自民党改憲草案を読む会が西澤書店大町店2階のスペースをお借りして開催された。
改憲論争は物心がついた時から議論されていたし、個人的には中高生のころから関心を寄せていた問題だった。
だから僕が修士課程までは(実は)憲法学のゼミに所属していたという事実はあまり知られていない(途中から哲学ゼミに足を踏み外したが…)。
当時、この問題が僕のなかで先鋭化されたのは高校の同級生と議論したことがきっかけだった。
僕にとっては自明すぎるくらいの平和憲法の条文が、彼にとってはそうではなかった、という他愛もない出来事だった。
別に深い議論になった記憶はない。
ただ、その時初めて他者を意識した経験だったかもしれない。
そのときの経験がたぶん大きかったのだろう。
大学2年生のゼミで初めて発表を担当した時の題材は憲法9条だった。
はじめて数冊の書物を調べながら、その論争の系譜をまとめて問題を提起した記憶がある。
しかし、その情熱とは対照的に、周囲のゼミ生たちの反応は冷ややかだった。
「だって、自衛隊は存在しているし」、「廃止したら失業者が大量に出るし」
壮絶につまらないゼミ生の見解に唖然とした覚えがある。
そもそもこうした政治的な話題はなぁ…という反応に、法学ゼミって政治的な議論をするところじゃないの?とまたまた愕然とした覚えがある。
違っていたらしい。
そこは公務員になるための訓練場という意識の学生ばかりが集うところだった。
けれど、人間そういう時は自分の関心の方が間違っているのだと思い込む心理が働くらしく、それ以来政治的な題材は避けてしまっていた気がする。
あらためて思い出すに、平和ボケの極限的な時代だったんだと思う。
こんな個人的な話から始めたのは、今回参加してくれた中学生がこんな話題を同級生たちとは話せないという言葉を口にしたことを思い出してのことだ。
たしかに、中学生としては早熟なのかもしれない。
けれど、それはむしろ日本社会全体が非政治化させられていることへの違和感をストレートに表現した言葉なのだと思う。
政治がつまらないから関心を持てないのではない。
政治はくだらないものだと思い込まされていることそのものが危機なのだと思う。
誰が思い込ませているのか?
それは政府ではない。政治家のクダラナサに幻滅させられている理由として、自分たちでそう思い込むしかないことが危機なのだ。
というわけで、今回の自民党改憲草案を9名の方々と読み込んだ。
幸い、憲法研究の専門家の方にもご参加いただいた。
法律を生業としている人もいた。
学校の授業で教えている立場の人もいた。
初めて読み込んだという人もいた。
僕自身も今回のために熟読した経験は初めてだったが、あらためて読んだ感想は、現行憲法の価値観を根本から転覆させているというものだった。
参加者からは、まず憲法9条において「国防軍」へ変更させていることが根本的な変更ではないかという指摘がなされた。
軍隊として法的に存在を認めること、戦争遂行が可能になることにおいてはじめて人権規定の変更が現実味を帯びてくる。
これに対して、やはり現実の自衛隊組織と憲法条文との齟齬のすっきりしなささを改憲によって整合的にすることは必要ではないかという意見も挙げられた。
改憲と護憲という二者択一の議論しか行われないことが違和感の下であり、個別にみた場合にはやはり議論が必要な条文はあるだろうというわけだ。
全体としてもこれに異論はなかった。
むしろ、個別的に見れば改正の必要のある条文はある。
ただし、現状との齟齬に整合性をつけるために改憲が必要だとすれば、現実に差別や不平等があるからといって、憲法の平等権を現実に合わせるという議論はないだろう。
そうだとすれば、現実が変わったからそれに法を合わせるべきだという議論は、現状をひたすら肯定していく役割しか果たせなくなる。
むしろ、現実が悲惨であれ法的に人間の尊厳は保障することが憲法の憲法たるゆえんである。
その意味でいえば、自民党改憲草案は、現実の政治が下位法によって切り崩してきた法的価値(安保法制を見よ!)を追認するための草案でしかない。
改憲草案にある信教の自由は「社会的儀礼」の範囲であれば特定宗教の関与を認めているものも、靖国参拝や地鎮祭の違憲性に有無を言わせないためであろうし、公務員の労働権の制限も同様である。
判例上、制限を受けてきた人権を問題化させないことが現状追認としての改憲草案であることは疑いえない。
法的価値が文言化されている以上、政治家はそれに対する根拠を明示しなければならない。
たとえタテマエと言われようとも、である。
昨今の政治的危機は、この明文化された法的価値を議論も無視して数の論理だけで強行する政権の傲慢さにある。
これが憲法によって明示的に公認されたらますます歯止めがかからないだろう。
現在、自衛隊は「戦力」ではなく「実力」とされている。
言葉遊びのようにも思えるが、しかしそれが公然と「戦力」と認めてしまえば、同時に軍事法廷や軍人の存在、すなわち軍事的価値を社会において容認するという事態をもたらす。
自衛隊は軍隊ではないがゆえに、その暴力性をコントロールしているという法的抑止力の方をもっと注目すべきではないだろうか。
これは自衛隊の存在の否定ではない。
自衛隊が存在する以上、それは非軍事的な実力組織という世界史上にありえなかった「実力組織」として、あらたな組織概念に脱構築していく可能性のある存在としてみていくべきだろう。
災害救助力の能力の高さは既に東日本大震災において証明されている。
問題は、それが非軍事的な組織として、平和実現部隊に組み替えていく工夫の問題だと思われる。
一方、改憲草案が憲法13条にある「個人の尊厳」を「人として尊重する」に変えられているところにみるように、個人の尊重という価値観を根本から認めない方向にシフトしていることは容易に看取できる。
「個人」から「人」に変更されることに、それほどの意味はあるだろうか?
こうした細かい文言表現のテクスト読解はとても重要である。
個人が個人として尊重されるのは、その多様性にあるからだ。
しかし、それが「人」一般になるとき、人一般としての基準で尊重されるにすぎなくなる。
「公共の福祉」が「公益・公の秩序」に変更されている点も同様だ。
自民党の会見Q&Aには、公益が国益とは異なることが説明されているが、しかしそんな解説は全くあてにならない。
国旗国歌法が制定された時点では、学校その他で国歌斉唱・国旗掲揚をしないことで罰することはないといわれていたはずだが、数年後から東京都をはじめ、そのことによって教員は処罰の対象とされるようになった。
法的に明示はしていない。
国民の側の方で「忖度」し始めることが、その当初の意向を破棄させた。
だから、改憲によって個人の尊重の変更が明示されることの本当の怖さは、国家権力の暴力性以上に、国民の側に潜むそうした暴力性を公的に認めることになる点にある。
デモ経験のある参加者は、一般市民から時々浴びせられる罵声が一番へこまされるという。
たしかに、デモは交通整理上「迷惑」をかける行為である。
しかし、それを上回るだけの価値を表現の自由はもっているという共有感が、民主主義を成立させているはずだ。
だが、もしその価値を共有する文化がなければ、いくらでも「公の秩序」によって表現の自由の価値は切り下げられていく。
それを公然と認めようというのが、繰り返し言うように自民党改憲案だ。
だいたい、公然と人権を侵害したり制限することを主張できるわけはない(少なくとも民主国家においては)。
それこそ「ナチスのやり口をまねすればいい」といった政治家の発言は、この文言表記の微妙な変更においてこそ真価を発揮していく。
オーウェルは「動物農場」でそのことを巧みに戯画化した。
いつのまにか知らず知らずのうちに法律の文言が変わっていく中で全体主義が貫徹されていたという童話である。
『茶色の朝』もまたそのリアルな絵本としてそのことを描いている。
ある参加者は自衛隊の海外派遣に反対する主張を行っていたところ、現役自衛官と議論になった経験を話してくれた。
彼によれば、そのような反対主張が自衛官の存在そのもの否定につながるというのだ。
しかし、よくよく話すうちに、国防の使命に燃えて任官した彼もまた、海外でしかも米軍のために尽くす意思はなかったことを漏らしたという。
こうして国策に御弄されいく個々人の存在は、「公益」によって犠牲に供されることを認めやすくなっているともいえるだろう。
ところで「公共の福祉」と「公益・公の秩序」の違いは何だろうか?
後者を「国益」と読めば、おのずとその意図は明らかである。
しかし、解説においてそうではないことも明示されている。
この微妙な分をどう読み込むかはテクスト読解力が試されよう。
基本的人権の「享受を妨げられない」から「享受する」に変更された部分などは、天賦人権説をヨーロッパ的と解釈する自民党案からすれば、国家が与えるべきものが人権であるという読みが可能である。
まるで明治憲法への復古ではないか。
「読み込みすぎだ」といわれるかもしれない。
しかし、テクストはその背景にある思想的文脈をも考慮して判断されなければならない。
後半は憲法前文をどう読むかに議論が集中した。
前文は現行憲法から改憲草案では、その内容がまるっきり変更されている。
一口に言えば、国際的平和や人権、平和の普遍的理念が切り捨てられ、自国の文化や歴史を前面に押し出した内向きな内容に改変されていることは、読めばすぐに理解できる。
だいたいにして、主語が「日本国民は」から「日本国は」に変わっている。
つまり、国家が主体なのだ。
そこに政府の行為によって戦争が引き起こされたという認識は抹消されており、あたかも自然災害であるかのような表記になっている。
政府・政治・国家の主権性の暴力を反省して成立した歴史的記憶は消し去られているのだ。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
これを純粋に「かっこいい」と評した参加者は、そうであるがゆえにこの国の憲法に愛着があることを述べた。
憲法前文の法的規範性も話題に挙げられたが、これはむしろこの国家の政治的原理の宣言だと思われる。
この文言によって「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という政治的原理である。
この国の文化と歴史のみを政治原理として宣言する狭隘さに魅力を覚えることはできないだろう。
そんな議論になった。
最後に、「押しつけ憲法論」の話題。
中高生大学生は、この主張に共感を覚えるか?
教育現場で働く人の共通する実感は、生徒たちは押し付けられたものであろうが、それが素晴らしいものである限り、自分たちのものとして受け入れることに抵抗がないという答えだった。
押しつけ憲法論は何を求めるのか?
憲法が歴史の産物である以上、その根拠を歴史的事実に求めることは否めない。
がしかし、その過程で自分たちのものとして受け入れてきた事実もまた歴史的事実として、法の正当性の根拠になりうるのではないか。
このほかにも97条の削除や緊急事態条項、改憲条件の変更などなど、まだまだ語りつくせないほどの論点が多岐にわたるが、そもそも初めて改憲草案を読むことで、その思想がリアルなものとして理解できたという感想を得られた。
今後は個別事例を取り上げながら、まだまだ改憲案の議論を深めていきたいと思う(文・渡部純)
改憲論争は物心がついた時から議論されていたし、個人的には中高生のころから関心を寄せていた問題だった。
だから僕が修士課程までは(実は)憲法学のゼミに所属していたという事実はあまり知られていない(途中から哲学ゼミに足を踏み外したが…)。
当時、この問題が僕のなかで先鋭化されたのは高校の同級生と議論したことがきっかけだった。
僕にとっては自明すぎるくらいの平和憲法の条文が、彼にとってはそうではなかった、という他愛もない出来事だった。
別に深い議論になった記憶はない。
ただ、その時初めて他者を意識した経験だったかもしれない。
そのときの経験がたぶん大きかったのだろう。
大学2年生のゼミで初めて発表を担当した時の題材は憲法9条だった。
はじめて数冊の書物を調べながら、その論争の系譜をまとめて問題を提起した記憶がある。
しかし、その情熱とは対照的に、周囲のゼミ生たちの反応は冷ややかだった。
「だって、自衛隊は存在しているし」、「廃止したら失業者が大量に出るし」
壮絶につまらないゼミ生の見解に唖然とした覚えがある。
そもそもこうした政治的な話題はなぁ…という反応に、法学ゼミって政治的な議論をするところじゃないの?とまたまた愕然とした覚えがある。
違っていたらしい。
そこは公務員になるための訓練場という意識の学生ばかりが集うところだった。
けれど、人間そういう時は自分の関心の方が間違っているのだと思い込む心理が働くらしく、それ以来政治的な題材は避けてしまっていた気がする。
あらためて思い出すに、平和ボケの極限的な時代だったんだと思う。
こんな個人的な話から始めたのは、今回参加してくれた中学生がこんな話題を同級生たちとは話せないという言葉を口にしたことを思い出してのことだ。
たしかに、中学生としては早熟なのかもしれない。
けれど、それはむしろ日本社会全体が非政治化させられていることへの違和感をストレートに表現した言葉なのだと思う。
政治がつまらないから関心を持てないのではない。
政治はくだらないものだと思い込まされていることそのものが危機なのだと思う。
誰が思い込ませているのか?
それは政府ではない。政治家のクダラナサに幻滅させられている理由として、自分たちでそう思い込むしかないことが危機なのだ。
というわけで、今回の自民党改憲草案を9名の方々と読み込んだ。
幸い、憲法研究の専門家の方にもご参加いただいた。
法律を生業としている人もいた。
学校の授業で教えている立場の人もいた。
初めて読み込んだという人もいた。
僕自身も今回のために熟読した経験は初めてだったが、あらためて読んだ感想は、現行憲法の価値観を根本から転覆させているというものだった。
参加者からは、まず憲法9条において「国防軍」へ変更させていることが根本的な変更ではないかという指摘がなされた。
軍隊として法的に存在を認めること、戦争遂行が可能になることにおいてはじめて人権規定の変更が現実味を帯びてくる。
これに対して、やはり現実の自衛隊組織と憲法条文との齟齬のすっきりしなささを改憲によって整合的にすることは必要ではないかという意見も挙げられた。
改憲と護憲という二者択一の議論しか行われないことが違和感の下であり、個別にみた場合にはやはり議論が必要な条文はあるだろうというわけだ。
全体としてもこれに異論はなかった。
むしろ、個別的に見れば改正の必要のある条文はある。
ただし、現状との齟齬に整合性をつけるために改憲が必要だとすれば、現実に差別や不平等があるからといって、憲法の平等権を現実に合わせるという議論はないだろう。
そうだとすれば、現実が変わったからそれに法を合わせるべきだという議論は、現状をひたすら肯定していく役割しか果たせなくなる。
むしろ、現実が悲惨であれ法的に人間の尊厳は保障することが憲法の憲法たるゆえんである。
その意味でいえば、自民党改憲草案は、現実の政治が下位法によって切り崩してきた法的価値(安保法制を見よ!)を追認するための草案でしかない。
改憲草案にある信教の自由は「社会的儀礼」の範囲であれば特定宗教の関与を認めているものも、靖国参拝や地鎮祭の違憲性に有無を言わせないためであろうし、公務員の労働権の制限も同様である。
判例上、制限を受けてきた人権を問題化させないことが現状追認としての改憲草案であることは疑いえない。
法的価値が文言化されている以上、政治家はそれに対する根拠を明示しなければならない。
たとえタテマエと言われようとも、である。
昨今の政治的危機は、この明文化された法的価値を議論も無視して数の論理だけで強行する政権の傲慢さにある。
これが憲法によって明示的に公認されたらますます歯止めがかからないだろう。
現在、自衛隊は「戦力」ではなく「実力」とされている。
言葉遊びのようにも思えるが、しかしそれが公然と「戦力」と認めてしまえば、同時に軍事法廷や軍人の存在、すなわち軍事的価値を社会において容認するという事態をもたらす。
自衛隊は軍隊ではないがゆえに、その暴力性をコントロールしているという法的抑止力の方をもっと注目すべきではないだろうか。
これは自衛隊の存在の否定ではない。
自衛隊が存在する以上、それは非軍事的な実力組織という世界史上にありえなかった「実力組織」として、あらたな組織概念に脱構築していく可能性のある存在としてみていくべきだろう。
災害救助力の能力の高さは既に東日本大震災において証明されている。
問題は、それが非軍事的な組織として、平和実現部隊に組み替えていく工夫の問題だと思われる。
一方、改憲草案が憲法13条にある「個人の尊厳」を「人として尊重する」に変えられているところにみるように、個人の尊重という価値観を根本から認めない方向にシフトしていることは容易に看取できる。
「個人」から「人」に変更されることに、それほどの意味はあるだろうか?
こうした細かい文言表現のテクスト読解はとても重要である。
個人が個人として尊重されるのは、その多様性にあるからだ。
しかし、それが「人」一般になるとき、人一般としての基準で尊重されるにすぎなくなる。
「公共の福祉」が「公益・公の秩序」に変更されている点も同様だ。
自民党の会見Q&Aには、公益が国益とは異なることが説明されているが、しかしそんな解説は全くあてにならない。
国旗国歌法が制定された時点では、学校その他で国歌斉唱・国旗掲揚をしないことで罰することはないといわれていたはずだが、数年後から東京都をはじめ、そのことによって教員は処罰の対象とされるようになった。
法的に明示はしていない。
国民の側の方で「忖度」し始めることが、その当初の意向を破棄させた。
だから、改憲によって個人の尊重の変更が明示されることの本当の怖さは、国家権力の暴力性以上に、国民の側に潜むそうした暴力性を公的に認めることになる点にある。
デモ経験のある参加者は、一般市民から時々浴びせられる罵声が一番へこまされるという。
たしかに、デモは交通整理上「迷惑」をかける行為である。
しかし、それを上回るだけの価値を表現の自由はもっているという共有感が、民主主義を成立させているはずだ。
だが、もしその価値を共有する文化がなければ、いくらでも「公の秩序」によって表現の自由の価値は切り下げられていく。
それを公然と認めようというのが、繰り返し言うように自民党改憲案だ。
だいたい、公然と人権を侵害したり制限することを主張できるわけはない(少なくとも民主国家においては)。
それこそ「ナチスのやり口をまねすればいい」といった政治家の発言は、この文言表記の微妙な変更においてこそ真価を発揮していく。
オーウェルは「動物農場」でそのことを巧みに戯画化した。
いつのまにか知らず知らずのうちに法律の文言が変わっていく中で全体主義が貫徹されていたという童話である。
『茶色の朝』もまたそのリアルな絵本としてそのことを描いている。
ある参加者は自衛隊の海外派遣に反対する主張を行っていたところ、現役自衛官と議論になった経験を話してくれた。
彼によれば、そのような反対主張が自衛官の存在そのもの否定につながるというのだ。
しかし、よくよく話すうちに、国防の使命に燃えて任官した彼もまた、海外でしかも米軍のために尽くす意思はなかったことを漏らしたという。
こうして国策に御弄されいく個々人の存在は、「公益」によって犠牲に供されることを認めやすくなっているともいえるだろう。
ところで「公共の福祉」と「公益・公の秩序」の違いは何だろうか?
後者を「国益」と読めば、おのずとその意図は明らかである。
しかし、解説においてそうではないことも明示されている。
この微妙な分をどう読み込むかはテクスト読解力が試されよう。
基本的人権の「享受を妨げられない」から「享受する」に変更された部分などは、天賦人権説をヨーロッパ的と解釈する自民党案からすれば、国家が与えるべきものが人権であるという読みが可能である。
まるで明治憲法への復古ではないか。
「読み込みすぎだ」といわれるかもしれない。
しかし、テクストはその背景にある思想的文脈をも考慮して判断されなければならない。
後半は憲法前文をどう読むかに議論が集中した。
前文は現行憲法から改憲草案では、その内容がまるっきり変更されている。
一口に言えば、国際的平和や人権、平和の普遍的理念が切り捨てられ、自国の文化や歴史を前面に押し出した内向きな内容に改変されていることは、読めばすぐに理解できる。
だいたいにして、主語が「日本国民は」から「日本国は」に変わっている。
つまり、国家が主体なのだ。
そこに政府の行為によって戦争が引き起こされたという認識は抹消されており、あたかも自然災害であるかのような表記になっている。
政府・政治・国家の主権性の暴力を反省して成立した歴史的記憶は消し去られているのだ。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
これを純粋に「かっこいい」と評した参加者は、そうであるがゆえにこの国の憲法に愛着があることを述べた。
憲法前文の法的規範性も話題に挙げられたが、これはむしろこの国家の政治的原理の宣言だと思われる。
この文言によって「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という政治的原理である。
この国の文化と歴史のみを政治原理として宣言する狭隘さに魅力を覚えることはできないだろう。
そんな議論になった。
最後に、「押しつけ憲法論」の話題。
中高生大学生は、この主張に共感を覚えるか?
教育現場で働く人の共通する実感は、生徒たちは押し付けられたものであろうが、それが素晴らしいものである限り、自分たちのものとして受け入れることに抵抗がないという答えだった。
押しつけ憲法論は何を求めるのか?
憲法が歴史の産物である以上、その根拠を歴史的事実に求めることは否めない。
がしかし、その過程で自分たちのものとして受け入れてきた事実もまた歴史的事実として、法の正当性の根拠になりうるのではないか。
このほかにも97条の削除や緊急事態条項、改憲条件の変更などなど、まだまだ語りつくせないほどの論点が多岐にわたるが、そもそも初めて改憲草案を読むことで、その思想がリアルなものとして理解できたという感想を得られた。
今後は個別事例を取り上げながら、まだまだ改憲案の議論を深めていきたいと思う(文・渡部純)