カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

みんなで「自民党改憲草案」を読む会・雑感

2017-07-31 | 政治系
自民党改憲草案を読む会が西澤書店大町店2階のスペースをお借りして開催された。
改憲論争は物心がついた時から議論されていたし、個人的には中高生のころから関心を寄せていた問題だった。
だから僕が修士課程までは(実は)憲法学のゼミに所属していたという事実はあまり知られていない(途中から哲学ゼミに足を踏み外したが…)。
当時、この問題が僕のなかで先鋭化されたのは高校の同級生と議論したことがきっかけだった。
僕にとっては自明すぎるくらいの平和憲法の条文が、彼にとってはそうではなかった、という他愛もない出来事だった。
別に深い議論になった記憶はない。
ただ、その時初めて他者を意識した経験だったかもしれない。
そのときの経験がたぶん大きかったのだろう。
大学2年生のゼミで初めて発表を担当した時の題材は憲法9条だった。
はじめて数冊の書物を調べながら、その論争の系譜をまとめて問題を提起した記憶がある。
しかし、その情熱とは対照的に、周囲のゼミ生たちの反応は冷ややかだった。
「だって、自衛隊は存在しているし」、「廃止したら失業者が大量に出るし」
壮絶につまらないゼミ生の見解に唖然とした覚えがある。
そもそもこうした政治的な話題はなぁ…という反応に、法学ゼミって政治的な議論をするところじゃないの?とまたまた愕然とした覚えがある。
違っていたらしい。
そこは公務員になるための訓練場という意識の学生ばかりが集うところだった。
けれど、人間そういう時は自分の関心の方が間違っているのだと思い込む心理が働くらしく、それ以来政治的な題材は避けてしまっていた気がする。
あらためて思い出すに、平和ボケの極限的な時代だったんだと思う。

こんな個人的な話から始めたのは、今回参加してくれた中学生がこんな話題を同級生たちとは話せないという言葉を口にしたことを思い出してのことだ。
たしかに、中学生としては早熟なのかもしれない。
けれど、それはむしろ日本社会全体が非政治化させられていることへの違和感をストレートに表現した言葉なのだと思う。
政治がつまらないから関心を持てないのではない。
政治はくだらないものだと思い込まされていることそのものが危機なのだと思う。
誰が思い込ませているのか?
それは政府ではない。政治家のクダラナサに幻滅させられている理由として、自分たちでそう思い込むしかないことが危機なのだ。

というわけで、今回の自民党改憲草案を9名の方々と読み込んだ。
幸い、憲法研究の専門家の方にもご参加いただいた。
法律を生業としている人もいた。
学校の授業で教えている立場の人もいた。
初めて読み込んだという人もいた。
僕自身も今回のために熟読した経験は初めてだったが、あらためて読んだ感想は、現行憲法の価値観を根本から転覆させているというものだった。
参加者からは、まず憲法9条において「国防軍」へ変更させていることが根本的な変更ではないかという指摘がなされた。
軍隊として法的に存在を認めること、戦争遂行が可能になることにおいてはじめて人権規定の変更が現実味を帯びてくる。
これに対して、やはり現実の自衛隊組織と憲法条文との齟齬のすっきりしなささを改憲によって整合的にすることは必要ではないかという意見も挙げられた。
改憲と護憲という二者択一の議論しか行われないことが違和感の下であり、個別にみた場合にはやはり議論が必要な条文はあるだろうというわけだ。
全体としてもこれに異論はなかった。
むしろ、個別的に見れば改正の必要のある条文はある。
ただし、現状との齟齬に整合性をつけるために改憲が必要だとすれば、現実に差別や不平等があるからといって、憲法の平等権を現実に合わせるという議論はないだろう。
そうだとすれば、現実が変わったからそれに法を合わせるべきだという議論は、現状をひたすら肯定していく役割しか果たせなくなる。
むしろ、現実が悲惨であれ法的に人間の尊厳は保障することが憲法の憲法たるゆえんである。

その意味でいえば、自民党改憲草案は、現実の政治が下位法によって切り崩してきた法的価値(安保法制を見よ!)を追認するための草案でしかない。
改憲草案にある信教の自由は「社会的儀礼」の範囲であれば特定宗教の関与を認めているものも、靖国参拝や地鎮祭の違憲性に有無を言わせないためであろうし、公務員の労働権の制限も同様である。
判例上、制限を受けてきた人権を問題化させないことが現状追認としての改憲草案であることは疑いえない。

法的価値が文言化されている以上、政治家はそれに対する根拠を明示しなければならない。
たとえタテマエと言われようとも、である。
昨今の政治的危機は、この明文化された法的価値を議論も無視して数の論理だけで強行する政権の傲慢さにある。
これが憲法によって明示的に公認されたらますます歯止めがかからないだろう。
現在、自衛隊は「戦力」ではなく「実力」とされている。
言葉遊びのようにも思えるが、しかしそれが公然と「戦力」と認めてしまえば、同時に軍事法廷や軍人の存在、すなわち軍事的価値を社会において容認するという事態をもたらす。
自衛隊は軍隊ではないがゆえに、その暴力性をコントロールしているという法的抑止力の方をもっと注目すべきではないだろうか。
これは自衛隊の存在の否定ではない。
自衛隊が存在する以上、それは非軍事的な実力組織という世界史上にありえなかった「実力組織」として、あらたな組織概念に脱構築していく可能性のある存在としてみていくべきだろう。
災害救助力の能力の高さは既に東日本大震災において証明されている。
問題は、それが非軍事的な組織として、平和実現部隊に組み替えていく工夫の問題だと思われる。

一方、改憲草案が憲法13条にある「個人の尊厳」を「人として尊重する」に変えられているところにみるように、個人の尊重という価値観を根本から認めない方向にシフトしていることは容易に看取できる。
「個人」から「人」に変更されることに、それほどの意味はあるだろうか?
こうした細かい文言表現のテクスト読解はとても重要である。
個人が個人として尊重されるのは、その多様性にあるからだ。
しかし、それが「人」一般になるとき、人一般としての基準で尊重されるにすぎなくなる。

「公共の福祉」が「公益・公の秩序」に変更されている点も同様だ。
自民党の会見Q&Aには、公益が国益とは異なることが説明されているが、しかしそんな解説は全くあてにならない。
国旗国歌法が制定された時点では、学校その他で国歌斉唱・国旗掲揚をしないことで罰することはないといわれていたはずだが、数年後から東京都をはじめ、そのことによって教員は処罰の対象とされるようになった。
法的に明示はしていない。
国民の側の方で「忖度」し始めることが、その当初の意向を破棄させた。
だから、改憲によって個人の尊重の変更が明示されることの本当の怖さは、国家権力の暴力性以上に、国民の側に潜むそうした暴力性を公的に認めることになる点にある。
デモ経験のある参加者は、一般市民から時々浴びせられる罵声が一番へこまされるという。
たしかに、デモは交通整理上「迷惑」をかける行為である。
しかし、それを上回るだけの価値を表現の自由はもっているという共有感が、民主主義を成立させているはずだ。
だが、もしその価値を共有する文化がなければ、いくらでも「公の秩序」によって表現の自由の価値は切り下げられていく。
それを公然と認めようというのが、繰り返し言うように自民党改憲案だ。

だいたい、公然と人権を侵害したり制限することを主張できるわけはない(少なくとも民主国家においては)。
それこそ「ナチスのやり口をまねすればいい」といった政治家の発言は、この文言表記の微妙な変更においてこそ真価を発揮していく。
オーウェルは「動物農場」でそのことを巧みに戯画化した。
いつのまにか知らず知らずのうちに法律の文言が変わっていく中で全体主義が貫徹されていたという童話である。
『茶色の朝』もまたそのリアルな絵本としてそのことを描いている。

ある参加者は自衛隊の海外派遣に反対する主張を行っていたところ、現役自衛官と議論になった経験を話してくれた。
彼によれば、そのような反対主張が自衛官の存在そのもの否定につながるというのだ。
しかし、よくよく話すうちに、国防の使命に燃えて任官した彼もまた、海外でしかも米軍のために尽くす意思はなかったことを漏らしたという。
こうして国策に御弄されいく個々人の存在は、「公益」によって犠牲に供されることを認めやすくなっているともいえるだろう。

ところで「公共の福祉」と「公益・公の秩序」の違いは何だろうか?
後者を「国益」と読めば、おのずとその意図は明らかである。
しかし、解説においてそうではないことも明示されている。
この微妙な分をどう読み込むかはテクスト読解力が試されよう。
基本的人権の「享受を妨げられない」から「享受する」に変更された部分などは、天賦人権説をヨーロッパ的と解釈する自民党案からすれば、国家が与えるべきものが人権であるという読みが可能である。
まるで明治憲法への復古ではないか。
「読み込みすぎだ」といわれるかもしれない。
しかし、テクストはその背景にある思想的文脈をも考慮して判断されなければならない。

後半は憲法前文をどう読むかに議論が集中した。
前文は現行憲法から改憲草案では、その内容がまるっきり変更されている。
一口に言えば、国際的平和や人権、平和の普遍的理念が切り捨てられ、自国の文化や歴史を前面に押し出した内向きな内容に改変されていることは、読めばすぐに理解できる。
だいたいにして、主語が「日本国民は」から「日本国は」に変わっている。
つまり、国家が主体なのだ。
そこに政府の行為によって戦争が引き起こされたという認識は抹消されており、あたかも自然災害であるかのような表記になっている。
政府・政治・国家の主権性の暴力を反省して成立した歴史的記憶は消し去られているのだ。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

これを純粋に「かっこいい」と評した参加者は、そうであるがゆえにこの国の憲法に愛着があることを述べた。
憲法前文の法的規範性も話題に挙げられたが、これはむしろこの国家の政治的原理の宣言だと思われる。
この文言によって「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という政治的原理である。
この国の文化と歴史のみを政治原理として宣言する狭隘さに魅力を覚えることはできないだろう。
そんな議論になった。

最後に、「押しつけ憲法論」の話題。
中高生大学生は、この主張に共感を覚えるか?
教育現場で働く人の共通する実感は、生徒たちは押し付けられたものであろうが、それが素晴らしいものである限り、自分たちのものとして受け入れることに抵抗がないという答えだった。
押しつけ憲法論は何を求めるのか?
憲法が歴史の産物である以上、その根拠を歴史的事実に求めることは否めない。
がしかし、その過程で自分たちのものとして受け入れてきた事実もまた歴史的事実として、法の正当性の根拠になりうるのではないか。

このほかにも97条の削除や緊急事態条項、改憲条件の変更などなど、まだまだ語りつくせないほどの論点が多岐にわたるが、そもそも初めて改憲草案を読むことで、その思想がリアルなものとして理解できたという感想を得られた。
今後は個別事例を取り上げながら、まだまだ改憲案の議論を深めていきたいと思う(文・渡部純)

ドストエフスキー『悪霊』をほんの一部読む会・雑感

2017-07-30 | 文学系
濃密な読書会だった。
ドストエフスキー『悪霊・別冊スタヴローギン』を読むだけでは済まず、やっぱり全巻読み通しておくべきだった、と後悔した。
もちろん読み通してきた人もいる。
挫折した人もいる。
でも、参加した8名の話し合いはすごかった。

まず、カフェマスターの深瀬さんから前説がある。
「白痴」のムイシュキンが現代に賦活したイエスを復活させた善の化身だとすれば、スタヴローギンは悪の化身として描かれている。
そのスタヴローギンが少女マトリョーシャを凌辱し、自殺に追いやったことをチーホンに告白をしに行くところを描いたのが本書だが、なぜチーホンに告白しに行ったのか?チーホンはそれをどう受け取ったのか?
深瀬さんはこうした問いを立てる。

スタヴローギンは罪を本質的に理解しているのではないか。スタヴローギンは存在論的に罪を自覚していたんじゃないか。
以上がドストエフスキーの罪の思想が表れているし、『悪霊』の他の登場人物は戯画化しているが、本気で書いているのはスタヴローギンだけではないか。
そこにはどこかドストエフスキーの二重性を感じる。
すなわち、彼は地下室者の手記を書く前にシベリア流刑から戻ってくるのだけれども、ロシア社会の急進化に参画したために死刑判決を下され他後に、恩赦を受け解放されたことが背景にある。
そこからドストエフスキーはこの時期から二枚舌になったんじゃないか。
それを彼は「永遠の二重性」という言葉で言い表している。

なるほど。
深瀬さんの解説には深い学識があり、感銘を受けた。
それでもスタヴローギンは罪を自覚していたといえるのだろうか。
いや、自覚していたからこそ、「自分で自分を許すことが最大の目的だ」と言いながら、「あなたは私に必要ない」と嘯きながらもチーホンの元へ行ったのではなかったか。
しかし、彼を深い不安に陥れる罪の自覚は、そこから逃れたいがために少女凌辱の事実を文書に書き、公衆に示そうとする行動に駆り立てる。
その記述がスタヴローギンの告白だ。
自分のどうしようもない残虐性、悪、その実体を克明に記述する。
しばしば「スタヴローギンより」というタイトルは、聖書の使途「〇〇より」になぞらえているという指摘があるように、キリスト教的告白のスタイルによって、自分の矛盾を記述することで逆説的に善を示そうとすることのようにも思える。
そこにチーホンはキリスト教思想が深く示されていることを指摘する。
しかし、それが本当に罪の自覚であったのか。
チーホンはその指摘の後に「ただし…それが本当の意味で懺悔であるのならば」と付け加える
ここに引っ掛かりを覚える。
深瀬さんが存在論的に罪を自覚したというスタヴローギン。
しかし、その自覚とは何か。
チーホンは公衆の目にその罪をさらすことで罪が贖えると考えるスタヴローギンに、その不十分性を読み取ったのではなかったか。

そもそもスタヴローギンは、罪状の事実を公衆にさらすことで罪が購えると考えたのは、それによって受ける嘲笑や非難という苦痛によって清められると考えたからではなかったか。
あれはそれを「深化させるため」という。
しかし、そんなものはとってつけた戯言ではないか。
アドルフ・アイヒマンですら、裁判中に自分の犯したホロコーストの事実を、後世の教訓として自伝に公開する予定があると語りだし、裁判長に「それは君が今、この場でやるべきことだ!」と叱責される。
どうも、公衆に洗いざらい告白すれば自分の負い目や罪の重さから解放されるというのは、悪を犯した人間に共通する心理のようだ。

しかし、それによって彼の罪は許されるわけではないのは言うまでもない
彼が許しを請えるのはただ一人、マトリョーシャだけである。
しかし、その彼女は自死してしまった。
いくら公衆からの罰を受けても、彼を責め続けるマトリョーシャの亡霊、目は消えるわけではない。
司祭であるチーホンは、それは唯一神による許しを求めるほかないし、いくら無神論を嘯こうともスタヴローギンは既にそれは許されてるともいう。
しかし、最終的に彼はそれを受け入れきれなかった。
「自分で自分を許すこと」。
その不可能性を彼が突破するのかどうか。その彷徨の物語こそスタヴローギンの告白ではなかったか。

このことを深瀬さんの問いに差し戻すならば、彼はチーホンを必要としないと嘯きながら、彼の予知性や予言性をまさに予知的に感じていた。
そうであるがゆえに、彼は自分で理由もわからずに、チーホンのもとへすがるように向かった。
すると、彼は神の許しを既に自覚していた?
もちろん、彼自身はそれを否定する。
しかし、彼の矛盾に満ちた数々の行動をどう理解すればよいのか。
スタヴローギンという偽悪に満ち満ちた人物ですらも、すでに神に包摂された存在として、その全体性のなかで足掻くちっぽけな「存在論的悪」(深瀬)として抱擁されている、ということなのか。

というテキスト読解に終始するだけでは、『悪霊』を読み解けないということを阿部さんは指摘する。
その背景にある農奴解放やロシア革命前夜を予言的に示唆することにこそ、『悪霊』のすごみがある、というのだ。
革命の英雄譚ではない。
むしろ、この小説では登場人物のほとんどが死んでいく。
それもスタヴローギンに影響され、翻弄されながら革命という観念に身を投じていく若者の情熱的な姿は、ある種の狂気を彷彿とさせる。
それが日本では連合赤軍のような学生運動の時代に『悪霊』が注目されたことは無関係ではない。
何がそうさせたのか。
人間の内在的な悪ではない。
舞踏の聖書の引用にある「豚の悪霊」は、悪霊が外側から憑依するものとして描かれており、それが人間の悪性を実現させる。
もし、オウム真理教事件の時に誰かがこの小説に注目していれば、よりお蔵にとって違ったリアリティを与えたのではないか。
こうした社会背景や文脈を踏まえて読むことは、『悪霊』の悪霊性をより際立たせる読み方としてスリリングさを可能にする。

それにしてもスタヴローギンという人物はつかみどころがない。
決して自ら悪を実行するわけではない。
周囲を先導し、忖度させ悪を実行させるフィクサー的人物。
そうであるがゆえに、彼が悪をなしたとはだれも証明できない。
マトリョーシャの自殺もスタヴローギンが原因だと走らない。
ただ、無神論者の彼においても自分自身だけがそれを知っている。
そして、その自分自身だけは死なない限りいつまでも付きまとって離れない告発する主体である。
その意味でマトリョーシャは彼ではなかったか。
彼が自分自身から許しを得るということは、その意味であろう。
しかし、それはいかに自分につきまとって告発しようと、マトリョーシャの代理表象に過ぎない。
真に許しの主体であるマトリョーシャはこの世にいない。
許しえぬ悪の許しは如何にして可能か。

しかし、存在論的悪としたスタヴローギンですらも、こうした自己告発的な良心は存在するのかもしれないが、それが生じない悪はどうすればいいのだろう。
その点で、ドストエフスキーの悪はキリスト教の伝統的な悪の延長線上にある。

このほか、文体が人物の外側と内側を往還する書き方であることもそのわかりにくさを与えているという感想もあった。
東欧スラブ圏語学を専門とする参加者からは、逐一ロシアらしさや表現体の統制を指摘していただいた。
これに尽きない議論の数々に、ものすごい知性の集いだったことを感じ入った。
テキストがそれ可能にさせるという点で、やはりドストエフスキーは偉大なり、ということなのだろう。(文・渡部純)

みんなで「自民党改正草案」を読む会・レジュメ

2017-07-28 | 政治系


いよいよ、明日7月30日(日)は、「みんなで『自民党改正草案』を読む会」です。
 当日は、「自民党改正草案」および以下のレジュメを配布する予定ですが、事前にお読みいただければ幸いです。
このほかにも自民党HPには、「改正案Q&A」や子供も読みやすい「漫画政策パンフ」による解説もあります。
メディアによると、今秋にはいよいよ自民党改憲案が国会に提出されるようです。
市民として事前にチェックしておきましょう!


《レジュメ》カフェマスター・渡部 純

以下は、現行憲法と比較しながら自民党憲法改正案における実質的な変更の要点を示します。
※ 【現】は現行憲法を、《改》は自民党改正草案の条文を示します。
※ 条文を部分的に略しているところもあります。

前 文 (現行憲法と改正案の原文を比較する)

第1章 天皇
 第1条 【現】天皇は日本国および日本国民統合の象徴
    ⇒《改》日本国の元首・日本国および日本国民の象徴

 第3条 《改》国旗は日章旗・国歌は君が代とする。日本国民は国旗・国歌を尊重しなければならない

 第4条 《改》元号は法律の定めるところにより皇位継承があったときに制定する


第2章 【現】戦争の放棄 ⇒ 《改》安全保障
 第9条 【現】武力による威嚇及び武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。
    ⇒《改》武力による威嚇及び武力の行使は国際紛争を解決する手段としては用いない

     【現】前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。
    ⇒《改》前項の規定は自衛権の発動を妨げるものではない

 同2項 《改》「国防軍」…(1)我が国の平和と独立、国及び国民の安全の確保、内閣総理大臣を最高指揮官とする、(2)国会その他の統制に服する、(3)国際社会の平和と安全の確保、国民の生命と自由を守るための活動、(4)国防軍の機密保持は法律で定める、(5)国防軍に審判所を置く。

 同3項 《改》国は主権と独立を守るために、領土・領空・領海と資源を守らなければならない

※ 第72条 内閣総理大臣は指揮官として国防軍を統括する。


第3章 国民の権利及び義務
 第11条 【現】国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
    ⇒《改》国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

 第12条【現】憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって保持しなければならない。国民はこれを濫用してはならず、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。
   ⇒《改》「国民の責務」…自由・権利には責任・義務が伴うことを自覚し、常に公益および公の秩序に反してはならない。

 第13条 【現】すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
    ⇒《改》すべて国民は人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益および公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 第14条3項《改》栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 第15条 《改》公務員の選挙については、日本国籍を有する成年者による普通選挙を保障する。

 第19条 【現】思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
    ⇒《改》思想及び良心の自由は、これを保障する

 第20条3項【現】 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
     ⇒《改》国は特定の宗教的教育・活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼・習俗的行為の範囲を超えないものはこの限りではない

 第21条2項《改》公益・公の秩序を害することを目的とした活動、結社は認められない。

 第24条 【現】婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
   ⇒《改》家族は社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は互いに助け合わなければならない

 第25条 《改》在外国民の保護、犯罪被害者への配慮

 第26条 《改》国…は教育環境の整備に努めなければならない

 第28条 《改》公務員は全体の奉仕者であることを鑑み…団結権の全部または一部を制限できる


第4章 国会
 第53条【現】内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
   ⇒《改》内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、要求があった日から20日以内に臨時国会が召集されなければならない。


第5章 内閣
 第72条第2項【現】内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
      ⇒《改》内閣総理大臣その他の国務大臣は、現役の軍人であってはならない。

 第73条6号 【現】この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には 特にその法律の委任がある場合を除いて  は、罰則を設けることができない。
      ⇒《改》この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。 但し、政令には、 特にその法律の委任がある場合を除いて は、義務を課しまたは権利を制限できる規定を設けることができない。

 第75条 【現】国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。
    ⇒《改》国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、国務大臣でなくなった後に控訴を提起することを妨げない。


第9章 緊急事態  原文参照
 第99条《改》緊急事態の宣言が発せられたときは、…内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる…。


第10章 改正
 第96条第1項【現】この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、 国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、 その過半数の賛成を必要とする。
      ⇒《改第・100条》憲法の改正は衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、 国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、法律の定まるところにより行われる国民の投票において、有効投票の過半数の賛成を必要とする
 同条第2項【現】憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、 直ちにこれを公布する。
     ⇒《改》憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、直ちに憲法改正を公布する。

第11章 最高法規性
 第97条 【現】この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
    ⇒《改》削除

第99条 【憲法尊重擁護の義務】天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
    《改・102条》全て国民は、この憲法を尊重しなければならない
     2 天皇又は摂政及び国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

【終了しました】ドストエフスキー『悪霊』をほんの一部読む会

2017-07-22 | 開催予定


【開催日時】2017年7月29日(土)16:00-18:00
【開催場所】サイトウ洋食店
【参加条件】 ドリンク代300円
※どなたでも参加自由ですが、準備の都合上、メッセージかFacebookページに「参加予定」を表明していただけるとありがたいです。
【課題図書】ドストエフスキー『悪霊・別巻「スタブローギンの告白」異稿』(光文社古典新訳文庫)
【カフェマスター】深瀬幸一


ドストエフスキーの『悪霊』は長いです…
しかし、大丈夫。
今回は全編の要約解説をして下さる講師つきです。
その上で、「スタブローギンの告白」(光文社古典新訳文庫・亀山郁夫訳であれば別巻です)をテーマにして行います。
「スタブローギンの告白」は3つの異稿があります。
それらを比較することも面白いのですが、今回はスタブローギンという存在について、悪そのものについて考えたいと思います。

なぜスタブローギンはチーホンのもとに行ったのか?
スタブローギンの対極にあるのは白痴のムイシュキン公爵だ。
ドストエフスキーはムイシュキンを現代のキリストとして描いたという。
あるいはカラマーゾフの兄弟のアリョーシャはどうか。ドストエフスキーの描かれなかった物語、偉大な罪人の物語、その罪人のバリエーションではないのか。それはまたスタブローギンもなのだろうか?

というわけで、3異稿をすべて読んでこなくても大丈夫です。
もちろん読んできていただければ、より議論は深まります。

お問い合わせはメッセージへ。

【終了しました】みんなで「自民党改憲草案」を読む会

2017-07-22 | 開催予定


【日時】2017年7月30日(日) 13:00 - 15:00
【会場】西澤書店大町店2階 福島市大町7-20
【カフェマスター】 渡部 純

6月21日の読売新聞によれば、文部科学省は2020年度から小中学校で順次実施される新しい学習指導要領解説書に、中学校では「憲法改正手続きの理解」、小学校では「自衛隊の役割」を初めて明記し、学校現場での指導充実を求めたそうです。
また、6月20日の毎日新聞によれば、与党自民党が改憲議論を本格化させたそうです。

わたしたち市民としては、こうした状況の中で、まずどのような改憲案が提起されているのかを読み込む必要があるものと考え、このような場を設けさせていただくことにいたしました。
もちろん、改憲に賛成反対の立場はまったく問いませんし、憲法を熟知している必要もありません。
憲法の内容は長大ですので、今回だけですべてを把握できるわけでもありませんので、まずは与党改憲案を読むきっかけの会になればと考えています。
また、8月下旬にはエチカ福島という活動で、世界中の国民・住民投票を取材する大庭健太郎氏を招いてのセミナーを企画していますが、そのプレ勉強会になれば幸いと考えています。
ご関心のある方は、どしどしご参加ください。

【会の進め方】
できれば、参加者各自が自民党憲法改正推進本部のHPにアップされている「日本国憲法改正案」を事前に読んできてもらったうえで、気になる点(条文)を一つずつピックアップして話し合っていきたいと思います。

チャイコフスキー de カフェ雑感

2017-07-16 | 音楽系
ここ福島市は連日の猛暑。
この日もご多分に漏れず、太陽に照射された街はげんなりする暑さ。
そんな日に橘高校のオーケストラの定期演奏会プレ発表を拝聴してのカフェが開かれた。
カフェマスターは、いやマエストロはオケを率いる深瀬さん。
相変わらずタオルを手放せない暑苦しい指揮ぶりは、猛暑を倍増させるかのようだ。
それに比して、チャイコフスキー交響曲一番を演奏する橘高校の置けの演奏はさわやかの一言。
まるで指揮者の暑苦しさを演奏者が冷却させるかのような心地よさに思わず目を閉じながら聴き入る。
楽章の合間合間にマエストロの解説が入る。
楽章の主題、ロシア民謡ともいうべきコサックのリズムとヨーロッパ調のフーガの混成。
さらには、ロシアの農奴解放からクリミア、ウクライナ地方の歴史的に複雑な背景と一民族一国家、民族自決などの歴史背景。
演奏に重ね合わせた解説は、チャイコフスキーが国民音楽派と呼ばれる所以を素人にもわかりやすく理解させてくれるものだった。

さて、一時間にわたる演奏鑑賞の後、ブック&カフェコトウへ移動したメンバーでチャイコトーク。
というか、みんな演奏やチャイコの曲は聞いていて心地がいいということは共通しても、さて、それでチャイコの何について語るべきか、その言葉が見当たりません。
マエストロは引き続き部活動の練習指導のため不在。
しかし、この専門家不在の素人の音楽談義はけっこうおもしろかった。
コサックのリズムには「おっ」と身体が反応するものの、いわゆるクラシック音楽は身体を揺さぶられることはあまりない。
身体のリズムともいうべき音楽が民謡のような土俗性であるのに対し、「洗練」されたクラシック音楽は身体から引き離して対象化されたかのようなものじゃないか。
まさに「鑑賞」とは「観照」のようなものであるのに対し、身体を揺さぶる音楽とは一線を画すものじゃないだろうか。
ただし、それを単純にプリミティブな音楽というべきではないだろう。

もちろん、チャイコの交響曲1番には劇的な場面もあり、思わず魂や感情が引っ張り込まれることもあった。
こういうのに引っ張り込まれるのって、ナショナリズムの醸成と関係あるの?
後にマエストロに聞いたところによると、そこまで明確があるとは思えない、けれど微妙という答え。
18世紀とは異なり、19世紀に入るとクラシックも大衆化されていき、かなりの市民がチャイコの音楽にふれたのじゃないだろうか。
すると、音楽の扇動性もまたなにがしかの意味をもつともいえる。

あれ?そういえば日本の国民音楽ってなんだろう?
都々逸?それは民謡的なものでしょう。
「海ゆかば」なんかがそうじゃないかな。
いまどき軍艦マーチが流れるパチンコ屋なんてないだろうけれど、軍楽なんかは国民的になんとなく口ずさんでしまうものがあるよね。
美空ひばりは?
演歌こそは国民音楽ともいえるけれど、その大衆性や土俗性はやはりクラシックとは一線を画す。
しかも演歌は朝鮮半島由来だということは知っておいた方がいいと思う。
マエストロは古賀政男じゃないかなという。
ならば、わが(?)古関裕而などもそうじゃないかな。
「栄冠は君に輝く」や「六甲おろし」は国民的音楽というにふさわしいだろう。
けれど彼もまた戦時中には戦意高揚を図る軍歌を作曲していたということもまた事実だ。
その意味で言えば、いわゆるクラシックとは異なる系譜として日本の国民音楽の両義性は読み解いていけそうだ。

それにしても、さっきの演奏、思い出せる?
素人の悪い癖なのか、貧乏性のせいなのか、音楽教養のなさに対するコンプレックスなのか、こうした問いを抱いてしまう。
そんなものは必要ないでしょ。
音楽演奏はそもそも一回性にこそ本質がある。
その時々の成功失敗も含めて、瞬間立ち現れる音楽性こそが、演奏会たるゆえんだというのだ。
なんども思い出せるのは演奏家など訓練するものが為しうるものだ。
ところが、複製技術が進化したこの時代において、この一回性、つまりベンヤミン流に言えば「今、ここ」性、アウラは失われてしまっている。
CDで何度も聞き返せるし、音楽だけを目的にするならば、これで十分のはず。
では、なぜ「演奏会に足を運ぶのか。
それは、この「今、ここ」性の魅力なのじゃないか。
いわゆる美術館アートや文学のように、物質化されたもの以上に、音楽はさっとかすめ去っていく一瞬性が強い。
しかも、初めて聞く曲を想い起こそうとしても、素人にそれは困難だ。
加えて、クラシックは複雑で長い。
それでも、どこをどうと言葉で説明できないけれど、「あの時の変調」が印象にあるという程度の記憶はあるだろう。
口ずさむことができれば上出来だ。
それでも、あのときの一瞬の陶酔は忘れられない。それがアウラというものじゃないだろうか。
複製芸術時代においてなおそれは意味をもちうるとすれば、それはなんだろうか。

それにしても素人がアートに触れるときにはいつも付きまとう疑問がある。
それは、知識やある種の作法をもってしなければアートは楽しめないのか、というものだ。
美術館に配置される現代アートはその典型だろう。
デュシャンみたいに「これはアート?」なんて挑発的に美術鑑賞の作法や鑑賞の枠組みを解体する問題提起でさえ、いまや通俗性を帯びている。
音楽ではジョン・ケージの「沈黙」が有名だろう。
趣味作法の枠組解体への挑発に慣れたわたしたちは、すでにこうした問いを投げかけることにさえ慣れている。
じゃあ、文化的枠組(学習)なしの趣味は可能かという問いにもつながっていく。
これがブルデューの問いであることはいうまでもない。

こうして、チャイコフスキーど素人談義は、チャイコそれ自体を語ることは難しかったようだが、音楽やアートその物を問い直す地点にさかのぼる議論を可能にした。
もしかすると、チャイコの特性を際立たせるためには、比較の対象としてそれとは異質な何かを演奏してもらえた方がいいのかもしれない。
とはいえ、定演直前の貴重な時間を割いて、素敵な演奏を聴かせていただいた橘高校オーケストラの皆さんには無限の感謝を申し上げます。
貴重な機会、ありがとうございました。

「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」ことを語る会・雑感

2017-07-16 | アート系
猪苗代町にある「はじまりの美術館は、十八間の酒蔵に建築された小さなアールブリュットの美術館だ。
同美術館のHPによると、アールブリュットは「日本語で「生(き)の芸術」。フランス人画家のジャン・デュビュッフェが、伝統や流行、教育などに左右されず、自身の内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術のことを指し、提唱した概念」を指す。
その取り組みの背景には、運営母体である安積ホスピタルが知的障がいの支援に取り組んできた歴史があるわけだが、いわゆる美術館の企画コンセプトにはないユニークな企画展示に、私自身これまでいつも楽しませてもらってきた。
なんといっても、ここはじかに触ることができる作品があったり、撮影もOKという従来の日本の美術館では考えられないことが許されている面がありがたい。
今回の「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない展」もまた鑑賞した瞬間に、これで対話をしたらおもしろいんじゃないかという直感がはたらき、矢も楯もたまらず館長の岡部さんにお願いしたわけである。
いや、作品だけではない。
この企画テーマそのものに何かを感じたからこそ、やってみようという気になったのだ。

「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」というフレーズに対して、ある友人は「それはもう違うに違いないですね」と答えた。
たしかに、感じ方は人それぞれである。
これは、もはや私たちの社会では常識といってもよく、ある意味では常套句になっているとさえ言えるかもしれない。
しかし、このフレーズをあえて企画テーマとして打ち出したのはなぜなのか?
今回、ワタシがこの企画展で対話を試みたいと思った根底には、その問いを含んでいた。
より行ってしまえば、この企画展のテーマ自体には、「感じ方は人それぞれだ」という常識をもつことが、同時にその多様性を排除しうるということがありうるのではないかという疑念をあぶりだす力を感じたからに他ならない。

さて、参加者9名がお互いに語りながら、あるいは各自で作品を鑑賞した後に、カフェでの対話は、それぞれが印象に残った作品とその感想を述べあうところから始まった。
真っ先に挙げられたのは、乾ちひろの「あなたの言葉」という作品群だ。
 
ネガティヴな言葉が、それぞれ材質も重さも色も異なるオブジェに書き込まれているのが、どこか見るもの触るものの心をざわつかせる。
「キモッ」や「ただのデブ」という言葉が刻まれるオブジェは意外に軽い。
なぜだろう。
言われた方の心の重さを思い起こせば、もう少し重くてもいいはずではないか…
いや、それは「言う方」の何気ない「軽さ」を示しているんじゃないか。
そんな発言に、なるほど、これは言う側の「軽さ」を示すのか!ハッとさせられた。

逆に、最も重いオブジェは「死ね」と「役立たず」である。
形状も尖がっている。
 
この言葉は人間にとって、言う方にとっても言われる方にとっても、もっとも重い言葉だということだろうか。

いや、それをそんな風に一般化はできないんじゃないか。
冗談で「死ね」と笑いながら言ったり言われたりすることもあるじゃないか。
そう考えると、そんなに重さと残酷性を一般化できるものだろうか。
それは、まさに言う側/言われわれる側の状況に応じて感じ方や見方が変わるということじゃないか。
言葉の意味と重さを額面通りに受け取ることに揺さぶりをかける発言であった。

これを「イジメ問題」の境界線のあいまいさと重ねて論じる発言もあった。
いわく、学校において「イジメ」は、被害者が傷ついたという主観的な感じ方をもって定義される。
「イジメた側」に悪意がなくとも、である。
その感じ方や意識のズレにおいてすっぱり裁定せざるを得ないほどに、いじめ問題の残酷性は緊急を要することは否定できない。
しかし、一歩引いて考えれば、そのいじめの被害者/加害者の感じ方や認識のズレは、「死ね」という言葉を発したり受け取ったりする状況、あるいは関係性においてその「重さ」は変動することと、どこか重なり合う。
その発言者が言い淀みながら語るさまには、「イジメ問題」において主客のズレを指摘することが、加害行為の容認と受け取られるかねない危険性をはらんでいることを窺わせるものだった。
「女子力」という言葉も、女性か男性かという立場において、「軽すぎるんじゃないか」、「重すぎるんじゃないか」という感想の違いを生むものだろう。
しかし、そこにもまたジェンダーという非対称的な構造的暴力が潜むがゆえの語りにくさが示されていたことは印象的だった。
これらのオブジェは「死ね」或いは「女子力」と刻まれたオブジェの重さを、「同じ重さ」として括る安易さを、いったん宙吊りにする作品として興味深い反応をもたらすものだった。

「最低」と「(笑)」という言葉が、蓋を外された箱の中からはみ出しているオブジェも、また面白い発言を引き出した。

なぜ、蓋が外れてそこからはみ出したのか。
それは心の函なのかもしれない。そうだとすれば、それは密やかに心の隅に生まれる言葉が漏れ出すということなのか。

一方、これら「あなたの言葉」の中にあって、個人的には言葉が刻まれていないオブジェが気になった。

このウミウシにも似たオブジェを触りながら、これは心の澱のような言語化される以前の何かじゃないかと指摘した発言から、妙にその物質化された姿煮見入ってしまったのである。
気泡のように見えるのは言語化の発酵作用なのだろうか。
この泥のような様態を、どこかでもっていたようにも思える。
でも、その言語化以前の様態に不気味さと同時に、切っても切れない親縁性のようなものを感じる。

高岡源一郎の「おっぱい」という作品がある。
 
「おっぱい」というイメージでこの作品に対して、「おっぱいなのになぜ固いのか」という冗談めいた感想が漏らされた。
筋肉性を意図したんじゃないか。
しかし、そもそもこのオブジェ群に「おっぱい」という名指しがなかたっとすれば、私たちは何をイメージしただろうか。
作者の意図を考慮することはあまり意味はない(作者の死)。
とはいえ、この名指された言葉に囚われながら意味を探し出さざるを得ないのは、人間のやみがたい習性なのかもしれない。

一方、視覚に障害がある方からは、その手触り感に材質の違いがあるのかという指摘がなされた。
視覚で捉えがちな参加者にとっては、まさに盲点だった。
触覚においていくつかの「おっぱい」作品に差異があるようには思えない。
そこに感じることの違いは如実に示された。
それは真っ暗闇の部屋の中にオブジェが配置される「触覚地図」においては、当然ながら視覚障がいをもつ参加者にとっては日常空間と変わらないという経験に違いにも示される。


すると、そこに過剰に不安や恐怖を抱くのは、視覚による先入観が形成されているからではないかという視点が生まれる。
見えることが、ある種の先入観や偏見を生み出している。
もう少しつっこんでみよう。
感覚は、単なる身体の感官を刺激を脳の電気信号による反応解釈のことではないのではないか。
それは、高橋舞「無題(はったかんじシリーズ)」という、ガムテープを貼られた数々のオブジェに対して、「コワさ」や「不気味さ」を感じたという感想から考えさせられた。

何に対してもガムテープを貼りたがる高橋は、止めなければ延々とその営みを続けていくという。
そのガムテープの貼り方は、(おそらく)クマのぬいぐるみや(おそらく)福助人形にまで施されていったものが展示されているのだが、その発言者はクマのぬいぐるみや福助人形の目や顔が、あるべきところにない状態に不気味さやコワさを感じるのだという。
これをカラフルでかわいいオブジェと感じる感想ももちろんある。
しかし、他方でこれを不気味と感じるのはなぜなのか。
おそらく、それは「あるべきところにない」という常識感覚に対応しないということへの不気味さなのではないだろうか。
さらに、ガムテープの中身が何だか分からないオブジェにいたっては、そもそもなぜそこにガムテープを貼るのか、といった意味を宙づりにされるような経験が不気味さやコワさと結びつくのではないだろうか。
意味の剥落は、ある種の狂気性を帯びる。

しかし、その意味とは感覚だけがつくるものではなく、私たちの「あるべきところにある」という価値に結びついたものだ。
その常識という価値が引きはがされるときに、人は不安を覚える。
たとえば、ガムテープに巻かれた福助人形が廃屋に置かれていた状況を想像してみると、ゾッとしないだろうか。
なぜ、そこに福助人形が置かれているのか?しかも、なぜガムテープにグルグル巻にされているのか?

説明がつかない状況、状態。
それは私たちの常識を形成する共通感覚を乗り越える。
これがまずいといいたいわけではない。
その逆である。
常識が宙づりにされるとき、はじめて人は「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」という境位に経てるのだと思う。
「あなたが感じていることと、わたしが感じていることはちがうのは当たり前だ」という常識や常套句は、その差異を知らず知らずのうちに排除している。

この作品に関してはもう一つ、別の論点が提起された。
この作品がアートとして美術館に展示されるということは、ある意味で権威ある美術評論家に評価されたがゆえにアートたりうるという差別的な構造があるのではないかという指摘だ。
この発言は視覚障がいをもつ参加者から提起されただけに、とても重い意味をもつ気がする。
いや、「視覚障がいをもつ参加者から」という言い方それ自体にも、もしかしたらその差別的視線を内包していると指摘されるかもしれない。
しかし、そうであるにもかかわらず、彼の発言には当事者であるが故の、ニーチェ流に言えば、ある種の「同情」のまなざしを嗅ぎ取る鋭敏さが含まれているように感じるのである。
これはとても難しい問題だ。
アールブリュット自体が、正統な美術教育外に放逐されたものの中から美的価値を見出すものであったはずだ。
それは日々の生活の中に「美」を見出す柳宗悦らの民藝運動にも通底するともいえる。
正常とされるものから排除されたものの中に価値を見出すことは、必ずしも「同情」的な視線をもった営みではなく、新しい価値の創造でもあるはずだからだ。
しかし、その疑念は完全に払しょくされるものでもないように思われる。
むしろ、この新たなアートの創造性と可能性は、その両義性を帯びながら展開していかざるを得ないのではないだろうか。
この境界線上のあわいをどう考えていくかが、おそらく今回の企画展のテーマそのものを問うことなのだろうと思う。

今回は13歳の参加者にも恵まれた。
その彼は、大人たちがこんなに感じ方の違いをめぐって議論する姿がとても新鮮だと言う感想をもったようだ。
学校というところは、一方で個性尊重といいながら他方で画一主義を強いるダブルバインドに支配された空間である。
そこにおいて大人たちがあーでもないこーでもないという議論を聴きながら、自分自身の感性を大切にしてもいいんだという確信を持ってもらえたとすれば、これ以上の喜びはない。(文:渡部純)