった。
そうであれば、その事実を担保するためには政治の領域から独立した存在や機関が必須となる。
「真理を語る存在様式に顕著なのは哲学者の孤独、科学者や芸術家の孤立、歴史家や裁判官の公平、現地調査したものや目撃者、報告者の独立である」
「哲学や・芸術家・裁判官などの独りでいる在り方のいずれかが生の様式として選ばれる場合にのみ…それは政治的なものの要求と衝突するのである」
昨今、日本学術会議の推薦を菅首相が拒否したニュースがにぎわっている。
学問の自由への侵害ではない、と嘯く首相をはじめとする政府だが、しかしその内実はこの学問の独立と無関係ではない。
司法権の独立が保証されるゆえんも、ここにある。
それが侵害されれば、くりかえすように我々の現実の方向感覚は喪失する。
もっとも、独裁や全体主義を望む権力者にとってそれは望ましいことなのかもしれないが。

【ポイント12】
「政治の領域は、人間が意のままに変えることのできない事柄によって制限されている」
「我々が自由に行為し、変えうるこの政治の領域が損なわれずに、その自立性を保持し約束を果たすことができるのは、もっぱら政治自身の境界を尊重することによる。概念的には、我々が変えることのできぬものを真理と呼ぶことができる。比喩的には、真理は我々の立つ大地であり、我々の上に広がる天空である」[p360]

【ポイント13】
「リアリティは事実の総体以上のものである」[p357」
事実は、その数を積み上げればリアリティが増すというものではない。
「リアリティはいかにしても確定できるものではない。存在するものを語る人が語るのは常に物語である。この物語の内で個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な何らかの意味を獲得する」。
そこに物語が付与されることが、リアリティの源泉となる。
「事実の真理を語る者が同時に物語作家である限り、事実の真理を語る者はリアリティとの和解を生じさせる」。
では、物語ることが不可能なものにとっては、そのリアリティは手に入れられないものなのだろうか。
事実の希少性、物語ることの不可能性。
そのことはホロコーストという法外な出来事を後にして、なお楽観的に過ぎないだろうか。

「問われているのは存続、存続の持続である」[p310]
「存在するものを進んで証言する人々(真理を語るもの)がいなければ、永続性や存在の持続は考えることさえできないのである」
「真実さとも呼びうるこのあるがままの事物の内容から、判断の能力が生じてくる」[p358]
アーレントがこだわるのは、現実の方向感覚を失うこと以上に、世界の存続である。
事実が失われることは、世界の存続の問題と密接である。
3.11を後にして、なお何もなかったかのようにふるまう日常において、世界の持続とはいかなる意味を持つのか。

ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」

2020-05-02 | 哲学系


【テーマ】ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」
【日 時】2020年5月2日(土)〜5月6日(祝・水)
    20:00~21:30 
  第一夜 アガンベン「感染」

  第二夜 森千香子×小島祥美「感染症と排外主義」

  第三夜 辻元「デジタル教科書は万能か?」
  
【テキスト】雑誌「現代思想」2020年5月号「感染/パンデミック」
【会 場】オンラインzoom
※ 参加ご希望の方はID・パスワードをお知らせしますので、メッセージをお送りください。


外出自粛が要請される鬱々としたGW連夜、コロナウィルスをめぐる「パンデミック」を哲学しませんか?
ゼミなのでテキストを用います。
今回のテキストは雑誌「現代思想」の2020年5月号「感染/パンデミック」や雑誌「世界」の論考(4〜6ページ程度)を読みます。皆さんの経験や考え方を底に重ねて議論しましょう。
参加ご希望の方はzoomのID・パスワードおよびテキストもPDFで送りますので、必ずメッセージを送ってください。
なお、zoomは40分ごとにアクセスが切断されますので、そのたびごとに各自で接続してください。
いちおうGW中の連夜実施する予定ですが、毎日かどうかは不明です。
どのタイミングで参加するのもご自由です。どなたでもご参加いただけます。


ゼミマスター:渡部純

哲学カフェ・〈生まれない権利〉を考える・まとめ

2020-01-14 | 哲学系


ペンとノートを会場に哲学カフェ: <生まれない権利を考える>が開催されました。
17名の参加者に恵まれ、活発な議論が展開されました。

まず、ファシリテーターの方から「生まれない権利」についての説明と、欧米の訴訟事例、そして<生まれない権利>の争点について、
①存在自体が損害になっている(当人にとって)
②苦痛を負って出生させられたこと自体についての損害
③十分な情報を原告の親にあたえていなかったことをもって医師の加害行為とみなす
の3点を挙げた上で、「生まれない権利を認めるべきか?認めないべきか?」
という議論点が提示されました。
以下は、参加者による議論の箇条書きを参考にまとめたものです。


Aさん:ファシリテーターがこの問題を取り上げた動機を教えてほしい。

ファシリテーター:出生前診断における「優生思想」に関心があったが、〈生まれない権利〉は本人自体が訴訟を起こしていることに衝撃を受けた。しかし、この権利は不可能ではないか?いっぽうで、司法で認められ始めている現実と、ベネターの『生まれない方が良かった』を読んで、問題関心が再燃した。

Bさん:当人が訴えているが、これは死ぬことができる権利でもあるのか?

Cさん:イコールではないと思う。死ぬ権利は安楽死、自殺の権利であって〈生まれない権利〉とは異なる。

Dさん:「生まれる/生まれない」は本人が選択できない点において、自殺の権利とは異なる。生まれたしまった後で、生まれない権利を主張するのは矛盾している。

Cさん:「生まれてしまった」という権利のこと。

Eさん:遡れないことに対して保障できるのか?「権利」と呼んでいいのか。仏教によればこの世は苦しみに満ちている。かといって、急いで死ぬことではないという思想。良くない状態で生まれる、というのはありがちなことではないか。

Fさん:「権利」にひっかかる。自分の生を否定する=つらい、痛いことをネガティブに捉えられてしまうことの問題では。「権利」という言葉を使わざるを得ないことの社会的な問題であり、そう思う必要のない社会であればよい。

ファシリテーター:「障害を苦として言われないような社会を作りましょう」というのはよく言われまていますね。

Gさん:訴訟して、何をほしかった??お金で解決なんですかね?

Cさん:損害を償って欲しい。責任をとって欲しい。「請求できる権利」がある。「中絶」もできるはずなのに!なんで僕は生まれてしまったんだ・・・という訴え。

Gさん:医療費に関わる訴訟?惨めな生に対する訴訟?

Dさん:そもそも「訴える権利」ということは、「苦しみ」を周りの人に認めて欲しいのか?

ファシリテーター:生まれる・生まれないは自己決定できることではないのに、権利を主張できるのか?

Hさん:自己決定はできないけど、親がやるべき「中絶」をさせなかった。親の責任が問われる??

ファシリテーター:確かに親を訴えるケースも可能性としては生じてくる。インドでは「生まれたことに同意していない」訴訟が起きている。・・・訴えられたらどうしますか??

Eさん:めんどくせえ…って感じ。

Fさん:スピリチュアルでは、子供は完璧な計画のもとに、完璧な親を選ぶ。

ファシリテーター:その仮説によれば 「自己責任」という話になりますね(笑)

Iさん:生まれる前には当人には分からないはず。そう考えるに至った流れも問題では?ー環境、親、教育…どこまで、本人は本気なのかが、読み切れない。お金のため?

Jさん:生まれた時点では、そのような思考になっていないはず。「生まれる・生まれない」ではなく、ちゃんとした教育を受けられなかった問題

ファシリテーター:結果的に自分が問題ということになりますね

Kさん:生の価値、生きていることの価値・無価値をどう捉えるのか?現代社会の歪み。生に対して上下をつける考え方が出てきているのでは?

ファシリテーター:本人は「生きるに値しない」と言っている。であれば、この権利を主張していい?

Fさん:裁判をおこした、という意味では周囲にとって価値ある命なのではないか。

Dさん:ちょっと間違えると相模原事件につながる。

ファシリテーター:たしかに相模原事件は優生思想の投影だったけれど、あれは植松被告という他者が障害者に対して『生きるに値しない生』と価値づけた事件。しかし、〈生まれない権利〉は当人が自らの生を「生きるに値しない生」と価値づけてしまっている点が大きな違い。これを当人が認めてしまうと、相模原事件を批判する境界が崩れていってしまう恐れはないか。障害者本人が自らを生きるに値しないというなら、権利として認めるべきか?

Gさん:なぜ主張したいんだろう?承認?福利、福祉は得なければいけないけど。

ファシリテーター:「生まれない権利=死ぬ権利」ではない。そもそも、溯って「生まれたこと」をなかったことにするわけにはいかないけれど、「生まれてしまったこと」への苦痛を訴えている。これは持続する生きるに値しない生への苦痛を訴えるものであって、だからといって「死ぬこと」を求めているわけではない。

Eさん:関係者に謝って欲しいだけ?

ファシリテーター:何に対して謝って欲しいのか?

Gさん:謝って欲しいのは傲慢ではないか?生きたくないけど、死にたくない。金を得て何がしたいの?ひっかかるのは、「生」を生きたくない、ということなのか?

ファシリテーター:生きたくないけど、死にたいというわけではない。

Gさん:お金って現世のものじゃないですか。どう使いたいのか。     

Cさん:あくまでも、生きている現実の訴え。自分は「不幸」である、と言いたい。

Aさん:<生まれない権利>の裁判の妥当性は?訴えられるのは親?医者?行政?どういう点が「不幸」だから訴えたいのか。国によって、権利の捉え方が違う。
   
ファシリテーター:もともとは<生まれない権利>という裁判ではなかった。医師の判断ミスに対する医療過誤事件の訴訟。。

Kさん:生命に対して、どこまで人は介入できるのか。中絶はしていい??現在はさらにひどくなっている。

Aさん:生まれることを否定することで、存在を認めて欲しい。要は「生きたい」。 YesーNoでは括れない。「無」な状態。

Cさん:アイデンティティの一部として「生まれない方がよかった」と。

Fさん:障害があるとしても、そこには親の「産みたい権利」・「産む権利」・「産まない権利」の3種類がある。

ファシリテーター:河合香織の『選べなかった生命』ではロングフルバース訴訟の原告母親が、「出生前診断で障害がわかっていれば中絶していた」問う訴状文面を「中絶の蓋然性が高かった」に訂正した。そこには「中絶した」と言い切れないけど、たしかにある状態=<中動態>的なものがあるのでは。

Cさん:当人は、まだ何も定められていない。

ファシリテーター:自分の生を「生きるに値しない」と、自分が判断する。

Eさん;主張するということは、本人だけの問題には止まらない。優生思想になりかねない、そのむずむずするところが法的問題とは別に気になる。

Cさん:障害者団体は反対するでしょう。

Dさん;何を得ようとしているのか。承認?選択の不自由?選択する権利を奪われた権利?

ファシリテーター:こだわりたいのは、胎児の選択権はあるのか?という点。

Eさん:選んだのは他者、引き受けたのは自分。このムカつき。

Jさん:生まれない権利として、すべての人間に認めることになる。誰でも訴えられることになるし、誰を訴える?

Aさん:〈生まれない権利〉は寅さん流に言うと「それをいっちゃおしまいよ」という問題じゃないか。

Mさん:障害を知りたいか、知りたくないかの別は難しい。はっきりした障害でなければ、分からない。同じような人が診断なしに生まれないように、他者に承認させるため。

ファシリテーター:〈生まれない権利〉は出生前診断を受けた上での問題ではある。

Nさん:海外によっては、障害だから、という理由だけで施設に閉じ込められることもある。障害者が権利を主張することは必要だろう。

Fさん:権利を主張するのは、社会に対して。スピリチュアルで、障害の人は強い魂をもつ。人間が生まれてくるのは、世界をより良くしていくため。肩書きをもって生まれる。

Cさん:障害に対して、世の中はまだ対応し切れていない。つらい人生を歩いているから、権利を主張している。似ているのは、人道の罪のように後から価値づけられていっている。「生まれない権利」というのも、振り返った中で言われている。

ファシリテーター:障害が切実ならば、それでもこの権利を認めるべきなのか?

Dさん:あくまで裁判上の権利。社会の中で、権利としては認められない。

ファシリテーター:医療過誤の問題から派生して、障害者自身が自分の生を否定する問題になってしまっている。いっぽうで、それを否定しにくいのはなぜなのか?欧米では訴訟で「権利」として認められていることの問題をどう考えるべきか。

Dさん:権利と言ってはいけない。主張していいけども、そもそも権利なのか??

Gさん:その昔、Eさんが「自分の人生を引き受け直す」ということを言っていたことを思い出した。「権利」として認めるべきではない。自分の生をどうにもできる、という考えが傲慢だと思う。

Eさん:イノセンスの主張。「おれのせいじゃない!」からこそ、引き受ける!ということがあるのではないか、ということを言った覚えがある。自分の責任ではないがゆえに、引き受けられる。〈生まれること〉には自分の責任はない、「おれのせいじゃない」。そうであるがゆえに、その生を引き受ける責任があるのではないかな、ということ。この論理はあり得なくはないのでは。

Oさん:本人が訴えられないほどの障害だとどうなのか。自分の生の判断能力がない場合、この権利はどうなる?彼らに訴える“権利”はあるのか?

Dさん:これは「いつから人間なのか」という話になる。

ファシリテーター:加藤秀一は「〈生まれない権利〉の「騙り」の危険性を射て聞いている。他者が本人のあるいは「そうであったかもしれない」可能性の存在の代弁をすることの危険性を指摘している。これは別の障害者の「騙り」につながるのでは?「可能性」だったものに「権利」を認める危険性のこと。

ファシリテーター:皆さんは「自分に責任はないがゆうえに引き受けることができる」という理論にはガッテンしますか??資料には地球温暖化をはじめ、危険な将来の世界で「子供を産みません」と主張するカナダの女子高生の記事を載せてある。そんな主張をする彼女にとって、「自分の責任ではないが故に引き受けること」は何を意味するか?

Eさん:「しゃらくさいことを言う権利」としての、「生まれない権利」。むしろ認めていこう!!ということじゃないの。

Oさん:文句を言えない、という現代社会の問題。

Gさん;今までの「しょうがない」と受け入れてきたのは、他人の人生であって、いったんは否定するけれども、そのあとで引き受けるとうことなんじゃないかな。つまり「人生を立てる」ということが、すなわち「自分に責任はないがゆえにこの制を引き受けることができる」ということじゃないか。

ファシリテーター:訴えて何が欲しかったか、というと、訴えることで「自己を立てる」ということか。

Cさん:すると、この理論は訴えることができない人に対しても、そういう権利があるんだな、と見ることにならないか?

ファシリテーター:いや、それは「騙り」ながら、他者の生を私有化するという危険性があるでしょ。

Eさん:「いったん訴えてみっかぁ!!」という文化

Cさん:アメリカにおける訴訟技術というという事情が大きく反映しているんじゃないかな。

Kさん:自分の責任の中に、他者の責任が含まれている事情がある。他者と自分は分けられるのか?という問題があるのでは。

Pさん:障害者のなかに、当事者の中に「優生思想」がある面白さ。中途失明の人間にとって差別を受ける苦しさ、差別を内面化してしまうことがある。「自分の責任ではないがゆえに葛藤の中で引き受けていく」ということは、 責任が自分ではないことを確認することでもあるが、さらに選択を迫られてしまう。けっきょく、人間は他者が用意してくれるものを待ち続けていかないといけないのか?と。

Kさん:様々な人の「属性」、しかし、アイデンティティに注意する必要がある。人の多面性・多様性を削ぎ落とすことになっている危険性に注意しなければいけない。

國分功一郎×互盛央『いつもそばに本があった』を読む会・まとめ

2019-06-23 | 哲学系

(カフェマスター島貫さんによる手書きのレジュメ)

どこからまとめを書こうかと迷ったけれど、書き手の特権としてまず僕の感想から書き始めてみよう。
國分さんも互さんと僕は完全に同世代、というかほとんど同い年。
72年生まれの互さんと74年生まれの國分さんとの間の73年に僕は生まれた。
ということは、この本に書かれた時代背景の感触はほとんど共感できた(つもりだ)。
お二人の問題関心も読んだ本も決して重なりはしないが、言葉にするのは難しいけれど、ざらっとした彼らの問いの根底にあるものは肌感覚としてわかる(と思っている)。
國分さんは柄谷との出会いから話を始めるけれど、カントに熱中していた柄谷の姿は当時の僕にとってもまぶしかった(その感じがわかる)。
正直に言えば、僕にとってカントは柄谷から教えてもらったものだと思っている。幸か不幸か。
カントとマルクスがその時期の柄谷にとって重要な意味をもっていたことは、著作はもちろんだけれどNAMという社会運動に向かい、そして瓦解するところまでよく覚えている。
そして、NAMにむかったところで急激に柄谷に冷めて読まなくなったことも。
それはそれとして、柄谷に向かったのは、それこそ「すべては幻想だ」という時代的雰囲気や言説にいったん共鳴しつつも、それが思考停止であることに不満を抱いていたことと関係する気がする。
「国家なんて所詮共同幻想じゃない」というフレーズをわけもわからず口にしていた自分が、今となっては赤面するけれど、それはいわゆる「新しい歴史教科書をつくる会」の登場とパラレルだった気がする。
歴史学ゼミの同級生相手に歴史なんて物語だ、なんて嘯いて議論していたのは、どこか冷戦体制崩壊前の枠組みに対するニヒリスティックな気分がそうさせていたのだと思う。
けれど、その気分が僕を柄谷に向かわせたのはむしろ「他者」という問題だった。
「他者なんて理解しえない存在だ」という言説も同様に思考停止を言い表す言説だ。
それはその通りだけれど、そこで終わることにもまたモヤモヤは残る。
そこで出会った『探求Ⅰ・Ⅱ』に刮目させられた。教員採用試験を終えた磐越西線の列車のなかでのことだった。
そこから柄谷にはまった。
この会でも話題になったけれど『日本近代文学の起源』なんて、もう興奮して読んだ。
それで「幻想を幻想と名指して満足していた」うさん臭さが払しょくされたわけではないけれど、こうして本を書いていいのだ、読んでいいのだ、思考をはたらかせていいのだ、ということを教えてもらったのが柄谷だったのだ。
本書で紹介される本と(拙い)僕の読書遍歴はそれほど重ならない、にもかかわらずこの本を読んでいると思わずうなずきながら「そうそう」と一気に読めてしまうのは、同世代の特権なのかもしれない。



けれど、島貫さん世代にとっての柄谷はそれ以上のインパクトがあったらしい。
島貫さんとは父と子ほどの年齢の差があるけれど、彼が大学入学して受けた洗礼は、まさに主体や神の死をつきつけられて先輩にいじめられて、じゃ新興宗教かということにしか出口を見出せない輩がいた時代。
東京ではすでに終わったとされた浅田や柄谷や中上なんて知的ブームに憧憬をもちながら、それでも「じゃ、なんでそんなの読んでたのかといわれれば、世界を知りたかった、解釈したかった。なんでって言われれば、やっぱりはやりだったからなぁ」と島貫さんは言う。
世代は異なれど、その主体や神、あるいはマルクス主義にもとづく「大きな物語」が瓦解したあとの、それでもなお「世界を知りたい」という渇望に取りつかれる感覚はよくわかる。
僕の学生時代において、最も衝撃的だったのは「オウム真理教事件」だった。
クソッタレな受験勉強から解放されて、やっと本当の勉強ができるという解放感とは裏腹に、バブル崩壊と同時に入学した大学には、その浮かれ気分の残余しかなかった。生きる意味や世界とは何かを知りたいと語ると寄ってくるのは新興宗教信者の先輩ばかりだった。
まじめに世界を語ろうとする学生の居場所なんて、これっぽちもなかった。
だからオウムへ行った若者の気分はよく理解できるのだ。もしかしたら自分もそっちに行っていたかもしれない。そんなクソな時代だった。
それを救ってくれたのは、学生時代に世の中のことや社会のことを語ろうという場を立ち上げた先輩たちの存在だ。
恥ずかしい話だけれど、その出会い以前の読書なんて恥ずかしくて言えないものばかりだった。
それが読むことへ向かわせたのは、彼らとの議論があったればこそだった。
西部邁や橋爪大三郎、竹田青嗣、サルトルを勧めてくれた先輩は、「思想ってなんだよ」と思っていた初学者にとってよい読書案内人だった。
よかったのは、その先輩と真逆の思想をもつ先輩がいたことだ。
その先輩にはハーバーマスやメルッチとか、左派の民主主義理論を教えてもらった。
(実は、この先輩は後年、教育社会学研究者として高崎経済大学に就職し、國分さんと同僚になる。「おれ、國分さんとけっこう仲いいぞ」なんて、話を指導教官の退官祝いのときに語ってくれたものだ。)
いずれにせよ、この大学3年次に得た、いまでいう「公共性」の経験は僕の人生にとって大きな方向性を固めるものだった。
なにより、その後大学院でアーレントへ向かわせたのはこの公共性経験に他ならない。


(カフェ&文具のお店「ペンとノート」での初開催)

一方、ソシュールや言語から入った互さんの紹介する本はなおさら僕の読書経験とほとんど重ならない、けれど、互さんの言葉はものすごく響く。
「テクストを読むこと、本を読むこととは、「どう生きるか?」を問うことであり、それを問うための適切な問いを発見し、立てることである」なんて、まさに「ザッツライト!」と深くうなずいた。
僕にとってそれは小説もその対象に入る。
この会ではなぜ本を読むかということについて、おもしろい意見が色々出された。
そのなかで印象深かったのは、歴史を専門とする参加者からの発言だった。
彼は、基本的に知識を得るための本を読むけれど、震災の後に、これじゃ駄目だなと思っていたとき、『世界史との対話』という本に衝撃を受け、「こんな本を書けるんだ」と思うと同時に、その人に会いに行かずにはいられなかったという経験を語ってくれた。
彼によれば、本が知識を得るための物じゃなくて、作者に会いに行く対象になった経験なのだという。
これにもうなずける。
その点で言えば、20代の僕にとって最も衝撃を与えてもらった高橋哲哉先生の『記憶のエチカ』なんて、完全にそう。
朝日カルチャーセンターに何度も足を運び、東大の学会にまで行き、むさぼるように著者の本を読みまくっていたものだった。
それが高じて結局は弟子入りしてしまったのだが。

会では「なぜ若者は本を読まなくなったのか?」という問いが投げかけられたけれど、「本を読めば知識を得られる」とかシンプルに読書は楽しいという程度では、若者に限らず誰も読書に向かおうとはしないのではないか。
それこそその著者に合わずにはいられなくなるとか、ある意味で「転回」を迫られるような経験があったればこそ読書に迎えるという、歴史専門の彼の言葉はなかなか含蓄がある。
では、読書好きは皆そんな経験をしているのだろうか。
アメリカで育ったという別の参加者は「サルトルなんかは悶々としている高校生時代には刺激があっていいなと思ったけど、最近いいなと思ったのは石牟礼の『苦海浄土』。ことばの流れやリズムが心地いい。あれは水俣事件のドキュメントではなく、まさに詩だと思う」と語ってくれた。
その文体の独特のリズムで読むことの快楽もまた読書の楽しみの一つであることは疑いない。
けれど、そのリズムってそれぞれに違うのかな。
僕は『苦海浄土』は名著だし、自分にとって大切な一冊であることは間違いないけれど、実はあの水俣ことばに躓きながらなかなか読み進めるのが難しかったという覚えがある。
東北人だからか?という疑問も上がったけれど、詩的なリズムやテンポっておもしろい。

本を読まない妹と何が違ったのか、という観点から読書経験を語ってくれた参加者もいた(その妹さんもこの会に参加しているのだが)。
幼稚園に通っていた、あるときピアノの横に童話がある本棚はあって、それを片っ端から読み始めたとき、「おもしろい、おもしろい、おもしろい」という経験が最初の読書体験でそれ以来、一度その本にはまるとその人のことを知りたくなり、どんどん広がりを持って読み進めていくようになったという。

本を繋げて読んでいくという点では、別の参加者が「ブックマップ」から本を読み進めていくということを教えてくれた。
たとえば、「松岡正剛が進める365冊」の星がついている本を片っ端から読んでいくと、つながりのあるほんと本との関係性が見えておもしろいのだというのだ。
たしかにこの方法はおもしろそうだ。思いつきの読書しかしない僕にとっては挑戦してみてもいいと一瞬思う。
けれど、たぶん、やっぱりこの方法は自分にはできないなと思い直す。
彼のように全方向的に読書に関心をもてる卓抜した力には、残念ながら僕にはない。系統性は魅力的だけれど、やっぱり「これは!」と手に取る魅力がその本にないと触手が動かなのだ。

今回の会は「理系」の方に肩身の狭い思いをさせたかもしれない。
後半は人文系「オタク」に近い参加者の小説話に花が咲いた。
僕の知らない昨夏の名前もバンバン出てきた。
やっぱり、小説系の話はなかなかついていけない。
そのなかでも共通項になるのは、やっぱり村上春樹。
好き嫌いが分かれるという話題が出されつつ、「嫌い」という人たちの多くが「結局何が言いたいわけ?」ということに収斂されるらしい。
村上春樹の小説にそんなこと求めるなよ、と参加者の多くは言う。
読んでいる間に、疾走感とともに楽しむのが村上春樹。これはとてもよくわかる。
そんななか、なんで本を読むのという問いが蒸し返される。
と、「おお、ここにあったか!」という経験を語ってくれた。
これを聴きながら、いろいろ考え込んでしまった。
というのも、「ここにあったか!」という経験の前提には、何かを探しているという思いというか問いがないと成り立たない。
いや、そう明確にその問いがあるわけでもない気がする。
ふと、「ここにあったか!」という出会いと同時に自分が探していた「問い」が見つかるというのが実際なのではないか。
すると、いったい触手が動く本とは何だろうか。
そもそも読んでもいないのに探してるものがあるかどうかすらわからない。
いったい本を読むとは何だ。
これが、この本(『いつもそばには本があった。』)の「あとがき」で國分さんが書いている「メノン」のパラドクスなのだろう。

この本は実に多くの「読む」ことの意味を教えてもらえる。
70代の参加者は「僕らが気にしていたいつもそばに置く本は、これ以前までの本だった。仕事にかまけて読む間もなくなったとき、横目で気にしていた書籍ばかりが本書には並んでいる。そんななか、41頁の「この享楽に耽る~」を読んだときに、一番大事なものがすっぽり抜け落ちているということに気づいた。そして、ふと思ったらその先を読み進められなくなった。島貫さんの解説にあったように、まだ気づいてさえいないような部分を辿れるんだなぁと読んだものでした」。
その一方で、「正直、この本に出てくる本は読んだことがない。そういう本があるというのはわかっているけれど、いったい誰が読むんだろうと思っていた。逆に上の世代はこれを読むのが普通という文化はあったのか?」という問いも出された。
さらには、「この本に出てくる本を一ミリも読んだこともない。嫌いとかではなく、別の世界の人たちという印象がある」という感想も出された。
そうなのだ。
この本は人文系知識人のスノッブな感じを前面に出した嫌味な感じも否めないのだ。
市井の人にとってはもっと村上春樹とか宮部みゆきとか東野圭吾とか、そのあたりから書かないのかよという感想をもってしまうのだ。
ま、それを言っちゃあおしめぇなのだが、それでも同時代人と一緒に何か読んだものを共有できる感が失われているのが、僕らの世代だとすれば、その微かな糸のようなものをつないだ本なのではないだろうか。
期せずして、世代を超えて集った12名による読書論が成立したのも、この本があったればこそ成立したのだから。

最後に一つだけ気になったことを書きそえておく。
二人が触れない領域はどのように位置づけられてきたのだろうという疑問だ。
たとえば、本書にはジェンダーやフェミニズムの話は一つも出てこない。
関心がないわけではないと思うが、これはけっこう奇異に感じた。
自分たちの物語に位置づけられない「本」、「いつもそばになかった本」の話を聞いてみたいなと思った。
(文:渡部 純)