カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

第6回高校生哲学対話サークル「神はいるか?」

2025-03-21 | 哲学系


高校生哲学対話サークルの主宰でこのようなイベントがあります。
今回のテーマは「神はいるか?」です。
提題者は桜の聖母学院高校の河合みなみさんです。
ゲストに日本基督教団白河教会の竹迫之氏をお招きしての開催となります。
高校生限定のイベントですが、まわりに関心がありそうな高校生が居ましたら、ぜひお声かけ下さい。


《テーマ》「神はいるか」
《提題者》 河井みなみ さん(桜の聖母学院高校)
《ゲスト》 竹迫 之 牧師(日本基督教団白河教会)

1967年、秋田県生まれ。東北学院大学文学部キリスト教学科卒業後、日本基督教団の牧師となる。浪岡伝道所(青森)、八甲田伝道所(同)を経て、2002年より福島県の白河教会牧師。宮城学院女子大学、東北学院大学非常勤講師(宗教科)。社会福祉法人堀川愛生園理事。女性用ケアハウス「LETS仙台」顧問。カルト脱会者のアフターケア施設「いのちの家LETS」顧問。日本脱カルト協会理事。日本基督教団カルト問題連絡会世話人。
《開催日時》 2025年3月23日(日) 15時~17時 ※14:30より入室できます。
《会 場》  ペントノート(文化堂)4階セミナールーム(福島市上町2-2)
《参加料》 高校生無料 ※高校生は飲料代も無料です。4階セミナールームへ直接お越しください。
《参加申込》以下の連絡先のメルアドへ氏名・学校名を書いてお申し込みください。
koukouseitetsugakutaiwa@gmail.com


《テーマ設定の理由:河井みなみ》
私は神を信じます。
 ですが、七福神でもなく、卑弥呼様でもイエス様でもありません。神とは擬人化されたのもではなく、自然であり、時間だと思います。このことについて私の意見と皆さんの考えについて深めていきたいと思いました。
 まず、私が神が自然だという意見にたどり着いた経緯についてお話させていただきます。
多くの日本人は、神を信じるかどうかは別として、神頼みをすることがあるのではないでしょうか。古来より人知を超えた現象は神によるものとされてきました。しかし科学の発展により説明のつかない現象も理論的に解明できるようになり、神は宗教が生み出した幻想だと考える人も現れました。
 そこで私は20世紀を代表する科学者、アルベルト・アインシュタインは神をどう考えていたのでしょうか。
アインシュタインの電報や手紙には「神という言葉は私にとって無意味だ」「神は人間の弱さから生まれたものだ」といった神を否定する言葉が記されています。そのためキリスト教の間では彼が無神論者だと考えられてきました。しかし、アインシュタインの伝記には「私は無神論者ではない」という言葉が残されています。アインシュタインが生まれた当時のドイツでは小学校でキリスト教の授業が必須だったため、幼い頃からキリスト教や聖書に触れる機会が多く、聖書の言葉に感銘をうけ、熱心に神を信じていたそうです。ある日、科学雑誌でダーウィンの進化論を読み、人間が猿から進化したという事実に衝撃を受けたそうです。なぜなら聖書の一節には「主たる神は土の塵で人を形作った」と記されており、進化論とは全く異なる内容だったからです。
 このことから彼はどんな言葉も盲目的に信じるべきではないと語っていました。アインシュタインが結局信じていたのは、ヨーロッパで一般的に信仰されているような人格神ではなく、世界の構造そのものだったと考えられます。人間が操る事ができない自然法則そのものが崇拝すべき対象であり、科学的心理と宗教的心理を融合させた、合理的で普遍的な神を信じていたのです。
 このことから私は、生きる意味や目的を教える宗教は人間にとって必要だが、理性に基づかない科学を無視した信仰は有害であると感じました。しかし日本は八百万の神の信仰があります。自然の中に神々が宿るという考え方が古くから根付いており、崇拝されてきました。そのような意外な共通点を見つけることができ、神について強く興味を持ちました。私は神は自然だと結論付けましたが、神についての疑問や、偏見など多角的な視点で考えたいと思い、哲学対話で話をあげさせてもらいました。
神について論議し合いませんか?



《高校生哲学対話サークル世話人》
久保 文(桜の聖母学院高校教諭) 佐藤篤志(原町高校教諭) 佐藤伸郎(福島東高校教諭) 
髙橋洋充(福島東高校教諭) 林 裕文(ふたば未来学園高校教諭) 富良謝和信(福島高校教諭)
渡部 純(福島東高校教諭)

映画『哲学への権利』を語る会

2025-01-14 | 哲学系


《 開催日時 》 2025年5月17日(土)15:00~18:00(予定) 
《会 場》 フォーラム福島(福島市曽根田町7-8)
《参加費》 各自で映画観賞券をご購入して下さい。 
《ゲスト》 西山雄二 監督(東京都立大学教授・フランス現代思想)
《カフェ・マスター》渡部 純


少し先の話になりますが、フォーラム福島とコラボする西山雄二監督作品『哲学への権利』の上映会&言論カフェの開催予定を告知します。
この映画は、フランスの現代思想家ジャック・デリダの構想をもとに、1983年にフランス政府の経済的支援を受けて、パリに創設された研究・教育機関「国際哲学コレージュ」を取材したドキュメンタリー映画です。
「国際哲学コレージュ」は「フランスにおける哲学教育のあり方を再考し、制度的な権威(大学)から哲学を開放すること」(ウィキペディア)を目的としており、その特色は、雑多な出自の教師による構成で、大学教員に限らず、高校教師や作家、芸術家、精神分析家、技術者など、さまざまな分野の専門家が教鞭をとっているという点です。
学生は、大学生に限らず一般市民に広く開かれ、かつ入場無料。教師は無償で講義します。
けれど、提供されるプログラムは斬新かつ学問水準は大学と同程度。「カルチャーセンターのようなものかと言えば、そういった消費的な場ではない。アカデミズムと在野の狭間に生まれる両義的な場」ということです(西山雄二『哲学への権利』参照)。
この上映会を企画した背景には次のような経緯があります。
昨年末に地元の福島大学が教員養成学部を復活させると同時に、理系重視の方針を示しながら、音楽・美術等のいわゆる技能教科教育の講座を廃止する旨が報道されました。
地方国公立大学の経営や研究環境が厳しい状況にあることは周知のこととはいえ、こうした大学の動きに対する失望感が周囲に広がっています。
こうした潮流は人文学冬の時代と軌を一にしていると思われますが、引いては人文学そのものに触れる機会が地方から失われていくのではないか。
果たして、そこで学問の自由はどこまで保障されるのか。
もはや、人文知は「大学」という制度外で模索するしかないのではないか。
そんな思いを友人たちと話し合っていた過程で、『哲学への権利』の上映会の企画案が浮上しました。
上映会当日は監督である西山雄二さん(東京都立大学教授・フランス現代思想)をゲストにお招きして、言論カフェの時間をたっぷり設けます。
お楽しみに。(渡部 純)

【高校生哲学対話サークル・キックオフイベント】映画「ぼくたちの哲学教室」から考える哲学対話

2023-07-20 | 哲学系

《日時》2023年7月29日(土)13:00~16:30
《場所》フォーラム福島(福島市曽根田町6-4) 
《哲学対話イベントへの参加について》
申し込み不要です。高校生に限らずどなたでも参加できます。
ただし、前半は高校生主体の対話とさせていただきます。 参加費:映画観賞券 高校生¥1,000 
《タイムテーブル》
映画上映 13:00~14:50  
高校生哲学対話 15:00~16:30
大人の哲学対話 17:00~19:00
《発起人》佐藤伸郎  髙橋洋充  渡部 純(福島東高校教員) 林 裕文(ふたば未来学園高校教員)
《お問い合わせ先》  渡部 純 wajun1973@yahoo.co.jp


《開催にあたって》
 わたしの身体はわたしのものなの?
 わたしが見ているものとあなたが見ているものは同じものなの?
 夢と現実は区別できるの?
 わたしたちは子どもの頃に「不思議だなぁ」と思う数々の疑問を抱いていましたが、いつの間にか目の前の仕事や勉強に忙殺されて、それらをなかったことにして生活しています。まるで、それが「大人」になることであるかのように。けれど、人間は一度心に芽生えた答えのなかなか見つからない問いを忘れることはできません。哲学対話はそんな根本的な問いを誰かと一緒に語り合おうという活動です。
 今回のイベントのきっかけは桜の聖母学院高校インターアクト部の投げかけから始まりました。ふだん、接することの少ない他校の高校生たちと哲学対話をしてみよう。さらに、その言葉をフォーラム福島支配人・阿部泰宏さんに投げかけたところ、「うってつけの映画作品がある!それを観た後に映画館で哲学対話をしよう!」とのお返事をいただき、企画がトントン拍子で進みました。
 その映画作品がナーサ・ニ・キアナンとデクラン・マッグラ監督作「ぼくたちの哲学教室」です。本作品は北アイルランド、ベルファストの男子小学校で実施されている哲学の授業を2年間にわたって記録したドキュメンタリーです。その授業実践の背景には北アイルランドの宗教紛争が影を落としていますが、まさに社会的な問題を哲学的に考えることを通じて未来を築こうとするマカリービー校長の挑戦は、原発事故を経験した私たち福島に住むものにとっても希望を感じさせられる作品です。
 さらに、この時間だけでは物足りないという方のために、17:00~19:00に会場を移して「大人の哲学対話」を開催します。会場は決まり次第お知らせします。
 この映画作品を通じて福島の高校生たちの間に哲学対話の文化が広まることを期して「高校生哲学対話サークル」のキックオフとさせていただきます。なお、北アイルランドの領有を巡るイギリスとアイルランドの領土問題について予習しておくと、映画の内容を深く理解することができます。
《ルール》
 〇 他者の意見を否定しない限り、何でも自由に話そう。
 〇 他の人が話している間はその人を見て最後まで聴こう。
 〇 他の人が話してくれたことに反応してあげよう。

沈黙がつながる 東北、福島、西成、北海道

2023-07-15 | 哲学系


日時 7月22日(土) 14:00〜16:30
場所 福島市写真美術館 多目的ホール 
福島市森合町11-36
電話:024-563-4990


緊急告知!
あの、サイレントアイヌ研究の石原真衣さん(北海道大学)と現象学研究の哲学者・村上靖彦さん(大阪大学)をお招きし、フォーラム福島の阿部泰宏支配人と渡部純との座談会を開催いたします。
これまで、この4名は東北・福島・北海道・西成を拠点として、主題である「沈黙」をキーワードに「語りのインターセクショナリティ」研究会でつながりをもってきました。
福島開催はこれで二回目です。
座談会は4名が最近考えていることを雑談風に語ることをしながら、参加者の皆さんのお話を交えていく形を取りたいと思います。
急なイベント告知になりましたが、ご関心のある方はぜひご参加ください。途中参加もありです。
14:00~15:00 座談会
●阿部泰宏 (フォーラム福島支配人)
●石原真衣 (北海道大学教員)
●村上靖彦 (大阪大学教員)
●渡部純 (福島東高校教員)
15:00~16:30
参加者との意見交換会

著者と読む『〈政治〉のこれからとアーレント——分断を克服する「話し合い」の可能性』

2023-01-12 | 哲学系


【テーマ】著者と読む『〈政治〉のこれからとアーレント——分断を克服する「話し合い」の可能性』
【日 時】2023年2月12日(日)13:00~16:00
【ゲスト】佐藤 和夫(千葉大学名誉教授/哲学)。
【会 場】福島市写真美術館多目的ホール
      福島県福島市森合町11−36
【参加申込】メッセージよりご氏名とメールアドレスを記載の上でお申し込み下さい。


「いま、〈政治〉に何ができるのか?
収束なきコロナ禍、恒常的な雇用の不安定化、深まる社会的孤独と孤立感、そして「役に立たない人」を排除する全体主義の影……この「危機の時代」において、求められる〈政治〉とは何か。異なる他者との共生とそれを可能にする「自由な政治空間」の実現のため、60年代学生運動の反省的考察を通じて、今こそハンナ・アーレントの到達点〈活動と話し合い〉の効力を問う」(花伝社)
複数性の時代を迎えるための、渾身のアーレント論を論じた本書の著者である佐藤和夫氏を招いて、この本を通して自由闊達に今の世界とこれからの〈政治〉について語らいましょう!
新型コロナ感染対策のため定員数を設けます。
参加希望の方は、必ずメッセージを主催者にお送り下さい。
主宰者としては、できる限り事前に本書に読んで参加していただくことを望みますが、話を聞いてみたいという方でも参加できます。

●著者紹介●
佐藤 和夫(さとう・かずお)
1948年生まれ、千葉大学名誉教授(哲学)。
著書に『〈政治〉の危機とアーレント』『仕事のくだらなさとの戦い』、『ラディカルに哲学する』シリーズ(大月書店)、訳著にハンナ・アーレント『精神の生活』『政治とは何か』(岩波書店)、『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』、J・ギリガン『男が暴力をふるうのはなぜか』(大月書店)ほか。

●目次●
はじめに
第一章 歴史の「今」と自由の「遺言」
第二章 「私的所有」が保障する思考
第三章 「胃袋の反乱」としての「革命」から「連帯」による「活動」へ
第四章 マルクス思想の出発点としての「私的所有」
第五章「政治的自由」と統治
第六章 二一世紀の「政治」の可能性と「自分らしくいられる」文化の形成
あとがき


【ご案内】「沈黙を残す:オートエスノグラフィックな経験をめぐる対話」

2022-06-24 | 哲学系


直前で恐縮ですが、このたび、渡部が日本質的心理学会研究交流委員会企画「沈黙を残す:オートエスノグラフィックな経験をめぐる対話」へ登壇させていただくことになりましたので、ご案内申し上げます。。

【日 程】2022年6月26日(日)15:00~17:00
【開催方法】対面+Zoomを用いたオンライン形式
      対面:大阪大学人間科学研究科51講義室にて参加
      オンライン:Zoomによるライブ配信に参加
【講 師】石原真衣(北海道大学アイヌ・先住民研究センター)
     渡部純(福島県立福島東高校)
     宮前良平(福山市立大学都市経営学部)
【参 加】会場の都合上、対面での参加は先着30名様に制限いたします。
     会員非会員問わず無料でご参加いただけます。
【お申し込み】上記の日本質的心理学会HPよりお申し込みください。

エクリチュール・オンライン読書会-プラトン『パイドロス』

2021-01-06 | 哲学系

あけましておめでとうございます。
まだまだコロナ過が収まりませんが、本年もオンラインなどを活用して言論カフェを継続していきます。
いつもの対面方式が復活する日を楽しみに。
今回はチャット形式の読書会です。どなたでも参加できます。書き込まなくても読んでいるだけでも大丈夫です。下記のFacebookグループから入れます。

【日時】2021年1月10日(日)19:00~

【課題図書】プラトン『パイドロス』(岩波文庫など)
 

真実そのものの把握なしには真実らしく語ることさえ本来的に不可能であることを立証し,「哲学」の立場から鋭く当時の弁論術を批判したのがこの対話編である。
本書はプラトンの代表作の一つであって,特に『ソクラテスの弁明』をはじめとする前期著作群を『テアイテトス』以降の著作に結びつけてゆく重要な役割を担っている。(岩波書店)

【方法】Facebook上の公開グループ内で行います
今のところFacebookの使用が前提になっています。ご関心のある方は「カフェロゴ・エクリチュール・オンライン読書会-プラトンを読む」グループ内をのぞいてみて下さい。
    
【カフェマスター】深瀬幸一

【エクリチュール読書会とは】

 ここ、福島市もいよいよ「緊急警報」が発令されるなどコロナ禍が深刻さを増しています。
 そのような中でどうしたら言論カフェができるだろうか。
 個人的なことになりますが、ワタクシは他者とのやりとりに介在する対話独特の「息づかい」や「間」が感じられないオンライン読書会や飲み会におもしろみを感じません。画面上に固定化された参加者の「表情」にも違和感がある。少なくとも、それは対話のツールではあっても「場」ではありません。
 しかし逆説的ですが、「パロール(音声)」を前提にするオンライン読書会が、その「場」における他者の「息づかい」や「表情」、「間」を排除せざるを得ないのならば、むしろそれらを前提としないからこそ可能になる言論カフェというものもあるのではないか。それが今回企画した「エクリチュール(書かれたもの)」によるオンライン対話です。
 要はチャット形式の読書会なのですが、そこに期待するものは空間を共有した他者の身体性を抜きに、テキストを媒介とした自分の「読み」と他者の「読み」が織りなすエクリチュールによる「対話」の実現です。テキスト本文と他者の「読み」にじっと目を凝らして読みながら、そこに自分の「読み」を挿入する。
 つけ加えれば、そこには「場」の現在性を共有するリアリティを条件としません。したがって、後からの書き込みが可能であり、しかも究極的には現時点での参加者がこの世から去った後にも、誰かが書き込み続けることは可能です。
 この空間的時間的な条件からも解放されたエクリチュールによる対話は、「音声」によるものとは別の姿を実現するのではないか。
 そんな思いつきから実験的に試みることにしました。
 コロナですることもなくなった年末をお過ごしの皆様、ぜひこの実験に乗っかってみて下さい。

エクリチュール・オンライン読書会-プラトン『メノン』

2020-12-22 | 哲学系

【日時】2020年12月28日(月)19:00~

【開催趣旨】

 ここ、福島市もいよいよ「緊急警報」が発令されるなどコロナ禍が深刻さを増しています。
 そのような中でどうしたら言論カフェができるだろうか。
 個人的なことになりますが、ワタクシは他者とのやりとりに介在する対話独特の「息づかい」や「間」が感じられないオンライン読書会や飲み会におもしろみを感じません。画面上に固定化された参加者の「表情」にも違和感がある。少なくとも、それは対話のツールではあっても「場」ではありません。
 しかし逆説的ですが、「パロール(音声)」を前提にするオンライン読書会が、その「場」における他者の「息づかい」や「表情」、「間」を排除せざるを得ないのならば、むしろそれらを前提としないからこそ可能になる言論カフェというものもあるのではないか。それが今回企画した「エクリチュール(書かれたもの)」によるオンライン対話です。
 要はチャット形式の読書会なのですが、そこに期待するものは空間を共有した他者の身体性を抜きに、テキストを媒介とした自分の「読み」と他者の「読み」が織りなすエクリチュールによる「対話」の実現です。テキスト本文と他者の「読み」にじっと目を凝らして読みながら、そこに自分の「読み」を挿入する。
 つけ加えれば、そこには「場」の現在性を共有するリアリティを条件としません。したがって、後からの書き込みが可能であり、しかも究極的には現時点での参加者がこの世から去った後にも、誰かが書き込み続けることは可能です。
 この空間的時間的な条件からも解放されたエクリチュールによる対話は、「音声」によるものとは別の姿を実現するのではないか。
 そんな思いつきから実験的に試みることにしました。
 コロナですることもなくなった年末をお過ごしの皆様、ぜひこの実験に乗っかってみて下さい。

【課題図書】プラトン『メノン』(岩波文庫、光文社文庫など) 「徳」は人に教えられるのか?
 そもそも、「徳」を自分は知らないし、知っている人に出会ったこともない。
 そんなものを果たして人に教えることなどできるのか?
 ソクラテスはこのような問いをもってメノンと問答を交わします。
 人が徳を知ることは可能か?はたまたそれを他者に教えることは可能なのか?
 ページ数も少なく、プラトン(ソクラテス)入門としてうってつけです。
【方法】Facebook上の公開グループ内で行います      今のところFacebookの使用が前提になっています。ご関心のある方はグループ内をのぞいてみて下さい。                   
【カフェマスター】渡部 純

政治と嘘を考えるーアーレント『真理と政治』を読む・まとめ

2020-10-11 | 哲学系


富良謝と渡部の共同企画「政治と嘘を考える」は、同僚二人の間で交わされた会話がきっかけでした。
去る9月に実施された高校3年生の進研模試・現代文の問題文に用いられたのは宇野邦一『政治的省察 政治の根底にあるもの』でした。
テキストの冒頭はこう書き始められている。
「どうやら政治に嘘はつきものである」。
この文章から察しがつくように、この論考の趣旨は嘘が政治にもたらすものの問題性であり、それが前政権への批判が込められていることは容易にくみ取れる。
そして、この時期に高校生へ向けて発した問題作成者の意気込みにいてもたってもいられなくなったのか、富良謝が鼻息荒くこの問題文を5mほど離れた席から飛んで持ってきてくれた。
一読して、嘘と隠ぺいにまみれた安倍政権への痛烈な批判が込められていること、それを問題文とはいえ高校生に差し向けられたことに素直に感動した。
が、しかし、いくら何でもこの文章は難解すぎる。いや、難解というより意味不明の部分が多すぎる。悪文である。
通常の意味での語彙とアーレントが用いる言葉の意味は、かなり隔たりがあり、率直に言って、アーレントの思想に多少なじみがなければ、ほとんど意味はくみ取れないのではないか。
言い過ぎかもしれないが、宇野氏の文章自体アーレントの文の切り貼りで構成されているだけの印象があり、全体的には”So what ?”である。
管見では、解釈そのものに疑義が差しはさまれる部分もある。
これを高校生に読ませるのは酷だし、むしろ、問題作成者の意気込みは評価できるとしても、これでは入試特有のテクニカルな解き方に終始してしまい、せっかくの高校生に政治と嘘の問題を考えさせようという意図(模試ごときにそんな意図はないのだろうか?)も台無しにならないだろうか。
それはともかく、今回の企画は「コレ、高校生と一緒に読めないか」という富良謝さんの問いかけから始まったものだ。
残念ながら「高校生と」という企画ではないけれど、とりあえず大人たちの間でこの議論をしてみようというのが今回のチャレンジだったのでした。


会の冒頭、富良謝から宇野氏のテキストをめぐって富良謝から問題提起が行われる。
大きく分ければ、「「嘘が積み重なるとは?」、「嘘を積み重ねることで現実の方向感覚が失われるとはどういうことか?」という点についての問題提起がなされた。
後半の議論を先取りして言えば、この方向感覚の喪失は、元大手メディアに勤めていいた経験を持つ参加者から、もはや報道の内実そのものに信頼がおけないような事態にあり、政治の基盤である「事実」そのものが崩壊しているとの意見が出された。
ウソ、という以前に事実そのものが確定できない現実に、我々が生きているとすれば、もはやアーレントの問題提起そのものを超越してしまっているのではないか。
発表者二人で打ち合わせをしていた時に議論になったことの一つは、モリカケ問題をはじめ安倍政権がぶち壊したものとは、実はこの「事実そのもの」への信頼感であり、もし誰もこれが「嘘」だと思っていなければずっと「事実」になるのではないか、というものだった。
「嘘もつきとおせば真実になる」という陳腐なもの云いもにわかにリアルになる。


では、実際にアーレントは「政治と嘘」をめぐってどのような論を展開していたのか。
以下、渡部がアーレントのエッセイ「真理と政治」(『過去と未来の間』所収)をまとめたものを中心に記録する。
冒頭、政治と嘘をめぐる昨今の問題を挙げた。
挙げたけれど、記事を選定するのに時間がかかった。
だって、嘘と隠ぺいの政治ばっかりなんだもの。
とりあえず、陸自南スーダン日報隠蔽、森友学園問題文書改ざん、佐川宣寿国会証言拒否、近畿財務局職員自死、杉田水脈「女は嘘をつく」発言を挙げてみた。
しかし、これらの嘘と隠ぺいの政治と、アーレントが論じる「政治と嘘」の問題は同じ水準か、否か。

まずアーレントは「政治と真理」の冒頭で、「嘘は…政治家の取引にとっても必要かつ正当な道具とつねに見なされてきた」ことを認める。
そこから、「欺瞞は権力の本質なのか」、「真理が無力ならば、いったい真理はどのようなリアリティを持つのか」という問題を提起する。

【ポイント1】
「事実の真理が権力の攻撃から生き残るチャンスは、実に微々たるものである」
「事実や出来事はいったん失われれば、理性がいかに努力しても、永遠にそれらを取り戻せないであろう」
アーレントは、「理性の真理」に比べて「事実の真理」の脆弱さを指摘する。すなわち、理性による科学的真理はニュートンやアインシュタインの発見がなかったとしても、人間が理性を用いる限りにおいて、いずれ誰かが発見する可能性が消える心配はない。
これに比べると、事実はいったん廃棄されれば、二度と取り戻すことはできないというのである。
このぞっとするような指摘で思い出すのは、NHKスペシャル「沈黙の村~ユダヤ人虐殺・60年目の真相~」(2002年9月14日)である。このドキュメンタリーは、1941年、ポーランド・イエドバブネ村で起きたユダヤ人集団虐殺。長らくナチスの仕業とされてきた事件が、実は同じ村の住民によるものだという疑惑が浮上、国を挙げての調査が始まり、半世紀も前の重い過去に向き合う村人達の苦悩を描いたものである。
その疑惑のきっかけは、奇跡的に虐殺を生き延びたユダヤ人が残した「殺害は村人がやった」というメモ書きだった。
村内の学校では、ナチスが起こした悲劇として歴史教育もなされていたわけだから、この疑惑は村をひっくり返すほどの衝撃を与える。
政府による調査の結果、村内で起きたユダヤ人虐殺は同じ村に住むポーランド人が起こしたことが判明する。
これは権力によって事実が抹消されたケースではないが、しかし、もしその「メモ」が残されていなければ、その事実の真理はどうなっていただろうか、という恐ろしさを感じずにはいられない。
これほどまでに、事実の真理が生き残るのは微々たるものなのである。

【ポイント2】
「私が考えている事実とは、公に知られているにもかかわらず、それを知っている公衆自身が公然と口にすることを巧みに、またしばしば自発的にタブー視し、実際とは別様に、すなわち秘密であるかのように扱いうる事実である」[p320]
しかし、アーレントが問題化する「事実」とは、単に隠蔽されるような事実ではない。
むしろ、公然の事実であるにもかかわらず、誰もがタブー視し、それがあたかも存在しないかのように扱われる事実である。
それが絶滅収容所の存在であった。
「ヒトラーのドイツやスターリンのロシアにおいてさえも…『異端的な』見解を支持したり口に出すよりも、その存在が決して秘密ではなかった強制収容所や死の収容所について語ることの方が危険であった」[p320]

【ポイント3】
「さらに厄介に思えるのは、歓迎されざる事実の真理が…意見へと姿を変えられてしまうことである」
「意見」とは、「私にはそう思われる」ものであり、これは説得によって変えられるものである。
事実の本性とは「説得」ではなく、「証拠」にもとづくものであろう。
ましてや、個人的見解のように「思われる」ものではありえない。
しかし、この事実はいったん政治の領域に投げ込まれたとたん、「意見」に変質させられてしまう危険性がある。
たとえば、デンマークの放送局DRドキュメンタリー「ユダヤ人虐殺を否定する人々」では、イギリスの歴史家でありホロコースト否定論者のアーヴィングが、「ドイツ人は真理も公正さも剥奪された。…私はこう予言します。ドイツ人は歴史の虚偽に気づき、根拠のない罪悪感から解放されるでしょう」と語る場面がある。
そして、そのアーヴィングの演説を聞いた若者が「彼は正しいかも…ガス室ですか?存在したかどうか怪しい気がします。…彼の話が本当だとしたら、ドイツ人は今までより自信を持つことができます」という感想をもらす。(高橋哲哉『歴史・修正主義』参照)
ホロコーストという事実が否定されることにおいて、存在が「怪しい気がする」という若者の揺らぎは事実への不信がもたらすものであろう。
しかし、ここで注意しなければならないのは、「罪悪感から解放される」や「自信を持つことができる」という価値の問題に重点が置かれていないかということだ。

【ポイント4】
「事実の真理は政治的思考の糧である」[p323]
「事実は意見の糧であり…事実の真理を尊重する限り正当でありうる。事実に関する情報が保証されず事実そのものが争われるようになるならば、意見の自由など茶番である」
ミック・ジャクソン監督の作品映画「否定と肯定」は、この事実をめぐって裁判闘争に展開したアーヴィングとリップシュタットの闘いを描いたものであるが、そのなかにリップシュタットがアーヴィングと議論しないことを挑発されるシーンがある。
アーヴィングは「意見と違うものと戦わないのは真実を知るのが怖いのだ」と、リップシュタットを挑発する。
映画のワンシーンではあるが、ここで事実認定に関する問題に「意見」という言葉が刷り込まれていることは無視できない。
リップシュタットはホロコーストについて「なぜ起きたか」、「どうやって起きたか」については議論するけれど、「なかった」とする相手とは「議論」する気はないという。
議論は意見を戦わせることだ。
しかし、その前提条件となる事実が共有できなければ議論はそもそも成立しない。
このように、アーレントは「事実」が政治という複数の人間領域に投げ込まれるや否や「意見」に変質する危険性を、プラトンがすでに「洞窟の比喩」で指摘していたことを見抜く。真理を語る者は孤独なのである。

【ポイント5】
「嘘を語る者は…真理を語る者よりもはるかに説得力に富む」[p342]
「出来事の顕著な性格の一つ、つまり予期せぬことという要素が丁寧にも消し去られているため、彼(嘘つき)の説明の方が論理的に聞こえるのである」
事実とは何か。
「事実は小説よりも奇なり」という諺が示すように、アーレントは事実が偶然性を本質としているとみる。
それゆえに、事実は人々の理解を得難い面をもつ。
むしろ、嘘を語る者の方が論理的に説明できるというのである。しかも、「(事実の)リアリティも、利益や快楽だけでなく、常識の推論の健全さに事あるごとに逆らう」。
事実は常識に反する一面をもつ。
少なくとも、アーレントが扱おうとする事実の水準はそこにある。
アーレントは『全体主義の起源』第3巻で「忘却の穴」という概念を提示する。
それは、アウシュヴィッツのような絶滅収容所におけるユダヤ人殲滅について、全体主義的な権力者たちは「全体主義の大量犯罪が暴露されること」を「それほど気にしなかった」という。
それは「犯した犯罪の途方もなさそのもののために、犠牲者…よりも、むしろ殺人者…の言葉の方が信じられてしまう、という結果が目に見えているから」である。
常識では理解しえない途方もない巨悪が出来したとき、生存者の証言が「真実であればあるほどますます伝達力を失う」のである。

【ポイント6】
「現代の嘘は、秘密でないどころか実際には誰の目にも明らかな事柄を効果的に取り扱う」[p345]
「イメージはリアリティの完全な代用品を提供すると考えられている。この代用品は現代技術とマスメディアによって、オリジナルが以前そうであった以上に公衆の眼にふれる」
絶滅収容所の存在を、あたかも健全なイメージで写真化したのはナチスの側である。
そして、福島第1原発事故の廃炉や汚染水問題、帰還問題が全く解決のめどがつかない時期に「アンダーコントロール」を主張し、オリンピックを誘致した安倍晋三前首相の行為は、まごうことなくこの事例の一つである。
そして、その問題群を聖火リレースタート地点というイメージで糊塗して「福島の復興」を喧伝する猥褻さは、この指摘のとおりのことである。

【ポイント7】
「伝統的な嘘と現代の嘘との違いは、隠蔽することと破壊することの違いにほぼ等しいであろう」[p343]
伝統的な嘘は敵を欺こうとしただけで、全員を欺こうという意図は持っていなかった。そして、自分自身が虚偽の犠牲になることはなく、自分自身を欺かずに他人を欺くことができた。
それに対して現代的な嘘とは、自らをも欺くような嘘である。
自らも欺かれている場合のみ、真実に似たものがつくり出される。
嘘をつくものが自分自身にも嘘をつくことは可能だろうか?
これはデリダが『嘘の歴史』で議論している問題であるが、ここではそれに触れる余裕はない。
しかし、アーレントはこうもいう。
「嘘を語る者が成功すればするほど、それだけ彼は自分自身の作り話の犠牲者になる」。
そして、嘘を語る者が他人を欺くよりも、自分自身の嘘によって自ら欺かれる場合の方が、なぜ当人にとってばかりか世界にとって都合が悪いのかと問う。
伝統的で冷血な嘘つきはまだ真偽の区別を知っており、他人の目から隠している真理は世界から完全に抹消されずに、真理は彼の内に最後の隠れ家となっているが、この場合、リアリティに加えられた傷は取り返しのつかないものではない。
しかし、自分自身にも嘘をつくものは、その秘密にする事実すらも抹消してしまう。

【ポイント8】
「すべてのものが取り返しのつかなくなる可能性こそ、現代の事実操作から生じてくる危険である。事実の真理を徹底的にかつ全面的に嘘と置き換えることから帰結するのは…、我々が現実の世界において方位を定める感覚…が破壊される事態である」[p350]
我々の現実の方向感覚の破壊。これこそが事実を破壊することで生じる問題である。
そのことによって政治的判断は困難になろう。このことが、今まさに私たちの社会で現実に起きている問題ではないだろうか。

【ポイント9】
「堅固たる点で、事実は権力に優る」[p353]

【ポイント10】
「既成の権力と真正面から対立する場合、無力であり、つねに挫折するにもかかわらず、真理はそれ自身の力を持っている」[p353」
「説得や暴力は真理を破壊しうるが、真理にとって代わることはできない」
 しかし、ここまで事実の真理の脆弱さ、破壊されることで回復不能となる希少性について触れてきたアーレントだが、一転して「事実や出来事が持ち事実性の最も確実なしるしは、堅固たるものとして現れるが、事実のもろさは奇妙にも大いなる復元力に結びついている」と論じる。
楽観的ともいえる、このアーレントの根拠は何だろうか?
確かに冒頭に紹介した「沈黙の村」では、奇跡的に逃れたユダヤ人のメモが見つかった。
アーレントはこのように、事実の真理を完全には殲滅できないある種の堅固さが備わるという。
「イメージは事実の真理に対して、一時的に優位に立つが、しかし、イメージは安定性の点で…端的に存在するものには到底及ばない」[p351]
プロパガンダによる政治的イメージは長持ちしない。
なるほど、そのように私たちは信じたい。真理は最後に勝つ。
映画「A few good men」は、まさにそのカタルシスを解放する。
浦沢直樹の『20世紀少年』もしかり。
しかし、果たしてそのように楽観視できるのはなぜか?
独裁のプロパガンダが70年も継続している国家があることをどのように考えるべきか。
ましてや、そこにおいて現実の方向感覚を失っているとすれば。
それについて、アーレントはこう説明する。
「記録を修正しようとする人は、本当の物語の代用品として自分たちが提供した虚偽を絶えず変更を加えなければならない」
「人間の事柄の領域の内で実際に起きたことはすべて別様でもありえた以上、嘘を語る可能性には際限がない。そしてこの際限のなさが自滅を招く」[p352]
嘘は最後に破綻する。
いかにも日常の道徳的な教えとしても通用しそうな言葉である。
アーレントが事実に見出す堅固への信頼とは何か。

【ポイント11】
「政治の領域はその権力の及ばない人々や制度にかかっている」[p356]
アーレントは、事実の真理は政治の領域、すなわち複数の人々の言論空間に投げ込まれる瞬間、意見に変質するといった。
そうであれば、その事実を担保するためには政治の領域から独立した存在や機関が必須となる。
「真理を語る存在様式に顕著なのは哲学者の孤独、科学者や芸術家の孤立、歴史家や裁判官の公平、現地調査したものや目撃者、報告者の独立である」
「哲学や・芸術家・裁判官などの独りでいる在り方のいずれかが生の様式として選ばれる場合にのみ…それは政治的なものの要求と衝突するのである」
昨今、日本学術会議の推薦を菅首相が拒否したニュースがにぎわっている。
学問の自由への侵害ではない、と嘯く首相をはじめとする政府だが、しかしその内実はこの学問の独立と無関係ではない。
司法権の独立が保証されるゆえんも、ここにある。
それが侵害されれば、くりかえすように我々の現実の方向感覚は喪失する。
もっとも、独裁や全体主義を望む権力者にとってそれは望ましいことなのかもしれないが。

【ポイント12】
「政治の領域は、人間が意のままに変えることのできない事柄によって制限されている」
「我々が自由に行為し、変えうるこの政治の領域が損なわれずに、その自立性を保持し約束を果たすことができるのは、もっぱら政治自身の境界を尊重することによる。概念的には、我々が変えることのできぬものを真理と呼ぶことができる。比喩的には、真理は我々の立つ大地であり、我々の上に広がる天空である」[p360]

【ポイント13】
「リアリティは事実の総体以上のものである」[p357」
事実は、その数を積み上げればリアリティが増すというものではない。
「リアリティはいかにしても確定できるものではない。存在するものを語る人が語るのは常に物語である。この物語の内で個々の事実はその偶然性を失い、人間にとって理解可能な何らかの意味を獲得する」。
そこに物語が付与されることが、リアリティの源泉となる。
「事実の真理を語る者が同時に物語作家である限り、事実の真理を語る者はリアリティとの和解を生じさせる」。
では、物語ることが不可能なものにとっては、そのリアリティは手に入れられないものなのだろうか。
事実の希少性、物語ることの不可能性。
そのことはホロコーストという法外な出来事を後にして、なお楽観的に過ぎないだろうか。

「問われているのは存続、存続の持続である」[p310]
「存在するものを進んで証言する人々(真理を語るもの)がいなければ、永続性や存在の持続は考えることさえできないのである」
「真実さとも呼びうるこのあるがままの事物の内容から、判断の能力が生じてくる」[p358]
アーレントがこだわるのは、現実の方向感覚を失うこと以上に、世界の存続である。
事実が失われることは、世界の存続の問題と密接である。
3.11を後にして、なお何もなかったかのようにふるまう日常において、世界の持続とはいかなる意味を持つのか。

ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」

2020-05-02 | 哲学系


【テーマ】ゴールデンウィーク連夜・哲学ゼミ「パンデミックを哲学する」
【日 時】2020年5月2日(土)〜5月6日(祝・水)
    20:00~21:30 
  第一夜 アガンベン「感染」

  第二夜 森千香子×小島祥美「感染症と排外主義」

  第三夜 辻元「デジタル教科書は万能か?」
  
【テキスト】雑誌「現代思想」2020年5月号「感染/パンデミック」
【会 場】オンラインzoom
※ 参加ご希望の方はID・パスワードをお知らせしますので、メッセージをお送りください。


外出自粛が要請される鬱々としたGW連夜、コロナウィルスをめぐる「パンデミック」を哲学しませんか?
ゼミなのでテキストを用います。
今回のテキストは雑誌「現代思想」の2020年5月号「感染/パンデミック」や雑誌「世界」の論考(4〜6ページ程度)を読みます。皆さんの経験や考え方を底に重ねて議論しましょう。
参加ご希望の方はzoomのID・パスワードおよびテキストもPDFで送りますので、必ずメッセージを送ってください。
なお、zoomは40分ごとにアクセスが切断されますので、そのたびごとに各自で接続してください。
いちおうGW中の連夜実施する予定ですが、毎日かどうかは不明です。
どのタイミングで参加するのもご自由です。どなたでもご参加いただけます。


ゼミマスター:渡部純