カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会・感想

2018-02-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む






佐藤和夫先生をお招きしての『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会を無事終えることができました。
北は岩手から南は東京まで、県内外から多くの方に参加いただきながら、正解となりましたこと、主催者として御礼申し上げます。
最先端を行くアーレント研究者からアーレントの「ア」の字も知らないといった方々まで集い、はげしい議論や自らの経験を踏まえた語らいが為されました。
とても、それを一気にまとめるには、少し時間をいただかなければなりませんが、それはともかく、4時間にわたる本編から夜中の2時まで繰り広げられた「饗宴」に一同、快楽の極みを楽しんでいただけたようです。
以下、いただいたご感想を紹介します。

「いきなりジェットコースターの展開、しかも全体として見れば「無限無軌道の4本のトレインが密接交錯して突っ走るのに飛び乗り移りながらアーレントワールドを巡りまくる!!!」というようなアリサマで、マジ興奮しつつ堪能させていただきました。朝まで生DearLogos!というのは、生ぬるい小生にとっては空前絶後の経験で、大学的知の醍醐味をようやく知った思いです。佐藤、森、小石川、池田の先生方はじめ、世話人各位、そして参加された皆さんへの、愛しい感謝でいっぱいです。ともあれこんな楽しいことはやめるわけにいかず、続けながら、現実社会を知的に「革命」するためにはいかに?というテーマに呻き愛悶え愛したいものと意を強くしています。カムサハムニダと叫んだ羽生くんのココロでありがとうございました!」

「個人的にはとっても楽しかったです。同時に、難しいバトンを勝手に受け取ったような気がして、これから大変なことになるなぁ、と少し気重にもなりました。なにを言ってるんだか、ですね(笑)でも、エチカ的な意味で考えていくと、福島で 「アーレントを読む佐藤和夫」をみんなで読むってことの意味を考えずにはいられません。またやりましょう!」

「読書会の準備から会計まで本当にありがとうございます。お疲れさまでした。アーレント、一人で読んでたら挫折してたと思いますが、何度も折を見て読み返したいなとも思いつつ、『人間の条件』までチャレンジしたいなとも思います。」

「大変お世話になりました。純さんを中心にチームワークよろしく準備、運営に当たられた方々に感謝。私が一番年長だったようですが、20才以上若返った気持ちです。(もっとかな?)」

「とても楽しいイベントに参加させていただき、ありがとうございました。多くの方々と議論したり、いろいろなアドバイスをいただいたりして、貴重な経験をすることが出来ました。今後の進路は決めていませんが、福島に住むことも真剣に考えながら決めていきたいと思います。」

「昨日は、たいへん愉しい一時(というより持久走な)時間をご一緒できてうれしかったです。佐藤先生の少年のような知的好奇心とパワフルさには感心しました。そして森・佐藤両先生のアーレント愛!福島の地でさまざまな形で思考することを続けていらっしゃる皆様、そして震災と原発事故について語る続ける困難な営みから逃げないご様子。どうぞ、これからも息長く活動を続けていただきたいと思います。」






『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・最終回まとめ

2018-02-22 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


5か月にわたる『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が、とうとう昨日最終回を迎えました。
長いようで短かったこの間、忙しく疲れがある仕事帰りにもかかわらず、毎回10名前後の方が集って継続できたことは驚くべきことでした。
昨日も、福島市某所に集った参加者の中には、本を抱えながらコタツで思いっきり夢に微睡みながら船を漕いでいる方もいらっしゃいました。
その気持ちだけでも発案者としては感謝です。
今回は昨夜の議論で印象的だったものだけをかいつまんでまとめとさせていただきます。

◎マルクスの労働の廃棄は人間の条件そのものの廃棄だと批判したアーレントの議論に関して。
この議論の前提には、労働は奴隷的営みだというアーレントの「労働」に対する評価について、Facebook上で次のような議論が交わされた経緯があります。

「エンゲルスの『猿が人間になるについての労働の役割』を読んだ記憶がよみがえっています。
二本足で立った人間が「自由になった」手をものづくりの労働に使うことが脳にも反作用して脳を発達させ人間になっていく。
たしかに労働が苦役であるという側面もありますが、労働することで、自然にふれ、作物を育てる喜び、それを他人に食べてもらって喜んでもらうこと。工芸的な職人のもの作りの喜びなど、人間の個性の開花などはどう見ているのでしょうか。
マルクスは共産主義社会を分配の原則から低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(Wikipedia)。
資料には<すべての物を共有する共産主義>とあります。生活に必要なものは必要に応じて受け取れるわけで、共有の根本は<生産手段の共有>だと理解してます。」


ここでは、昨今の「裁量労働」をめぐる政治の議論を踏まえながら、そこでの労働が奴隷的なのは資本主義という形態の下で行われるのではないか、という疑問が投げかけられました。
さらには、労働を通じて人間は能力を全面的開花させていくわけで、仮に労働がない社会が実現したとしても、釣りや写生のような牧歌的なぼーっと趣味に埋没するような人間になるわけではなく、個性を開花させていくものではないか、という疑問が投げかけられました。
なるほど、社会主義国家になれば、それこそ「活動」にように喜びを伴う「人間的な労働」になるのではないか、という疑問です。
以前、この会でも確認されましたが、育児や料理などの「労働」にも他者との協同がともなう「活動」的要素があるということを本書では述べられています。
問題は、マルクスが「労働は廃棄される」とした点にアーレントが批判を向けているという点でしょう。
アーレントの見立てでは、社会主義になろうとも「労働」という人間の条件そのものは廃棄されないし、または廃棄されてはならないものだということです。
そして、いかに喜びが伴おうとも、労働には生命維持の必然性が伴う以上、それはやはり生命維持の必要性に結びついている以上、強制力から逃れられない奴隷的な労苦を本質としているというのがアーレントの見立てです。
マルクスは「人間的な労働」が実現する共産主義社会を目指したといってもよいでしょうが、「生産手段の共有」によってそれが果たされただろうか。
むしろ、私有財産の廃棄が、むしろ個々人の「個性」を育むプライヴァシーを奪ったのではなかったか。
本書が繰り返し主張してきたこの点が、妥当するのかどうか再度確認してよいように思います。

◎AI(人工知能)とのコミュニケーション問題。
そもそも、AIと人間的なコミュニケーションはとれるのか?
siliレベルの受け答えは可能だとしても、人間的なコミュニケーションは取れないだろう、というのは現段階においてはそのとおりだと思います。
東大合格を目指して開発された「東ロボ君」も現段階では現代文の読解問題にまだまだ対応できていないようです。
基本的に情報処理と統計に基づくパターン認識ですから、「意味」を求められる問題解まではできないとのこと。
けれど、人間のコミュニケーションパターンの情報量をどんどん増やしていけば、けっこうどんな受け答えでもできるんじゃないだろうか。
SFの世界のように、もしかしたら生身の人間とのコミュニケーションよりも、よほどうまくいくのではないか。
「いや、俺はどんなにケンカをしても妻の方がいいね」
これは、ふだんパートナーを「鬼嫁」と呼ぶ方の発言です。
あれだけブーブー言っているのに、なぜそう言えるのか?

また、ある参加者はAIには「共感」がないといいます。
共感とは?
AI自らが自動的に学習を深めていくディープラーニングは、もはや開発者のコントロールを超えてしまっていると言います。
すると、「共感」的反応もまたパターン認識によってマスターできないとも限らないのでは…
意外な反応ですら、そこに人間が魅力をもつという情報をパターン学習すれば、そのようなトリッキーな対応すら可能にならないだろうか…
人間の意外性や予想不可能性すらパター化できるのではないだろうか…
そうしたら、AIの方がよほど悩みや愚痴を話しやすいかも。
恋愛をしない若者が話題になって久しいですが、生身の人間への魅力が希薄になっている現実があるとすれば、あながちありえない現実ではないのかも…
医療現場において、膨大な症例データを処理してパターン認識を生み出すAIは成功確率の高い医療方法を提示するものの、その根拠は示せないと言います。
つまり、判断の根拠が示せないというわけです。
僕らが「人間的なコミュニケーション」という場合には、この「根拠」や「理由」にヒントがあるのかもしれません。
ただし、それは「正解」ではなく、答えのない問いに対する「根拠」といえばいいのかもしれません。
つまり、「生きる意味」の答えは人によってそれぞれ異なるものですが、それを受け止めたときに「腑に落ちる/落ちない」とか「納得する/しない」という思いが生まれます。
そして、その「意味」は各人の一つとして同じではない経験や思考の仕方にもとづくものであり、「パターン」を求めているわけではないからだと思うのです。
それはAIにはそれを示せないという点で限界があるということなのでしょうか。

◎世界=地球疎外をめぐって
いくら科学が宇宙へ飛び出していったからって、火星に移住するとか宇宙ステーションに人間が居住したいなんて、そんなのアニメの話みたいでリアリティがないね、という疑念。
たしかにね。
でも、実際に居住したいかどうかという問題ではなく、人間の条件そのものである地球から飛び出したいという欲望は、科学の「過程的性格」にあるのであって、人間の欲望としてあるという意味ではないのではないでしょうか。
人間が好んで火星に住みたいと思う人なんてごく少数であるように思われます。
にもかかわらず、試験管ベイビーや代理出産、ips細胞も、もともとは何か目的のためにというよりは、ただむやみやたらに発見しつくしたいという欲望に基づくものだったののではないでしょうか。
わかっちゃいるけどやめられないかっぱえびせんみたいなものが、科学の根本的性格なのではないかということです。
だいたい、アニメの話で言えば、ありえないと思っていたドラえもんの未来の道具もけっこう出来上がっていますけどね。
科学の過程的性格は歯止めも予測もつかないものなのかなと思います。

◎「科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明なのだ」という言葉をめぐって
科学者といっても色々いるじゃない。
みんながみんな一緒くたにするのは暴論だ、という意見。
科学者も市民としての判断を下すという点では、そのとおりでしょうね。

でも、あまりにもナイーブな科学の中立性を信じている人も少なくないのでは。
科学的発見もいったん公共の場に投げ込まれると一つの政治的意見と受け止められるてしまうのが、まさに「政治」のアポリアです。

『水俣病の科学』を書いた西村肇は、「科学者から見た水俣病研究」(雑誌「環」25号)において、そのアポリアに対する不満を次のように述べています。
西村はまず、メチル水銀生成反応機構について詳細に説明した後に、これは自然科学の教育を受けていなければ理解が難しいことを確認したうえで、文系と理系のあいだに「全く理解不能」に近い溝があるといいます。
それを二つの精神の「敵意」や「対立」とさえ言います。
なぜか。

西村は、まず科学は真理の認識において人間精神を支配してきたスコラ学批判として生まれた歴史を指摘します。
スコラ学はキリスト教神学の骨子ですが、それは基本的に「人は正確な言語と厳密な論理によって思考すれば、思考のみによって真理の認識に到達できる」という信念があると西村は指摘し、これに対して「言葉と論理への100%の信頼を否定する」のが科学であるといいます。
それについて西村は「確立された知識を基礎に厳密な論理的思考を積み重ねて結論に達する点では、科学もスコラ学も違いはありませんが、基礎にする知識の性格が違います。スコラ学では、知識とは言語 知識ですが、科学ではその他に実体知識が加わり、こちらの方が重要です。
実体知識とはまだ言語に表現される前の生の知識であり、実験の際の生の観察結果、生まのデータ、写真のことを指します。
これを人に伝えるために言葉で表現したのが言語知識ですが、「実体知識にくらべ極めて貧しいものです」と述べます。
さらに、「スコラ学にくらべて科学の特徴は議論が定量的であ」ることも指摘します。
そのうえで、自然科学系と文科系の人間の違いの最も大きな違いは「科学者とは意見の違いでの論争を好まない人種だ」ということだといいます。
これは、立場を全く反対にしながら、アーレントの考え方と軸を一にしています。
アーレントにとって「政治」の領域は唯一の真理 が支配するのではなく、多様な「意見」が織りなす世界なのですが、西村はまさに科学者はそうした「意見」の論争を好まない人種だというわけです。
この「意見」の理解はとても重要です。

実は、西村がこのような論考を書いた背景には、水俣病問題で科学的事実に政治的解釈が介入したことで、科学者としては不当な「科学の政治化」が生じたことがあります。
これは放射線被ばくに関する科学的評価をめぐっても生じた問題でしょう。
科学的評価が政治的言説として流通することに、市民は不信と疑念が生じたものです。
だから、西村は「科学でももちろん意見の違いはありますが、それを言葉による論争で解決しようとはしません。
言葉は補助ですから言葉ではなくて良いのです」とさえ言います。
余計な議論を巻き起こさないように高度に抽象化された記号でいいのです。
たとえば、ウィキペディアで「相対性理論」から「E=mc²」を調べると、わけのわからない数式が並んでいます。
たしかに、ある意味ではこうした記号であれば言語が通じない外国人が相手でも、数学的知識が共有されていれば相互理解は可能になります。
しかし、個々人の抱く価値観などの差異に対応できる言語構造にはなっていません。
そのような言語空間で生きる科学者の政治的判断を信じない方が賢明だというのは、こうした言葉の問題に焦点が当てられているわけです。

さて、いよいよ明後日は佐藤和夫氏を招いての本番が開催されます。
そこにおいてこそ、まさにその言論空間の質が問われるでしょう。
少なくとも、アカデミックなジャーゴンが飛び交う空間になることを私たちは望みません。
しかし、同時にそれはアーレント思想の特殊な用語が充満する本書を、いかにして翻訳可能か、その力量が参加者自身に問われることになるでしょう。
全く予測のつかない会において、まさに私たちは「政治」を経験することができるのではないでしょうか。
楽しみです。(文:渡部 純)

【開催予定】最終回・『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会のご案内

2018-02-18 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会、いよいよ最終回です!
そして、その3日後には、いよいよ著者である佐藤和夫さんを福島に招いての本格的な読書会&討議が開催されます(なお、こちらは既に参加定員を満たしているので、申込のない参加は受け付けておりません)。
著者と一緒に読む会では、これまでのSkype読書会に参加されてきた皆さんの疑問・意見を思いっきり佐藤さんへぶつけながら、刺激的かつ楽しい「饗宴」を実現できることを願っています。
なお、復習になるかわかりませんが、第1回~第5回までのまとめをご参照ください。

第1回の議論のまとめ
第2回の議論のまとめ
第3回の議論のまとめ
第4回の議論のまとめ
第5回の議論のまとめ
        
『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【会の趣旨】
この『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、来たる2月24日(土)に著者である佐藤和夫氏を福島へ招き、本書についてともに議論しながら、アーレントという思想家のアクチュアリティや現代世界の危機について語り合おうという目的で始まりました。
当初は5.6人の少人数で集まるイメージでしたが、広く声をかけたところ、あっという間に参加者が増え、2月の「著者と一緒に読む会」に関しては定員20名がすでに満席となってしまいました。
現在継続している「読む会」には13名が参加されています。
参加者も幅広く、福島市、いわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内にお住まいの方から、金沢市と和光市のように県外にお住まいの方もスカイプで参加されています。
年齢も30・40代を中心に20代から70代まで幅広く、職業も多種にわたっています。
その点で、哲学やアーレントなどまったく知らない市民が、佐藤和夫=アーレントを通じて現代世界の危機について学び合う場となっています。
毎回、カフェマスター(渡部)の方でレジュメを用意し、それを読み合わせながら、参加者同士でわからない部分や事例を挙げて自分の解釈を述べたり、ときにははみ出して現代社会の問題を語り合ったりするという、お気楽な場となっています。
毎回の読書会は、お仕事の都合や家事などで参加できない方もいらっしゃいますが、一章ごとに区切ることで途中からの参加者も、できるだけ参加しやすい形で進めていますので、関心をお持ちになられた方は、ブログよりお気軽にメッセージを下さい。

【最終回開催日時】
 2018年2月21日(水)20:00~21:30
【読み合わせ箇所】
 第6章 「現代科学技術と『人間の条件』」
 ⇒今回のレジメは「『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と読む会」・資料・第6章要約を利用します
【参加条件】
 ⓵スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送り下さい。
 ⓶可能な限り事前に指定範囲を読んでご参加ください。

【開催予定】『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と一緒に読む会のご案内

2018-02-17 | 開催予定
満席御礼!!参加者募集を締め切ります。今後キャンセルが出た場合には再募集いたしますので、よろしくお願いいたします。
  
 
 

既にお知らせしております、8月に出版されました佐藤和夫著『〈政治〉の危機とアーレント』(大月書店)を読む会です。
メンバーは哲学や文学、法学、歴史学に限らず、工学や生物学といった理系を専門とする方もいらっしゃいます。
また職種別で見ても教育、金融、保険、医療福祉、アートなど多岐にわたっています。
年代を見ても、20~60代までと多層です。
共通するのは「専門家」ではない「思考したい市民」だという点です。
こうした雑多メンバーで、いまアーレントを読むことにどんな意味があるのか?そもそもそれは可能なのか?それを問いの中心におきたいと思います。

プレ勉強会もスカイプ通信で開催されていますが、これは全6回ほど予定しています(次回は11月30日に第3回目が行われます)。
そもそも、このプレ読書会/勉強会は著者である佐藤和夫氏をお招きし、いっしょに議論するために設けられたものです。
そして、このたび「著者と一緒に読む会」の日程が決まりましたので、ご案内いたします。
なお、「著者と語る会」当日だけの参加やプレ読書会への途中からの参加、部分的な参加も受け付けられますので、参加を希望される方はブログのメッセージかFacebookページよりお申し込みください。

佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と一緒に語る会
【開催日】2018年2月24日(土)13:30~17:00
【会 場】福島市飯坂温泉あづま荘
【参加条件】要申込
先着20名
 メッセージよりメールアドレスを記入してお申し込み下さい。
 定員を満たしましたので、募集を締め切らせていただきます。
②「読む会」参加費3,000円2,000円 学生は無料
 ※参加費は著者への謝礼・旅費・宿泊費等に充てさせていただきます。


なお、ギリシア哲学研究者の納富信留氏が読売新聞に同書の書評を書かれています。ご参考まで。

2018年、読書への旅―わたしの読書計画―・まとめ

2018-02-12 | 文学系
2018年、私はこれを読むぞ!
と、高らかに宣言すれば引っ込みがつかなくなり、読まざるを得ない状況に自らを追い込もうという意図で始められたこの企画。
あをだまさんが初マスターとしてとりしきってくれました。
参加者の趣味も職業も雑多すぎて、もう、どうなることやらと思いましたが、「そこくるか!」という皆さんのプレゼンスが痛快すぎる会となりました。
なお、以下の参加者のハンドルネームはワタクシ(渡部)が勝手につけたネーミングなので悪しからずご了承くださいm(__)m

あをだま



今年は東欧文学の読破をめざしたいというあをだまさんが挙げた一冊は、これです。
東欧文学への興味は、NHK「100分de名著」で取り上げられた『惑星ソラリス』に興味を持ったことがきっかけだといいます。
『ソラリス』では頭でイメージした人間が実体化される中で展開されるSFですが、そこで自分とは何なのか向き合う哲学的な物語性がおもしろかったといいます。そこからミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の読解へ行くなど、東欧文学の魅力に引き込まれていったといいます。
本書がどういう話なのか、肝心な点を聴き忘れてしまいましたが、東欧文学の魅力が何なのか。
個人的にもぜひ知りたいところです。


次はこれ。
縄文時代はおもしろい!と宮畑遺跡じょーもぴあのユニークさにふれつつ、あの平和的だったとされる時代への憧憬は共感できます。
宮畑遺跡といえば、なぜ直径90センチメートルもの巨大な柱を建てなければならなかったのか?なぜ「47.82パーセント」の焼けた竪穴住居が焼き壊されなければならなかったのか?をテーマに一般公募した「宮畑ミステリー大賞」を企画・出版したユニークな取り組みもあります。
みんなで県内の縄文遺跡を巡検しながら本を読むのもおもしろいかもね。


これはカナダの漫画ですが、海外漫画へ触手へ伸ばそうというのです。
この「殺」と「死」というタイトルは何を意味するのですかね。

最後は「ブリューゲル」の本を紹介されましたが、展示会巡りを趣味とするあをだまさんは、その足跡を記録帳に記しているそうですが、今年は事前学習を徹底するそうです。
僕にはできそうにありませんが、もしみんなでその記録集を寄せ集めれば、けっこういい感じのミニコミ誌ができるかもね。


ねもち


税理士試験合格に向けて、残すところ一科目だというねもちにとって「読書」なぞしている暇はない。
読むものといえば、ひたすら問題集。
一言一句もずらしたり、間違えたりできないというその試験に向け、ひたすら「スキャナー」と化すしかないようです。
一瞬、その文章を読んだ人は「意味不明」だそうです。
そう、「意味」など考えてはダメ。
誰もが受験地獄で経験したように、意味ではなく記号としてインプットする思考停止状態でなければ、ある種の試験には合格できないというのが「試験」なのです。
もう、そんなのAIに任せちまえよ、と思いたくなるのですが、まぁその現実を目の前にしている人にとってはそんなことを言ってられません。
「今年の仕事は試験に合格して今の仕事を辞めることが目標!」と、高らかに宣言したねもち。
「スキャナー」と化して頑張ってくれ!
「読書」はその先にある。


ふるほんやかずのぶ

お次は、本日42.195Km のフルマラソンを走り切ってきた「ふるほんやかずのぶ」。
フルマラソンを完走してきたとは思えない軽妙な語り口で紹介されたのは、「ナイキをつくった男」として名高いフィル・ナイトの自伝。
やっぱり「走る」ことなのね。
シューズのソールはクッション性が高ければケガしないというエビデンスはない、というのは初めて知りましたが、その発想がかの池井戸潤の『陸王』に受け継がれているというのも驚きですね。
これもおもしろそうだな。


そして、これ。
ふるほんやさんにとっては、やっぱり「走る」ことは外せないようです。
松浦弥太郎は「暮らしの手帳」の編集者。
この人も走る人なんだね。どんな意味で?教えて、ふるほんやさん。


最後は国語教師らしく短歌のアンソロジー。
残念なことに、彼のクラスにおいてある学級文庫から生徒さんたちは「歌集」をまったく手に取らないそうです。
高校生時代に百人一首を善暗記しようとしたというふるほんやさんからすれば、残念この上ないことでしょう。
どうすれば、「短歌」に生徒は興味を持つのか。
前回のカフェロゴでもそうだったけれど、朗読っていい経験だといった人がいたよね。
あをだまさんは、自宅で朗読しているととても気分がよくなるといいます。
映画「勇気あるもの」はシェークスピアを朗読していきながら高校生たちが変化していく様を描いた名作とのこと。

そういえば、僕が出席していたゼミではソフォクレスの「アンチゴネー」を改作したブレヒトの戯曲を朗読した後に、そこで感じたこと考えたことを語り合うという実験的試みがありましたが、これがとてもおもしろかった。
そのなかで、『テヘランでロリータを読む』が紹介されました。

著者は、テヘランの大学で英文学を教えていましたが、抑圧的な大学当局に嫌気がさして辞職し、みずから選んだ女子学生七人とともに、ひそかに自宅でイランでは禁じられた西洋文学を読み始めました。
その読書会は、革命後イランの圧政下に生きる女たちにとって、かけがえのない自由の場となっていたそうです。
これはワタシ(渡部)のお勧めとして紹介しますが、こうした声の読書経験って、意外とふだんはないんだよね。
何より、ここでの議論が次回のカフェロゴ企画が生まれるきっかけとなりました。


本の虫


個人的に今回の最大の衝撃は、「本の虫」さんの読書紹介でした。
本の虫さんは、あをだまさんの仕事上の関係で知り合ったそうですが、それも特に多くの時間を接したわけではなく、お互いに「さっ」と文学のにおいを一瞬直感しただけで通じ合っただけの関係だというのです(剣の達人か!)。
その出会いの話も衝撃でしたが、おもむろに取り出したこのハイデガー全集、そして突如として朗々と朗読し始めたその様に、一同、呆気に取られてしまいました。
ねもちの試験問題集の言語もわけわからんけれど、時々さしはさまれるドイツ語、そもそも日本語なのかこれはという文に段々「般若心経」を聴いている心持になってきました。
この圧巻の朗読劇(?)はとても新鮮な経験だったと思います。


続けて、これ。
自らオーケストラ演奏にも関わってきた本の虫さんならではの選書。
たしかに、遠近法とか、これまで近代の視覚の変容は関心をもってきましたが、音楽に疎いせいか聴覚がどのように変容したのかという観点で本を読んだことはありませんでした。
音楽に関する教養がなければ理解できないのでしょうが、興味深い一冊でした。


で、最後はこれ。
『マラルメ全集I 詩・イジチュール』。
「一家に一冊、マラルメ全集」がモットーだとか。
まさに「文の人homme de lettres」ですね。
ねもちとはまた別の意味で、本の虫さんの「読書の旅」計画は異彩を放っていました。
これだから、人の読書癖、傾向、趣味を尋ねることはやめられません。

はとちゃん

この著者(本?)には「悪い人がいない」のが気に入ったそうです。
悪人がいない、というのは善人ばかりの楽園なのか?
読んでいないからわからないけれど、そうではない気がしますが。
誰もが等しく善人であり悪人である部分をもつ。
「罪を一度も犯していないものだけが石をぶて」とはイエスの言葉。
それとも、みんなやさしい人?みんな傷つく人?ゆるい人?
読んでないからわからないけれど、「悪人がいない」ことの意味を知りたかった
あをだまさんは、これを「外れものの文学」と評しました。
素で「ずれている人」たちが織りなす物語。
素でずれてる人たちはわれわれのことではないのか。
素でずれている人が素でいられるならば、外れものが外れたままでいられるならば、そこに「悪」は生じないということなのか。
読んでみようと思います。

しろだま


個人的に東日本大震災の後に、被災地であらわれた「幽霊話」を集めている研究があることに興味を持っていましたが、それがこの著者だということを初めて知りました。
しろだまさんの所属していたゼミの恩師であり、白玉さん自身飯舘の聞き取り調査にも取り組んだという話は興味深いものでした。
「幽霊話」というと非合理なイメージがありますが、これは民俗学の手法です。
民俗学は客観的事実の正永ではなく、人々が「信じること」の意味に焦点を当てた学問であり、幽霊話が被災者にとって単なる恐怖を与えるのではなく、それがあるがゆえに生き延びられる意味があるという話はとても頷けました。
震災後、大槌町の庭師が自宅に「風の電話ボックス」をつくり、そこへは震災津波で亡くした家族や友人と対話する人が集うようになったといいます。
非合理かもしれないけれど、何かがそう見させるものとは、人間が生き延びるための別の知恵であるようにも思います。
これもまた読んでみたい一冊ですね。


あかだま



高校生にして早稲田商店街活性化を図る企業を立ち上げた社長経験を持つ著者。
あかだまさんは、地域の活性化とは何かと問いながら利潤の循環がうまく回る状況を指して、民間目線での富と資本の循環を論じる著者に注目しています。
利潤を生むプロの民間をいかに地域活性化に導入できるか、そのような視点をまちづくりに生かせることを熱く語るあかだまさんの姿が印象的でした。
その点では、やはり行政の運用が一過性のものばかりというのは首肯できます。
では、カネの論理がパブリックの創出とかみあうとはどういうことか?
今現在読み進めているアーレントの議論は、まさにカネとしての「富」がパブリックスペースを破壊するというもの。
このあたりの議論がどこで接続するのか、個人的には興味深いものですね。

しずちゃん


20代前半にして、人生の辛苦を味わうしずちゃんの経験は、ドラえもんのしずちゃんとは別物です。
そんなしずちゃん。
人生迷いに迷い、自分の時間的位置がつかめないもどかしさの渦中にいる中で手にしたのがこの一冊だそうです。
まさに「さまよえる自己」。
でもねぇ、大丈夫。ここには30になろうが、40になろうが、「さまよえる自己」の人ばかりが集っています。
仕事に行きたくないと泣きながら朝を迎える人もいるし、孤独死したくないと婚活に励む人もいる。
仕事したくないから休職した人もいる。
ワーカホリック気味にバリバリ仕事に没入している人も、実はいろいろ抱え込んでいるのかもしれない。
筋肉美を鍛える人の多くは内的困難を抱えている人の反動形勢だとも聞く。
みんながそれぞれにずれた困難を抱えながら、口に出せないながら、何かに足掻いている人ばかりなのが実際なのではないでしょうか。
でも仕事を市内から解放されたかといえば、それで解決はしないし、なんだかもうそれは解放されないことを受け入れあがら、それでもほんの一瞬とはいえ、こうした自由の時間がふと到来する時間に喜びをかみしめながら、「これでいいのだ」とバカボンのパパみたいに言える人にワタシはなりたい、と宮沢賢治風に言ってみる。
この本の中に何かを見つけられたのならば、その時は教えてほしいと思ってます。


ワタナベさん


読書計画は立てないのたちなので、この一年に読む本というのは頭にありません。
終わり。
というわけにはいかないので、とりあえず今年の一月から始めたアーレント「意志」論の読書会に合わせて、この本を挙げておきます。
が、これはかの國分功一郎氏も「意志」論の重要性を認めつつ肝心要のパウロ、アウグスティヌス、ドゥンス・スコトゥスといった中世キリスト教哲学を無視したように、彼女の思想の最も難解かつ不可解な部分です。
そこを読むためには、パウロ、アウグスティヌス、ドゥンス・スコトゥスを読まなければなりません。
それは同時に、3.11での経験を説明しているようにも思えるからです。
というわけで、今年はその読解に入り込みたいということを課題にしておきます。


スピノザ狂


最後に、今回参加を希望しながら直前で体調不良で参加を断念したスピノザ狂さんのメッセージをお伝えします。
老後の目標としてラテン語でスピノザを読むこと、太田蜀山・三田村鳶魚の全集を読むこと。
だそうです。
ラテン語、すごいね。
老境のなせるわざかな。

さて、今回の読書計画を語る会で盛り上がったのは、次回は朗読劇を皆でやってみたいということ。
小説もいいけれど、みんなでやれるのはやっぱり戯曲かな。
シェイクスピアもいいし、ブレヒト、ゴーリキーもいい。
「12人の優しい日本人たち」も脚本があればやってみたい。
実は『銀河鉄道の夜』なんて、3.11後の語りを見事に描いているんだぜ。
そんな話がやむことなく、深夜まであっという間に時間は過ぎ去りました。
今度は朗読劇を実現してみましょう!(文・渡部 純)

「〈語れること〉と〈語れないこと〉を語る会・アンケート結果

2018-02-09 | 〈3.11〉系


〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会」のアンケート結果について、匿名・実名でアップしてもよいという承諾を得たものについて掲載させていただきます。
なお、これからアンケートを記入してお出しいただいてもかまいません。
むしろ、その方がありがたいです。
ぜひ、多様なご感想をお寄せください。
なお、ブログでご感想をまとめておられる方もいらっしゃいます。
Café de Logos 「語れることから語れないことまでを語る会」
①身体……Café de Logos 「語れることから語れないことまでを語る会」のこと
もちろん、こんなカタチもありです。(ワタナベ)

カフェロゴ×郡山対話の会アンケート集計


質問1.参加動機をお聞かせください。

・担当した書籍が取り上げられていたから。哲学カフェ、会話するカフェなどに関心があったから。

・とりあえず行ってみよう!と。(出逢いは1度きりだったりするので)

・3.11後の言葉を渉猟しています。おおきなスローガンや主張、ステレオタイプの言葉、記号でしかない科学の言葉に回収されない、「自分の言葉」を拾い集めたいと思っています。それは「さっ」と一瞬で掠め去るようなものだと思います。おそらく発した本人も、自分で意識的に発しようとしたり、発した後もなおその意味を自覚できないほど儚いものだだと思います。それは、いつ、どこで、何をきっかけに到来するかわかりませんが、それがふと現れる可能性がこの場にはある気がしているのでいつも参加しています。それが自分の何かを揺り動かすことを求めてのことです。

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質問2.あなたにとって、どんな体験でしたか

・他の方の話を、先入観や関係性の維持などにとらわれずに、ただただじっくり聞く、という経験があまりに不足していると思いました。新鮮な経験でした。

・7年経って色々な立場や考えの方の率直な気持ちを聴けて、白か黒かじゃなくてその間のグラデーションの部分に思いやりをもてる一人でいたいなと思いました。二極化の生きにくさを感じました。

・郡山対話の会では、参加者は男性が多いのですが、若い女性の声を聞くことができました。それも、今まで聞いたことのない発言内容で、とっても新鮮でした。郡山は5人ほどの同じメンバーでの対話も少なくない中で、多様な意見を耳にすることができたことは大きな収穫でした。人数が多くなれば、それだけ、多様さは増しますが、逆に議論による深まりは求められなくなる。これは仕方のないことです。
深い対話の面が薄れるけれども、多様な意見の交流会、といったところでした。

・他の感想にもあったように人数が多かったせいか、発言をかなり抑制しました。その意味で「聞く」ことに徹したことは、それなりに意味があったと思います。ただ、時間の割には「対話」というより、皆さん自分語りの場面が多く、その言葉を沈思黙考しながら思いを深めた気はしますが、それは対話によって何かが深まったという感じとは別の経験でした。
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質問3.発見したこと、気づいたことはなんでしょうか。

・自分の想いや考えを人に伝わる言葉にするのは難しいということ、またお互いが自分の言いた いことを言えたとして、その先(より深く考えるヒントを見つけあったり、別の視点を獲得し たり、より細かいレベルでニュートラルに議論したりすること)までいくには、(私には)時 間がかかるとわかったこと。

・一人一人が小さな旗を立てて、そこから始めていい、という話になった時、素敵だなと思った けれど、“え、私はどこに立ってるの…⁉”自分がどこに立っているのかもわからない人が増え てきている世の中だから(私自身もその一人)語れない、自分の言葉を持てない状況が蔓延し ているのかなと思いました。

・私が理系だから、ということでもないのかもしれませんが、
ブログで中村さんの詩を読んだとき、ピンときませんでしたが、
みんなで音読し合うことで、すごく実感が持てました。
小説や詩を楽しむ機会がなく、評論やエッセイを読むことが多かったので、
大きな発見でした。

・「自分の旗を立てる」という発言をされた方の変化が印象的でした。誰かの言葉を聴きつつ、自分の中で何かが変わるという経験が、思いがけず立ち現れるのが、こうした対話の場の意味なのだと再確認できました。常にそれが可能になるわけではありませんが、その可能性に開かれているのは自分の経験を他者の言葉が媒介する条件があってのことなのだなぁとつくづく感心させられました。
内と外の議論もおもしろかった。それが単なる対立で終わらず、いつどこで自分の中で腑に落ちるのか。興味がわきます。

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質問4.日常生活、仕事、暮らしに何か活かせるコトはみつかりましたか?

・知り合いや友人と、いつもは話さない話題を投げかけてみるのもよいかなと思いました。新しい発見、新しい関係性が生まれるかもしれないと思いました。勝手に「この人はこういう考えだから」「こういう人だから」「結局かわらないから」と思い込んでいる可能性もあるかもしれないと思えました。気負わず、でも普段から自分を開いていけるように思えました。  

・自分がどうしたいかより、人からどう思われるか、を優先するように刷り込まれ生きてきたけ れど、本当はそれって自分にとって都合のいい言い訳でしかないのかなと思いました。語り合 うことを諦め、相手に甘えぶら下がった状態なのかなと、自分自身を振り返す必要があるなと …反省

・大きな声で発言する人、理路整然と話す人に焦点が当たりがちですが、「声なき声を聴く」とはどういうことか、が分かったような気がします。

・質問3で見つけたことは、教育活動に生かせるものだし、本来の民主主義というのはこうした過程を大事にするところに成り立つものだと思っています。現実の職場はますますこうした風潮を切り崩していっていますが、できるだけその信頼を自分自身が維持できる側に立てればいいのかなと思っています。ただ、自分としては「何かに役立つ」から対話の場に集うわけではないですね。
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質問5.ファシリテーターに提案やリクエストはありますか?

・ファシリテーター、すばらしかったです。テクニックと経験とセンスと人柄が必要だなと思い ました。

・言葉にするのが苦手なので、周りにうまく伝わっていないなという時やテーマから脱線しかけた時はいったん止めて、突っ込んでいただけるとありがたいです。

・いつもと変わらずイナバ物置並みの信頼と安心にゆだねて参加できました。
あえて、自分のファシリテーション経験との違いから、いくつか感じた点を述べますと、いつも参加者の自己紹介を大切にし、参加者がその場になじむことをすごく大事にするなぁという点が一番の印象です。
それから、一人ひとりの発言の長さを待ちすぎるくらい許容する点も印象的です。
これはテーマの「ものごと」以上に、語る「ひとごと」を大切にする姿勢なのだと思いました。
しかし、同時に今回のように参加者が多い場合には、長い時間をかけた割には対話を重ねた実感があまりないという点は否めず、話す楽しみも少なかったというのが正直なところです。
じっさい、発言を抑制したという感想をちょこちょこ聞きました(まぁ、おしゃべりの人が多かったの事実ですがね)。
自分の言葉を大切にする以上、それが冗長なものになることは否めませんが、一つ一つの発言を丁寧にするがゆえにテーマの核心になかなかいきつかないもどかしさが感じられました。
そのあたりを発言のルールではないけれど、仕方でも示唆してもらえれば、皆さん要領を得られたかもしれません。
これは個々人によっての感じ方の問題なので、逆にその丁寧さが話しやすさにつながる人がいることも事実だし、どっちがいいという問題ではないですが。
加えていうと、5時間という対話時間は、経験したことがないくらいの長時間ですし、フル参加は難しいというのが参加者としての実感です。
実際、午後から参加者が増えましたが、そのたびごとに話を再確認していくことも上記の冗長さと無関係ではないかなと思います。思い切ってランチを挟まず2-3時間と区切った方が参加者は参加しやすいのかもしれません。
対話に効率性を求めているわけではありませんし、そんなものを求めたら対話そのものを壊すことになることは重々承知のうえですが、何を重視するのかによってそのあたりの匙加減も必要なのかなと思いました。

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質問6.対話をするテーマへ、注文や提案はありますか。

・続けていることに空しさをおぼえるときがある、というようなことをおっしゃっていて、そう いうときもあるのかもしれませんが、私には貴重な経験でした。受けた教育の成果を生徒がい つ気づくか、活かせるかわからないように(20年経って、ある先生の言葉に震撼することも ありますよね、きっと)、カフェロゴの経験も、いつかどこかでその人の人生を豊かにしてい ると思います。
そんなロマンチックな次元ではなく、人の話をゆっくり聴く、自分の考えをまとめて話す、信 頼できる場所で、思ったままなんとなく話してみる、といった経験を繰り返せることは重要だとも思いました。習慣までいかなくとも、そういう感覚、振る舞い、雰囲気を身に つけた人が増えることは、社会にとって大きなことのような気がしました。

・今回みんなで朗読と車座になって話すのはとても新鮮でした。

・「心の復興とは何か」
自治体の復興とか、産業の復興とかは目に見える形で進んでいきます。
避難先から戻ってきた人、帰郷したくてもできない人、避難したくてもできなかった人など、差別、分断が進む中で、3.11前に心が戻ることは困難です。
しかし、「心の復興」を求めて、ていねいな対話がますます重要だと思います。


【開催予定】2018年、読書の旅―わたしの読書計画を語る会

2018-02-06 | 開催予定
 
【開催日時】2018年2月11日(日)19:00~21:00
【参加申込】要申込 
 おかげさまで定員満席となりましたので、募集を締め切らせていただきますm(__)m
【会 場】参加申込をして下さった方へメール等でお知らせします。
【カフェマスター】あをだま
【会の趣旨】

遅まきながら、2018年の読書計画・抱負を語らおうという会を開きたいと思います。

「今年はこの名作に挑戦するぞ!」とか、「この作家の作品でマラソンするぞ!」とか、みんなが考えている今年の読書計画(もしくは、勉強計画)について語り合い、聞いたり聞き流したりする会、ということで!(´ω`)
人に話すことで具体性を帯びたり、いいアイデアや掘り下げができるといいな~というねらいです。

自慢の本や何年も積んだままになっている本をもちこんだり、計画表を準備するもしないも参加者の自由です。
壮大な読書の旅行計画を存分に語らいましょう。
大人も子どもも本を読まなくなったといわれて久しいですが、それでもなお本を読むのはなぜなのか。
そんなそれぞれの読書論も聞いてみたいところですね。
あるいは、みんなどんな読書をするのか。
推理小説を結論から読んでいくという人もいるかもしれませんし、表紙を眺めるだけで満足する人もいるかもしれません。
そんな「読書」を語らいましょう。

『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会・資料編

2018-02-02 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
           

 2月24日(土)開催予定である『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と読む会の資料を作成しました。
四苦八苦しながら毎月一度のペースで読書会を続けてきたわけですが、あらためて読み直すのはたいへんだし、要するにどんな話だったっけと、思い出すために活用していただくものです。
 要約なので、大切な部分もざっくりカットしてありますが、そこは各自でしっかり読み込んで、議論に参加して下さい。
なお、参加受付はすでに締め切っていますので、あしからずご了承ください。(カフェマスター・渡部 純)

佐藤和夫著『〈政治〉の危機とアーレント』を著者と語る会     

【開催日・場所】2018年2月24日(土)・飯坂温泉あづま荘
《タイムスケジュール》
13:30~13:45 開会・自己紹介
13:45~15:30 本書の内容についての質疑応答
15:30~15;45 休憩
15:45~17:30 本書が提起する政治の危機についての討議
17:30     閉会


【会の趣旨】
 当初、3,4名で始めようとした佐藤和夫著『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、あれよあれよという間に参加希望者が増え、いつしか10名前後で毎月一度のペースで読書会を行ってきました。しかも、参加者は福島市やいわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内在住の方から、金沢市や和光市のように県外在住の方まで広範囲にわたり、年齢層も20代から70代まで幅広く、多様な職種の方々からなっています。
 驚くべきことは、ほとんどの方が「アーレントなんか知らない」にもかかわらず、とにかく「何かについて考えたい」という衝動や、「なんだかわからないけれど、アーレントって重要らしい」という好奇心だけで参加したという点です。その意味で、哲学やアーレントを専門的に学んだことのない市民が、どこまでアーレント/佐藤和夫の問題提起や思想について思考し、語り合えるのかという実験的な会でもあります。もし、今回参加される方のなかに哲学をご専門とされる方々がいらっしゃるとすれば、この趣旨にのっとり「市民」に寄り添った議論を展開していただければ幸いです。
 今回、「著者と一緒に読む会」の企画を提案したところ、佐藤和夫先生にご快諾いただくとともに、多くの方々にご参加いただけたことは望外の喜びです。心より感謝申し上げます。ぜひ、参加者の皆さんには、一人ひとりが遠慮することなく自由闊達に意見を述べ合い、思考を深められる場であることを共有していただければ幸いです。(渡部 純)


【これまでのスカイプ読書会の記録】クリックすると各回の記録を読めます
第1回 はじめに・第1章
第2回 第2章
第3回 第3章
第4回 第4章
第5回 第5章 第1節・第2節
最終回

【各章の要点・要約】

「はじめに」
(1)本書の二つの目的
 ・これまでのアーレント研究において『人間の条件』は全体主義との関連が明確にされてこなかった。
 ・今日の世界における政治的危機と文明の転換の必要を『人間の条件』から読み解く。
(2)アーレントの危惧と問い
 ・人々が利害に関係なく協働して語り合う「政治」が衰退し、利害をめぐる「社会」にとって代わられた結果、「孤独な大衆」が生まれる。
 ・世界の中で「私的に自分の居場所をもちうること」が失われる現実
 ・現代科学の歯止めのきかない楽観主義
 ・他者と共生する世界への関心の喪失
 このような状況が生まれたのはなぜか?それは「人間の条件」の変容といかに結びつくのか?


第1章 時代の転換とアーレント
1.アーレントはなぜ難しいのか
・アーレントの「政治」概念の独創性が、われわれが用いる近代の政治概念とは異なるため
・『人間の条件』(1958年)が書かれた時期は、政治・経済システムの結合が国民国家の民主政治と矛盾しなかったため、経済問題抜きの〈政治〉を語るアーレントは非現実的と読まれてきた。
・近代民主主義は独裁制を批判できるが、全体主義とつながる民主主義の要素を見えなくする

2.アーレントが生きた時代と重なる現代世界
 第一次大戦でのドイツ敗戦、虚構の「黄金の二〇年代」が中産階層の民主主義や議会制への不信を生み、「上からの強力な支配に救いを求める人が増えた」。
 一方、冷戦崩壊後の金融資本主義のグローバル化、先進国の経済成長の限界により財政赤字を解消できず、経済政策の破綻を緊縮財政による増税や社会保障の削減によって埋め合わせる政策しかとれなくなったことが、「どの政党に投票しても同じ!」という「脱政治の政治」状況を生んだ。

3.アーレントが「政治」の名の下に擁護しようとしたもの
 人々が互いの違いを認め、共同で語り合う「活動」する政治空間(公的領域)は、経済的利害関係や支配・服従関係が入った途端に消失していく。
 そもそも「安全保障」や「生命維持」のための「統治」を意味する近代の政治概念は、「自然状態」の暴力を免れるための「政治以前」のものである。物質的増大と国家規模の経済的成功に国民が動員する現代の政治は「動物的部分」を重視し、人々の個性を奪うものである。つまり、「政治」の問題を生存の問題に従属させることは、「政治的なもの」を失わせるのである。
 「政治的なもの」とは、日常的な有意味性が露わになるのは例外的な「偉業」の中において現われる。それは話し合いと活動に参加する人と人とのあいだにできる空間である。アーレントの議論は「政治」の「経済」への従属化に対する警告である。資本主義でも社会主義でも、工業社会によって所有を奪われた大衆が自分らしさを取り戻すことためには、「政治の権力と経済的権力の分離」が行われなければならないのである。


第2章 『人間の条件』と20世紀
1.『人間の条件』という言葉をめぐって―アンドレ・マルローとブーバー=ノイマンの違い
 哲学が「人間とは何か?」を問うてきたのに対し、人間は環境や制約(条件)との関係の中でしか存在しえない以上、残酷な現実を前にしては、人間がどのような「条件」において悪魔か天使になるかが問われなければならない。
 マルローは『人間の条件』において清ジゾールに「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、〔…〕なんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」と語らせているのに対し、ホロコーストを生き延びたブーバー=ノイマンは「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができた。「考える」営みが個人的性格ではなく、世界との関係において条件づけられること、そして、どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ないことが示される。
 ここには、マルローに代表される実存主義が、「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」というように、「革命」が社会的政治的条件にではなく、「死」という人間の条件そのものに向けられたことに対するアーレントの批判がある。

2.労働の条件と人間の条件―シモーヌ・ヴェイユ
 アーレントがマルクスの労働観を批判する上でヴェイユは決定的な影響を与えた。労働と生命の必要から最終的に解放されるという希望は、マルクス主義のユートピア的空想に過ぎない。どれほど生産力が上がり消費水準が上がろうとも、「労働」という人間の条件から解放されることはない。「労働する動物」という人間観が「政治的な動物」という人間観をないがしろにする。
 ヴェイユにとって労働者は、工場においては厳密な生産労働の時間管理の中で自分の自由は奪われ、自分で働き方を決められる余地は与えられない、必然性に支配されている奴隷状態である。この条件から解放されない以上、「奴隷的でない労働の第一条件」として労働時間の短縮よりも労働者と工場全体の機能・機械との関係、作業中の時間の流れ方を変えるなど、労働者が仕事の過程の主人公となる条件が検討されなければならない。


第3章「自分らしさ」と「私的所有」
1.私的なものの意味(第1章より)
 自分自身の私的な場所をもたないことは、もはや人間でないことを意味する。古代ギリシアでは、「私生活を自分らしく確立し守ること」がなければ公的生活が成り立たないとされていた。その「私有財産」は、もともと「自分らしくあるためのプライヴァシー」を意味したのに対し、ロック以降の近代思想以降(資本主義)、労働のなかに所有と「財産」の起源を見出し、それが貨幣の肯定と結びついてしまったことで、「自分らしさのための所有」が、無限増殖する貨幣の量に還元される「富(カネ)」の所有であるかのように混同されてしまった。そのことが自分の存在の無用感を生み、この世界は私の「自分らしさ」を必要としてくれているという「根なし草」の感覚を喪失させた。

2.「私的所有」をめぐるロック・マルクス・アーレントの思想
 絶えざる生活不安に襲われている人は、公的な関心事に関わる条件に極めて乏しい。元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずだが、もし生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になる。だが、それは「政治」を破壊するものを「政治」が主たる対象にすることである。
 そもそもpropertyには、「所有/自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていたが、ロックが自分の身体の労働と手の仕事によって生じた「物」に私的所有権が発生すると論じて以来、近代社会理論において「物」をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきた。これは自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かった。
 これに対し、マルクスは「富が増大されれば人間の豊かさが実現される」という私的所有論が労働疎外と貧困化へつながるという批判を行った。彼はその原因を労働と資本が対立する社会では排他的な「私的所有」があるからだとし、すべての物を共有する共産主義を提唱した。
 しかし、アーレントはマルクスの「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、私的所有の廃止の後に現れる共産主義社会に、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」していると批判する。アーレントは、一人ひとりが異なる存在であることを認めることが人間社会の出発点とする。この「違い」を認め合える世界の条件を保障するためには、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的」領域・私有財産が確保されなければならない。マルクスは労賃。資本・地代の対立が人類共同のものになれば個人と人類の発達の対立は消えるとしたが、そこには個性の問題が見逃されている。「財産」とは一人ひとりが自分の安心できる「4つの壁」をもち隠れていられる状態であり、その上に公的領域で自分を示しうる条件が保障される。これが奪われた「根こぎ」の蔓延こそが全体主義運動を組織化していくのである。


第4章「労働・仕事・活動」
 この3つの概念はアーレント政治思想の中核である。
 「労働」は「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」を特徴とする。「労働力」は際限のない富の拡大の論拠となるが、これが私的所有の無視につながった。アーレントは、富の増大が話し合いという「政治的動物」の次元には達しえず、他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化されたことへ批判を向ける。
 「仕事」は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。
 また、「仕事」/「制作」はモデル(目的)と手段のカテゴリーに支配されるものであるが、道具から機械に変わっていくと労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始める。さらに、科学技術が蒸気・電力・オートメーションから核エネルギーの段階になると、自然過程に核エネルギーが入り込むと、「目的―手段」の関係が転倒し、自分たちの目的のために打ち立てるはずの手段が世界を破壊するようになる。
 「活動」は「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」という言葉に示される。他者との語り合いの中にユニークネスを示していくのであり(第二の誕生)、人間存在のリアリティやアイデンティティのためには「活動」が不可欠である。人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうることが、その政治空間の条件であり、経済的利害や労働条件によって活動の条件は奪われ、「活動」の忘却が全体主義を招いた。他方、「活動」は不可逆性と不可予言性という性質をもち、それゆえに過ちを犯すものでもある。それに対応するのが「赦し」であり、「約束」が予測不可能性に安定を与えるのである。
 なお、「活動」は家事や出産、教育、介護といった「労働」のなかにも「活動」の特性が見られるという点で、3つの概念で諸活動をひとくくりに区分されるというよりも、一つの職業の中にも3つの概念の要素があるという見方をすることに留意しておきたい。

第5章『人間の条件』に至る思索
1.『全体主義の起源』が生まれる経過―「哲学と社会学」
 経済的豊かさが頂点を極めた社会にあっても、なぜわれわれは精神的な息苦しさから解放されないのか。本書は一貫してこの問いを根本に置いている。マルクス主義は資本主義の矛盾を資本家と労働者の「生産関係」における搾取の矛盾に光を当て、その矛盾の克服を史的唯物論で展開した。しかし、科学的客観的とされた歴史の認識も、それを認識する主体(労働者)自身がその歴史状況に捉われずに認識することはできない。マンハイムは、もしその認識は可能だというのであれば、それは現実から遊離したイデオロギーかユートピアに過ぎず、その点で支配者のイデオロギーを批判するマルクス主義もまた、その批判から免れないことになる。
 では、この両者の拘束から精神が自由になることはないのだろうか。それについてマンハイムは、現実から逃避する「故郷喪失」において精神は存在するという。これに対してアーレントは、精神は現実に拘束されるという点でマンハイムに賛成しつつも、そこから逃避するのではなく、しかもイデオロギーとユートピアにも陥らずに「社会的経済的利害」に対して、自分はどのような方針・態度をとるかという精神活動の中でこそ、「現実」が構成されるとみる。精神の生が世界に位置つけられるとはこの意味においてのことである。

2.『全体主義の起源』の文化的起源の考察
 近代社会では経済的利害に関わる社会の仕組みが現実と見なされることから、経済的運営と富の無限増大が主題となり、市場から排除された「経済的には余分で社会的には根扱ぎにされた人々」は全体主義という装置によって抹殺すればよいという発想がくり返し生まれてくる。
近代国民国家ではタテマエとして誰もが人権をもっているが、一方で「無用」とされる大衆を生み出す経済システムをもつという矛盾がある。そこに自分たちの利害を何らかの形で代表する組織をもちえないと人々が感じるとき、公的な問題に関心をもたない「大衆」が出現する。現代でいえば「無党派層」という存在がこれにあたる。
 アーレントは、大衆の成立は教育の平等化・平均化によるのではなく、近代の階級利害制度の崩壊にあり、競争原意の中で著しく孤立したがゆえに自己中心的になっていったと分析する。この自己喪失の現象が全体主義を支える大衆を成立させた。
 なぜユダヤ人絶滅が可能になったのか?一つは、絶滅は計画的大量生産的な人口政策として、主観的には罪を感じないやり方で数約万の殺戮を組織した点にある。二つは、全体主義運動が「歴史の法則」・「自然法」に依拠し、人間社会はその法則実現のための素材となるとした点にある。この根底には人間の自由=活動の偶然性、不可予言性そのものが邪魔になるという思想がある。この法則を実現する運動に邪魔なものを除去するのが「テロ」であり、テロに支えられた法則の実現対応する観念形態が「イデオロギー」である。イデオロギー的思考は一切の経験から独立し、五感によって知覚される現実から離れることで、現実から生み出されない論理および首尾一貫性の強制力に支配される。
 そこでは3つの孤独と精神のあり方が重要となる。①政治的孤立Isolationは、共同のための活動が破壊されたときに生じる孤独だが、経験・制作思考する私的領域は残される。②見捨てられた孤独lonelinessは、プライヴァシーを奪われた根無し草としての全体主義の人間性である。③自分自身といっしょにいることができる単独solitudeは、自己内対話=思考の条件であり、自分の仲間たちとの世界との関係があらわされており、世界を失うことはない。
 大衆の深刻さは②が日常経験となり、政治的なつながりも一人になることもできない状況が蔓延することで、全体主義が生み出される点にある。しかし、人間の「始める」自由はいかなる論理、演繹も力をもたない。人間は流れに抵抗し、まったく新しいことを始められる能力を持つのである。

第6章 現代科学技術と『人間の条件』
 全体主義の問題を考えてきたアーレントが、『人間の条件』のプロローグにおいてスプートニクショックという現代科学技術のエピソードから始めてるのは、科学技術の歯止めのかからない「過程」的性格が「政治」を破壊しかねないと考えたからである。
 試験管ベイビー、人工授精、100歳まで寿命を延ばすこと、オートメーションの発展が人間を労苦から解放するという夢が実現されている今日、「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」を踏んだのが人工衛星の打ち上げだった。しかし、地球という生命体の条件から抜け出ることは人間存在の条件そのものを破壊する。
 近代思想は「労働」の労苦から自由になろうとしても、その自由が何のために使われるか知らないためにマルクスのように「労働者の社会」を超えることができなかった。オートメーションによる生産力の増大は動物的な消費欲望の肥大化を生み出し、それが豊かさであると錯覚させただけである。それ以上にAIロボットが人間の協同作業にとって代われば、コミュニケーションという「政治」の条件が破壊されないか。
 遺伝子操作や人工授精など有機生命の人間の条件を変えるかどうかは、「第一級の政治的問題」であるが、現代科学の言語は「もはや普通の言葉や思想の形で表現できない」。となれば、話し合う能力がノウハウの奴隷になりかねない。今日、話し合いは予定された結論を引き出そうとしたり、力のあるものが形式的に他人を説得して合意を強制する手段となっている。しかし、話し合いは予想もしない「新しい」ことが生まれるかもしれないから行われるのだ。
 アーレントはこの背景に科学的「真理」とされる言語が生活全体に影響を及ぼし、五感による判断や日常言語に翻訳しなおして議論できない問題を見る。だから「科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明」なのだ。加えてアーレントは、科学の方法は人間が設定した特定の条件で「拷問」をかけて成立するものであり、人間の想定を超えたものを無視する点、そして人間が生活で考え、語り合う「意味」の世界を駆逐してしまう問題を指摘する。
 近代科学が宇宙科学へ変容したのは、ガリレイ、デカルト以来の必然的な流れの結果である。宇宙へ飛び出した科学は地球に束縛されたままだった人間の限界を超え、以前は想像に過ぎなかったものをガリレイの望遠鏡は肉体的感覚でつかまることをもたらした。デカルトは、さらに人間の感覚能力という制約を超えて、科学を理性による数学に還元した。その結果、宇宙科学は地球に束縛されず、宇宙でしか実現されなかった無限の核エネルギーを地上へ持ち込んだのである。アーレントは人間が科学技術を「利用する」という表現が不適切になっていると指摘する。「道具や器具を機会に置きかえる」テクノロジーは労働者を機械の奴隷にする。これが核エネルギーに導入されると、人間のコントロールを超えた流れが「自ず」と生まれてしまい、とめどない「過程」性に襲われるが、これは「労働」支配の構造も特徴づける。
 これに対してtangible「蝕知性」がアーレントの「活動」にとって重要である。労働や科学において「話し合い」は無駄とされるが、『人間の条件』はこの共同が破壊されるのはどのような条件なのかを、近代全体から問い直そうとした。科学が宇宙へ飛び出すのと同時に、非飛び地は世界から自己自身へ逃亡飛行する。これを世界疎外と呼び、生存の利害闘争以外に政治の意味はないとした近代の根深い病である。
 アーレントは、民衆自らが世界に意味ある存在だと感覚をいかにして確保して生きていけるかに関心をもつ。人々が利害に煩わされず平等で自由に活動できる機会を強調したアーレントは、政治権力と経済権力が分離し、成長を前提としない福祉国家を希望した。西側諸国が社会主義国より自由であったのは、資本主義によるのではなく、市民のプライヴァシーを守ろうとする制度のおかげである。
 また、現代科学技術の巨大さと複雑さは私たちの手に負えないかのように見え、市民が対抗できる可能性は極めて限られているように見える。原発事故では自分の経験を語りあうことが対立や偏見を生むかのようである。これが象徴するのはアイヒマンやイーザリーのように数十万数百万という虐殺の「数字」が人間感覚の閾を超え、思考を停止させ。そんな今日、自分の経験を語りあうことの意味は、私的に語られる以上にどれほどの意味があるのだろうか。
 科学技術の自律的な「過程」性に対して、アーレントは「政治」を提起する。科学技術が目的―手段のカテゴリーでコントロールできる「制作」の論理ならば、人間の営みはありえないことが起きてしまう「政治」の原理を対抗させるしかない。