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第11回エチカ福島「原発事故8年後の沈黙を考える―映画『THE SILENT VOICES』」

2019-01-27 | 〈3.11〉系
     

【テーマ】「原発事故8年後の沈黙を考える―映画『THE SILENT VOICES』」
【日 時】3月9日(土)13:30~17:00  
     13:30開会 
     13:40映画上映(73分) 
     15:00ゲストトーク×会場とのダイアローグ
     17:00閉会   
【場 所】福島市市民サポートセンターA1・A2
【ゲスト】監督・佐藤千穂×ルカ・リュ
 
  佐藤千穂監督      ルカ・リュ監督
【申し込み】必要ありません
【参加費】500円(資料代等)
【共 催】エチカ福島×カフェロゴ
【開催趣旨】
 今回、エチカ福島との共催で上映させていただく映画『THE SILENT VOICES』は、フランス在住で福島出身の佐藤千穂氏とパートナーのルカ・リュの共同監督作品です。
〈3.11〉当時、フランスにいた佐藤監督は、日本の外から故郷の家族や友人・知人の健康を危惧していました。
しかし、その年の夏に帰国して見た福島に棲む家族は、彼女の想像とは異なり、それ以前と変わらない日常を過ごしていました。なぜ、家族が放射能汚染を気に留めず毎日が送れるのか。
この問いを抱き2015年と2016年にかけて、二人は福島の撮影に入ります。
そして、その過程で見たものは「放射能汚染がないようにふるまっている方が楽ということ」でした。
しかし、同時に家族たちは放射能の問題については話題を避けます。
『THE SILENT VOICES』というタイトルには、この福島における沈黙、あるいは〈語りにくさ〉への問いが込められているのです。

 2016年、私たちは第8回エチカ福島において阿部周一監督のドキュメンタリー映画『たゆたいながら』を視聴しながら、監督とのトークセッションを開催しました。
同作品は、原発事故による放射能汚染の不安から避難した人々と福島に残った人々の葛藤を描きながら、被ばくをめぐる〈語りにくさ〉を問うたものです。
自ら福島市出身の被災者である阿部監督の根底には、原発事故をめぐる家族と自己への問いが存在していました。この点は佐藤監督の問題意識も重なり合うものであり、この二つの作品の系譜から共通性と差異性を浮き彫りにすることは、私たち自身の〈語りにくさ〉を問い直すことに通じます。

 今回のエチカ福島では、佐藤監督とともにフランス人として日本の外側からこの〈語りにくさ〉という現象を見つめたルカ・リュ監督をお招きしてゲストトークをいただきます。
この二人の映画監督の問いと発見は、原発事故から8年を経てもなお、福島に生きる人々にとっては鉛のように重くのしかかるものでしょう。
佐藤監督は「見たくないものを見ることはとても辛い。同時に家族が見たくないものを見せるのもとても辛い」と述べています。
この言葉には本作品の誠実さと繊細さがにじみ出ていますが、この思いを共有しながら私たちもまた原発事故から8年後の自己に向き合う機会にしたいと考えています。

第11回となるエチカ福島との共催は、映画『THE SILENT VOICES』の上映、二人の映画監督のゲストトーク、そして会場とのダイアローグを行います。ぜひ、多くの方にご参加いただければ幸いです。          

〈名誉殺人〉を問い直す―『ムスリム女性に救援は必要か』を読む会・まとめ

2019-01-20 | ジェンダー


初のブック&カフェ清学舎さんでの開催。
本に囲まれた素敵なカフェです。
当初、5,6名の集まりを想定していたので店内にある小部屋を予約していたのですが、定員越えの9名が参加したこともあり、直前になってカフェのメイン空間を使わせていただくことになりました。
清学舎マスターの山口さん、清野さん、本当にありがとうございましたm(__)m
珈琲もぜんざいもたいへんおいしゅういただきました。
さらには参加者の半数が南相馬、いわきからお出でいただいた方々です。ありがたいことです。

しかし、テーマは〈名誉殺人〉です。いきなり陰惨です。
実は、今回の開催テーマは、カフェマスターである渡部が本書の訳者の一人である嶺崎寛子さんからイスラーム・中東の文化人類学研究会の合評会のコメンテーターを依頼されたことが発端です。
しかしながら、ワタクシはイスラームの「イ」の字も知りません。なぜワタクシに?
そのような立場から、しかも専門家ではない市民の方々が読んだ場合にどのような反応があるのかというのが依頼趣旨でした。
困った挙句に思いついたのが、この言論の場を開くことで皆さんに「福島市民から見た〈名誉殺人〉」はどのようなものか教えていただくことです。
さらには近所にお住まいの中東や東南アジア、インドで国際NGO活動を経験された藤岡さんと竹内さんにお願いしてご参加いただきました。
本書は国際的な人権団体へ批判を差し向けていることから、お二人が読まれた場合どのような感想をもたれるか関心があったからです。
それ以上に、世界で国際協力活動をされてきたご経験から〈名誉殺人〉という問題をどう見るのか、参加者の皆さんにぜひ共有していただきたかったからです。

というわけで、以下、島貫さんに記録していただいた文をもとにまとめたものです。



マスター(渡部):名誉殺人のドキュメンタリー番組を見ましたか?その感想や〈名誉殺人〉のイメージを話してもらうところから始めましょう。

A:テレビでたまにやっているのをちらちら見たことはある。殺人というところとか、女性にたいする行為をみてしまうと、絶対許すべきではないと思ってしまう。しかし、そういう行為を行う背景まで見たときにどういう答えが出せるのか?イスラムに対する知識が無い状態では正解が出せない。

F:そうですね、こういうことは(国際NGO活動の経験を通じて)あるあるという感じです。こういうことはバングラデシュでもあって。早婚を防ぐ活動をしている人がいました。

A:殺すのはダメでしょう。それはみんな共有しているんじゃないかな。しかし、親族が殺すというのが強烈な印象です。

T:国際NGO活動の現地では知らなかった。帰ってきてから知った。NHKの番組は二度目(以前みていた)。こういうことは程度の差こそあれ、いろんなところであったんだろうな、ということは思った。日本でもあったはず。たまたまムスリムのところでやられたから「イスラム教が原因」っていわれるのは違うと思う。番組で一番衝撃的だったのは、殺害された後にうち捨てられるというところでした。死んだのなら罪は償われたのか、と思ったら、お墓もない。死体を埋めただけという部分。そこが衝撃的だった。

TA:たしかに日本でも殺人の頻度は少ないが、家族に対する暴行というのは多かったと思う。そういった意味では、国とか宗教が違っても、家族が殺人を犯すというのはあるのかなと思う。どんな環境にあったのかが分からない。閉鎖的だったのかどうか。何がそうさせたのかを知りたい。

H:今日本での殺人の状況という話が出たが、日本の殺人のケースで一番多いのが親子、あるいは身内ということがある。日本でも「名誉」とはつかないけれども、親子、血筋がつながった殺人は頻繁に(むしろ日本が)起こっているのではないか。本書には西欧の人道主義がムスリム女性たちををどうにかして救ってあげたいという話を(批判的に)書いてあるが、自分達の方がこのムスリムの世界よりももっと残虐な世界に平気で住んでいるかもしれないと思った。

A:宗教なしでは考えられないのかなとも思っていたが、番組を見るとそうでもないなと思った。宗教とは関係がないというのはそうだなと思った。その共同体の中にいる何かなんだろうなと思った。ではこの父や叔父はどんな心境で殺しに行くのか、そのメンタルを育てた環境はどんなものなのか疑問をもった。宗教とは関係ないのかもしれないけど。日本でも村八分とかあったわけで、それは遅れているからという訳でもない。ついこのあいだまであったといえばあったといえる。では、なんでそういうふうになるのかな。「名誉」がつくから変なのかなと思った。殺人だけだったら日本だってたくさんるわけだし。

マスター:変だとはどういう意味?

A:なんで「名誉」とつけたのか、何に対しての名誉かなと思った。自分が「イラッとしたから」というなら普通の殺人とは違う。名誉とつくから、それを一つのカテゴリーだからおかしいでしょといっているようにも思う。誰が名誉ってつけたんだろう。

T:あの番組でも、胸張ってオレは殺すべきだといった人と、その村にいられなくなっちゃうから殺さざるを得なかったという人と、娘を殺すことはできないから一家で逃げてきたという人と、その共同体の中でも色々なレイヤーがあると思った。

マスター:レイプされた女性も、犯人は捕まったが、無罪で釈放される。襲われた方が悪いと殺されかねない。マララが番組冒頭で出てきたが、啓蒙されていない女性も知識を学べば、自分の権利を主張できるし自分の人生が自分で開けるという文脈で番組がつくられている。Hさんが本書から読み取ったことはそれとは違うだろう。FさんがNGO活動で経験されたバングラデシュの「早婚」のことを話していただけませんか。

F:バングラデシュの例。15歳までに結婚させるというのが農村部では多い。政府では啓蒙もしているが、それでも多い。ただ、それはムスリムの家庭に限ったことではなかった。ヒンドゥーの差別階層の低いカーストの娘が結婚させられているというのがあった。村のムスリムとヒンドゥーの女子グループを作って活動していた。どちらかといえばムスリムの少女の方が教育を受けていた。ムスリムの女の子たちが、家に早婚を止めようと親に説得にいったという例もある。結局結婚するまで貞節を守るというのがその家やコミュニティの名誉なのだ、それを破ることが許されないということから、殺人を犯すということで、「名誉殺人」と呼ばれているのかな、と。

マスター:早婚を強いられそうな子供に対して、それを止めようとした子ども達もいたということですが、それがどういうことかと知っている少女たちもいる。知らないとその中に入ってしまう。知識の有無が「早婚」という暴力性を認識できるか否かの差なのかな。

F:補足押しておきます。早婚は結婚させられる女の子もイヤはものは嫌なんです。しかし抵抗できない。親がそれを押しつけてきたら逃げられない。
バングラデシュの場合(パキスタンもそうかもしれないが)持参金問題もからんでいて、年齢が大きくなると、新婦側に要求される金額が大きくなる。だから貧乏な家は早く小さいうちに結婚させようとするということがある。

マスター:そろそろ本の話に入ります。本書は基本的にリベラル人権派が無知なムスリムの女性を救ってあげるという物語は関係性がフェアじゃないという主張が一貫しています。この論点は私のなかではまだまだ整理がなかなかつかないので、この問題をどう考えたらいいのか。レジュメに沿って皆さんで考え合ってみたいと思います。
ライラ・アブー=ルゴドは、エジプトを専門とするアメリカの人類学・ジェンダー研究を専門とするコロンビア大学人類学部教授です。
本書は「なぜ欧米人は「ムスリム女性は抑圧されている」と信じているのか」という問いを端緒としています。
欧米人はイスラームこそが女性を抑圧していると信じている。けれど、彼女の友人であるムスリム女性は「え?そんなわけないじゃない!それは政府のせいよ」という発言を引用しつつ、「虐げられているムスリム女性」というイメージが現地の女性をイスラーム文化から救うという使命と結びつけられるようになったことを批判的に検討することになります。
その例として女性器切除、ヴェールの着用の強制、名誉殺人、酸攻撃、サティ(寡婦殉死)がありますが、そこにはイスラーム教徒に対する恐怖であったとします。
こうしたムスリム女性に対する西欧中心主義的な表象、つまり虐げられたムスリム女性たちは「野蛮人」たちの手から啓蒙された「救済者」によって救い出され、新しい人生を得たという「物語」の問題性を指摘します。
そして、そのイスラーム「文化」に根拠を求めることで家族問題、性の問題、土地問題等が捨象されてしまうことい警鐘を鳴らすわけです。
とりわけ、ムスリム女性を対象とする本が必ず「選択」と「自由」に価値があると主張する点に問題があるとします。
「選択を可能にする相対的権力の有無を決定づけるのは、単に性別や文化なのだろうか。選択肢があることが人生の価値を測る唯一の指標ではない人々のことをどう捉えるのか」
ここからアブー=ルゴドは「権利という概念によって人生を評価するそのやり方が、様々な女性たちに何をもたらして(そして奪って)いったのかを問いたい」と問題を提起するのです。
皆さんの先ほどの発言からも家族や政治、経済が問題にされずにイスラム教だけが問題にされているという指摘がありました。まさに、アブー=ルゴドの問題提起とシンクロする部分が多いなという印象をもちました。

F:この最後の問題提起はよくわからない。ただ、本当に西洋人と同じようなライフスタイル、結婚のし方とか選択のしかたとか、それが善であり上にあって、そうじゃないのは下だとかそういうことになると、ちょっとそれは慎重になる必要があるなとは思った。バングラデシュはお見合い結婚が多かった。父親として娘の結婚をまとめることが父親の責任ということがあって、やっと娘の結婚をアレンジできたということがあった。それで納得して幸せに結婚生活を送れるという女性もいるし、早婚や女性に対する暴力に反対するという活動をしてきた男性もまた、自分の娘のときは、結婚をまとめるのが父親の勤めという考えを持っていた。一緒くたにはいえないなという印象がある。

T:娘の親がお金を払うというのは結納金という意味とは違うのか?

F:それがもともと伝統的にあった慣習なのか、インドのヒンドゥーの慣習が流入していったのか。近代化の中でお金が欲しいということでエスカレートしていったのかもしれない。

T:自分の祖母なども早婚だった。その結婚がうまくいっていなかったのかというとそうとも限らない。難しい。元々持参金があったのか?

F:お金と早婚とは別かもしれない。早く結婚させるというのは日本でもそうだった。悪い虫がつかないうちにとか、食い扶持を減らすためにあったのかもしれないし、女性は若ければ若いほどいいという価値がやっぱりあったんじゃないか。今はバングラデシュだって、都会の方では早ければ早いほどいいという感じではない。地方でも地域差がある。一概にひとくくりではいえない。ムスリムの社会は、とかいうのは危険だ。

マスター:ルゴドっていう人は、選択とか権利とかというものではない、伝統的な文化で生きている人たちに割と身を寄せて書いている感じがする。マララのように女性も知識を得て、リベラルに生きていくことを主張することが、そうではない共同体で生きる人生を受け入れている人々に抑圧に働いていることを無視するなよ、彼女たちに主体性がないなんて見下すなよっていうのがルゴドのスタンスなんだと思う。

T:ルゴドはムスリム?母親はムスリム系?

マスター:中東にルーツがあるみたい。翻訳者の峰崎さんは正月ウズベキスタンにいったそうですが、藤岡さんが翻訳された『沈黙の向こう側』を紹介したら関心をもったみたいです。では、第6章の「「名誉犯罪」の誘惑」に入っていきます。

名誉殺人は女性が性的な規範を破ったことで失墜した家族の名誉挽回のため親族が女性を殺すことと定義されますが、アブー=ルゴドはムスリム世界における女性の悲惨な状況を描き出すべくつくられた文化―法的カテゴリーのうち、きわめて象徴的なものの一つとします。もちろん、イスラーム法もムスリム・コミュニティも名誉犯罪を認めてはいません。にもかかわらず、それはイスラームととくに関連があるとされてしまう問題があるわけです。
「名誉犯罪」と名づけることには、①ムスリム世界に着せられた汚名を強化するリスクと②それが女性を公正に扱うことに必ずしもつながらないというリスクがあります。
名誉犯罪」と付ける意味があるのかなとAさんがいったが、そのカテゴライズがむしろムスリムに対する偏見を増長させるのではないか、とルゴドは言っている。
たしかに暴力を名指すことは有益でもあるでしょう。日本でもDVと名指されることによってシェルターができるなど有益な面もある。
しかし、それでもを名誉殺人を文化のカテゴリーで名指さないことはできないか。
名誉犯罪がある民族に特有の行為であると説明され、文化や伝統がこの犯罪的暴力の原因と見なされるがゆえに、特定の暴力ではなく文化全体や共同体を糾弾することにつながります。それが結果的にムスリムへの敵意や女性への暴力に結びつくわけです。
特定の共同体を糾弾したり例外的と見なすことなく、女性に対する暴力を認識することはできないか。これがアブー=ルゴドの問題提起です。
本章で明らかにする問題として次の4点が挙げられています。
① 名誉犯罪は道徳規範を単純化し、名誉が道徳規範や価値の中核をなしている社会における男女の関係を曲解させること
② 名誉犯罪を特定の文化ならではの暴力形態と定義することで、巧妙に世界を文明化された社会(西欧社会)とそうでない社会を二分すること
③ 名誉犯罪に執着することで近代国家の制度や統治技法など暴力事件とそれらを理解されるカテゴリーに不可欠な要素が完全に不可視化されること
④ 名誉犯罪について考えることが一種の非政治化装置として働き、社会変容や政治的利害対立の存在を捨象されてしまうこと

女性達が「名誉」という概念を受け入れていることをどのように理解するか。ベールをまとうということは性的対象としてみられたくない。尊敬を要求する文化的な意義があるという面もある。「名誉」が重視されている社会で女性がそれを受け入れているということを無視するなと著者はいいます。私たちからみると「名誉殺人」は単に家父長制の抑圧として捉えてしまうが、女性達がそれを受け入れている現実をどう考えるか。皆さんはどう思うのでしょうか。

H:家父長制的考え方は日本で復権している。

S:NHK朝の連ドラ「まんぷく」もだんなさんに敬語使っているのも違和感を感じる。

T:時代考証的にはそうなんじゃないの?

F:でも、ふくちゃんになったのはなぜ今あれなんだろうとは思う。

S:今までは反骨的な女性ものが価値的だったけれど、今になってああいうのが当たり前になってしまっているのでは?

H:家父長制とは違うかもしれないけれども、「何とかくんのホームラン」(「星野君の二塁打」のことか)という小学校道徳教材を想い起した。監督のバントサインを無視してホームランを打ち、監督に怒られるという話。

F:ホームランは、和を尊べっていう話ですよね。チームのために。

マスター:あれは道徳的ジレンマを議論させて結論は出さないオープンエンドの教材だったはず。その場を自分の判断で進むのか、あくまでチームという秩序を優先させるべきかみたいな。

SM:それがまさに「選択」ですよね。既に選択が入っているからそれは邪悪です。つまりどっちがいいのかって問うのが邪悪なんですよ。だから、共同体のなかで女性がいいって言っているのをどうするかっていうのは邪悪。ルゴドさんはそれを戦略的にやるとぐずぐずになると思う。僕から言わせると
共同体の中に理由があるっていうのはダメだと思っている。そんな理由はないから。だったら殺してもいいっていう話になっちゃうから。僕はやっぱり殺すのはダメっていう感じ。生き物としてね。ただ文化的には受け入れているといえばsの通りでしょう。だけど、それを前提として殺していいというのは違う。西欧も偏見だけれど、名誉を受け入れているのも偏見だから。認識と行為の前提は別。名誉という価値があることと価値判断をすることとは分けなければいけない。文化相対主義なんて死ねばいいと思っている。

マスター:僕の倫理の授業では〈名誉殺人〉や「性器切除」の話を教材にしてきました。生徒はみんなドン引くけど、そこにそれは普遍的に悪いのか、文化相対主義かという問いを出してしまう。でもそれってルゴド的に言えば、普遍的に正しいかどうか問うことが間違っていて、政治や経済や社会的要因を無視させる思考をもたらしていたなという思いはあります。ルゴド的に言えば多様な人生がある、いろんな文脈を普遍的正義で思考させようとすることで、それらを抹消させてしまっているというのは当たっているかなと思う。

SM:いきなり価値観でダメっていうのはあほですよね。でも相対的な事実があるからといって殺人がOK ということにはならない。

S:文化的に殺人が容認されていることがあって認めているわけでしょ。

マスター:それがほかに政治とか経済の原因が見えなくさせるというのがこの本の基本的な主張。だからといって、彼女は名誉殺人がいいとはいっていない。名誉が第一の価値にある世界ではやむを得ずそうしてしまう状況もあると理解してほしいということを理解せよというのが著者の眼目じゃないかな。

H:日本もつい最近まで名誉重視だった。特攻隊まで。

マスター:その危うさはあるかもね。

F:ねじれてるところもある。アブー=ルゴドはムスリムかもしれないし、それとアメリカ人としてのねじれがあるかもしれない。それでも、ムスリム共同体の中にも「こんなものイヤだ」っていって変えようとしている女性たちもいると思うんですよね。そこを外からやいのやいのいうのはやめろよというのももどかしい。ダメなものはダメだよと、そう思っていて外の人とつながろうとする人たちもいるじゃない。その人たちのことはどうなるの。

マスター:僕もその側の人びとのことが気になっている。むしろ、ルゴドは文字も読めない言葉も持てない人たちの側に身を寄せている感じがする。
この問題を考えるにあたってフォーラム福島の支配人に相談したことがあるけれど、映画に精通している彼でもムスリム文化の映画はなかなか思い当たらないと言っていた。そのなかで彼が挙げたのはマルジャン・サトラビの自伝的アニメ映画『ペルセポリス』とモフセン・マフバルマフの娘サミラ・マフマルバフの『リンゴ』。『リンゴ』は家に監禁されていた姉妹を社会福祉士が解放して外に開かれて行く話。しかし、障害のある父親は娘を守るために監禁していたと主張し、社会的バッシングを受けている姿が描かれる。頑迷なムスリムの親からの解放という物語性がある一方、その親の論理が単に人権侵害的だったのかどうか考えさせられた。

F:芝原みきこさんの『ムスリムの女たちのインド』という本がある。インドのムスリムの人が住んでいる農村に住んでそのことを書いている。
静かに暮らしているが、いろんなことが起こる。いろんな人がいる。神がかりになる子もいる。そこの中での価値観で生きている女性達を描いた良書。

T:難しいですね。さっき「選択」の話があった。本書P103のところに書かれた「潜在能力」のことで、選択と自由に価値があるというジャッジの問題と関係あるのでは。

F:さっきの名誉を重んじる社会を人権の視点から断罪するなという点に引っ掛かるのは、名誉を重んじて平和に生きている人たちはいいけれど、いったんその社会からはみ出してしまったら、もうその人たちにとっては過酷な世界ですよね。場合によっては命や居場所を失ってしまいかねない。

マスター:第2節「リベラルファンタジーの強制」に入ります。名誉犯罪のサバイバーによる商業的自伝としてノーマ・コウリー『失われた名誉』(英版『禁じられた愛』)とスアド『生きながら火に焼かれて』を挙げています。これはまさにアブー=ルゴドにとっては問題作。西欧の自由な女性対囚われの身のムスリムという構図から、「彼女たちは何世紀もの間抑圧の軛を負わされ続けたゆえに、自ら声を上げることができないのです」と自由な生王子が抑圧されたムスリム女性を救出するという文脈があるといいます。さらに問題はそれがねつ造本であるというのです。そこには個人が性的規範を踏み越えることや個人の自立に高い価値が記述され、西洋には貞女さや宗教的道徳主義、非寛容、人種主義、監禁、性差別、経済的搾取、不平等などの非リベラルな価値観は存在しないかのように記述されています。これはまさにサイードの言う「オリエンタリズム」でしょう。

第3節「軽んじられるガバナンス」について。草の根団体や国際的団体による/のための人権や女性の権利に関わる報告書は異なる政治的役割を果たし、コミュニティで生活に介入しつつ隠ぺいしている。
これはFさんやTさんがどう読まれるのか興味あるところです。
著者によれば、報告書に記載される複数の事例の類似性、科学的客観主義に基づく中立的記述が個別の逸脱行為ではなく同じパターンの出来事と見なされ、それは文脈、出来事、個々の状況についてはほとんど明らかにしない
また、トルコの名誉殺人の事例(p153)にあるように、EU加盟の時期から名誉犯罪が厳罰化されたことから、名誉犯罪は監視、監督、介入といった社会制度と関わっている。とりわけ移住と移民の監視と切れない。
このことが名誉殺人と近代性とナショナリズムと密接につながっていることが確認されます。

最後です。「誠実な活動家のジレンマ」について。
「名誉犯罪の被害者とされる社会と名誉が動機、正当化、法的な免罪理由とならない社会における近親者による殺人や暴行事件の割合と比較できないという間違いを犯し続けるのは問題である。すべての政治機構や法的機構を系統的に検証する必要がある、能力を包含する人々の日常生活はそうした機構を通じて多様な場所で営まれている」
「移民の管理と排斥、地方や都市部のサバルタンコミュニティに対する国家や社会保障組織による規律侵入、西欧と非西欧の分離をあおるリベラリズムの擁護、フェミニスト研究の茶目の資金
ズムに密接にかかわっているにもかかわらず、古風で部族的なものとしてブランド化されることが可視化されます。「名誉殺人を一般化するのではなく、人生の複雑さに分け入って物事を考えるべきだ」(J.ローズ)という言葉にアブー=ルゴドの主張が示されているといえるでしょう。

T:直接そう意識して活動しているわけじゃないけれど、アムネスティとか発信型のNGOとかわれわれのように現場に行って現地の人と一緒に活動している人たち、アドボカシー的な団体の方がより顕著にみられるのかもしれないですね。割合的な問題で、我々も全くそこから無実だなんては言わないですけど。

F:あと誤解みたいなものもないとはいえないでしょうね。その国や現場で起こっていることをどこまで理解しているかというなかで。

T:よくわからない中でわかりやすい説明に飛びつくという部分はあると思いますね。

F:先ほどのリベラルファンタジーのところで名前を付けることで、そこにフォーカスすることで見えなくすることがあるという点で、例えばこういう話かなと思いました。たとえばなしですけど、日本で少女が殺される事件が多いじゃないですか。それに「幼女殺人」という名をつけたとして、日本って幼女札事件が多い国だよね、小さい女の子たちに対して特別な感じがあって、未成年の女の子たちのアイドルグループが多いよねとか見たとするじゃないですか。すると、日本って独特な少女文化があるよね。だから、そういう殺人が起こるんだよね。となると、そういう研究をする学者が集まってきて、日本の「幼女殺人」と若い女の子好きの「オタク」との関係性や歴史背景が研究になってきたときに、いやいやそうじゃないから、警察の落ち度とか政治背景とか見落としがちになる。そういう決めつけとかわかりやすくて飛びつきやすいストーリーをつくられちゃうと、事実と離れたストーリーがつくられちゃうのが危険だということを言いたいのかなと思いました。

T:読んだわけじゃないので言いにくいんだけれど、レジュメに沿った話を聞いた限りだと、誠実にこの現象に向き合うというよりも、これを利用したい勢力があって、それが自分の都合のいいように喧伝していくいろいろなレッテル張りの力に対して批判していくという本なのかなという感じがした。

マスター:やっぱり本書は〈9.11〉後のムスリムバッシングに対する危機感がアメリカにあったことと関係するんだと思います。日本はどうだったのかな?

TA:あの時期は中学生だったんですけれど、修学旅行でケニアの大使館に行った。その時不躾にもイスラームのことを聞いたことがって、そこの大使がムスリムは平和を愛する人々だから、そんな犯罪者ではないとすごく冷静に淡々と語ってくれたことを覚えています。今思う戸伏家だったなと思うんですけれど、確かにそういう空気感があった記憶があります。

M:ネットには無条件にイスラーム=反政府勢力というイメージが書き込まれていたし自分もそう思っていた。でもよく調べるとみると、それだけじゃないイギリスだって北アイルランドの武装勢力だっているし、違うんですよね。ただ、あれだけでかいことが起きちゃったら、そこで定義づけられてそういうのを利用する組織もいるだろうし、そっちに流れていったか可能性だってあったでしょうね。

TA:たしかあのときって、いくつかの大使館はいけなくなったんですよね。

F:アメリカは全世界的にターゲットになりえたので、アメリカはセキュリティが厳しかったでしょうね。

T:知人の家族がお父さんがイエメン人でお母さんが日本人という家族がいて、彼らはアメリカにいったんですけど9.11にあった後アメリカにいられなくなってカナダのトロントに移住しちゃった。その後娘さんはトロント大学からダマスカス大学へいって、自分の地というかルーツをたどっていく人生を歩んでいる。

A:家父長制というところが引っかかった。祖父は教師になりたかったらしいんだけれど、農家を継がなければなくてなれなかった。女性の方ばかり見ると男性が強くて女性はそれに付随しているという騙り方になるけれど、男性もまたその文化で自分の自由を選べない文化でもあるんじゃないかな。

S:封建制から資本制になったわけだけれど、町内に「おかる地蔵」といいうのがあって、17の娘が殿様に見初められて差し出せと言われた父親が大韓に殺された。それを娘の性にされたんだけれど、娘が咽頭炎で弁明できず処刑されてしまった。昔は上のものが要求すれば下の物は差し出さなければならなかった。マララの本も読んだけれど、下実的に彼女は自分の目で見聞きしたことを書いてるのだから宗教ではなく封建制から自由になれるという考えじゃないか。


予定時間を15分オーバーのアツい議論でした。
はじめはイスラームのことをよく知らないまま、この本を読めるのかという不安もありましたが、藤岡さんと竹内さんの国際協力経験からのお話をいただけたことで対話が活性化しました。
なにより、今回の対話を通じてアブー=ルゴドの批判がわれわれのあいだでもかなり共有できている部分と違和感の部分が明確になったように思われます。
これを宝に、再来週京都大学で開催される本書の合評会に「福島/市民が読む『ムスリム女性に救援は必要か』」と題して報告して参ります!
あらためまして、今回会場の融通を利かせていただいたブック&カフェ清学舎の山口さんと清野さんに感謝申し上げます。
またぜひ清学舎さんで開催したいですね!(文・渡部 純&島貫 真)