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第2回・第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会のご案内

2017-10-31 | 開催予定
佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』の読書会です。
第1回の様子はこちらをご覧ください
第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・議論のまとめ
スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送りください。




第2回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会 ⇒ レジュメ
【開催日時】2017年11月8日(水)20:00~21:30
【読み合わせ箇所】第2章「『人間の条件』と20世紀」
   第1節「『人間の条件という言葉とアンドレ・マルロー」(p.63~p.76)
   第2節「シモーヌ・ヴェイユ『労働の条件』と『人間の条件』」(p.76~p.89)
※第3節『「人間の条件」の中での「私的所有」=「自分らしさのためのプライヴァシー」は第3回と合わせます。

人間は「〇〇である」と本質的に規定されるものではなく、「条件づけられた存在である」という『人間の条件』のタイトルの意味を考える内容となっています。とりわけ、「労働」という人間の条件を考えることは、「過労死」が深刻化している日本社会において重要です。

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【開催日時】2017年11月30日(木)20:00~21:00
【読み合わせ箇所】第3章「自分らしさと私的所有」(p.105~p.130)

「プライヴァシー」を「自分らしさ」を確保する居場所と捉え、それが切り崩されることの危機を論じています。

第2回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-10-31 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が終わったばかりのような気がしますが、第2回のレジュメをアップします。
初回のレジュメは本の内容に忠実にまとめてしまったので、かえって細かい話の解説に拘泥してしまいました。
その結果、話題がアーレント読解に終始し、具体的な社会問題や生き方を問う議論が少なくなってしまったという反省点がありました。
そこで、今回は思い切ってレジュメの内容を短くし、次の二つの論点に絞り、各人で思い思いそのことについて具体的に考えてきてもらいながら対話に参加していただきたいと思います。

⓵人間が思考できる条件/思考停止してしまう条件とは何か?
⓶奴隷的ではない労働の条件とは何か?

今回、読み合わせる第2章は、人間は「〇〇である」と本質的に規定されるものではなく、「条件づけられた存在である」という議論から、その条件を吟味しようという『人間の条件』のタイトルの意味を考える内容となっています。
話の流れから、今回は第1節「『人間の条件という言葉とアンドレ・マルロー」(p.63~p.76)と第2節「シモーヌ・ヴェイユ『労働の条件』と『人間の条件』」(p.76~p.89)までの読み合わせに区切りたいと思います。(カフェマスター・渡部 純)


佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』第2章 『人間の条件』と20世紀

1.『人間の条件』という言葉をめぐって―アンドレ・マルローとブーバー=ノイマン
(1)哲学が「人間とは何か?」と本質を問うてきたことへの異議
⇒人間は環境や制約(条件)との関係の中でしか存在しえない

(2)信じるにはあまりに残酷な現実を前にして、人はどのようにふるまうのか?[p.70]
●マルロー『人間の条件』の清ジゾール
「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、この光の中に散らばっているなんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」[p.70]
●ブーバー=ノイマン
「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができた
⇒「考える」営みが個人的性格ではなく世界との関係において規定されてしまう問題
⇒どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ない
⇒人間がどのような「条件」において悪魔か天使になるかが問われなければならない

(3) 実存主義への批判
●「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」(マルロー)
⇒「革命」が社会的政治的条件にではなく、人間の条件そのものに向けられた[p.65]
●「思考」の闘いから「政治」(行動)へ逃避しようとする実存主義にとって公的領域に接近できるのは「革命のとき」だけだった[p.75]

2.労働の条件と人間の条件―シモーヌ・ヴェイユ
(1)アーレントがマルクスの労働観を批判する上でヴェイユは決定的な影響を与えた
●労働と生命の必要から最終的に解放されるという希望は、マルクス主義のユートピア的空想[p.77]
⇒「朝は狩りをし、午後には魚釣りをし、夕べには家畜を育て、夕食後には批判をする」
⇒この空想は労働運動の原動力となるが、反「人間の条件」的な「民衆のアヘン」なのだ!

(2)「労働」という人間の条件から解放されることはない
●どれほど「労働」のなかに「仕事」の積極的面が含まれていようと、生産力が上がり消費水準が上がろうとも、「労働」の要素が消えるわけではない。[p.81]
●「労働する動物」という人間観が「政治的な動物」という人間観をないがしろにする

(3)ヴェイユの労働観
●労働者…「根無し草」=工場においては厳密な生産労働の時間管理の中で自分の自由は奪われ、自分で働き方を決められる余地は与えられない(労働疎外)[p.84]
⇒上司の指示の前に「結局のところ自分は命令に服しているのだという心にくり返し言い聞かせる」
⇒考えてもその根本条件が変わらないならば、その苦しみやその条件を考えないことだ[p.85]
⇒労働は合目的性ではなく、必然性に支配されている[p.87]
⇒「生き残るためには稼がなければならない」…永遠のくり返し運動の奴隷状態

(4)ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一条件」
●労働時間の短縮よりも労働者と工場全体の機能・機械との関係、作業中の時間の流れ方を変える
⇒労働者が仕事の過程の主人公となる[p.85]
●奴隷的労働条件からの救済手段[p.89]
⇒美の経験、神に源泉をもつ宗教…詩、祭の参加、フランスを無料で自由に旅行できる喜びの保障

『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook編②

2017-10-30 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook上での議論第二弾です。


【いけだ】
いよいよ明後日ですね。楽しみです。がんばって読んでいるのですが、果して読むことができるのか少々不安になってきました。どうやったら読むことができるのか?
ここは思い切って、まずは素朴な疑問を投げてみようと思いまして。ものすごく初歩的な質問だと思うのですが質問させて下さい。

①P7 後ろから4行目「④以前にはヒューマニストの抽象的…実体になって」について
・「ヒューマニストの抽象的指導原理にすぎなかった『人類』」の定義しについて詳しく知りたいです。
・その「『人類』が現実に存在する実体に」なった、何を表現しているのでしょうか?いきなり出現してきているように感じます。

②P41 3~5行目「『支配・被支配…「政治以前」的なものであるのだ」について
3行目の「政治」と4行目の「政治」は別の意味ですか?整理したいです。

③P41 7行目「政治はだんじて生命、生活のためにあるのではない」とありますが…先を読めば出てくるのかもしれませんが、アーレントのいう政治は何のためにあるのですか?生命や生活について「自由・平等な次元で自由に語り合い、活動し合うこと」もあるのではないかと・・?

④P44 9行目「一定の政治体で…社会的なるものに次第に変わってゆく」について
「社会的なるもの」の定義が知りたいです?

⑤P54 8~9行目「『私的所有』…いわゆる『福祉国家』である」について
ここで言っている『福祉国家』は、現在の北欧などの福祉国家のことではなく、経済から切り離された政治が行われている状態で成り立っている国家を想定しているのですか?
そして、
P54 7行目~11行目 したがって~その意味するところは、私的所有の自由を守るのは政治の権力と経済的権力の分離であり~
私的所有の自由とは?またここでいう政治とはアーレントがいう政治ではなく、現在一般的に言われる政治と解釈するのが素直ですか?
そうなると、私的所有の自由を守る⇒政治と経済が分離している⇒経済に対して一切の政治的関与をやめる⇒ハイエク?となって福祉国家と結びつかないような気がします。

少しずつ読み進めているのですが、「自分らしく暮らせるための安定した基盤」について分からなくなってきました。
自由ってなんだろう?この辺りをじっくり聞きたいです。


【じゅん】
⓵について
これは文字通り「人類皆兄弟」的な理念としての「人類」ではないでしょうか。
ベートーベンの「歓喜の歌」なんかがその典型でしょうし、啓蒙主義時代のカントの「世界市民」なんて言う考え方もそれに当てはまるでしょう。
つまり、理念としての人類をヒューマニストたちは掲げて平和とか自由の実現を夢想してきたわけですが、今日のグローバリズムにおいて、実際に国境を人類がまたいで出会うようになったら、平和どころか欲望むき出しの植民地主義的経済や排外主義とか、具体的な人類の出会いはなんかめちゃくちゃですわ、って感じではないでしょうか。

⓶・⓷について
3・4行目の「政治」は同じで意味でしょう。
「」付はアーレントにおける「政治」という意味で統一されていると思います。
近代政治学での政治概念は生活保障や安全保障のための「統治」を意味しますが、アーレントにとってこれは政治以前の私的領域、つまり家事や家政に属する営みなんですね。
「政治」はこれとは区別されておりまして、生活保障や生命維持のための安全保障に関する営みではないのです。
生活の必要にかかわるものは、人間の生物としての欲求に関わるもので、全ての人間に関わる問題ですが、そうであるがゆえに、アーレントは個性など無くなってしまうと見ます。
政治は、個性を際立たせる空間なので、食欲や睡眠欲など人間の画一的な動物的部分を議論の対象にするところではない、というわけです。
ここはアーレントが批判される最も重要なポイントですが、まぁ、何度も議論になるでしょう。
くり返すと、アーレントの「政治」は人間がお互いの差異を際立たせることができる営みです。
オリンピックの競技空間が典型例で挙げられますが、まぁそれに限らないでしょう。
祭りや演劇なんかで主役を張ったり、議論のなかでもナイスな発言とか、そういうのも入るでしょうね。
「お見事!」とか、「音羽屋!」みたいな、称賛を得るためにお互いが競い合う闘技空間だ、なんていったりします。
もちろん合意を目指す目指す必要もあるのですが、アーレントの場合それは二の次に位置付けれがちです。
合意のためお政治は手段化されちゃうから違うそうです。
あくまで、話し合いやパフォーマンスがそれ自体で目的とされるような営みです。利害が関わってはダメ。
年金の心配とか生命維持に関わるのもダメ。
じゃあ、何?って色々な具体例を考えると楽しくなるかもしれません。

⓸の「社会的なるもの」について
これは、はっきり言って漠然としていてかなりわかりにくい概念です。
が、頑張って説明すると、アーレントの「政治」は人と人とが直接話し合ったり協力し合える営みですから、自ずとそれが実現する範囲というのは一定の限界があるように思われます。
ところが、大衆社会のように、人の数が無数に膨大化すれば、人と人のコミュニケーションは不可能になりますよね。
大衆社会では一人一人が孤独化するといわれますが、そうした人々の言論活動が不可能なほどに人口が増えると、効率化のためにお互いにコミュニケーションをもたずに済む領域が拡大します。
この文脈では、とりあえずそのような人々が孤立した無数の集団状態を社会状態が成立した領域といってよいと思います。
そこにおいては、人々は個性的に行為するどころか、無意識のうちに画一的な行動パターンをとるようになります(これは社会学者D.リースマンの「孤独の群衆」という研究で明らかにされました)。
言い方は悪いですが、そこにおいて人間はマス(群衆)という点で、虫や動物と変わらない行動パターンをとるわけです。
チャップリンは「モダンタイムス」の冒頭で、ヒツジの蓄群がいつのまにか地下鉄入り口から出てくる無言のサラリーマンにかさえ合わせているシーンでもって、そのことを秀逸に表現しています。
社会科学の統計方法は、その蓄群かしたという人間集団の傾向を明らかにする点で意味を成すわけですが、アーレントは社会科学的思考に批判的なわけです。
ま、社会科学の方法が悪いというよりも、社会科学がそうした人間のユニークネスに関係のないところに関心を向けることにアーレントは不満をもったのでしょう。

⓹「福祉国家」について
本文では「」がついているので、現実の福祉国家というよりは、私的所有の自由を守るための政治の権力と経済の権力を分離する構成体という、理論的な意味で使われていると思われます。
現実の北欧の福祉国家は、それこそ政治と経済(成長)の結合によって構成されているので、アーレント的な意味でいう「福祉国家」とはやはりずれるといわざるを得ないでしょう。
その続きの疑問については、なかなか複雑なところがありますにね。
アーレントによれば、私的所有の切り崩しは政治と経済が結合した資本主義の進展とともに進んだわけですから、少なくとも政治は経済と切り分けるとともに、経済権力の暴走に歯止めをかける役割を果たさなければならないことになります。
そこでの政治は、いちおう利害関係から切り離して判断する営みという点では、アーレント的な意味での「政治」に当たるとも言えます。
ただし、私有財産を確保するためになされる政治は、アーレントの「政治」概念とずれるじゃないか、とも言えそうです。
ただ、アーレントの場合はいつでもそうですが、概念同士を截然と区別しながらも、相互に浸透しあうところもないわけじゃないので、その辺はまぁ、適当に…と言ったら怒られるんでしょうけれど。
少なくとも、ハイエクのように経済の論理の自由に任せて政治は関わらないという意味での切り離しではないでしょう。
政治は生命の必然性を目的にしないことに存在意義=自由があるわけですから、むしろそこを保守することによって、結果的に経済の論理を政治に侵入させることに歯止めをかける営みとして、「政治」を再生しようという思惑が、アーレントにはあると思われます。

【いけだ】
今夜の読書会はお疲れ様でした。質問その1です。
自宅で繰り返し議論となるのが、アーレントのいう「政治」には役割りがあるのか?です。
アーレントが言う「政治」と「社会」で考えると、僕らのいう政治は「社会」のことであるので、小さい子がいるけど働きたい、この場合は保育園が必要、そうなると保育園を整備が必要。これは僕らのいう政治の役割だと思います。個人では限界があることをみんなで支えるのは政治の役割だと、これらも政治以前、社会の役割となると、「政治」の役割ってなんだろうと迷子になりました。
P37 8行目アーレントが~それが人間のあり方に深刻な変容をもたらすとアーレントは考えていたのである。人間のあり方へ影響を与えることが「政治」の役割と考えると、僕らのいう政治の役割はどこが担うのか?
あれこれ考えてしまいますね。

【しまぬき】
私も同じことを感じました。でもこの 「政治」はどこか魅力的でもあります。

【じゅん】
アーレントの場合、政治そのものが目的だと言っちゃうから、何かのための役割、つまり手段としての政治っていう議論はしないですね。
けれど、それは僕らの時代にはとっても想像しにくいことですね。
じゃ、古代ギリシアにそんなものあったのかよ、と言いたくなるけれど、アーレントは常にそうですが、けっして抽象的な哲学議論はせずに、必ず歴史の出来事にその概念の手掛かりを求める。
彼女には言葉というものが経験に基礎づいているという信念があると思います。
けれど、それは、いわゆる社会科学的なエヴィデンスを見つけるという仕方ではなくて、なんというか、彼女の理念形みたいなものが歴史の出来事の瞬間に垣間見えたものを、牽強付会といってもいいくらい強引に結びつける。
逆もしかりで、彼女が批判しなくちゃいけないものは、たとえごく一部触れているだけでもコテンパンにつついちゃう。
彼女のルソー論なんか、ひどいなぁと思うくらいです。まぁ、書かれたものだけを批判の手がかりとする人文学的手法ってそういうもんだといわれりゃそうなんだけれどね。

で、話を戻すと、政治の役割をあえていえば、共同の中で個々人を光り輝くものにすること、ではないでしょうか。
保育園設置の行動が非政治的なのではなく、もしその運動なり活動なりに取り組む過程で、たとえば「池ちゃんってこういう人なんだ~、へぇ~、意外~」と、他者が称賛したり感嘆したりする瞬間、それを出現させる営みが「政治」なのかなと思います。
黒澤明の映画「生きる」って、まさにそうだと思います。
凡庸で仕事に意欲も興味も何もない主人公の市役所課長が、末期の胃がんを自覚した瞬間に、それまで無関心だった住民からの要望である公園設置に同僚を巻き込みながら(協同に?)奔走します。
公園設置なんて、お役所としてはなんという仕事でもないといえばそうだけれど、その奔走に彼の「誰」性が突然際立って、住民たちが彼の葬式で泣いたりする。
さらに、お役所仕事をテキトーにやり過ごしていた同僚たちが、彼の生きざまを見て、一瞬だけれど公共に尽くす仕事人としてのプライドを取り戻す。
こうやって、彼の行為actionが、人と人との関係の網の目に「予期せぬ」actionを無限に連鎖させていく。
これを出現させるのがアーレントの政治なのでしょう。
なので、政治の役割は、というより誰かの個性が共同の内に際立つ運動そのものが「政治」なのだ、というこです。
まぁ、要は祭りだ祭りだ、よいよいよいよいってかんじ。

【マッケ】
<要は祭りだ祭りだ、よいよいよいよいってかんじ。>とかいうので共通理解があるようですが、私にとっては何のこと?
参加させてもらったグループでは今までの研究会、対話の中で、共通認識となっていることでも、私にとっては初めてのことで、何のことやら分からない。さらに、アーレントの独自の言葉の使い方、公共と社会の区別なども難しくしている理由です。
この研究会はアーレントの考え方、生き方を知ることが目的化せずに、あくまでもこれが手段であってほしいわけです。
現実の問題とどう関係して、私たちの生きる指針になっているかを議論してほしいです。

【じゅん】
失礼しました。
「祭りごと」は「政(まつりごと)」、すなわち政治の語源だということです。
和光市での読書会の差異に、佐藤和夫さんご自身がそのような例を挙げられたわけですが、これはいけださんにしか通じない話ですので、この会の参加者全員が共有しているものではありません。
長野県諏訪の御柱祭などは縄文時代にルーツがある祭とされますが、数年に一度のあの大祭のために人々が日々の生活を生き、協働で成し遂げることが千年単位で脈々と受け継がれているのはものすごいことですが、本来、祭とはそのような日常生活から解放され、人々が結集してある種の不思議な「力」を生み出すわけですが、それが「政治」であり、その不思議な結集力をアーレントは「権力」と名づけたと思われます。
(ちなみに、この「権力」も通常の暴力を独占した国家権力という意味とは異なるアーレント独特の概念です。)
そのように考えると、「祭り」は、それ自体が目的で、何かのために手段化される営みの事例として理解しやすいのではないでしょうか。
(神事のためとかいろいろタテマエがあるかもしれませんが、それ自体が目的となって人が集う活動であるという点では、むしろ理解しやすい例かと思いますが)。
しかもそれは、労苦以上の快楽をもたらす祝祭性が伴います。
現代ではそのような目的それ自体となる活動は、なかなか存在しませんが、アーレントの挑戦はその再発見を試みているととらえてはどうでしょう。
マッケさんご自身が実践されてきた研究会や対話の会の経験から理解をすることはできないでしょうか。
そうした目的それ自体になる活動が、今の社会のなかにはなかなか見つけにくいし、ほとんどの活動は何かの手段になっている。

この読書会が、アーレントを通じて生き方を現代社会の問題を考えるということを目的としているという点は、おっしゃる通り共有されていると思います
もし、それが伝わらなかったとすれば、それは私の力不足ですので、大いにご批判下さい。
むしろ、そこへの不満は具体的にどんどん出していただいて、この会全体で進めながら修正していければいいと思っています。
この本自体が「アーレントを読んだことがないけれど、読んでみようと気になる大学院生レベル」を対象として書かれたということですから、ある程度の専門用語を抜きに語ることは難しいかもしれませんが、そこはお互いに誤読を恐れずに言葉を言い換えながら挑戦してもらうしかないです。
そ私は現代社会の問題を意識して皆さんの問いに答えているつもりですが、それがわかりにくさをなおもたらしているのであれば、どこがどのようにわかりにくいのか、遠慮なく書いていただけないでしょうか。
アーレントの概念や言葉遣いがわかりにくいというのはそのとおりですが、そこは我慢してある程度辛抱していただけると、その過程から現代社会の問題を読み解いていくことは十分可能だというのは、僕自身がこうした哲学を読みだした経験からいえることです。
もちろん、次回はできる限り皆さんの議論が現代社会に結びつくように展開させましょう。

【しまぬき】
オープンな形で専門書(もしくはそれに準じたもの)を読むときには、それなりの準備や共通ルールの整備、などがあった方がいいのかもしれませんね。
空中戦ネイティブとしては反省すべきところです(マッケさん済みませぬ)。
ただ、この空中戦っていうのは、素人(だって読んだのは『エルサレムのアイヒマン』途中までぐらい)が、思いついたままにことばを垂れ流しているだけです(ライブ感は半端なかったですが)。
読書会を終えたらアーレントを以前より間違いなく読めるようになっていて、大きな効用を感じました。当然ながら誤読や曲解、勘違いを含めての話ですけれど。
論理的に理解できたとは少しも思いません。
分からなさの有り様が分かってきた、ということかな。
それは言葉をたくさん撃ち込まないと輪郭が見えてこない 「多動系+ 自閉系」のなせる仕儀、でもあります。
マッケさんの切り口から見るとアーレントの世界観ってどうみえるのだろう、というのにとても興味があります。

『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook編①

2017-10-29 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第一回『〈政治〉の危機とアーレント』読書会では、Facebook上でも議論が交わされました。
以下、その記録もアップしておきます。


【マッケ】
マッケです。アーレントの本、43ページ最後の方
「科学的とされた経済学、心理学、統計学といった学問の在り方が、彼女にとって全体として批判の対象となる。」とあります。
「人間の条件」の最後の方に科学のことがまとめて書いてあったようです。
この本は、まだ手元にはありませんので、おたずねします。
科学と言えば、基礎になるのが自然科学、とくに物理学です。
これに対しては批判はあったのでしょうか。
相対性理論も、量子論まで、研究の対象になったかどうか分かりませんが・・・・。
経済学、心理学、統計学などは、権力側に都合のいい理論ができやすい分野だと思います。

【じゅん】
アーレントには科学批判があります。
1958年に書かれた『人間の条件』の冒頭は、スプートニクショックと試験管ベイビーのエピソードがから始まりますが、科学の進歩、というよりも科学者の欲望はまさに人間の条件そのものを根本から変更させかねない時代に入ったということを批判的に検討することが、この本の主題の一つです。
科学や仮設実験授業に取り組まれてこられたマッケさんや良心的な理系の方には、にわかに受け入れがたい論理ですが、僕なりにごくごく単純にその要素を説明すると、二点あげられます。

一つは、言語の問題にかかわります。
人間が語り合うことは、まさにそれぞれの経験がユニーク(個別的)であり、その言語化もまたそれぞれ異なるがゆえに、対話が必要となります。
しかし、科学では2+2=4という意味を問うという意味での対話を不必要にさせる科学言語に批判が当てられます。
科学は因果論的に原因―結果を考える思考方法は可能ですが、そもそも「それに何の意味があるのか」ということは示せません。
いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられないということです。

この点で、科学的思考が人と人とが語らうという意味での「政治」の危機と結びついたというのが、アーレントの科学批判の根本にあります。
だから、科学者に政治的判断をゆだねることは危険だといいます。
なぜなら、彼らはそもそも「意味」について語り合う「言語」をもっていないというのが、アーレントの科学者に対する見方だからです。
「言語」は哲学にとって重要なテーマですから、これを単純に説明すると誤解が生じますが、あえていえば、理系の研究者と話していると、彼らがデータと法則の正誤の確認からはみ出す討議は不必要であるどころか、方法論的に不正だという点に理系研究の根幹があることが示されます。
これは水俣問題に取り組んだ科学者の言説にも示されているのですが、それはまたの機会に。

もう一つは、アーレントは原子爆弾の登場ととも に、近代科学とは異なる次元に入った現代科学が、よりいっそう「政治」の危機をもたらしてしまったことを批判する点です。
アーレントにとって「政治」は、人と人とが語り合う根本的な人間的営みを意味し、これは「人として生きる」ということとほぼ同義です。
つまり、アーレントにとっては人と人とが語り合えない状況は、人間として生きるに値しない世界なのだ、というわけです。
近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩すことを彼女は分析しますが、現代科学はもはやそのレベルに止まらない危険性を有しているというのです。
核は「政治」の営みどころか、人類の自殺や滅亡を可能にさせますからね。

加えていえば、現代科学は人間の活動(行為)しか持ちえなかった「予測不可能性」と「不可逆性」を「自然」にもちこむことによって、それまではある程度人間に制御可能だった科学技術を、その枠から超出させてしてしまったことに、「人間の条件」の危機を最大化させたといいます。
アーレント流にいえば、宇宙にしか存在しなかった核エネルギーを地上に持ち込んでしまったことで、それがどのような結果をもたらすか予測不可能になり、いったんそれによってもたらされたものは不可逆なものをもたらしてしまうということです。
これも原発事故を考えれば容易に理解できます。
放射線被ばくの健康被害の評価は科学者の間でも一定しないという意味では「予測不可能」だし、廃炉や放射性廃棄物の処分に関してはいまだ結論が見えません。
それどころか、この問題が人類が存在しているのかどうかわからない数万年単位で議論されざるを得ないという点では、もはや「不可逆的」な状況がもたらされたというのは否めないでしょう。という意味では、もはや人間の能力では、御しえないものを地上に持ち込んでしまったという問題です。

ただし、アーレントはこの「活動」の「予測不可能性」と「不可逆性」は、逆悦的ですが人間が自然法則に縛られない自由であることの証でもあるといいます。
しかし、科学を模倣する社会科学は、逆にその人間の自由を意味する「活動」を無視し、人間があたかも一定の法則(傾向性)で動くことにしか興味を示さない点に彼女は批判の矛先を向けます。
ベルリンの壁崩壊などがその例であるように、歴史は突然予測不可能なものとして動きます 。
しかし、社会科学はそこに関心を示しません。
社会科学は「なぜそれが起こったのか」ということを後付けで因果論的(科学的)に説明することに関心を向けるだけで、それを引き起こす予測不可能な人間の自由に関心を示さないわけです。
もちろん、戦争や貧困の原因を探る社会科学の方法の有効性は否定できません、しかし、アーレントが問いたいことは、その方法が同時に過度に精密化した結果(経済学の数学化!)、人間の自由そのものをなきものにしたという点にあるのでしょう。

【マッケ】
マッケです。
ていねいな回答ありがとうございます。文章の初めから、ひっかかりを感じます。
<2+2=4という意味を問うという意味での対話を不必要にさせる科学言語に批判が当てられます。>
2+2=4
これは数学的表現であり、科学的表現ではありません。
というのは、きわめて抽象化した表現だからです。
よく、文系の人は、無条件、絶対的に、この式が成り立つと考えがちです。
誰もが疑いようのない事実として、この例を出します。
これは純粋数学上、つまり現実のすべてを捨象して<理想化>して考えた場合に当てはまるだけです。
ひとつひとつ具体的に考えるのが科学です。
①お金の場合→2円+2円=4円(貨幣価値)
②お金の重さの場合は1円玉は1gですが、
 現実には、すり減っていたり汚れがついたりで、4gより重かったり、軽かったりします。
③鉛筆1本といっても、長い物と、短い物があり、2本といっても新品の1.5本に当たる場合があります。
④水50ccとアルコール50ccを混ぜるとおよそ98ccにしかなりません。
 大豆1升と米1升は2升より少なくなります。大豆のすき間に米が入ることで、水とアルコールの場合を推測できます。
仮説実験授業では、これらのことについて選択肢を選んで予想を立て、大いに議論します。
科学的認識は社会的なもので、ひとりよがりでは認められず世界中の科学者が対話し、社会的認識になったところで真理と言えるのです。
<意味論>については、科学者はそれぞれが、人生観、世界観をもっており、それぞれの科学哲学だったり、さまざまな哲学、宗教をもっていたりするので、
そのことについて、どう意味づけるかも、それぞれのような気がするのですが・・・・
先ずはこのことについて、私が的外れなことを述べているのか、お伺いします。

【じゅん】
たぶん、お互いに前提としていることが相当違うので、少しずつどこに齟齬があるのか、理解を近づけていくほかありませんが、さしあたりマッケさんが「数学的表現」と「科学的表現」は違うということを確認で行きました。以下、それに対応する文を引用することでどこにずれがあるの示していきます。

アーレント『人間の条件』プロローグ・13頁
「科学によって作り出された状況は政治的な意味を持っている。言論の問題が関わっている場合にはいつでも、問題は本性上、政治的となるからである。というのも言論こそ人間を政治的存在にする当のものだから。
私たちの文化的態度を現段階の科学的成果に適応させなくてはならないという忠告がいつも繰り返される。しかし、この忠告に従うなら、私たちは言論がもはや意味をもたないような生活様式をきわめて熱心に取り入れることになるだろう。なぜなら、今日、科学は数学的シンボルの「言語」を取り入れざるを得なくなっているが、この「言語」はもともとは語られる言葉の省略記号として意味を持っていたものの、いまでは言論に決して翻訳しなおすとのできない記述を内容としているからである。だから、科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明であろう。
……
科学者の政治的判断を信じない方が賢明なのは、科学は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬこの事実によるのである。人々が行い、知り、経験するものはなんであれ、それらについて語られる限りにおいて有意味である。
……
この世界に住み、活動する多数者としての人間が経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからに他ならない。」


科学的認識が多数の科学者同士の議論によって真理証明を志向することは事実ですが、その論証過程で高度に記号化による法則が持ちられることは事実でしょう。(試しにウィキペディアの「万有引力の法則」をのぞいてみましたが、そこでもやはり記号によって記述されています)

この科学言語の意味については、岡本達明とともに『水俣病の科学』を書いた西村肇が「科学者から見た水俣病研究」(雑誌「環」25号)で端的にこう書いています。
西村はまず、メチル水銀生成反応機構について詳細に説明した後に、これが自然科学の教育を受けていなければ、理解が難しい事実を指摘したうえで、文系と理系のあいだに「全く理解不能」に近い溝があるといい ます。それを二つの精神の「敵意」や「対立」とさえ言います。
なぜか。
西村は、まず科学は真理の認識において人間精神を支配してきたスコラ学批判として生まれた歴史を指摘します。
スコラ学はキリスト教神学の骨子ですが、それは基本的に「人は正確な言語と厳密な論理によって思考すれば、思考のみによって真理の認識に到達できる」という信念があると西村は指摘し、これに対して「言葉と論理への100%の信頼を否定する」のが科学であるといいます。

それについて西村は、「確立された知識を基礎に厳密な論理的思考を積み重ねて結論に達する点では、科学もスコラ学も違いはありませんが、基礎にする知識の性格が違います。スコラ学では、知識とは言語 知識ですが、科学ではその他に実体知識が加わり、こちらの方が重要です。実体知識とはまだ言語に表現される前の生の知識です。実験の際の生まの観察結果、生まのデータ、写真などです。これを人に伝えるために言葉で表現したのが言語知識ですが、実体知識にくらべ極めて貧しいものです」と述べます。
さらに、「スコラ学にくらべて科学の特徴は議論が定量的であ」ることも指摘します。

そのうえで、自然科学系と文科系の人間の違いの最も大きな違いは「科学者とは意見の違いでの論争を好まない人種だ」ということだといいます。
これは、立場を全く反対にしながら、アーレントの考え方と軸を一にしています。
アーレントにとって「政治」の領域は唯一の真理 が支配するのではなく、多様な「意見」が織りなす世界なのですが、西村はまさに科学者はそうした「意見」の論争を好まない人種だというわけです。
この「意見」の理解はとても重要です。
事実の真偽を論争することは科学者でもありえますが、「意見」はおそらく「人それぞれ」だから無意味だということでしょう。

実は、西村がこのような論考を書いた背景には、水俣病問題で科学的事実に政治的解釈が介入したことで、科学者としては不当な「科学の政治化」が生じたことがあります。
これは福島においても生じたのではなかったでしょうか。
科学的事実であれば、「意見」を排した「実体知識」をすり合わせていけば、真理に到達するのに、余計な「意味 」を介入させることに科学者が我慢できない姿がそこには示されています。

だから、西村は「科学でももちろん意見の違いはありますが、それを言葉による論争で解決しようとはしません。言葉は補助ですから言葉ではなくて良いのです」と言っています。
アーレントにとって「言語」や「言葉」は個々人のかけがえのなさや多様性に基づいています。
個々人の経験が多様であるからこそ、他者に理解されがたいからこそ、言葉は必要とされるのであり、対話が必要とされるにもかかわらず、科学者たちの世界にはそれが余計モノとされていることを、この西村の論考は如実に示していると思います。
それゆえに、核分裂の科学論争はあり得ますが、核分裂の武器使 用に関する政治的判断に関わる議論は科学者たちには無理だということを、アーレントは見抜いていました。
「政治」とは、「意見」の多様性が織りなす世界での活動ですから。

これが板倉さんの科学のとらえ方と異なるものなのかもしれませんが、しかし西村のそれは一般的であるように思われます。
もう少し言えば、板倉さんは科学の市民化を目指すのに対して、科学一般の論理はやはり科学者の官僚化に大きな力を発揮していく点を、アーレントは冷徹に見抜いていたように思われます。

【マッケ】
マッケです。先にいただいた文への感想です。

<いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられない>
科学にかかわっている者はそれぞれ死の意味について考えていると思います。
「死の意味」とはどういうことでしょうか。
科学者は原子論で考えると、人間は最後は灰や気体になって終わる、と考えてはだめなのか。
よく天国にいる死者にむかって言葉をかけますが、
その人が、死者は天国で生き返るとは思ってはいないと思います。
「靖国で会おう」といういう死生観を植え付けようしたことは特攻隊というとんでもないテロをやりやすくしたものです。

どういうふうに考えれば、死の意味を考えたことになるのか、それが分かりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<日常的にも対話を不必要とする科学的思考が政治の危機と結びついた>
実験室に閉じこもり、物を相手に格闘していると世間にうとくなる、ということなのでしょうね。
これは科学者というより<専門バカ>と言った方がいいのでは。
これでは重要な発見もなしえません。
プロジェクトチームでいつも対話をして、学会で対話しなければ研究は進みません。
科学的思考が対話を不必要と考えるということは、
逆に芸術系の人は<科学的思考>が不必要ということになりでしょうか。
音楽などは、楽器の科学、音響学の発達があったから芸術としての音楽が発展した。

哲学のない科学的思考はホンモノでないと思います。
哲学の基盤を持たない科学者は二流、三流になる、と思っているので、
科学者一般がダメと決めつけるのはどうかと思いますが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<彼らは、データと法則の正誤が確認できれば十分であり、そこからはみ出す討議は不必要であるどころか、方法論的に不正なのです。>
これは数学についても言えることで、公式の深い意味を理解し、公式を自分で導くことができず、公式を当てはめて問題が解ければよい、
という実用主義(単に道具として考える)の人はそうかもしれません。
微分積分学は立派な哲学です。
ギリシャの哲学者は芸術家でもあり数学者、科学者であった人もあり、
まさに理想形でしたが、個別科学が進化して以来、専門バカが増えました。
だからこそ、学際的研究が叫ばれていて、研究者は少なくとも、もうひとつ副専門をもつべきだと言われています。
総合大学なら、学部を越えた交流が必要になってきます。

受けた教育、自分の勉強の仕方がまずいのですね。
数学にしても、科学にしても、芸術でも<歴史的に学ぶ>ということが哲学を身につけることになります。
科学の発展過程を学ぶと、自分のミクロな研究からマクロに見ることができるようになり<世界観の形成>をすることができます。

<近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩すことを彼女は批判しますが、現代科学はもはやそのレベルに止まらない危険性を有している>
「近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩す」とはどういうことでしょうか。
現代科学の行き過ぎた所、倫理観の重要性は認めますが、近代科学はそうでないと思います。
迷信や悪い意味での宗教、言い伝え、偏見、非科学がもたらした弊害を近代科学はうちやびったことを一方で認めないと、
神風を信じて戦争することになるようなことになるわけです。
戦争の愚かさを見抜けなかったのは科学力がなかったことも大きいわけです。
日本の精神論、根性論は、見事にアメリカの科学技術、合理性に打ち負かされたわけです。

<社会科学の科学性は、逆にその人間の自由を意味する「活動」を破棄し、人間があたかも一定の法則(傾向性)で動くことにしか興味を示さない>
「科学とは何か」を考えることが非常に重要だと思います。その当時の社会科学が科学たりえていなかったのではないか。
板倉氏が「数量的に見る歴史」を提唱したのは画期的で、つい最近のことです。
社会科学といっても、実は学問の段階にとどまっていて、<科学>とは言えないものではないか。
科学とは、対象に対して、目的意識を明確にし、想像力をたくましくして大胆な予想・仮説を立て、それをいろいろな方法で検証する「仮説実験的認識」が非常に重要です。
アーレントの時代の社会科学の未発達がその科学性に疑いを持たせてしまったのではないかと思います。
現在でさえも、社会科学が真の科学になっているのか、それも分からないのでは?

【じゅん】
目下ゼミの準備にてんてこまいです。
加えて、論点が拡散してしまい答えるのが難しくなっています。
とりあえず、<いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられない>について。

A.医科学的に死の判定基準は定まっていますが、なぜ人は死ななければならないのかという問いに科学は答えられないということです。

医学上の判定基準は死の3徴候のように、数値などを用いて死を客観的に判定できます。
それが科学の役割だと思います。
しかし、死をどのように迎えるかは科学には判定できないと思います。
本人や家族がどのように死を迎えるかは、その人たちの死生観、つまり意味づけではないでしょうか。
誕生に関して言えば、科学は胎児が障害をもって生まれる確率を提示できますが、それが幸か不幸かを決めつけることはできないでしょう。
そのような価値に関わる思考と科学的思考は分けて考えるべきではないかという点で、科学は死の意味に答えられないと、ひとまず言えるのではないでしょうか。

くり返しますが、そうであるからこそ(客観的に一致しないがゆえに)、それぞれの意味を他者と話し合う必要があるのだと思います。
死んだらただのモノになると思う人もいれば、天国に行くと思う人もいます。
死後の世界を科学が客観的に証明できない以上、その死生観はそれぞれでしょう。
カントは、そのことを因果論的にとらえる悟性(数学、経験科学はここでは区別しながらもこのカテゴリーに入ります)と区別して、証明できない問いを考える「理性」としました。不死、神、自由は因果論的に証明できないと考えたわけです。
その意味で科学者が様々な死生観をもつことは当然のことですが、それと科学的に死を判定(認識、評価)することは別です。
「靖国出会おう」という死生観を国家が植えつけることはあってはならないとは思いますが、それは科学認識とは別の位相、つまり意味や価値に関わる問題ですから、科学的に誤っていると判定すべきものではないでしょう。
できることがあるとすれば、なぜ自分と相反する考え方をもつのか、それぞれの考え方に至る背景や理由などを語らいながら、「理解」を深めていくことではないでしょうか。
もし、その思想に問題のあるのだとすれば、なぜそういえるのかは科学的思考とは別に政治的倫理的思考の対象だと思います。
戦後の社会科学は戦争を二度と起こさないために進んできたことは評価していますが、戦争が起きた原因を明確にすることと、なぜ戦争を起こしてはならないのかを意味づけることは別の作業だと思っています。
意味や価値づけをしないままに、科学的手法を用いるのが官僚的であというのは、ご指摘の通りだと思います。
僕は、単純に科学を原因―結果の因果関係を明らかにする学と認識しています。
科学者に哲学は必要かもしれませんが、それはいわゆる科学的方法や思考と区別されるものではないでしょうか。

【マッケ】
科学が記号を使うことに懸念があるようですが、科学より数学がより以上に記号を使います。日本語の漢字は記号ではありませんか。音楽の音符も記号です。その音符もどんな楽器でどのように演奏するかによって全然変わります。
あらゆる分野で記号が使われますが、人間の作り出した、すぐれた文化だと思います。
その記号を内容のないものにするか、豊かなものにするかは、使う人の教養の豊かさによって決まると思っています。記号はとてもシンプルですが、その背景にはとても多くの概念が集約されています。
最もシンプルな<1>という数字を<数>としてみた場合と<量>として見た場合は全然違います。
数は、非連続(分離量)であり、量は<連続量>なのです。連続量には<無限>の概念がつきまといます。
無限は宇宙の世界までつながり、夢とロマンを語ることに結びついて楽しくなります。数は<数えるもの>であり、量は<測るもの>です。
測る作業には誤差がつきものです。また測った量をどう解釈するか。
例えば、0.0001を影響のあるものと見なすか、ほとんど影響のないものと見なすか。
それは時と場合によって異なります。これを科学では<程度の問題>と言って、とても重要な問題です。
自分の体重を量るとき、0.0001Kgはほとんど無いもと見ますし、有害物質の場合は無視できなくなります。放射能を考える時、危険と見るか、ほぼ大丈夫と見るかは、条件の中で考え、絶対的に硬直的に考えるのでなく、相対的に柔軟に考えるのが<程度の問題>です。
また、見る角度、自分の立ち位置を変えてみるという<相対性原理>はとても重要だと思います。見方を変えることで、今まで見えなかった世界が見えてきます。
「発想の転換」「パラダイムシフト」は科学の歴史の中で重要な役割を果たしてきました。

【ねもち】
結局、科学ってなんなのでしょうか?
科学=哲学なのでしょうか?
科学を細分化する意味はあるのでしょうか?人文、社会、自然、この一般類型に意味はあるのでしょうか?
科学の一般的な辞書的定義はただしいのでしょうか?

【マッケ】
じゅんさんはゼミに集中してください。
ねもちさんから質問がありましたので。
<科>とは病院の○○科のごとく、個別という意味です。全体をいっぺんに見られないから個別に分けて見るというわけです。
「分ければ分かる」という発想です。しかし、絶えず<総合>という作業をしていかないと専門バカにおちいります。
かつてすべてを語った哲学者アリスとテレスをガリレオは、落下の法則の説明で打ち負かした。
大きな風船も針一本で破裂させるのと同じ事です。科学の方法の根幹は「大胆な発想で仮説を立て、観察事実、過去のデータ、実験、論証、時間的経過などで、仮説が正しいかかどうか裏付けをとり、真理にせまっていく」ことだと思っています。
科学は個別具体的な問題を対象にし、哲学は全体的抽象的にとらえると言う点で違いますが、個別の問題を考える時、その人の持つ哲学が発想の原点になり、また逆に個別の問題を極めて原理をつかんだ時にそれを自分の哲学を豊かにし、深化できると思っています。
もともと科学は自然科学が先に発展しました。
その方法論を社会、人間に対象を広げていきつつあります。
もともと大きな対象を細分化したのではなく、細分化したところから、総合化しようとしているのだと思います。

第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・議論のまとめ

2017-10-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第1回目の佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が終わりました。
スカイプでの言論カフェはすでに実践済ですが、複数人による通信がどこまで可能なのか、今回はその可能性が問われました。
結果的には、スカイプでの議論の参加は6か所(福島市2・郡山市・いわき市・和光市・金沢市)でつながり、合計10名による空間を超えた言論カフェが実現しました。
その中には議論には参加せずに、対話を聞くだけの参加という方もいらっしゃいましたが、平日の夜にこれだけの方の参加が実現できたというのは、実験としては大成功なのではないでしょうか。

さて、肝心の中身ですが、渡部が準備したレジュメに沿って、各自の疑問やコメントをいただきながら1時間30分の読書会が進められました。
前もって言えば、議論の時間をもう少し取りたかったところ、レジュメが細かすぎた感があり、内容理解に時間がとられすぎたかなという反省がありますが、参加者の皆様はどのようにお感じになられたでしょうか?

まず、アーレント独特の「公的なるもの」「社会的なるもの」、「私的なるもの」というキーワードについて質問が挙げられました。
ふつう、「公的なもの」は「社会的なもの」とされるのだと思うけれど、そこに何の違いがあるのか。
まずアーレントにおいて「私的なもの」とは、生命や生活の維持・保護に関わるものを指し、それは家庭や家事といった領域でなされるものだった、と古代ギリシアにさかのぼって論じます。
これは、生命の必要(必然性)にかかわるもので、生物としての人間にとっては生きる以上、決して解放されることのないものです。
そして、そうであるがゆえに、自由とは相いれない営みになります。
したがいまして、「公的なもの」というのは、その生命の必要性から解放された、古代ギリシアにあったとされるアゴラ的空間で営まわれる自由な対話活動などを指します。
これが、すなわちアーレントの言う「政治」にあたります。
古代ギリシアでは、生命維持や生活の保持に関わる家事・育児全般は女性や奴隷にまかせておいて、それから解放された「政治」営みが「公的なるもの」です。
ここを指して、何だアーレントの自由なんて父権的で貴族的な自由じゃないか、という批判は常に付きまとうのですが、そこに拘泥すると彼女の言いたかったことが見えにくくなるので、とりあえずおいておきます。

しかし、アーレントはこの公私の区別が、近代の国民国家の登場によって破壊されたといいます
「私的なもの」、つまり生命の必要性に関わるものが政治の主題になってしまったことで自由の公的な領域が壊されてしまったというわけです。
そして、この境界を壊したものが「社会的なるもの」です。
僕らの社会生活を考えてみれば、年金から国民健康保険、保育園設置など、生命維持やと生活保障に関わることを担うのは政治の役割だというのが常識ですよね。
ところが、これがアーレントにとっては「政治」の自由を破壊するものだという。
なぜか?

これを考える上では、なぜ国家が国民の健康管理から生命維持に関与するのかを考えてみるといいと思います。
すなわち、国民国家の安全保障のためには健康な兵士が必要となります。
また、国家の財政基盤維持のためには産業の成長が必要であり、それに従事する健康な国民も必要になります。
さらには、これらの国家の(健康)方針に主体的に協力するような従順な国民が必要であり、愛国心をもつような国民教育を行う必要もあるでしょう。
学校教育における健康維持教育はこれらの延長線上にあるわけです。
これはフランスの思想家フーコーの議論ですけれど、こうした国民国家を維持するためには、国民は健康でなければならないという国家の意志がはたらくわけです。
この健康思想は優生思想にまでいきつき、働けない人間は無用な存在だと、ナチスが障害者安楽死政策を行ったことは歴史的事実として記憶しておく必要がありますし、それを受けて引き起こされたのが相模原事件だということも忘れるわけにはいかないでしょう。
日本でもハンセン病患者の強制堕胎や断種政策が人権侵害だと裁判で認められたのは、つい最近のことですよね。
アーレント自身はそこまで議論したわけではありませんが、国民全体の生命・健康管理を国家が担うという思想は、いきつくところまでいくと、国民のなかでの優劣を選別し、殺されても当たり前だという国家主権という暴力を保護するはずの国民にふるうことを正当化してしまうことの問題性は考慮しておく必要があるでしょう。
ちなみに、こうした国家の国民健康管理と同時に、国民全体のために廃棄できる権力を、現代思想では「生権力」と呼んでいます。
まぁ、国民の生活保障とう政治の目的には、同時にいつでも国家全体のために個々の生命が犠牲(廃棄)に供される思想が孕んでいることには気づいておく必要があるでしょうね。

話を戻しますと、「社会的なるもの」というのは、本来、私的領域でなされていた生命維持や生活保障の問題を社会全体で解決させようとするものだととらえてよいのだと思います。
佐藤和夫さんは、そこに「市場の原理」を例に挙げたりもしています。
今日の市場原理は国家とは異なりますが、なるほど生活に必要なものの交換がなされていた「市場(いちば)」が、今日ではグローバル化したことで、その「生命の必然性」を全世界的な経済活動の目的にしてしまっていますからね。
畢竟、政治の目的はこの経済のグローバリゼーションにどう乗っかるかを決める営みだと思われています。
こうなると、アーレントがいう「政治」はないも同然です。

それにしても、やはり生命の維持や生活の保障を、なぜ政治の問題にしてはいけないのか、容易に腑には落ちないでしょう。
このことを考えることがこの読書会の最大の目的になりますね。

このことに関して、アーレントのいう「社会」とは、社会主義国家の「社会」ともいえるんじゃないか、という意見が出されました。
なるほど、社会主義国家においてはまさに国民の生命生活の保障を至上命題にしていたはずですからね。
そうとも言えるかもしれません。

議論はアーレントの科学批判という点にも疑問が差し向けられます。
「仮説実験教室」という教育実践に30年取り組まれてきた方からは、社会科学的に物事の真理に迫ろうとすれば、仮説を立て、それについて議論し、問題の原因を突き止め真理に至るというプロセスが、どうして反「政治」的なのかという疑問が出されました。
さらに、金融企業に勤める方からも、職業上、そのようなことは理解できるという意見が出されます。
経済学が社会科学の模範例だとされるのは、なるほどその補足性や規則性が一定程度確保されるからでしょう。
けれど、たぶんアーレントは「政治」において法則性や真理を排除しようとします。
もし、それを前提とすれば、まさに話し合う必要がないわけです。
いやいや、真理探究のためには科学だろうが社会科学だろうが、仮説を検証するための対話のプロセスは必要なはずだ。
そもそも、自然科学の真理と社会科学の真理は別だろう。
こうした反論も出されました。
たしかに両者の真理は別物だといえます。
けれど、問題は「真理」を前提に話し合うことは、最終的に個々人の「意見」は邪魔になるはずでしょう。
西洋の哲学史において個々人の偏見ともいうべき「意見」は「真理」の対極にあるとされてきました。
しかし、アーレントは、この「真理」を政治にもちこむことが、プラトンの哲人政治などと結実してしまい、個々人の判断は蔑ろにされてしまう政治に転じてしまったとみるわけです。
ただ、この議論は延々と尽きないので、ここは、ぜひ佐藤和夫さんをお招きしたときに議論したい点ですね。

また、これに関しては多数決は本来の民主主義ではないという意見も出されました。
アーレントは民主政を危険視しています。
それは独裁の暴政が単なる多数者の暴政に転じるからです。
ナチスの政治をユダヤ人として身をもって経験した恐怖がそこにあるのでしょう。
でも、民主主義って、話し合いを基本として決めるもので、多数決なんてただの技術的な問題じゃないか。
その通りだと思います。
しかし、問題は話し合いで解決できる範囲とはどのようなレベルでしょう?
国民全体で話し合うことは不可能です。それゆえ多数決方式の選挙制度が導入されるわけですが、アーレントはおそらく現実的に話し合いができる範囲において「政治」は可能になると考えていたのではないか。
それをタウンミーティングというアメリカ独特の政治文化に見出し、それが下から連合していく細かい連邦制を構想していたと思うのです。
なので、本来の民主主義は話し合いによってなされるというのは、その通りだと思いますが、その本質だけを述べただけでは、話し合いの意義が見失われるように思うのです。
問題は、その話し合いが不可能なレベルで政治を実行しようとするときに、多数派の暴政が現実化するという問題を考えよう、ということなのだと思うのです。
ちなみに、アーレントにおいてはそれは共和政であり、多数性の暴走に法的な歯止めをかける仕組みを考えていたという点では、今日の立憲主義のような政治体制が望ましいと考えていたようですね。

さて、今回の議論でやはり、もっとも議論の焦点になったのは、アーレントの「政治」ってそもそも何?なぜそれが「自由」なの?実際にどんな例を考えればいいの?という点でした。
これに関しては、二週間前に和光市でおこなれた読書会の際に、佐藤さん自身が「政事=祭りごと」と語り、「祭り」の祝祭性を例示したことが挙げられました。
これには、一同ピンと来るようでピンと来ないという感触があったようです。
それは、「非日常的」であるがゆえに「日常」では経験できない。
しかも、そのとき、佐藤さんは「この自由は経験できたものしかわからない」と発言されました。
これはアーレントも同じ事述べています。
フランスの対ナチレジスタンスが、その活動の最中にはお互いに「自由」を経験したにもかかわらず、終戦後、それを言語化できずにその政治の自由という「宝」を後世に伝えられなかったということを問題にしています。
その点で、「政治」の自由は言語化も難しいものということができますが、しかし、ではそもそも経験したものにしかわからない「政治」や「自由」なんて、どんな意味があるのか、という点が議論の俎上に上がりました。
これもまた、著者を招いた時に議論したい点ですね。

もちろん、これ以外にも議論になったことはありますが、私には手に余る(というか記憶に残っていない)ものなので、参加された方からご自分の問題意識や発言をコメントに随時アップしていただければ助かります。

アーレントが経験したヴァイマール期の政治的危機の時代が、今日の日本の政治・経済的危機に重なるという点では、参加者一同ものすごく納得がいったようです。
そのような「政治」の危機において、果たしてアーレントを読む意味は何か。
参加者のお一人は、アーレントの「政治」や「自由」って、実はよくわからないんだけれど、社会や政治が危機になると常に召還される思想という点では、ものすごく人々を惹きつける何かがあるのは間違いないといいます。
さらに議論を深めていきましょう!(文:渡部純)

第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-10-22 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第1回『「政治」の危機とアーレント』を読む会のレジュメを仕上げましたので、参考にして下さい。
当日は、これをもとに渡部の方から簡単に概要を説明していきながら、皆さんと議論していきたいと思います。
ちょっとこれだけの量となると90分で収まるのか微妙ですが、そのあたりは皆さんとの議論の時間を多めに取りつつ、焦らずに進めたいと思います。
市民同士の読書会ですから、アカデミックな哲学的抽象的議論に拘泥するのではなく、できるだけ身近な経験や状況を佐藤和夫/アーレントの言葉を手がかりに理解していきましょう。

この会の目的は、既に告知しました来る2月24日(土)に開催される「佐藤和夫氏と一緒に語る会」へ向けて、本書の意義と疑問点を皆で話し合いながら明確にしていき、それらを語る会本番で著者へぶつけながらアーレント思想の今日的意義をつかんでいこうというものです。
もちろん、報告者の渡部が本書をすべて理解してるわけではありませんし、参加者の疑問に答えるのは筋違いでしょう。
したがいまして、くり返すようですが、この読書会を通じて著者である佐藤和夫氏への質問・疑問点をまずは皆さんで明確化していくことが第一の目標となります。
よろしくお願いいたします。(渡部 純)



第1回佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む-「はじめに」・「第1章 時代の転換とアーレント」- 報告:渡部 純

はじめに
(1)本書の二つの目的
 ①アーレント『人間の条件』を新たな視点から解読する
 ・これまでのアーレント研究では全体主義との関連が明確にされてこなかった
  「政治」と「経済」の癒着・自己利益への疾走が人々の「孤立」生む問題
  政治的協同の破壊が思考停止を生む問題
 ・アーレントが強調した政治的協同としての「活動」の位置づけが明確ではない
   「労働」・「仕事」・「活動」の分析と公的領域と私的領域、社会的領域の区別の意味
 ②今日の世界における政治的危機と文明の転換の必要を『人間の条件』から読み解く
 ・今日、人権と民主主義を実現するはずの欧米で排外主義が蔓延するのはなぜか?
   近代ヨーロッパの社会構造と文化そのものにその本質的な原因が潜んでいる
 ・「地球市民」という理想と現実の落差
   グローバリゼーションにおける「世界市民」の理想と欺瞞

(2)アーレントが痛切に危惧したもの
 ① 人々が利害に関係なく協働して関心をもち、語り合う「公的な共通世界」の衰退
 ② 利害をめぐる「社会(例:市場社会)」にとって代わられ、「孤独な大衆」が生まれる
 ③ 世界の中で私的に自分の居場所をもちうることが目に見える形では失われる現実
 ④ 現代科学の楽観主義…科学の歯止めのきかない過程的性格
 ⑤ 他者と共生する世界への関心の喪失…〈地球疎外〉と〈世界疎外〉

(3)アーレントの問い
 このような状況が生まれたのはなぜなのか?それは「人間の条件」の変容といかに結びついているのか?

第1章 時代の転換とアーレント
1.アーレントはなぜ難しいのか
(1)アーレントの「政治」概念の独創性が、われわれが用いる17・18世紀の近代思想の概念とは異なるため
 アーレントの目的は現代では忘れ去られた「政治」の概念を古代ギリシアから掘り起こすことにある!

(2)『人間の条件』(1958年)が書かれた時代背景
 冷戦構造における政治・経済構造の危機と戦後復興の順調な経済成長(1945~1989年)が併存した
 ⇒戦後の政治・経済システムの結合は国民国家の民主政治と矛盾しなかった!
 ⇒しかし、冷戦崩壊後、国民国家による豊かさの保障物語と西欧の人権・民主主義的価値が崩壊してしまった!
  ※これはワイマール期からナチス政権への変貌とシンクロする

(3)近代西欧社会思想に内包される全体主義の要素
 なぜ、マルクス理論は全体主義と結びついたのか?(1952~53年の研究)
 近代政治・経済思想を民主主義の発展と一元的に捉える政治理論の限界
 ⇒近代民主主義思想は独裁制を批判できるが、全体主義とつながる民主主義の要素を見えなくする

2.アーレントが生きた時代
(1)若きアーレントを取り巻く危機的状況
 ① 若いころ、文学少女のアーレントは政治に無関心だったが、その背景では第一次大戦による膨大な戦死者や帰還兵のトラウマ、ドイツ敗戦と法外な賠償金という深刻な問題があった。
 ② 虚構の「黄金の二〇年代」…民主主義の建前とテロの蔓延や政権交代のくり返し
   中産階層に民主主義や議会制への不信を増大させた
  ⇒「共和国をむしろ重荷と感ずるようになり、上からの強力な支配に救いを求める人が増えたのである」(p.29)
   ※個人の意思ではどうにも手に負えるとは思えない状況があった

(2)冷戦崩壊後の今日と世界経済の危機
 ① 1929年の世界恐慌と2008年のリーマンショック
   金融資本主義と先進国の経済成長の限界
 グローバル化と国内生産消費を基礎とする産業構造の限界…先進諸国の国民の不要化
 ② 福祉国家の危機と排外ナショナリズムの高揚
  70年代までは経済成長を基礎に、財政赤字を憂慮せずに福祉政策を推進できたが…
 ③ 経済危機の深刻化と社会保障財源不足がもたらす問題
  保守/革新に関係なく、政権交代で財政赤字を解消できず、経済政策の破綻を緊縮財政による増税や社会保障の削減によって埋め合わせる政策しかとれなくなった
  どの政党に投票しても同じ!(「脱政治の政治」状況,ブルデュー、ヴァカン)
  悲しい先例:ワイマール共和国においてナチス政権が生み出された

3.「社会」への強烈な危機意識とプレカリアートの時代
(1)これまでのアーレント解釈の前提―アーレントのわかりにくさの原因
 ① 経済問題抜きの〈政治〉を語るアーレントは「非現実的」と読まれてきた cf:ハーバーマス
  戦後、先進諸国が経済発展を基礎に社会政策を重視し、社会福祉を積極的に政治課題として展開できる時代に読まれてきたため
  経済成長を前提とする行政措置を、無批判に住民が受け入れる政治意識 cf;沖縄、福島
 ② アーレントが読まれていた時期
  政治と経済が矛盾せずに経済成長が政治的積極性も可能にすると期待されていた時代
  いったん深刻な経済危機に陥ったときに排外主義や全体主義へ向かう危機の認識が欠如
(2)アーレントが「政治」の名の下に擁護しようとしたもの
  経済的利害から自由な次元(公的領域)で人間たちが互いの違いを認め、共同で語り合い、「活動」する「政治」の人間にとっての意味
  政治空間に利害関係や支配・服従関係が入った途端に「政治」は経済的利害=「社会的なもの」に浸潤され消失していく
 「政治」と「社会」は区分されなければならない…全体主義への警戒

a.近代「政治学」との根源的距離
(1)近代政治学の政治概念は「安全保障」のための「統治」を意味する
 ① 「私的所有」に対するホッブズ・ロックとの齟齬
  ロック:私的所有のさらなる保有と拡大の正当化のために貨幣を導入する富の増大の論理が、結果として支配機関としての国家を肯定する
  アーレント:自分らしく生活できるために「小さな持ち分」(財産)としての「私的所有」が必要 
  ※政治の「前提」のために支配と従属をやむを得ない
 ② 「自然状態」の暴力を免れる(安全保障の)ために国家を樹立することは「政治以前」のもの
 ③ 生活の安定と保障の議論する近代政治学の前提を疑え!

(2)「社会」による平均化・画一化において、いかに一人の人間として希望を失わずにいられるか?
 ① 「暗い時代」にも全体主義的な文化に破壊されない人間の生(ビオス)は可能か?
   「社会的なもの」…物質的増大と国家規模の経済的成功に国民が動員されていく現代の傾向
 ② 科学的とされる心理学・統計学に基づく政治学による画一化された行動パターン分析にすぎない
   近代は人々の「動物的部分」を重視し、個々人の唯一性のはく奪してきた

(3)「政治的なもの」とは何か?
 ①日常的な有意味性が露わになるのは例外的な「偉業」の中においてである
 Ex;ビロード革命、プラハの春、
 ②「政治的なもの」は「経済的なもの」に還元されない運動において現れる
  Cf;政治的次元の事柄を経済で判断するオリンピック開催、人類存亡が問われる原発の経済性
 ③「政治的なもの」とは何か?…Wherever you go, you will be a police. 
 「ポリス」は一定の物理的場所を占める都市国家ではない。
 それは話し合いと活動に参加する人と人とのあいだにできる空間である
 こういう空間はいつも存在するとは限らない。
  この空間は、この空間を生み出している運動が続いている間にしか存続しない。

b.政党政治の経済化
(1)アーレントの議論は経済問題にどう対応するのか?
 ① 「政治」の「経済」への従属化に対する警告として捉え返す 
  「政治」の問題を生存の問題に従属させることは、「政治的なもの」が成り立たなくなる
 ② フーコーの「生政治」の議論…国民の生命維持・管理を欲望する国家権力
   ⇒70年代フランスの「社会市場経済」の問題

(2)アーレントが強調する二つの点
 ① 資本主義でも社会主義でも、工業社会によって所有を奪われた大衆がどうやったら自分らしさを取り戻すことができるのか?
 ② そのためには、「政治の権力と経済的権力の分離」が行われなければならない

4.「私的なもの」の意味
 (1)自分自身の私的な場所をもたないことは、もはや人間でないことを意味する
 古代:公的場所での政治活動のための前提⇔近代:私的な富の多さが市民的資格や豊かさを意味する
「私生活を自分らしく確立し守ること」がなければ公的生活が成り立たないとの考えをもたなかった。
「私有財産」…「自分らしくあるためのプライヴァシー」⇒「排他的で私的に所有された富=カネ」

(2)全体主義出現の前提
 ① 近代の過程全体が「自分らしくあるためのプライヴァシー」の剥奪の過程をとらえずに、富の増大のためにはやむを得ないと考えた資本主義の問題
   経済成長のさなかには貨幣収入こそ安定した空間の確保に最も確実に見えた
 ② 現代への若者の根本的不安とは
   自分の存在の無用感、「余計もの」という感覚、根を奪われた「根こぎ」の存在
   自分が自分らしくあっても、この世界は私を必要としてくれているという感覚の喪失

映画「裁き」de BAR・雑感

2017-10-21 | 映画系


映画「裁き」での言論カフェ。
チャレンジでした。
これまでにないチャレンジだった、と見終わって誰もがそう思いました。
何せ、だいたい皆、寝たそうです。
かくいう僕も、昨夜いっしょに観に行った相方は最初から最後まで爆睡。
見ていない人よりも説明できないほどの睡眠導入剤だったようです。

それでも、必死にみんななんとか言葉を紡ぎました。
インドの司法制度の前近代性、詩人の歌声のすばらしさ・・・
でも、あとは何もない。本当に何も言葉が出てこない。
圧倒的に何も残らない。
映画のもともとのタイトルは「court」。
つまり、「法廷」。
こっちの方であればまだ、法廷を描いた作品として解釈が可能だったかも。
そもそも宣伝のキャッチフレーズが巧みすぎだ。
あれなら、誰でも不条理な罪状で翻弄される人間の闘いを描いたものと思い込むじゃないか。

むしろ、これで何があるのかを教えてほしい。
インドのカースト制のひどさ、裁判の緩さ、不条理さ。
そんな陳腐な言葉で何とか意味づけようとしても、そこからするりと抜け落ちる何かがあるようで何もない。
いちおう、パンフレットを紐解いてみた。
なるほど、もっともらしいことは解説してある。
けれど、So what ? 
困り果てた挙句、ただの飲み会になった。
「三度目の殺人」の方がよほど語れたかな。
映画って難しいね。

その後、2次会で、大人になれば自然に幸福になれるのか?幸福だと思える瞬間なんてほんの一瞬じゃないか、だとすれば生きているって何なんだ。
人生を振り返ると、あっという間に過ぎ去る速さに驚きを覚えるとともに、生きている実感を得られる瞬間のはかなさにぞっとする話。
それと人生で最も輝いた瞬間はいつだったか、そんなこと自分で決められるのか、そんな哲学チックな議論になった。
もちろん映画とは何の関係もない。
が、よほど話が盛り上がった。
でも、映画に強引に重ね合わせれば、冤罪を被った主人公の人生って何だったのか、と問えなくもない。
どうでもいい、雑な司法制度に翻弄され、ああやって人生はいつの間にか消耗して終わる。
自分の力では何とも制御できないものに翻弄されながら、たらい回しにされながらいつの間にか人生の不条理と何の変哲も高揚もない日常の混在の中でい生は自分ではないものに巻きこまれつつ、翻弄されつつ、無感動のままにぐるぐる永劫回帰する。
なんか、そんな虚無的な力を入れることの無意味さを映画に感じながら、仲間と人生の意味を語り合いつつ夜が更けていったのだ。
(文;渡部 純)








映画「裁き」de BAR

2017-10-01 | 開催予定
        
             
週末の夜、映画を観た後に一杯やりながら(飲まなくても大丈夫です)語らいませんか?
映画鑑賞は都合のよい日に各自でご覧になって下さい。
その感想や考えたことを持ち込んで、お互い語らいましょう。

【日 時】10月20日(金)
  上映時間  18:15~20:20 
  言論カフェ 20:30~21:30
【会 場】 BLACK COMET CLUB(福島市陣場町8-11 茂木ビル 1F)
【映画作品】「裁き
 フォーラム福島にて10月14日(土)~20日(金)上映(20日はフォーラム6番での上映です)
 ※各自でご都合の良い日時にご覧下さい。
 ※会場席数に限りがありますので、できればブログメッセージかFacebookページにご連絡下さい。
 ※言論カフェの会場はフォーラム福島ではありません。
【参加費】飲み物を各自でご注文下さい ※食べ物は持ち込み可らしいです
【カフェマスター】渡部 純


            
映画「裁き」のストーリー(HPからの引用)

ある下水清掃人の死体が、ムンバイのマンホールの中で発見された。
ほどなく、年老いた民謡歌手カンブレが逮捕される。
彼の扇動的な歌が、下水清掃人を自殺へと駆り立てたという容疑だった。

不条理にも被告人となった彼の裁判が下級裁判所で始まる。
理論的で人権を尊重する若手弁護士、100年以上前の法律を持ち出して刑の確定を急ぐ検察官、何とか公正に事を運ぼうとする裁判官、そして偽証をする目撃者や無関心な被害者の未亡人といった証人たち。

インドの複雑な社会環境の中で、階級、宗教、言語、民族など、あらゆる面で異なる世界に身を置いている彼らの個人的な生活と、法廷の中での一つの裁きが多層に重なっていき…