最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●善玉家族主義vs悪玉家族主義

2010-12-15 07:43:55 | 日記
●家族主義の限界(新・家族主義に向かって)What is Family for us?

++++++++++++++++++

家族主義にも条件がある。
家族主義が、ベストというわけではない。
問題がないわけではない。

「核家族」からさらには、「カプセル家族」へ。
それがさらに極限化した家族主義。
もしそれを家族主義と呼ぶなら、
家族主義など、クソ食らえ(尾崎豊)!

私が説く「家族主義」には、2つの条件が
ある。

(1)家族に、両親を加えること。
(2)「私の住む世界だけが大切」という壁を
取り払うこと。

それが家族主義ということになる。

+++++++++++++++++++

●利己主義としての、家族主義

 利己主義がワクを広げる。
その中に家族を取り込む。
多くの人たちは、その状態を、「家族主義」と誤解している。
しかしそれは家族主義ではない。
私が20年に渡って説いてきた、家族主義ではない。

 「自分だけがよければ、それでいい」と。
そこに家族が入ると、「私の家族だけがよければ、それでいい」となる。
平たく言えば、個人的な利己主義が、少しワクを広げて、家族主義になっただけ。
「家族主義」という言葉が利用されただけ。

●出世主義から家族主義へ

 当初、私は日本にはびこる出世主義を批判した。
その反対側に位置する「主義」として、「家族主義」を説いた。
とくに団塊の世代は、「家族よりも仕事」と考えた。
戦後の経済高度成長の荒波の中で、家族を犠牲にした。
が、2000年を境に、日本人の心は大きく変化した。
「サイレント革命」という名前を使った人もいる。

 「仕事より家族が大切」と考える人が、アンケート調査をするたびに、多くなった。
40%から50%に。
50%から80%に。
1年単位で、変化した。

 こうした変化は当然であるとしても、ここにきて、大きな曲がり角にやってきた。
「家族主義」が誤解され、変形した。
それが「利己主義的家族主義」ということになる。

●親不在の家族主義

 今、若者たちの中で、「将来、親のめんどうをみる」と考えている人は、驚くほど少ない。
内閣府(総理府)の調査結果を見るまでもない。
それについては何度も書いてきた。

 若い人たちがいう「家族主義」の中には、「両親」は含まれていない。
彼らが第一に考える「家族」というのは、自分たち夫婦と、その子どもたちだけの
世界をさす。
核家族からカプセル家族へ。
人間関係だけではない。
価値観も、自分たちの中だけで熟成させる。
世代から世代に連続する価値観の橋渡しをしない。
「カプセル家族」という名前は、そういうところから生まれた。

 が、これは若人たちにとっても、不幸なことである。
「私たちは古い世代とはちがう」と言いながら、古い世代がしてきた経験や、得てきた
知恵を生かさない。
そしてすべてをゼロから始めてしまう。

 私たちの世代の60%が、やがて独居老人となり、孤独死、あるいは無縁死をする。
そういう運命にある。
それはそれで構わない。
自業自得と心得る。
しかし自分たちもまた、同じ道をたどることになる。
それに気づいていない。
「私たちだけはだいじょうぶ」と。
それがいかに幻想であるかは、もう少し時間がたってみるとわかる。

●利己主義

 若い人たちがますます利己主義的になってきている。
私はそれを強く感じている。
あなたも心のどこかで、それを感じているはず。
自分のことしか考えない。
自分の利益しか考えない。
それが高じて、自分さえよければ、それでよいと考える。
またそれでもって、「個人主義」と誤解する。

 誤解がないように書いておきたい。
個人主義というのは、生き様の問題。
「私は私」と、自分の生き方を貫く。
それが個人主義。

 その「自分さえよければ、それでよい」という世界に、家族が加わる。
夫や妻、子どもが加わる。
そこで「私たち家族がよければ、それでよい」となる。
しかし繰り返すが、これは家族主義ではない。
利己主義という。
利己主義をごまかすために、家族主義という言葉を使ってはいけない。

●家制度

 昔ながらの「家制度」にどっぷりとつかっている人には、それがわからないかもしれ
ない。
しかし家制度ほど、利己主義でかたまった世界はない。
「家を守る」ということは、同時に、他者の侵入を徹底的に排除することを意味する。
「家」がもつ権限と利得にしがみつく。
「家」の一員であるかどうかで、明確な差別意識をもつ。

 中には「家制度など、残っていない」と主張する人がいる。
本当にそうか?
そう断言できるか?
あと数週間で2011年になろうという今、いまだに家制度を意識として引きずっている
人は、ゴマンといる。
私の実家がそうだった。
私の親類がそうだった。
地方の町や村へ行くと、いまだに血縁だけで動いているところは、いくらである。

 方向はまったく別かもしれないが、この家制度と、利己主義的な家族制度は、どこか
よく似ている。
自分の周囲に厚い壁を作り、その中だけで生きている。
一見、居心地のよい世界だが、その分だけ風通しが悪い。
悪い分だけ、思想が極端化しやすい。

 たとえば子どもの世界。
同じ過保護、過干渉、過関心でも、カプセル家族の中では、それが極端化しやすい。
子どもに現れる症状も、当然のことながら極端化する。

●家族主義の是正

 何ごとも「中庸」が肝心。
過ぎたるは、及ばざるがごとし。
家族主義も、度が過ぎると、かえって弊害が現れる。
その2つが、(1)世代間の断絶と、(2)極端な利己主義化。

 自己愛者といえば、個人の問題。
それが家族にもワクを広げることがある。
言うなれば、「自己愛家族」ということになる。
言い忘れたが、自己中心性が極端化した状態を、「自己愛」という。
恥ずべきことであって、何ら自慢すべきことではない。
では、どうするか。

●意識改革

 家族主義というのは、意識の問題。
それだけに、その意識を改革するのは、むずかしい。
「改革」というよりも、自分でそれに気づくまでがたいへん。
脳のCPU(中央演算装置)にかかわる問題だけに、ほとんどの人は、自分を基準にする。
つまり「私は正しい」という前提で、ものを考える。
だから気づかない。

 自分が利己主義的であるかどうか。
それを知るためには、2つの方法がある。
ひとつは、他人と比較してみる。
もうひとつは、絶え間ない自己改革を繰り返し、10年単位、20年単位で、自分を
振り返ってみる。
早ければ早いほど、よい。
若ければ若いほど、よい。
ある程度の年齢になると、自己改革そのものがむずかしくなる。
「私は正しい」と思う刀で、そうでない相手を、「まちがっている」と言って切り捨てる。
ある男性は、私にこう言った。

「無料で原稿を読ませている? 道楽でも、私にはそんなことはできません」と。

 ものを書くということは、自分の経験を切り売りするようなもの。
自分の命を削りながら、それを収入に換えていく。
が、その人は、私がそれを無私無欲でしていることに、驚いていた。

(ただし誤解がないように、断っておく。
いくら無料でも、無断転載、盗用、盗作は、ぜったいに許さない!)

 しかしこうした心境に到るまでには、いろいろあった。
簡単な道ではなかった。
私は人一倍、利己主義的であった。
若いころは、お金のためにものを書いた。
それが当たり前という世界で、生きていた。

 家族にしてもそうだ。
最近になってやっと、私と世間を隔てる壁を取り払うことができるようになった。
(最近だぞ!)
そこにいる子どもたち(生徒たち)が、私の息子や娘、孫に見えるようになった。
言い替えると、意識を変えるということは、それくらいむずかしい。
アインシュタインは、常識について、「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と言った。
その偏見を取り除くのは、さらにむずかしい。

●終わりに

 金融街で、金融ビジネスをしている人には、ボランティア活動をしている人が
バカでアホに見えるかもしれない。
しかしその一方で、ボランティア活動をしている人には、金融街で血眼(ちまなこ)に
なっている人が、バカでアホに見える。

 意識というのはそういうもの。
立場によって、相対的に変化する。
そのひとつが、家族主義ということになる。

 あなたは今、どのような家族像をもっているだろうか。
家族はどうあるべきと、考えているだろうか。
一度、ここで立ち止まって考えてみてほしい。
よりよい家族をもつために。
より太い家族の絆で結ばれるために。
(あるいは私のように失敗しないため……と書いた方が、正直なところかもしれない。)

 今朝は、家族主義について考え方を訂正してみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 家族主義 新家族主義 新・家族主義 家族主義の訂正、悪玉家族主義、
善玉家族主義)


Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

*International House Melbourne Australia in 1970

2010-12-15 06:50:15 | 日記
(International House in Melbourne Univ.)

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●オーストラリア(2)

2010-12-15 06:35:57 | 日記
●オーストラリア(2)

+++++++++++++++++++++

2011年、X月XX日。
ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。
「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。
サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に
もどるようなもの。
私にとっては、オーストラリアは心の源流。

それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず
返事が届いた。
アデレードで2泊の予定だった。
が、2泊ではとても足りそうにない。
それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。
が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。
そうなると、とても2泊では足りない。

+++++++++++++++++++++

●Rosin the Beau

 オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」
というのがある。
アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を
今でもソラで歌える。
しかし歌の題名がわからない。
YOUTUBEで調べてみた。
「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、
うまくヒットできなかった。

 が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。
正しくは、「Rosin the Beau」。
さっそくYOUTUBEで検索。
いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。
その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。
こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。
その歌を聴いていると、ポロポロと涙がこぼれた。
そのときの情景が、そのままそこにあった。
私はちょうど40年前に、タイムスリップした。

 それを横で見ていて、ワイフがこう言った。
「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。

 私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。
「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。
やっとこの歌に、めぐり会えた。
ありがとう」と。

●1日が1年

 あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。
けっして大げさな言い方ではない。
本当に、そう感じた。
1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。
そんなある日のこと。
ちょうど3か月目のことだった。
私はこう思った。
「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。
うれしかった。
それがたまらなく、うれしかった。

 私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。
そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚いた。
4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。
思い出がない。
あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。
そのため金沢での学生生活がかすんでしまった。
その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。
金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。
単調な生活。
スケールの小さな生活。
刺激のない生活。

「勉強」と言っても、暗記また暗記。
受験のための暗記。
あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。
疑問をもてば、なおさら。
疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまった。

●不思議な世界

 そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。
地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。
興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。
私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば
よい。

 が、時代が変わった。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
私たちが学生のころには、考えられなかった。
往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。

 私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
日本には綿棒すら、まだなかった。
バンドエイドもなかった。
風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。
医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。
こんなこともあった。

 カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。
大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられていた。
が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。
驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。
(地面だぞ!)

 あるいは冬の寒い日。
1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。
水着をもってくるように言われた。
今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、
オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター
といった。
自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と話していた。

 で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という
パイを食べた。
オーストラリアでもっともよく食べられているパイである。
それを食べていると、彼女は、水着姿になってしまった。
泳ぐためではない。
「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。
・・・などなど。

言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという
習慣は、当時の日本人にはなかった。
そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、
金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ
に出かけていた。
そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。

 こうして書き出したら、キリがない。

●常識論

 アインシュタインは、常識について、「常識などというものは、その人が18歳のと
きにもった偏見のかたまりである」と言った。
たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。
そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。
が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。
それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。
ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。

 たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て
いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。
その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。

 では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。
15歳くらいか。
16歳くらいか。
それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。
少なくとも私は驚いた。
そのとき私は23歳だった。
ということは、やはり18歳前後ということになる。
(アインシュタインという人は、本当にすごい!)

 そのころまでに「常識」が形成される。
それがその人の意識の基盤になる。

●自由

 が、今では、高校生でも驚かない。
綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。
むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。
彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。

 話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。
が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。
彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの
だった。
たとえば職業観。
たとえば家族観。
たとえば人生観。
それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。

 当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。
「寄らば大樹の影」。
それが常識だった。
が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。
私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく。
「家」に対する意識も、ちがっていた。

 また私が大学で使ったテキストには、こうあった。
「日本は、君主(Royal=天皇)官僚主義国家」と。
が、これには私は反発した。
「日本は民主主義国家だ」と。
しかしだれも相手にしてくれなかった。

 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
首相以下、国会議員の大半は、元官僚。
県知事の大半も、元官僚。
大都市の知事も、これまた元官僚。
40年前の日本は、さらにそうだった!

●自由の意識

 もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。
それがよかったのか、悪かったのか。
現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。
この日本は、組織社会。
組織に属している人は、実力以上の「得」をする。
たいした努力をしなくても、「得」をする。
今の公務員たちをみれば、それがわかる。
組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。
努力に努力を重ねても、「損」をする。
今の商工店主の人たちをみれば、それがわかる。

 「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。
しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を
おろしている。
そう簡単には、なおらない。
この国で組織に背を向けて生きるなどということ自体、常識ハズレ。
ほとんどのばあい、生きていくことすら、むずかしい。

 が、あえて私は自由の道を選んだ。
たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。
その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。

 人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。
何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。
私のばあい、「生き様」を学んだ。
一編の論文を書いたわけではない。
もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。
オーストラリアという国は、私にはそういう国。
・・・というより、「オーストラリア」という国の名前には、そういう意味がある。

 「旅行に行こう」「はい、行きます」と、安易に考えることは、私にはできない。


Hiroshi Hayashi++++++Dec 2010++++++はやし浩司(林浩司)

1/2自伝的記憶

2010-12-15 06:15:01 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   15日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【BW公開教室】

●今回は、実験的に、BW幼児教室の様子を、
 ハイブリッド画像で、YOUTUBEにアップしてみた。
 うまくできたかどうか?
 これがテスト版ということになる。

 どうかな?

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allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

●11月10日(隠れマザコン、マザコン女性と、子離れできない母親の問題)

●iPad

 昨日、ワイフと2人で駅前のBカメラへ行ってきた。
iPadが置いてあった。
手にとってながめていると、店員が寄ってきて、あれこれ説明してくれた。

 iPad……わかりやすく言えば、キーボードがないミニパソコン。
画面がタッチパネルになっている。
画面にタッチして、操作する。
もちろんワープロにもなる。
で、デザインの斬新さに、改めて驚く。
バッテリーも10時間近くもつという。
値段は、5万円弱。
「ほしいなあ~」と思ったが、そこまで。
オプションとして、携帯用のキーボードが付けられるという。
それを知ってワイフが、「だったら、ミニパソコンを買えばいい」と。

 同感!
とたんに頭の中から、「欲しい」という思いが、スーッと萎(な)えていった。

●iPhone

 似たような製品に、iPhoneがある。
こちらはiPadを、小型化したもの。
携帯電話としても使える。

 しかし……。
今まで、私は何度新製品に飛びついてきたことか。
が、そのつど、数週間もすると、飽きてしまったことか。
ここでiPhoneに飛びついたら、同じ愚を犯すことになる。

 ここはグイとがまんのとき。
iPadにせよ、iPhoneにせよ、すぐまた飽きるに決まっている。

 で、今度、M社から、新しいデスクトップパソコンが発売になった。
OSは、SDカードに格納。
そのほかはハードディスクに格納。
それによってパソコンの起動が格段に速くなる、とか。

 で、いろいろなオプションをつけて概算を出してもらったら、21万円弱。
買うなら、こちら。
来年の夏までには、新型パソコンに乗り換えたい。

●帰り道

 Bカメラからの帰り道。
ワイフと、こんな会話をした。

ワ「でも、iPadってかっこいいわね」
私「そうなんだよな。60歳を過ぎたジーさんが、バッグからiPadを取り出して、
おもむろにネットに接続する。……なっ、想像するだけもかっこいいだろ?」
ワ「そうよ、何も若い人たちに遠慮することは、ないわよ」と。

 若い人たちは、老人というのは、そういうものと思い込んでいる。
つまり「老人にiPadは、似合わない」と。

 一方、老人は、自分でそういうものと思い込んでいる。
つまり「iPadのようなものは、若い人たちのもの」と。

 しかしこれはとんでもない、誤解。
まちがい。
日本人は、古来、「型」が好き。
何でも型に押し込めたがる。
またその型に入ることによって、安心感を覚える。
若い人には若い人の「型」があり、老人には老人の「型」がある、と。
しかし人間には、「型」はない。
老いも若きもない。

 むしろ逆。
老人になればなるほど、新しいものに興味をもち、自分のものにしていく。
そういう「力」で若い人たちを、圧倒していく。
言い替えると、老人の存在感を、もっと高める。

 ……と、少し力(りき)んで書いてみた。
偉そうなことを書いたが、私は結局は、iPadを買わなかった。
雑誌などによると、当初のiPad人気は、現在急速に色あせてきているという。
在庫もかなりたまっているらしい。
「おとなのおもちゃに過ぎない」と書いた記事を、どこかで読んだこともある。
「そういうものだろうな」と思ったところで、この話は、おしまい。

 その夜は、枕元にミニパソコンを2台、並べて寝た。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【沖縄から帰って……】(記憶的沖縄論)

●記憶(はやし浩司 2010-11-08)

 朝起きると、すぐルームウォーカーで、30分。
そのあと乗馬マシンで10分。
寒い朝は、それで体が暖まる。

 が、実際には、その20~30分前から、頭の中はフル回転。
ふとんの中から顔を半分出して、今日の計画をあれこれと立てる。
書いてみたいテーマも、そのとき浮かんでくる。

 たとえば「記憶」。
沖縄旅行から帰ってきてからというもの、日増しに沖縄の印象が悪くなっているのに
気づく。
台風一過。
天気にも恵まれた。
明るい陽光が、さんさんと輝いていた。
が、印象がどうもよくない。
どうしてだろう?

●記憶

 最近、記憶ほど、いいかげんなものはないと思い始めている。
たとえば少し前、私とワイフは、沖縄へ行ってきた。
そのときのことを思い出しても、記憶に強く残っている部分と、すでに記憶から消え
かかっている部分があることを知る。
そのとき撮った写真を見て、「ああ、こんなところもあった!」と。

 こうした現象を、心理学の世界では、「長期記憶」「短期記憶」という言葉を使って
説明する。
短期記憶といっても、注意を向けるかどうかで、保持の長さが決まる。
当然のことながら注意を向けた記憶は、脳の中に長くとどまる。
そうでない記憶は、瞬時に忘れる。
時間にすれば、1秒の数分の1程度ではないかと言われている。

 そこで自分の頭の中をさぐってみる。
たとえば「旧海軍司令部壕」。
丘の上に入り口があり、その地下には縦横無尽に「壕」が掘られていた。
たしか司令官室とか作戦室とか、そんなような部屋があったように記憶している。
が、どういうわけか私の記憶の中では、戦艦大和の油絵だけが強く印象に残っている。
模型も展示されていた。

 どうしてだろう?

 展示室の中には1人の女性が立っていて、ほかの観光客に向かって、あれこれ何やら
説明していた。
断片的な言葉は覚えているが、何を話したかまでは覚えていない。
恐らくその記憶も、あと1~2か月もすれば、脳の中から消えてしまうだろう。

 あとはあのトンネル。
私は子どものころから、閉所恐怖症。
地下へとおりる階段をくだりながら、早く外へ出たいと、そればかりを願っていた。
だからあのトンネルだけは、よく覚えている。
スコップだけで掘られたような粗末なトンネル。
狭くて息苦しい。
壁にどんな写真や、説明文が掲げられていたかは、ほとんど記憶していない。
そのつど歩くのを止めて、読んだはずなのだが……。

●「二度と行きたくない」

 沖縄へは旅行で行った。
気楽な旅行になるはずだった。
が、振り返ってみると、沖縄のイメージがどうも暗い。
そのあとも、いくつかの戦争祈念館(沖縄では「祈念館」という)を回った。
タクシーの運転手が、反戦運動家(?)だったということもある。
4~5時間の間に、私たちはすっかり洗脳されてしまった?

 今にして思うと、楽しかったという思い出よりも、「暗いイメージ」ばかりが、
残っている。
そして今、「沖縄」というと、「戦争の激戦地」というイメージしか残っていない。
(激戦地だったというのは、事実だが……。)
つまり楽しかったというよりは、重苦しい社会科の学習に出かけたような印象しか
ない。
またそういう印象だけが、頭の中でどんどんとふくらんでいく。
そのせいか、ワイフまでも、「二度と沖縄には行きたくない」と。
楽しかったこともたくさんあったはず。
しかしそういう記憶は、脇へ追いやられてしまっている。

●自伝的記憶

 たとえば似たような現象を説明するのに、「自伝的記憶」という言葉がある。
いろいろな記憶があったとしても、時間がたつにつれて、自分にとってつごうのよい
記憶だけが増幅され、一方、自分にとってつごうの悪い記憶は縮小されていく。

 たとえば「私の子ども時代は、楽しかった」と思うと、楽しかった思い出だけが
大きくふくらみ、そうでなかった思い出は、やがて消えていく。
その結果として、ますます「私の子ども時代は、楽しかった」となる。

 もちろんその逆のこともある。
「自伝的記憶」というほどおおげさなものではないが、(というのも、自伝的記憶という
のは、もっと長い時間的経緯の中で起こる現象をさすので)、今回の沖縄旅行では、私は
似たような経験をした。
日増しに暗いイメージばかりが、ふくらんでいく。
たとえばあの国際通り。
そこで出会った沖縄の人たち。
みな、朗らかで明るかったはず。
が、今、思い出してみると、どの人もその向こうに暗い影を背負っている。
「抜けるような明るさ」とは、とても言いがたい。

 こういうのも「記憶錯誤」と言ってよいのか?
つまり記憶が脳の中で、勝手に歪曲されていく……。

●記憶錯誤

 「記憶錯誤」という言葉が出たので、少しこれについても説明しておきたい。
記憶というのは、周囲の状況や、言葉によって影響を受ける。
そして記憶そのものが、変質することがある。
見たはずはないのに、「見た」とか、聞いたはずはないにの、「聞いた」とか。
自分の頭の中で、別の記憶を勝手に作りあげてしまう。
それを「記憶錯誤」という。
たとえば最近、私はこんな経験をしている。

 私には、60数名の「いとこ」がいる。
60数名といっても、親しくつきあっているのは、そのうちの10数名程度。
残りの人たちについては、消息すら知らない。

 そうしたいとこたちとは、楽しい思い出がたくさんある。
だから今でも、「いとこ」という言葉を聞いただけで、心がウキウキしてくる。
わたしにとって、いとこというのは、そういう人たちをいう。

 が、その中の1人が、さかんに私の悪口を言っているという。
以前、その人の宗教を批判したのが、どうやら原因らしい。
それはそれとして、つまり私は何もその人個人を批判したわけではないのだが、以後、
その人との楽しかった思い出がどんどんと消えていくのを感じた。
それから数年。

 で、最近はどうかというと、それが不思議なことに、その人との悪い思い出しか
残っていない。
子どものころ、意地悪された話とか、喧嘩した話とか、など。
そういうものだけが、勝手にふくらんでいく。
そればかりか、断片的な記憶をつなぎあわせて、「あの人は、ああ思っていたはず」とか、
「私をこう恨んでいたはず」とか、想像の世界で別の記憶を作りあげてしまう。

 結果として、今、私はそのいとこについては、悪い印象しかもっていない。
つまりそういう印象が、作りあげられてしまった。

●子どもの世界でも

 子どもの世界でも……とここで書くと、あまりにも意図が見え見え。
しかし親の立場で書くなら、子育てをしながら、子どもの脳の中に、どういう記憶が
残っていくかを、そのつどていねいに見なければならない。
それがよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。
先に書いた「自伝的記憶」の恐ろしさは、ここにある。
悪い印象を与えると、よい印象まで、かき消されてしまう。

 今度は子どもを教える教師の立場で書くなら、教えながら、子どもの脳の中に、
どういう記憶が残っていくかを、そのつどていねいに見なければならない。
それがよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。

 大切なことは、「楽しかった」「おもしろかった」という印象作りを大切にする。
そうした前向きな「思い」が、やがて子ども自身の力で、子どもを前向きに
引っ張っていく。

 繰り返すが、私は、率直に言えば、二度と沖縄には行きたくないと思っている。
ワイフも、そう思っている。
タクシーの運転手は、こうも言った。
「これからの沖縄は、観光で食べていくしかない」と。
であるならなおさら、ここに書いた「記憶」をテーマに、観光のあり方そのものを
考えたほうがよい。
観光地というのは、「人を楽しませる場所」。
沖縄の人たちの気持ちもよくわかる。
が、しかし半日、むごたらしい写真ばかり見せつけられたら、だれも沖縄に行きた
がらなくなるだろう。

 これは沖縄の人たちにとっても、まずいのではないか?

 今朝は起きる前、ふとんの中で、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 記憶錯誤 自伝的記憶 観光 沖縄論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●11月8日

 こんどの正月に、ワイフの兄弟姉妹たちが集まる。
みんなで7人兄弟姉妹だが、仲がよい。
この40年間、傍から観察してきたが、本当に仲がよい。
みながみな、力を合わせ、協力し合っている。

 そんな兄弟姉妹を、ワイフ自身は、「当たり前」と思っている。
しかし実際には、仲がよい兄弟姉妹は、少ない。
『兄弟は他人の始まり』ともいう。
兄弟姉妹でも、他人以上の他人の関係にある人は多い。
親族であるだけに、確執も深い。
大きい。

 で、私が「どうしてそんなに仲がいいのか」と聞くと、ワイフはこう言った。
「母を早く亡くしたでしょ。それでみなが、助け合って生きてきたのよ」と。
うらやましい!
本当にうらやましい!

●M君

 朝、M君から突然、電話。
「今、バイクで静岡まで来た」と。

私「バイクで?」
M「そうだ」
私「横浜から、か?」
M「そうだ。これから名古屋に向かう。浜松を通るから、昼飯でも食わないか?」と。

 横浜から名古屋まで、バイク!
話を聞くと、50ccの三輪バイクという。

 M君にはM君の思いというものがあるのだろう。
それはわかるが、かなり無謀。
私もときどきバイクで、20~30キロ先まで行くことがある。
しかしバイクは危険。
ハンドルの遊びがない分だけ、ほんの少し油断すると、道の中央へ出てしまう。
そこで後続の車と接触しそうになる。

 残念ながら、月曜日は忙しい。
午前中は教材作り。
正午ごろには、昼寝をしなければならない。
今朝は5時に起きてしまった。
仕事は、午後9時まで。
次回、また会うことにした。

 「ぼくもいつか、一度はしてみたいと思っている」と。
最後にそう言ったが、たぶん、それはもうないだろう。
その自信はない。


Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司

2/2自伝的記憶

2010-12-15 06:14:22 | 日記

【今朝、あれこれ】はやし浩司 2010-11-09

●疲れ

 旅の疲れか?
不眠のせいか?
今朝から気分が重い。
年を取ると、疲れがあとになって、出てくる。
疲れが、なかなか取れない。
長くつづく。

 食欲がないのは、風邪を引いたから?
今朝は起きるときから、寒気がした。
昨夜から急速に気温が変化した。
小雨が降って、朝方から、台風のような風が
吹いている。

葛根湯をつづけて2袋のむ。
そのあとふとん乾燥機でふとんを暖めて、再び眠りなおし。
目を覚ましたのが、午前11時!

 11月は講演会の季節。
今日中にレジュメを2本、完成させる。
催促の電話が、留守番電話に入っていた。
やるしかない!

●電話取材

 先週、某雑誌社の記者の女性と、1時間半、話した。
先方が、私の話したことを記事にしてくれる。
このところ、そうした仕事がふえてきた。
楽な仕事だが、私は本来、そういうやり方が、あまり好きではない。
たとえば「子ども」と書くときも、私は「子供」と書くより、「子ども」と
書くほうが好き。
ほかにも漢字の使い方には、あれこれと神経をつかう。

 一方、雑誌社は雑誌社で、文体や、文調、漢字の使い方などを統一している。
ある雑誌社では、たとえば「七転び八起き」でも、「7転び8起き」と書く。
さらにクセの強い雑誌社だと、「一方」を、「1方」と書いたりする。

 ライターが女性だと、(たいていは女性だが)、できあがってくる文章は
どうしても女性的になる。
私の書く文章は、よく辛口と言われる。
それが女性的になる?
「はやし浩司」の文章が、骨抜きにされてしまう?

●妥協
 
 そうしたやり取りの中で・・・。
読者対象は、小学生をもつ母親という。
が、私たちの世界から見ると、小学生というのは、すでに「完成品」。
たとえば「やる気のない子どもは、どうすればいいか」と聞かれると、
即座に、「手遅れです」と言いたくなってしまう。
しかしそれでは原稿にならない。

 ぐいと妥協して、それなりの方法をいくつか話す。
話しながら、誤解を招かないよう、細心の注意を払う。
結構、この仕事も、神経をつかう。
受話器をもとにもどしたとき、手はジワーッと汗で濡れていた。

●エクスペンダブルズ

 この1、2週間、映画館に足を運んでいない。
「これは!」という映画が、ない。
いちばん最近見たのは、スタローン主役の「エクスペンダブルズ」。
ランボーのリメイク版といった感じの映画。
作り方の荒っぽさだけが目だった。

 ときどき劇場案内に目を通すが、邦画ばかり。
同じ日本人だが、邦画は見るに耐えない。・・・ものばかり。
「今度こそ・・・」と思って足を運ぶが、そのつど期待を裏切られる。
最後に観た、「十三人の刺客」にしても、そうだ。
200人の侍を相手に、「切って切って、切りまくる」。
が、侍といっても、ふつうのサラリーマン。
200人の侍のほうに、むしろ同情してしまった。
親分が悪いからといって、どうして殺されなければならないのか。
「忠義」といっても、中身は「飼い犬根性」。
本来なら13人の刺客のほうに感情移入して楽しむべき映画だったが、
その感情移入ができなかった。

 意味のない殺戮映画。
それが「これでもか」「これでもか」とつづく。
途中で眠くなってしまった。

●自分の意見

 悪口ばかり書いていてはいけない。
読む人だって、不愉快になる。
昔、ある雑誌社に・・・名前を出しても差し支えないだろう。
主婦と生活社に、井上清という編集長いた。
その編集長がこう教えてくれた。

 「ものを書くときはね、あなたはすばらしい、いい人だという
文章を書く。こうして相手を気分よくしたあと、少しだけ、『だけど
こうすればもっとよくなりますよ』とつづける。5%だけでも自分の意見が
書ければそれでよしとする」と。

 雑誌の世界では、そうかもしれない。
「あなたはバカだ、アホだ」と買いたのでは、雑誌は売れない。
相手をもちあげる。
相手をいい気分にさせる。
あるいは相手が欲しい情報を書く。
「あなたはすばらしい人だ。
しかしこうすれば、もっとすばらしい人になる」と。
他人に読んでもらうためには、そうでなくてはならないかもしれない。

 が、当時、こんな言葉がはやり出した。
「バカママ」という言葉である。
新米の主婦たちの、ドジな話が特集記事で載っていた。
ひとつの例として、「魚を三枚におろす」というレシピを読んで、魚を
3等分した女性の話が載っていた。

それについて私が、「そんなタイトルの記事を書いたら、雑誌が売れなく
なるのではないですか」と聞くと、井上氏は、こう言った。

 「あのね、そこが人間の特殊ところなんだよな(失礼!)。
だれも自分のこととは、思わない。
自分が同じようなことをしていても、自分とは思わない。
自分よりバカな人間がいることを知って、いい気分になる」と。

 ところでなぜあのバライティ番組が、人気があるか?
バカ丸出しの出演者たち。
視聴者はそれを観て、つまり自分よりバカな人間がいることを知って、安心する。
その安心感が、ストレス解消にもなる。
・・・というのは、私の意見ではない。
ずいぶんと前のことだが、そういう内容のエッセーを書いた評論家がいた。

●正直

 が、私はもうひとつ、心がけていることがある。
それはありのままを書くということ。
それについては、すでに何度も書いてきた。
ウソを書いたり、自分を飾ったりした文章を書くと、後味が悪い。
反対に、文章はへたでも、そのときの気持ちを正直に書いたものは、
後で読んだとき、懐かしさを覚える。

 これは人生論に通ずる。

 ありのままに、正直に生きる。
それがどんな結果になろうとも、それはそれ。
失敗談や、ドジな話にしても、私というより「私」を超えた私、つまり
1人の人間のすること。
何も、まただれに対しても、恥じることはない。

●恥

 「恥」という言葉が出たので、一言。

 「恥こそ、日本人の精神文化の原点」と説く人がいる。
たとえば学校でのいじめについても、「子どもたちに恥を教えれば、いじめは
なくなる」と。

 一見、わかりやすい。
「人をいじめることは、恥ずかしいことだ」と。
しかしそんなことで、いじめはなくならない。
いじめの構造は、もっと複雑。
人間の心が複雑にからんでいる。
さらに言えば、人間に恥など、ない。
だいたい何に対して、だれに恥じるのか?
「恥じる」というのは、たとえて言うなら、まちがえたところを
消しゴムで消すような行為をいう。
私は意地っ張りだから、たとえ結果としてまちがっていたとしても、恥じない。

 いじめは悪である。
悪いことをしたら、責められる。
罰を受ける。
それだけのこと。
ロジカルに考えれば、そうなる。

●最大の恥

 恥について、もう少し切り込んでみたい。

 恥じるということは、あえて自らを否定すること。
内面的な自己否定を、「恥」という。
この論理で考えるなら、最大の恥とは、すなわち「死」を意味する。
わかりやすく言えば、恥が極限に達したとき、そこにあるのは「死」という
ことになる。
その状態で生きていくことは、たいへんむずかしい。
私たちの世界、つまり実存の世界では、自己否定はつねに絶望感をともなう。
ハムレットの中でシェークスピアが書いたように、「絶望か、さもなくば
死か(despair or die)」となる。

 私たちは常に前に向かって生きる。
「前」というのは、「生」を意味する。

●友人のカメラ

 オーストラリアの友人が、少し前から、カメラのことをあれこれと聞いてきた。
「キャノンのG12を買おうと思うが、いいカメラか?」と。

 私はデジタルカメラは、パナソニック製か、ソニー製と決めている。
キャノン製については、詳しく知らない。
で、何度か近くの大型電気店に足を運ぶ。
カタログに目を通す。

 で、こういうとき私は、それを調べているうちに、私もそれがほしくなる。
「いいカメラだなあ」「おもしろそうだなあ」と。
で、数日前、「買ったか?」と聞くと、「忙しくて、まだ買ってない」と。
が、突然、昨日、メールが届いた。
それにはYOUTUBEにアップした画像が添付してあった。

 孫のジェット君の動画が載っていた。

 動き回る孫を追いかけながら、撮る。
ピントがブレない。
露出も安定している。
G12は、やはりすぐれたカメラだ。

 が、これまた不思議な現象で、友人がそれを手に入れたとわかったとたん、
そのカメラへの興味を失った。
「やはり、ぼくのほしいのは、ソニーのα(アルファ)」と。

●日米vs中国の、通貨安競争
 
 日本とアメリカの札・印刷機が、フルパワーで回り始めた。
「為替操作」は、一応、暗黙の了解で、禁止されている。
そこで日本とアメリカが取った手段は、中央銀行による「国債の買い入れ」。
政府発行の国債を買い入れた形にして、マネー(現金)を市中にばらまく。
つまり意図的に、円とドルの価値をさげる。
円安、ドル安に誘導する。

 原因は、中国。

 アメリカやEUが、いくら元安是正を求めても、中国は無視。
我知らぬ顔。
「ならば……」ということで、アメリカが通貨安政策に乗り出した。
日本も同乗した。
(もっともアメリカと日本とでは、規模がちがうが……。
アメリカは100兆円以上、日本は今のところ、数兆円規模。)

 わかりやすく言えば、ドルと円が、世界のマーケットにどっと流れ始めた。
が、そこは世界の基軸通貨。
自国の通貨より、ドルや円は人気がある。
そういう国は多い。
要するに通貨の信用度の問題ということになる。

 で、困るのが、中進国と呼ばれる国々。
相対的に自国の通貨が、通貨高に向かう。
輸出が不利になる。
それだけではない。
せっかくため込んだドルの価値が下落する。
100万円の価値があると思って買った絵画が、50万円になるようなもの。
が、さらに……。
海外へ出たドル(円)は、投機という形で、それぞれの国に入り込む。
(「投資」ならよいが、「投機」資金となる。)
とたんそれぞれの国々で、ハイパーインフレを引き起こす。

 たとえば韓国が怒りまくっているのは、そのため。
「大国は勝手すぎる」と。
(韓国も勝手な国だが……。
中小国であることをよいことに、韓国は、毎日のように為替介入を繰り返している。)

 しかしアメリカにせよ、日本にせよ、それで無事すむとは、私も思っていない。
こうした通貨安競争は、基本的には輸出を伸ばすため。
国内の輸出企業を生き返らせるため。
その輸出産業が息を吹き返さなければ、ばらまいた通貨が、いつかすぐ、アメリカ国内、
日本国内へと、逆流し始める。
つまり「ドルも円も、価値がない」と世界が判断する。
そのときが、こわい。
こわいというより、恐ろしい。

 アメリカも日本も、プライドをかなぐり捨てて、自国の経済保護に走り始めた。
原因は先にも書いたように、中国。
元安の是正をいくら要求しても、一向に動く気配なし。
元安をよいことに、安価な製品を世界中に売りまくっている。
日本でもアメリカでも、売りまくっている。

 つまりこれにアメリカや日本は、音(ね)をあげた。
「このままでは自国の製造業が、メチャメチャになってしまう!」と。

 しかしこの方法は、その奥に大きな毒牙をもっている。
先にも書いたように、ばらまかれたドルや円が、正常な(?)投資資金として回ればよい。
しかし投機資金へと回ったら……?
株投機や、土地、家屋の投機資金へと回ったら……?
今すぐというわけではないが、中国も含めて、中進国の政情が不安定化する。
へたをすれば、(その可能性はきわめて大きいが)、中国のバブル経済崩壊の引き金を
引くことにもなりかねない。

 さあて、どうなることやら?

 ドル、円ともに、そのほかの欧米通貨に対して下落し始めている。
同時に、金、プラチナの現物価格が、急上昇し始めている。
それぞれの国々で、土地や家屋の価格が上昇し始めている。
このまま進めば、世界経済は大混乱。
国際政治も大混乱。

 今回の日米の通貨安政策には、そういう危険な側面がある。

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