何ともつらい読書経験だった。
約30年前に一度読破したとはいえ、ストーリーなどまったく覚えていないまま臨んだ再挑戦は、しかしあのときに感じたことをたしかに思い出させてくれた。
そう、「ぜんっぜん読み進められない!!」という感想を。
ガルシア・マルケス著『百年の孤独』は、マコンドという想像上の共同体の開拓から消滅までの100年を描いたもの。
ただひたすらその村(町?)で起きたエピソードが書き連ねられていく。
一つひとつのエピソードは、なるほどハチャメチャなものもあれば、日常的なものもあるものの、それぞれを読んでいるだけで十分おもしろい。
ただ、物語の起伏はほぼない。
起承転結などない。
そのことが、ただただ文章を追うだけの作業に退屈さを催させる。
だからといって、読み飛ばしをすれば、途端に話が分からなくなるため、一行も読み飛ばせない。
ななめ読みなどももってのほか。
じっくり、鈍牛のように文章を丁寧にたどる。そして寝る。これのくり返しでなかなか進まない。
自分だけが読書の才能がないのだろうか。
しかし、読書会という場が素晴らしいのは、そんな卑屈な思いを共有し、払拭させてくれることだ。
まず競われたのは、何ページ読み進められたかの順位だった。
読破した参加者は3名。
私は100頁で第4位。
第5位は50頁。
第6位は15頁。
これで読書会が成立するのか。
しかし、今回わかったことは『百年の孤独』は読破できない困難にこそ、この作品の本質を理解する重要な要素があるということだ。
そもそも、なぜ『百年の孤独』なのか?
「孤独」は誰にとっての「孤独」なのか?
なぜ、こんなに読むのもつらい小説がノーベル文学賞作品なのか?
こんなことが今回の主題になった。
ある参加者が「これは婆ちゃんの話を作品化したもの」といった。
なんかわかる。
帰省するたびに齢75を過ぎた老母と叔母が最近、やたらと親戚のエピソードを語りたがる。
誰だれちゃんが何をやっただとか、その親の誰だれは何々で、〇〇のときに何々をしてたとか、とりとめもない親戚の、しかも聞いたことがあまりない名前を懐かしそうに語るのだが、もはやどういう人間関係かわからずに家系図を書いてもらう始末だ。
そう、マコンドに登場する無数のひとびとも、しかも似通った名前と長ったらしい名前に、読者がまず辟易するのは、何度も元のページに戻ってどういう人物だったか確かめる作業だろう。
いちいち登場人物を把握しなければ理解できない、というのは途中からばかげたことだと思い直す。
実は、この読書体験そのものが自分たちの家を語る際に生じる経験ではないか。
いちいち系統だって理解することなど、実家で飲みながら家族の話を聴いている時にはしないものだ。
ああ、そういう人もいたのか、という思いに浸る程度だろう。
この本を読み通しているとそんな思いばかりが去来する。
物語性など実は何もない。
ある意味淡々とした村の記録、家の記憶の羅列である。
作品の中にしばしば登場するキーワードは「忘却」である。
個々人のエピソードなど実は本人も覚えていない。
なんとかそれを繋ぎとめようと努力することもあるが、あまり意味がない。
さもない出来事が日々くり返され、人々は忙しく何かしらやっている。
歴史的な大事業ということではない。
マコンドという空間の中で、ただひたすら延々と人びとがドタバタ騒いでいるのを定点観測的に描かれる。
そんな作品に何意味あるのか?
それぞれのキャラはおもしろい。
だから、これって実存的な表現なのかといえば、むしろ逆。
近代史小説が個々の内面を描いてくることに四苦八苦してきたことを花であざ笑うかのように、そんなものに無関心であるのがこの作品。
むしろ、そんなドタバタを包み込んだ「世界」そのものを描くとこうなるのだ、というのが『百年の孤独』なのではないか。
一つの画面に多様な人間模様を描いたブリューゲルの作品を彷彿とさせる。
一つひとつの場面は確かに興味深いが、それをすべて包み込んでいる世界をブリューゲルは描いた。
描きたいのは「世界」なのだ。
しかも、グチャグチャのまま、100年という時間のなかで繰り広げられる、5世代にわたる人間模様。
殺しもあれば、亡霊も存在する。土を食べる少女もいれば、奇天烈な科学者みたいな変人がいる。
魑魅魍魎の世界といえばそうとも言える。
そんな世界が居心地がよいのかといえば、心はいつもかき乱され、平穏さとは無縁だ。
それでも、そんな感情とは別にここの住民たちは、意外とマコンドを根とし、安心感に包まれて存在しているのではないか。
それが世界のリアリティというものだ。
世界のリアリティ?
マコンドの世界を読んでいると、幼い頃に盆暮れ正月だけ過ごした祖母の住む奥会津の村の風景がよみがえる。
色々な村人がいた。
正月に泥酔してやってくる片目のおっちゃんは、人の家に来て暴れまくってとにかく恐ろしい存在だった。
戦争で打ち抜かれたという目に入る義眼は、子どもにとっては異様さそのもの。
せむしのように腰の曲がった婆ちゃんは村に何人もいた。
同い年の友だちのお父ちゃんは、ある日クマに襲われて顔の半分が削がれてしまった。
近所のっちゃんは雪下ろしの最中に雪に埋まって亡くなった。
食卓は薇、蕨、キノコの山で、動物性たんぱく質がほぼない。
海苔は湿気を通り越してかぴかぴになっているが、婆ちゃんはそれを何食わぬ顔でほおばる。
都会から来た少年にとって、その村は異様な世界そのものだった。
けれど、おそらく彼・彼女らにとっては「世界」とは「村」の生活とべったりくっついて引きはがせないほどのリアルさがあったんじゃないか。
そんな世界にとって、人間のグチャグチャした日々の所業など関係ない。
そして、開拓で始まったその世界は、突然に消滅する。
人間の思惑など関係ない。
それにしても読みにくい。
ということは、こちら側がなぜ読めないのか、それを照らし出してくれる作品だともいえる。
思うに、理解できる小説とは何において理解できるようになっているのか。
登場人物への感情移入、起承転結の物語性、因果論などなど。
それらを全部ひっくり返して描いているのが『百年の孤独』の世界。
そういえば、最近の日本の小説作品が「生きづらさ」を主題にしているのが多すぎることに辟易しているが、これだって世界は痛いもので、撤退したいもの、リアリティなどないという意識の反映ではないか。
世界そのものに存在感を得にく時代に、世界そのものを描かれると途端に捉えようがない、為すすべないという戸惑いこそ、『百年の孤独』がつきつけるものではないか。
さて、なぜ「百年の『孤独』」なのだろうか、という問いに戻る。
英語版のタイトル”はOne Hundred Years of Solitude”
これでみんなが閃いた。
” Lonliness is not Solitude "
日本語で「孤独」と記述されると、どうしてもLonlinessのニュアンスで捉えてしまうけれど、むしろこれは独立、自立のニュアンスがあるSolitudeであるとすれば、これは100年間の独立=自立した存在としてのマコンドの孤独という意味ではないか。
孤立と訳すこともまた、孤立無援のニュアンスが付きまとうが、しかしその独立=自立体としてのマコンドでは有象無象の人間模様が繰り広げられている。
つまり、この複数性を内包することにおいて100年もの孤立=独立=自立体が『百年の孤独』の意味なのだ。
それは近代的な読みである個々人の寂しさとか、そういうものとして読むものではない。
マコンドという世界の孤独、しかもそれは100年という時間が過ぎて突如、因果論的に説明できないものによって消滅に至る。
そんな世界が、おそらくこの地球上にごまんと存在したのだろうと思う。
こんな読みは的外れなのかもしれないけれど、たった一人で読んでいたんじゃ絶対に至れない境地だった。
読書会の妙にまたもややられてしまう一日であった。 (渡部 純)
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